第三話
2023.4/6 文章の見直しと、漢数字に直しました。
「それじゃあ寛いでいてね」
そう言って奥様はリビングに私とタケさんを残しキッチンへ消えた。
アップルパイが出来るまで借りている部屋に戻っていても良いのだが、成り行きとは怖いもので、私は部屋に戻るタイミングを失ってしまった。
「アンタ、絵描きなんだってな」
「はい」
奥様がいないからか、今度こそ、タケさんは疑いの目を隠すこともせず私に向ける。太い腕を組みながら値踏みされるのは迫力があった。
「あの子の写真は沢山ある。どうして絵なんか頼んだんだ」
「写真では残せなかったものを頼まれるお客様は多いですよ」
私が口ごもるとでも思ったのか彼は一瞬だけ驚いた顔をした。後ろめたい事をしていなければ戸惑うことは無い。
「この部屋を見ても分かるだろう。あの子との思い出は、沢山、ある」
タケさんの言う通り、リビングには娘さんの赤ん坊の頃から、素敵なお嬢さんに成長した頃までの写真が沢山飾られていた。
泣いて怒って、沢山笑っている写真ばかりで、深い愛情を注がれて成長していったのだと分かる。
「アンタ、詐欺師かなんかじゃあないだろうな」
とうとう隠すこともなく、疑心に沈める視線を私に向けて来た彼に、やはりか、と心の中で溜息を吐く。
これまでの旅の中でもこの手の疑いはよく掛けられたものだ。特に、女性の一人暮らしの元にいる時は多い。
「さあ、どうなんでしょうね」
ぼんやりと家族写真を眺めながら答えれば、彼はムッとした様に声音を変えた。
「俺は真面目に聞いているんだ」
別にはぐらかそうなんて思っちゃいないが、私は曖昧な言葉しか返せない。
「私も真面目に答えています」
さっさと私の悪事を暴いてとっ捕まえてやりたい気持ちを抑えているつもりなのだろうが、慎重にボロを見つけ出し、詐欺師の尻尾を掴んでやろうと息巻いているのをひしひしと感じた。しかし、大した理由もなく人を疑うことは出来ないと理解をしているようでもあった。だから、彼は私の話を聞こうとしているのだろう。
まあ、何を言っても疑いが晴れることはないかもしれないなあ、と今度こそ隠しもせずに溜息を吐いて、自分のつま先を見つめる。
「依頼主様が心から欲しがっている絵を描かなければ、全ては無意味になるでしょう?」
足元に言葉が落ちてまんまるの波紋を作る。
随分と重たそうにしていた水滴が水面に身投げをしたのを見届けた。水滴は水に混ざって透明感も、大きさも、全てが馴染んで分からなくなった。
「優しい奥様のような方は例え”望んでいる絵”ではなくても、出来上がった絵を見れば、綺麗ね、素敵ね、と受け入れてくれるでしょうね。でも、それではいけない。……今も奥様の心の中で娘さんが生き続けているように、絵に命を吹き込まなければいけない。奥様が描いた絵を見て、娘さんを感じられるような、そんな絵を」
絵を見て励みにもならないのであれば、私が描いた絵は価値がない。ただの絵を描いたのであれば私は詐欺師と同じだろう。
私は緊張感を持ってこの仕事をしている。
「だから、写真があるだろ」
食い気味に体を前のめりに話す彼の言い分も分かるのだが、私は彼の言葉を否定するように首を横に振る。
「写真は過去でしかないんですよ。写真の中の人は”此処”にいないんです」
言葉にすると私にとっても辛い事のようで、思わず眉間に皴が寄る。
「写真の中の人は、同じ時を生きてはくれないんです」
写真とは素晴らしいものだ。
一寸の狂いもなく、その一瞬を残すことが出来る。その時にあった今を鮮明に思い出すことが出来る。
だけど、失ったものを眺めているだけでは満たされない。
辛いのだ。
あの頃に帰りたいと、どうしようもなくなるのだ。
写真は素晴らしい。忘れたくない者をずっと記憶してくれるのだ。
シャッターを切った人の視線を辿ることも、それも小さな希望の光になるだろう。
写真とは素晴らしい物だが、私はその写真を越えるような絵を描かなくてはいけない。
だって、奥様は私を呼んだのだから。
実際にあった光景ではないけど、あったかもしれない姿を描けるのが、『絵』だ。
「止まってしまった時を超えるような絵を描かないと、……私は詐欺師になるのかもしれませんね」
私の話を遮ることもせずに聞き終えたタケさんをちらりと見やれば、それはそれは絵に描いたような、微妙な顔をして頬を掻いていた。
まあ、悪い話をしている訳ではないのか、とは思ってくれたのかな。
「それで、アンタは何を描いているんだ」
町で見た紫がチカリと瞼の裏で光る。一度見たら忘れられない色だった。
「奥様からは人魚になった娘さんを描いて欲しいと言われています」
タケさんはより一層複雑な顔をした。
「でも、描けないでいます」
「どうしてだ?」
首を傾げて私の話を聞くこの男性こそ詐欺師に騙されやすいのでは……。
すっかり警戒を解いてしまっているじゃないか。
膝の上に置いた手の指の先を交差させてみる。これは奥様の小さな癖だ。
「見えて来ないんです」
キッチンからは小さな鼻歌が聞こえて来る。
先ほど教えてくれた曲だろうか。これまで話をして、漸く私達の話し声の方が小さいのだと気が付いた。
「この世には人魚の絵は沢山あります。海を優雅に泳ぐ姿を描けば良いのか、海底で静かに暮らす人魚を描けば良いのか」
棚の上の写真に目を向ける。
海を背景にそっくりな顔をした二人の女性がこちらに向かって笑顔を向けていた。
あの写真は誰が撮ったのだろうか。
「どうしてかその全てが違っている様な気がして、描けないのです」
私が描きたいものは、在り来りな人魚の絵を描いて顔だけを娘さんにすれば完成、なんてものでは無い。そんな絵であるなら、私なんかを呼ばずに絵が上手な人に描いて貰えば良いのだ。でも、それではダメだったのだろう。だから、私は此処にいる。
煮詰めているリンゴが柔らかくなって来たのか甘い香りがリビングに辿り着く。
「そうか」
タケさんは考えるように太い指で整えられた髭を撫でる。私の考えは彼にとっても腑に落ちる話だったらしい。
「あの人がリーリアを人魚にして描いて欲しいと言った事については、俺からは何にも言えないよ。アンタなら理由は分かるだろう」
勿論、と意味を込めて頷く。
どんなに傍にいようが、誰かの心は結局本人ものにしかなれない。悲しを想像して語るなんて、親しければ親しい程、出来なくなる。
「あの人の悲しみは、あの人にしか分からん。……俺が身勝手に心を想像して、アンタに教えてやることは出来ない」
何故、奥様が娘さんの姿を人魚にして欲しいと言ったのか、私は彼女の表情や仕草に問い続ける。
絵が完成するまで、出来た絵が正解だったのかは分からない。もしかすると時間が経てば、私の描いた絵は不正解になってしまうかもしれない。
それでも私は求められた絵の意味を問い続けなければいけない。
人々に望まれた絵を描く。
私が生きる為に見つけた希望の道標だった。
「タケ、さん」
「うん?」
「奥様も娘さんもずっとこの町で暮らしているんですよね?」
「あぁ。この町から出た事が無いんじゃないかな」
冗談を言うようにタケさんは笑ったが、直ぐに表情を変えて、声を更に潜めて「……旦那もな」と寂しそうに呟いた。
私は彼の言葉が重たげに落ちていくのを見届けた。
誰かを想って堪えるような雫は、重たければ重たい程、水面に作る波紋を広げる。
私がこの家に来てから、浜辺に打ちあがる波の音は絶えず聞こえた。
私達が落とした雫の音など、波の音を前にすればないものに等しいだろう。
夕暮れ時の小さな波が、寂しくて、切なくて、そして離れがたい。
浜辺には打ち上げられた丸っこいガラスがキラリと光っていた。波にもまれ、何度も、何度も削られたガラスは何も傷つけることが出来なくなっていた。
誰も傷つける事が出来なくなった硝子は更に削られ続け、小さくなり、砂浜の砂の一粒に紛れて消える。
消えたガラスもまた見つけることが出来ないだろう。
「お子さんは、一人だけ…なんですね」
棚の上の写真を見渡すが女の子の写真しか見当たらない。
「そうだ」
空気が抜けるような声だった。
明るく笑っていた奥様の笑顔を思い出して、どうしようもなく悲しくなった。
「入院して、直ぐだった」
ぽつり、と一滴を水面に落とす様な声。彼は頭を少し項垂れていた。
相槌を打つことすら妨げになるように思えて、私は黙って彼を見つめる。
「毎日アップルパイを作って病院に行ってやっていたよ。……最後の方は、何も食べられなくなっていたらしいけど」
毎日。
娘に会いたい一心しかないのだろうが、時に、寄り添うというのは大変なことだ。でも、大変だなんて思いたくもない。病気と闘っている人を前に泣くことなんてもっての外。
思わず零した涙を他人に見られて、貴女が泣いてどうするの、なんて言われたら……。
寝ても覚めても、失うかもしれない恐怖と戦い続けるしか出来ない。だから気丈に振舞っていないと、どうしようもなくなる。
それがどんなに苦しくて、どんなに辛いか、私は良く理解出来る気がした。
「食えなくなったからって、だからって作るのを止めるなんて、出来ないよなあ。今日は調子が良いかもしれないって思っちまうんだからさ。…………俺のおふくろもよ、最後は何も食えなくなったもんだから」
耐え忍ばなければいけない気持ちが分かる人は、言葉を飲む。
ジワリと、眼球が熱を帯びるのを感じて、私はそれが気まずくて俯いた。
もうダメなんだろうと分かっていても、大切な人が好きな物を作ることは止められない。
もしかすると明日は一口食べられるかもしれない。
もしかすると一週間後には少しでも家に帰って来られるかもしれない。
そうやって、小さな、小さな希望を抱きながら、白い部屋に向かう。
人の悲しみはその人にしか分からない。その通りだ。でも、どうしたって放って置くことは出来ないんだ。
我慢していたのに、思わず涙がポタリと手の甲に落ちる。
「あんた、優しいんだな」
顔を上げれば、目尻を赤くしたタケさんが笑っていた。ありがとう、なんて代わりに言っているような顔だった。
心なしか、”あんた”と呼ぶ声が初めの頃より柔らかい気がする。
「泣きたい人を差し置いて泣くことが優しいなんて、そんなことがありますか」
笑顔を絶やさないのは、涙が溢れるからかもしれない。
一度泣いてしまえば中々引っ込めなくなってしまうのだ。
本当は泣きたい筈なのに、どうしたって泣けない人が一番、酷く痛ましい。
「……泣いてくれた人のことは、いつまでも忘れられないもんだ」
人は、大切な人を失い続ける人生を歩む。
死は必ず誰にでも訪れる。大切な人に、そして自分にも。
夕方、窓の外に目を向ければ太陽はユラユラと穏やかに燃えていた。町と海は紅碧色に染まり始めただろうか。
……今日も、夜は精霊の歌声が町を優しく包みこんでくれるのだろう。
「余所では人魚って漁師を抱いて海に引きずり込むなんて話があるんだろう?」
しんみりとした空気を変えようと思ったのかタケさんは声を明るくした。
「ええ、そういった伝説があるそうですね」
タケさんはこの話に納得がいかないような顔をしていた。分かりやすく変化する表情を見て感心する。
なんとも表情が豊かな人だなあ。
「この町の人魚はな、海の精霊と、この町の死んだ者のことをいうんだ」
精霊と、死んだ人のことも?
精霊のことだけを指すのではないのか。
「まず、その精霊っていうのは元々海に棲んでいた訳じゃないらしいんだが、この町の紫色の珊瑚が綺麗だったもんだから、自分の足を魚の形に変えてこの町に留まることにしたんだと」
人のような精霊というか、自由自在に体を変えられる所は精霊らしいというか。……やはり、精霊とは未知の存在だ。
「この町の人々は遥か昔から町の海を守ってきた。人と相容れない存在の精霊は追い出されるかもしれないと思ったが、町の人は海と同じように精霊を愛した。自慢の珊瑚が精霊に気に入って貰えるだなんて光栄だ、なんて言っていたとか。……・本当かは知らんぞ?」
ララフララフ
海から呼ぶわ、愛しい人
風よ届けて、あの坂の上まで
「だから、精霊は町も、町の人も愛する事にした」
タケさんは優しげな顔をして、海辺で笑っている二人の写真を見つめた。
「この町の人魚は、人に酷いことをしないさ」
私は彼の話に納得して、ゆっくりと頷く。
――ララフ、ララフ
キッチンからは楽しげな歌声が聞こえ、私達は二人してそちらに顔を向ける。
病に伏せる娘さんを見続けることは、酷く辛いことだっただろう。
毎日、家に帰ってからも涙が溢れて仕方なかっただろう。
不安でいっぱいだっただろう。
そして奥様は、泣いている自分が嫌になったことだろう。
もっともっと生きていて欲しいのに、体力は正直なもので、寄り添う心は疲れていく。そして娘さんを失ったあとは、もっとこうしてやれば良かった、と後悔が押し寄せたことだろう。
もっと話を聞いてやれば良かった、もっと一緒に色々な所に行けば良かった、と。後回しにしていた些細なことが、自分を責め立てただろう。
私達は終わりに向かう人を見届けることも、見届けた後も、ずっと、ずっと苦しい。
「ここの家族はみんな優しいんだ。責める人なんかいないだろうに」
それでも彼女を責めるのは彼女自身であり、悲しみの落としどころを見つけられるのも彼女だけなのだ。
精霊と人は相容れない。
精霊も人も強欲であり、生きられる環境が違う。
しかし、この町を見守る精霊はどうだろうか。
死んだ人があの美しい海に還るというのなら、自分を想って泣いている人をどう思うのだろうか。
毎日泣いている母親を娘はどう思っているのだろうか。
海の中で歌っても、金色に輝く泡が邪魔をする。顔を出して見上げれば、この家は良く見えるだろう。
家の奥から聞こえてくる嗚咽に胸は痛み、人魚は思わず海面から顔を上げて声を張り上げる。
――もう泣かないで、おかあさん。
白い壁を通り抜けて、長い長い坂道を通って海の風がこの家に辿り着く。
リーリアの紅碧色は美しい輝きを町にもたらし、そして、町の全てをあたたかく染め、大切な家族を包み込む。
「寝たのか?」
意識が浮上し目を開ければ、私の顔の前で大きな手をブンブンと振って、心配そうに私を覗いているタケさんの姿が視界に入った。
会話の途中でついつい自分の世界の中に入ってしまったことを悪く思う反面、屈強な男性が眉を下げて困った顔をしているのがなんだか可笑しくて「ごめんなさい」と言いつつも、私は我慢出来ずに笑ってしまった。
「……貴方だって、優しい人だ」
私も多くの人を見送り、何度も見送られてきた。
死にゆく時は耐えがたく、泣く我が子の声が今も鼓膜にこびり付いて離れない。
――子守唄を歌ってあげるから、泣くんじゃない。
首も座らぬ我が子の姿を思い出すも、思い通りに動かぬ体が口惜しい。
死にゆく側だって、例え気力がなくても、その手を取って励ましてやりたかっただろうに。
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