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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第二章 紅碧色の町と人魚
7/63

第一話

2023.4/5 文章の見直しと、漢数字に直しました。

2022.12/20 〃 記号による表現を修正いたしました。

2022.6/8【第二章1~7】ルビ等の見直しをしました。




 馬車を降りてから何度も乗り継いだ汽車の旅は随分と長く、いい加減に体が痛くなってきた。


「遠くまで来たなあ」


 頬杖を付いて窓の外を眺めれば青色の海の底が薄紫にキラキラと輝いていて、それはまるでラベンダーの花畑の様だった。




 目的の駅に着いて汽車を降りれば潮の香りが鼻を抜ける。

 この町のホームは海の上に建てられており、足元からは小波が弾ける音がした。壁には赤と白の救助用の浮き輪が掛けられている。

 港町、って感じ。

 陸と繋がっている木の橋を歩けばコツコツと優しげな籠った音がした。


 娘を人魚の姿で描いて欲しい、か。


 今回の依頼は少し特殊なものだった。故人に贈りたいものと一緒に、故人が好きだったものと一緒に絵を描いて欲しいって内容は良くあることなんだけど。


「おおい、人魚さんや」


 橋を降りて周りに人がいないのを確認して海に向かって小声で(ささや)く。


「……返事がある訳ないか」


 分かっていた事だけど、もしかしたらいるのかもしれない。そう思わせるほどにこの町の海は美しかった。




「人魚かあ」


 与えられた部屋の真ん中にイーゼルを立てて、画材道具を広げる。カタンとペインティングナイフを置いて、窓の外を見れば透き通った青が広がっていた。殆どの建物の壁は真っ白で、太陽が沈む頃には町をオレンジ色に染める。その景色がどうしてか、すっかり(わび)しい気持ちにさせた。


 此処に来て三日は経ったかな。


 体を(ひるがえ)し、窓のふちに寄りかかって部屋の中を見渡せば、すっかり落ち着く空間が出来上がっており、場所が変わろうが描く環境さえ整えれば何処だって私のアトリエになった。

 描く準備は整っているのだ。後は私の筆が乗るかどうか、だ。


 さて、人魚とは何者なのか考えてみよう。


 人魚とは海に憧れた人間が進化した生き物なのか、それとも退化した生き物なのか。そもそも私達と似ても似つかない別の生き物なのか。

 海を泳ぐ為には私達が思い描く人魚の姿は構造的には間違いだらけだろう。水の抵抗を減らす為には肩から下、腕や手は邪魔だ。

 気持ちよさそうに飛ぶ鳥を見て空に焦がれるように、海を泳ぐ魚を羨ましく思う気持ちが生んだ存在、それが人魚なのだろうか。なんて、私の考え方にはロマンもへったくれもない。

 

 今回、借りた部屋は娘さんの部屋ではない。私が望んだのは使われていない部屋だった。画材を広げて絵を描くスペースが確保出来なかったのだ。


 この家も居なくなった子供の帰りを待つように家具と細かな小物の全てがそのままにしてあった。何かヒントがないかと、軽く部屋のあちこちを見ても娘さんが海を好きといった情報を得られず、どうして奥様は娘さんを人魚の姿にして欲しいのかは、結局、分からないまま。


「ふーむ」


 耳に掛けていた鉛筆を鼻と唇の間に挟む。

 これは奥様と話をしてみるしかない、か。


「筆さん。お夕飯食べませんか?」


 ノックの音と共に穏やかな声が扉の向こうから聞こえる。

 私は床に座ってキャンバスを睨んでいたが、今しがた思い浮かべていた人物の訪問に、直ぐに立ち上がり扉を開ける。扉の外側に立っていたのは白髪交じりの優しそうな女性だった。

 彼女が今回の依頼主だ。

 しかしまあ、女性というのは悲しみを隠すのが上手だなとつくづく思う。化粧をしてしまえば赤くなった鼻先も目元も隠せるのだから。

 だけど……。私はチラリと見ているのが悟られない様に奥様の目を見やる。

 肌の色を誤魔化せても、化粧が出来ない目のフチは誤魔化せない。白目に細く走る血管の主張を引っ込めることも出来ない。


「ありがとうございます」


 彼女が泣いて悲しんでいることには気が付いていた。だけど、彼女から見える私がそのことに気が付くのは、今じゃあない。

 まだ(・・)、奥様のか細く柔らかな場所に触れてはいけないのだ。


「ご一緒させてください」


 ニコリと微笑む奥様と共に一階に降りてダイニングルームに行くと、部屋には美味しそうな香りが充満していた。肺を目一杯に部屋の空気で満たせば、急かす様に食欲が駄々を捏ねる。

 早速、椅子に座ると「さあ召し上がって」と促され、「いただきます」と手を揃えた後、スプーンを手に取りスープを一口飲む。


「ああ、美味しい。温かくてホッとします」

「良かった。何か苦手なものがあれば言ってくださいね」

「はい」


 続いてフォークを手に取りトマトクリームが絡んだパスタを頬張る。これも美味しい。港町ならではというか。

 奥様が作る料理は魚介が多い。

 このパスタにも大振りのエビが入っていた。先ほど飲んだスープにはホタテが。とにかく海のダシが良く出ていて、誰かに自慢でもしたくなる程に大変美味。


「お借りしている部屋からは海が良く見えるのですね」


 ご飯を食べている時は多少の隙が生じる。

 何か海関係の情報で引っ掛かるワードがないか、探りを入れてみるなら、今だ。


「そうね。この家は高い場所に建っているから。夕日が海に沈む景色はもっと綺麗なんですよ」


 娘さんの部屋からも海が見えるが、娘も海を良く見ていたんですよ、なんて言葉は出てこないか。

 家族について小さなことでも良いから何か話してくれはしないか、と思ったは、話題は遠ざかりそうだ。


「町も、海も紅碧(べにみどり)色に染まるのですね」

「えぇ。……フフ、やっぱり画家さんですね。表現が綺麗だわ」


 ふわりと笑って首を傾げる奥様は可愛らしい。


「そんな、私は詩も書けないような朴訥(ぼくとつ)ですよ」

「まあ、案外やってみたら書けるかもしれないですよ」


 穏やかに笑っているが、彼女の目元は暗がりにあり、毎日、毎秒にでも疲労を感じていることが分かった。

 その疲労を、ぽっかりと胸に穴が空いた、と表現するのが正しいだろうか。

 やっぱり、娘さんの話をするのはまだ早いんだろうな。


「おかわりなら沢山あるから言ってくださいね」


 私が成す術もなく、はい、と言って頷けば、奥様は嬉しそうに頷いた。


 遥か昔から伝わる童話の人魚を思い浮かべ、娘さんを描くなら簡単なことだった。でも、きっと、心の底から求めている何かが、この人の中にもあるはず。

 それが一体なのか分からなければ、私はいつまでも描くことが出来ない。

 奥様が私に依頼をした事は人魚の姿の娘の絵に何か救いを見出したからだろう。

 私は、心の奥底に沈んでしまおうとする輝きが悲しみに埋もれてしまわないように手助けがしたい。

 たかが絵、されど絵。

 美しいものを美しいとしか表現出来ない私が誰かの為に出来る慰めは、悲しみの中で凍えている心が求める絵を描くことだけであった。


 四人用のダイニングテーブルに二人で座ってご飯を食べる。

 私がいない時は、奥様は一人で。


 一人で食べるには、このテーブルは大きく感じるだろう。




 奥様との食事を終えた後は、一緒に食器洗った。その後は温かくて甘い飲み物を頂き、沢山の話をした。しかし、この町に関する話を聞けただけで、家族の話はやはり一切出てこなかった。

 触れてくれるな、とやんわりと拒絶されているようで、それはまるで柔らかな肌を守る甲羅のように、分厚い。

 とてもじゃないが、今の段階で触れて良いものではなかった。



 二階の部屋に戻って、私は窓に近づく。

 太陽はすっかり落ち、外は暗くなっていた。


 奥様と娘さんの思い出が見えたかもしれないのに、海に太陽が沈む景色を見られなかったのは残念。

 遠くに見える海には白銀の月の光が波に揺られながら漂っていた。


 情けないことにキャンバスは真っ白。下絵すら描けずにいた。


「沢山の思い出を語ってくれる人がいれば、全く思い出を語れなくなってしまう人もいるからなあ」


 きっと、奥様だって私が、娘さんとの思い出話を聞きたい、と言えば話を聞かせてくれるだろう。でも、それが出来る人なら苦労はしないのだ。それが出来るなら、私に依頼なんて寄越さなかったんだ。

 娘さんの話を無遠慮に引っ張り出そうとすれば、奥様の心には擦り傷が出来るだろう。それでは私がすることに意味はない。

 人の心は酷く脆い。立ち直ったと見えてもひょんなことでまた深く傷つく。

 心とは、柔らかくて繊細なのだ。


 描けないものは仕方ない。

 ならば人魚について、再び考えてみるかあ。



 深海は暗くて酷く冷たい。

 風が肌を撫でる気持ち良さも、太陽の下で昼寝をする気持ち良さを知っているのに、どうして人は海に焦がれるのだろうか。

 泳ぐ魚が気持ち良さそうに見えるから、だから、ずっと泳いでいたいと思うのだろうか。


 私は静かな夜を知っている。

 音のない夜は酷く残酷だ。

 私は、眠れない日は絵を描き続けた。不安な夜も絵を描いた。私は紙と描く為の道具があれば充分だった。

 では、それが失われてしまったら不安を和らげる為に何が代わりになるだろうか。何も聞こえない夜なのに、空気が漂う音が聞こえて来るようで、それが恐ろしくて、耳を塞いで、布団の中で体を丸め、目を閉じて太陽が昇るのを待っただろうか。


 人であるが為に苦しいのなら、空や海で自由にしている鳥や魚になりたいと思ったのだろうか。

 

 飛躍しはじめる思考に区切りをつける為に、私は小さく溜息を洩らし、首を横に振る。

 伏せた目の先に見えるのは月の光のおかげで僅かに見える大切な画材道具。

 私は私以外にはなりたいと思わない。私は、ちゃんと私になりたいというのに、そんな話はあり得なかった。

 人は勿論、物ですら代わりがないことは分かっている。

 この世は唯一無二が溢れていた。


 生前、娘さんが魚に憧れていたのなら、奥様はそのように、私に伝えただろう。しかし、数日過ごしても家族の話が出てこないということは、この依頼は単純な話ではないのだと思う。


 「描けない……」


 一度持った筆をパレットの上に置き、汚れていない作業服からパジャマに着替える。

 パタン、と作業部屋の扉を閉めて寝る為に借りている娘さんの部屋に向かう途中、階段下に僅かな光が漏れていることに気が付いた。


 きっと、今日も奥様は眠れないのだろう。




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