第一章 凹凸のない日常
どんなに憂鬱でも、平和な朝は来る。それはとても幸せなことなのに、受け入れられない自分は不謹慎な野郎なのだろうか。そんなことを考えながら、重い体を起こす。どこか意思のない機械のように体が動いてやるべきことを終わらせると、母親に一言声をかけて家を出た。夏のどこか、乾いた中に強烈な熱を流し込んだような気候にうなだれながらも、いつも通り自転車を漕ぎだす。どこか青さの薄れた空は雲一つない快晴で、道を行き交う車の波がどこか窮屈に感じられた。道を歩く人は皆各々のファッションを楽しむ余裕を失い、どこか己の体調を考えたような服装をしている。この季節のサイクリングは、風が生暖かくて好きではない。通り過ぎる林立した建物も、ただのコンクリートの塊としか思えなかった。駐輪場に自転車を停めると、意識は己の体に集中する。自分の体が汗に包まれているのに気づくのに、そう時間はかからない。慰め程度の汗の塞き止めを終えた後、駅の改札を通り、ホームで電車の到着を待つ。次来る電車は急行電車だと知ったとき、謎の幸福感が沸き上がる。電車に乗り、どこか人気のない車両に一摘みの優越感を感じながら空いている座席に座る。遠心力を感じながら、高速で移り変わる景色を眺めるのは、最高に心地よい。景色を見ていたらあっという間に降りる駅につき、駅を出て高校までの道を歩き出す。平日の昼間というだけあって、周りに同じ高校の生徒はいない。いつも通っている通学路のはずなのに、時期でこんなにも景色の印象が変わってしまうのか。人間、初対面の印象が大切と言われるのも、どこか理解できた。いつも通っている道は無意識でも体が覚えているようで、気づいた時にはすでに校門の前にいた。「古宮下高校」と書かれたプレートは、どこか伝統校の風格を感じさせる。校舎に目を向けると、「祝!古宮下高校創立100年!」と書かれた垂れ幕が下りており、その壁もどこか剥げていた。どこからか部活中の生徒の声が聞こえてくる。その声は水風船がはじけるような瑞々しさを帯び、そしてどこまでも冷たかった。薄れていくその声を首筋に流しながら、管理棟一階にある生徒玄関に入り、靴を履き替える。自分の体重を足に感じさせる上履きの履き心地は未だに慣れない。しかし人間とは不思議なもので、少し経つとその感覚にも慣れてくる。今日の目的は、夏休み明けすぐに開催される文化祭の準備だ。といってもクラスの出し物ではなく、僕の所属する放送委員会での準備である。今日の目的地である放送室は、管理棟二階にある。僕の学校の校舎は、上から俯瞰してみると「王」という漢字のような形をしていて、まるで要塞のような形である。三棟の横長の校舎が上から特別棟、管理棟、教室棟と平行に並び、間に渡り廊下が二階に通っている。しばらくの歩きを経て階段を一階分昇り、目的の放送室前に着く。ドアノブをまわすと、手首の回転を止められた。他にいる人もいないので、鍵を借りるために職員室に向かう。職員室は特別棟二階の端にあり、放送室向かって左にある。一回咳ばらいをし、万全の状態でドアをノックした。
「失礼します。放送委員の安原智尋です。放送室の鍵を取りに来ました。」
言ってみたものの、誰もいない。ちょうど職員室はもぬけの殻だったようだ。何かやましいことをしているような気分になりながら、放送室の鍵を取り、一言残して職員室を颯爽と出た。
「失礼しました。」
誰もいない部屋に、その声がやけに響いた。
どれほどの時間を無駄にしてしまったのだろう。誰もいない放送室で、そんなことを考える。改めて、放送委員に対する姿勢の甘さを痛感した。持ってきた資料に目を通すと、そこには「訂正 集合日 八月三日」と自分の筆跡で書かれたメモが、素っ頓狂な場所に書いてあった。今日は八月二日だ。もともとの予定は今日だったが、訂正されたことをすっかり忘れていた。ただ、そんなに一日の喪失感は感じていない。同じものの焼け回しのようないつもの生活に比べたら、十分に充実した一日だった。座っていたパイプ椅子を畳んで壁際に立てかけると、荷物をリュックにまとめ、それを片方の肩で背負いながら、放送室の鍵を閉める。廊下は先ほどまでいた部屋より空気が澄み、窓から見える青空はどこか淡い黄色を纏っていた。鍵を返し終わり、誰もいない廊下を歩き出す。しばらく進むと、両脇に渡り廊下の道が広がる。ただ特に他の用事もないので、奥に見える階段に向けて歩きだし、リュックを両肩に背負った。
家に着いたのは六時過ぎくらいで、その頃にはあたりが夕日の光で微かに灯っている程であった。家の前に着いた時、換気扇から味噌の匂いが立ち込めていた。今日の夕飯にはお味噌汁が付いているのだろうか。まだそこまで暗くなかったので家の明かりは点いてなかったが、今自分が返ってきた家にはご飯を作ってくれる人がいるのだと、なぜかこみ上げてくるものがあった。流石に高校生にもなった息子が、泣き顔を母親にさらすなんてことにはなりたくないので、気持ちを切り替えて玄関のドアを開ける。
「ただいま。」
目の前に見えるドアの向こうから声が響いた。
「おかえり!」
その声を聞いてから靴を脱ぎ、家の床に上がるとそのまま荷物を置くために二階の自室に向かう。階段に少しほこりがたまってきているのを見て、掃除機でもかけようかなどと考えながら、半円を描くように階段を上がっていく。二階に着くと、すでにドアが閉まり隙間から光が漏れてくる部屋があった。外からちょうどこの部屋は見えないので、既に帰ってきていたのか、などと思っていたら、向こうから
「おかえり。」
という妹の声が聞こえてきた。最近は学校のテストがあるとかで、部屋に籠って勉強をしている。
「ただいま。」
そんな一言を交わすと、そのまま自室の中に入り扉を閉めた。兄妹との会話なんてこんなものだ。改めて思うと、年の近い家族がいる感覚は、いる人にしか分からないものだ。僕だって弟や姉、兄の居る感覚は分からない。羨ましいとも思うし、そうでないような気もする。妹がいない人からしたら、今の僕の環境も羨ましく感じるのだろうか。それ以上に一人っ子で生まれた人からしたら、きょうだいがいることそのものが、やはり羨ましく感じるのだろうか。そう思うと、今の自分の環境が少しありがたく思えてきた。こういう何気ない思考の中で、自分の今いる環境のありがたみを知るというのは、心なしか自分の救いになっているような気がする。そんなことを考えながらも、手は身支度を整えていた。今日来ていた制服を脱ぎ、体操着姿になる。もともと制服の下に着ていたので、制服を脱ぐだけで身支度は終わる。そこからはいつものルーティーンをこなしていった。家族での食事、学校の宿題、入浴、そして歯を磨く。
「おやすみ。」
そう告げると、返事を待たずに両親の居るリビングを出て階段を昇る。二階に着くと、妹の部屋が既に閉まっていて、明かりも消えていた。自室に入り、電気をつける。そのままベッドに体重を落とし、昨日から机におもむろに放置していた本を手に取ろうとする。しかし上には、昨日書類整理をしようとしたまま放置された惨状が広がっていた。ベッドから立ち上がり、机を上から見下ろす。本の場所を見つけると、それを取り出すために、残ったエネルギーを使って頭をフル回転させる。ある程度片づけると、本は「二年次一学期期末考査個票」という紙の下になっている。紙を払いのけ、ついに本を取り出すことに成功した。今日のミッションは終わった、そんな気分である。手に取った、ブックカバーの付いた本に視線を落とす。何でも、最近話題になっているSFホラー小説らしく、本屋で大々的に宣伝されていた。タイトルは「鏡という名の綻び」。主人公はある日から夢を見る。それは何の変哲もない日常、しかし鏡の中の自分はいつかの日の自分。鏡の中の自分が、主人公の一瞬の綻びを狙っているという物語。このあらすじに惹かれて買ってしまった。
しばらく読んでいたが、途中から集中力が切れてきた。そういう時は寝るのに限る。手に持っていた本をまた机の上に置き、電気を消す。今まで煌々と照らされた中で慣れていた目は、一瞬で暗闇になった環境に追いつくわけもない。ただ個人的には、この徐々に視界が慣れてくる感じが楽しかったりする。最初は何も見えないのだが、時間が経つごとに外の明かりが見えてくる。この光量の移り変わりが、とても心地よく感じられるのだ。それに付随するように、開けていた窓から少し冷たい夜風が入ってくる。暗闇の中から窓越しに見る、街の風景と何物も存在しない閑散とした道を少し背の高い街頭が淡く照らす光景と、窓から注ぎ込み冷たさを纏った心地よい夜風の香りが、夜の小さな調和を作り出している。寝る前のこの調和を楽しむことが、どこか自分の中の小さな至福になっている。その小さな幸せを抱いたまま、ベッドに入ると、どこからか聞こえる車の音を聞きながら瞼を閉じた。