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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十二章 再会
63/63

第十二話 【完結】

これにて完結となります!


2023.4/30 漢数字を修正しました。

2022.12/20 一部修正いたしました。



「いい? シズリ、根っこが乾いていないか、私たちがちゃんと気づいてあげなきゃいけないんだからね」

「毎日見ないといけないの?」

「そうよ。今日は土が湿っているかなとか、葉に埃がついていないかなとか、この子たちは喋ることが出来ないから良く気にしてあげなきゃいけないの」


 テオとデイジーは私と姉のロザリーに留守番を任せ、急用の連絡が来たと言って遠方の親戚の元に出掛けて行った。二人が帰ってくるのは三日後。ご飯などのことは隣人に頼ることになっているが、その他の時間は姉と家のことをしたりして過ごしていた。三日間だけなら大層家が汚れることだってあまりないだろうに姉は家事を張り切り、ここぞとばかりに私を構い倒した。


「葉っぱの先が黄色くなったらもう戻らないんだよ」

「……水をあげても?」

「そう。そんなの可哀そうでしょう?」

「うん」

「植物ってね、人と同じなのよ」


 柔らかなカーテンレースを透かして、私たちがいるリビングの窓際を黄金色(こがねいろ)の陽ざしが温かく包み込む午後。

 小さな姉の小さな手が観葉植物の葉の下を支え、ダチョウの羽根で出来た毛ばたきで優しく撫でるのを、隣で見ていた。

 子供にしてはあまりにも大人びた言葉選び。ロザリーはよくデイジーに植物の扱いについて教わっていた為、草花についての知識が豊富にあった。


「……犬猫と同じくらい手が掛かるんだね」

「あたりまえじゃない」

 

 彼女の横に座って大人しく話を聞いていた私に姉はワザとらしく呆れた演技をした。

 きっとその顔は可愛いだろうと私は彼女を見上げたのだが、視線の先で想像とは違った光景を見た。

 

「おなじ命なんだから」


 植物に囲まれ、金色が私たちに優しく降り注いでいた。瞼にひっつく光の粒子が、より一層、姉を煌めかせた。

 触れても温もりを感じない、自由に動かせる手足も瞼もない。物言わぬ植物を意思疎通を図る犬猫と同等だと言ったロザリーの目の奥は深い優しさに揺れていた。美しいばかりでしかないと思っていま草花の命を他と区別するでもなく、生き物の一員として疑わずにいる少女の純真さが綺麗で、私は思わず幼子の様に彼女に抱き着く。「どうしたの?」と葉にしていたように私の頭を撫でてくれる小さな姉の優しさが私にも向けられていることが嬉しくて、嬉しくて、まるでおぼこ(・・・)のように「ううん、なんでもない」と姉に笑顔を向けた。

 

 懸命に生きている植物を、脈打つ生き物と区別していたことを私は恥じた。

 水を貰い自身の力で葉を濡らすモンステラの葉の先に伝う雫は涙なのではなく、緑の葉もまた、私と同じようにただ生きているだけであった。



 

 洞窟が危険分子を追い払うように唸っていた。凍える風は私たちの足の間を掻い潜って洞窟に吸い込まれて行く。子供の頃に見たこの洞窟はもう少し大きかった気がしたが、こうして改めて見ると思っていたよりも(ささ)やかな大きさであった。

 いつまでも立ち止まってる訳にもいかず意を決して中に足を踏み入れれば、足元でパキリと割れた音がした。恐る恐る視線を下げればおびただしい程のサナギの残骸があった。思わず悲鳴をあげそうになるのを堪え、目を凝らして至る場所にあるサナギを見てみると、その殆どの背の部分が割けており中身がなかった。ならば洞窟の守はこの奥にいるのだろうか。

 私は気持ちを仕切り直すようにもう一つ深呼吸をし、今度こそ真っ直ぐと前を見据え、慎重な足取りで前進する。


「気味悪くないですか?」


 後方にいる湖の精霊の問いに私は「わからない」とだけ答える。実際、本当によく分からないのだ。恐ろしいのか、(おぞ)ましいのか、銀色に輝く残骸を美しいと思っているのか、自身の感情が分からなかった。

 足音は二つ。ラバルは(くう)に浮かぶことが出来るのにそうしなかったらしい。それはまるでサナギを踏みつける罪悪感を共有してくれているようで嬉しかった。


 白い呼吸が視界を淡く覆い、空気に溶けるように消える。冬の名を得た少女は故郷の白い景色に彩りを求めて、ありとあらゆる世界の姿を思い描いたのだろうか。

 こんな暗くて寒い場所で、美しい世界の風景を。


 自身の死を嘆く少女は、もう握ることが出来ない手を捨て置いて、頭の中で物語を描き綴るペンの先を迷わせたらしい。彼女は物語の生末を憂いたことだろう。重たく冷たい雪の奥底に埋もれた紙など誰も掘り起こして読んでくれやしない。誰の心にも残らないこと、それは即ち物語の死を意味していた。彼女が辿った運命が私の身に起きたことであったなら、悲しみに暮れたことだろう。

 乙女は私に対して、どうして筆と名乗ったのかと漠然(ばくぜん)と思ったはずだ。何故なら、本来彼女から与えられた私の役割は、私を幸せにしてくれるものでは無かった筈だから。此処にやって来て、とうとう私は気が付いた。でなければ、この体を得るまでの私の人生はあまりにも踏みにじられ過ぎていたと思うのだ。

 乙女はこの世界の終わりを決めていたらしい。この物語には決められた結末があったのだと。

 身動きも取れない体で思い出すのは完結も出来なかった本来の終わりか。いいや、彼女もまた結末を失った物語の中に閉じ込まれた一人だった。小さな綻びに気が付いてひとつ加筆して、自身の意志と反する流れに気が付いてはひとつ加筆して、物語は大きく姿を変え始めたとでもいうのだろうか。その結果、彼女はこの世界を大層愛してしまった。だからこそ私は行く先に一抹の不安を抱えた。敷かれていたレールが途絶えたような感覚。変化に敏感な者もまた己の身に起きる出来事が未知のものとなり大いに戸惑った。そしてこの世界において僅かにも力を持つ者たちは自分なりに最善を尽くそうと考え始めた。

 この世界に及ぶはずの乙女の力が弱まり、誰もの本能が必死になることを覚えたのだろう。


 私は心から彼女を理解したい。

 今なら分かる気がするのだ。筆先は迷えるものだと知っているから、筆の役割を得た私は乙女の葛藤を理解することが出来る気がする。

 乙女が私を選んだ。物書きにとって大切な筆に、手に馴染む道具として私を選んだ。小さな村で小さな家庭を持って、安らかに死んだ老婆を彼女が選んだのだ。

 軽やかな音で割れる空のサナギの音を聞きながら、私は先程の精霊の問いに「やっぱり怖いなんてことはない、の、かもしれません」と答える。


「だってこのサナギは私ですもの」


 パキリ、パキリと割れるサナギの音に瞼が怯えるように震えるものだから庇うように目を細める。脈によって波立つ呼吸が喉に打ちあがるのを懸命に塞き止める。

 私は私の残骸を知らない。脱いで置き去りにした己なんて、自身にとってはどうでも良いことだった。私にとって重要だったのは、今後この体はどんな災難に苛まれるのかという心配だけだったのだ。

 

 風が撫でるだけで粉々に割れるサナギを見て、あまりにもか弱いサナギを見て、無性に悔しい気持ちになった。嗚呼、あぁ、なんて脆いのか、と。

 

「……光が見えて来た」

 

 大して深くもない洞窟をゆっくりと進み続けていれば、か弱い光が灯っていた。

 焦がれた姿が視界の奥に現れたことで急かされる様に足の先に力が入ったが、それをグッと堪える。……ゆっくり進もう。ゆっくり進まねばならない。生きたサナギが何処にいるのか分からないのだ。今、無遠慮になれば、せっかく慎重に進んで此処まできたというのに踏みつけてしまうかもしれない。

 誤って生きたサナギを踏んだ時、私は初めてサナギを(おぞ)ましいと思うだろう。

 一歩、一歩と慎重に進んで、私たちは青色の果実が実った美しい花を目指す。月まで続く道を思い出しても、神秘に続く道は容易いものでないようだ。


「月蝕の夜、ひしめくサナギの隙間を流れるは澄んだ青色に輝く水」


 精霊の声が心地よく洞窟に響く。「……澄んだ水に見えるは青い光」と付け加えられた言葉に反して、サナギが浸かる水はただの透明であった。


「今日は歌っていないのね」

 

 あの日、私の運命が左右された幼き日に聴いた歌声はない。どうしたの? と小さな子に伺うように声を掛けてみても花は沈黙するばかり。もしかすると突然の訪問者に戸惑っているのだろうか。

 

 レプティシー。貴女は水を描く時、何色を選ぶだろうか。……きっと、今、私の目の前にある光景が答えなのだろう。貴女にとっての水の色は果実の鮮やかな青色。果実の青は、澄んだ水の青なのでしょう?

 私の長きに渡る疑問は漸く腑に落ちた。空のように大らかで、海のように澄んだ青色だと思っていた青色は違う青色だったようだ。

 導き出した答え、それは精霊の言葉が証明していた。此処は森の奥に存在する洞窟。銀色は森に舞う氷。そしてあの果実の青は『地底湖』の青色。

 彼女は無色なものを青色とした。そして世界には美しい場所が沢山あるというのに、彼女はこの寂しい洞窟の奥にただ存在している。根が張るその下はどれ程の深さがあるのだろうか。

 もしかすると生前の彼女は美しい地底湖を知っていたのかもしれない。ないものを有るように見せる。それはまるで、この世界に()ける彼女の様ではないだろうか。

 私のこの見解は間違えているかもしれない。しかし話す口もない花に答えを求めても回答が返って来るわけもなく、私は自分の直感を信じるしかなかった。

 

 もう一歩、もう二歩、もう少しで彼女に近づける。緊張で心臓が張り裂けそうだ。それでも私は歩み進む。

 足元で一際大きくサナギが割れる音がした時、洞窟の外から酷く寒い秋風が私たちを掬い追い払うように強く吹いた。あまりの冷たさに私は顔を(しか)めて、無意味に凍える鼻先を腕で庇う。

 大丈夫、大丈夫。私は危害を加えに来たのではないの。そう風に伝えるように、心の中で言葉を繰り返す。

 風に通じたのかは分からないが、次第に様子見をしに来た風が去っていった。


 漸く小さな花を見下ろす所までやって来て、私は胸に手を当て高鳴る鼓動を抑え、膝を地面につけた。


「寄り添う者がいない花は寂しげですね」


 幼い頃に見た花の輝きよりも目の前の花はあまりにもか弱くて、あの輝きは自身の記憶違いだったかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 どうして蝶はいないのだろうか。


「大丈夫、サナギは今日(こんにち)に羽化しますよ。……辺りが暗くなり始めましたから、もうそろそろ」

「……どうして分かるのですか?」

「今日は月が赤い」


 月が赤い……?

 後ろに立っている二人を振り向けば、ラバルは複雑な顔をしていた。


「数多の命が融合し生まれるんだ。芽吹いた者たちの瞼が花の様に開かれる時、蝶は創られたばかりの(はね)を震わせながら産まれくる」


 黄金色に輝く月は生命に癒しを与え、赤く染まる月は新たな命を生む。赤い月は一人の少女を慰め続けた。独りぼっちにならないように血を分け与えるが如く、失われるはずであった命は産まれ直し、この世界の(ことわり)に沿って生きる者となる。


「乙女と共に生きる為に、それだけの為に、一度尽きた命は再び生まれるのです」


 変化を求めぬ者は延々と進む針を見守り、ただ一つのことを願う。この世界は美しいままで在って欲しいと。時計の針はただ一定のリズムを刻むだけで何の不足もない。時に私たちの心は歯車が錆びるようにぎこちなくなるだろうが、憎しみの連鎖は色を失った者と新たな命を得た者が粛清した。跳ねる針を変え、今まで通りに時を刻む為に。


 手袋を脱いで、僅かなささくれで花弁や果実に傷を付けてしまわない様に指の背で優しく撫でると、果実は人肌の様に温かかった。

 たったそれだけで堪えていた波が私を襲う。引き攣る喉をもう片方の手の平で押さえるも、ゆっくりと一つの涙が目頭から流れた。

 私は、彼女が愛しくて堪らなかった。


「こんなところに、ずっと、いたのね?」


 この時、どうしてか私は生まれたばかりの我が子を抱いた日を思い出した。

 自身の力で呼吸をしなくていけなくなった赤ん坊は下手くそな泣き声をあげ、不安そうに私の髪の毛の端を握り締めた。あまりにも小さくて柔らかすぎる背中にそっと手を置いて、恐る恐る撫でてみれば涙が溢れた。

 愛が生まれた。愛しい子が生まれた。大きな声を上げて泣いてしまいたい気持ちを抑え、私は願った。この子の生末が、いつまでも明るいものでありますように、と。

 乙女にとっての我が子とは私で在る筈なのに、健気に美しいまま存在し続けようとしている彼女の在り方が酷く可哀そうだった。

 こんな暗くて寒い場所にずっといるなんて、随分と寂しかったことでしょう。


「……貴女はただ物語が巡るのを此処で望んでいたのね」


 寂しげに灯っていた花や果実が少しばかりか元気を取り戻す様に光を強める。

 うん。……そうだよね。寂しかったよね。


「シズリ、サナギが……」


 このまま此処にずっといてあげたいと思う程、私の中で彼女への愛情が膨らんでいく。しかし一方で、後方で困惑したような声が聞こえた。その異変に振り返るとラバルは壁の一か所を見つめていた。

 ……サナギ? よろける様にして立ち上がった時、離れることを惜しむように果実の青が一瞬、強く光った。私は彼女を視界に留め、彼の元に行き、隣に並んでひしめくサナギを凝視する。


「呼吸をしてる……」


 見つめる先には力強く伸縮するサナギが一つあった。まるで必死に生きようとする赤ん坊のように、小さく呼吸を繰り返す様に萎んで膨れるを繰り返していた。

 生きた銀色は磨かれぬままくすんだ銀色とは輝きが違った。

 

 私は自身が生まれた瞬間を覚えていない。命を繰り返す私は至って普通の人で在るように記憶は薄らいでいく。

 私も懸命に呼吸を繰り返したのか。再びこの世界の光を見る時が来るまで、その間も生きていたのだろうか。サナギは心が急くように、今すぐにでも己の皮膚を破ろうと大きく呼吸を乱す。


「随分と良い物を持っていますね」

「え?」


 精霊が指さしたのは私のコートのポケットだった。その中が光っていた。

 そんな光る物なんて持っていただろうかと思いつつ、ポケットに手を突っ込んで中に入っている物を取り出して見て目を丸める。


 銀の笛だ。


「あぁ! ……彼女が元気そうで何よりです」


 精霊が言っている彼女というのはクトゥラトゥさんなのか、はたまた東の国の賢者のことを言っているのか。呼吸を繰り返すサナギを前にして聞けなかった。


「吹いてみたら?」


 ラバルは恐る恐る笛を指す?これも繋がったご縁だ。私は頷いてから冷える笛を咥え、息を吹く。そうすると笛の音に反応するように一斉にサナギが波打つように煌めいた。

 笛の音らしからぬ甲高い音は意外と耳の中に空気を留めることはなかった。

 

「あ」

 

 ラバルと私、どちらの声だったか。ただ、驚くのは仕方ない。一点見つめる先にある呼吸を繰り返すサナギは一際大きく膨らみ、次第にその背に亀裂を生んだ。出て来るんだ。冬を生きながらえる蝶が、今、この瞬間に。私は失くさない様に笛をポケットに突っ込み、再びサナギを凝視する。

 

 秋の夜は直ぐにやって来る。気付けば私たちの辺りは暗くなっており、唯一明るいのは花と果実とサナギのみ。洞窟の中は思っていたよりも明るかった。遠くの出入り口は異様な色に光っていて、外には赤い月が昇っているのだと分かった。

 端から端まで亀裂は伸びて、ゆるりと顔を出したのは蝶の頭。続いて白銀の鱗粉を(まと)った翅が窮屈そうに出て来た。嗚呼、やっぱり翅も銀色だったのか。これもここに来たからこそ知り得ることが出来た答えだ。私は嬉しくなった。サナギの色は銀色。されど私はその中にいる蝶の翅を知らなかった。その答えが今、目の前で証明された。

 閉じていたものが開かれる時ほど美しいものはない。開花する花弁、朝を迎えるカーテン、閉じられた瞼が開く瞬間、なんとも言い表しようがない程に私は安心できた。


 蝶は充分に翅を広げ、ゆらりゆらりと花に向かって飛び立つ。そして暖を取るように果実に止まった蝶は、ゆっくりと翅を閉じて、動かなくなった。


 弱々しい風にさえ砕ける中身のないサナギがダイヤモンドダストのように降り注ぐ中で、寄り添う二つの命がこの世界の全てなのだと私は理解した。花や果実は生まれたばかりで寒さに慣れない蝶を光で温めてやり、蝶は花に寂しい思いをさせていた時間を埋めるように、果実にピタリとくっついて離れない。


 黄金は生命の色。数多の命に癒しを授ける。

 白銀は終わりを繰り返す色。砕けた捨てきれない思いは巡り、返り咲く。

 そして青色はどこまでも深く、清らかにあり続ける者に光の色を見せる。

 

 嗚呼、歌が聴こえる。開いた花弁を蓄音機の役割を担い、彼女の歌声を反響させ、森からはチューブラーベルと木琴の音が洞窟の奥まで響き渡っていた。

 赤い月の雫が新たな命を生み、目を覚めた命の瞼が開く時、銀や木を叩くは軽やかで柔らかなマレット。二つの楽器は世界に生命の誕生を知らせた。乙女は喜びを表すように、それを背に美しい歌を世界に贈る。


「根がある者に命が宿るんじゃないのか」


 ポツリと呟いたラバルを見上げると、彼は静かに涙を流していた。静々と、絶え間なく、ただただ涙を流していた。

 彼の視線は花と蝶に向けられている。彼は今、何を思っているのだろうか。落胆? 羨望? 安心?


「無を有とする(みなもと)は、全てここへ還って来るのです」

 

 失くした命は乙女の為だけに生き返る。

 ラバルは人が緒によって母体から栄養を得ることを木々や草花の根と同じように例えた。そして私もまた遥か昔に母と緒で繋がっていた人間。あの時、彼の話は信憑性があった。

 私たちが初めて出会った薔薇の庭で、彼はこの世界で数奇の命を宿す者は根を張る者、根を持つ者であると言ったのだ。頼りなくも確信していた割に言葉を濁していたのは、彼は真実を知らなかったからだったのか。

 これもまた、彼にとっては”そういうものらしい”ことの一つだったのだろう。


「海で生きようが、空で生きようが、地面を踏み生きようが、物言わぬ体であろうが、還る場所はこの世界そのもの、深い場所。私たちの思いは乙女の創造によって新たな形となり、朽ちた己の残骸は時間を掛けて水となりて、やがて海や大地の一部となって世界の糧として巡り巡って彼女の元へ還っていく。皆、同じ場所へ還るんだ」

 

 彼女の生きた世界は戦火に飲まれ、人々は貧困に陥ったという。

 隣人が食べ物を貯蓄していると思い込んでしまうほど、寒さや空腹は人を狂わせた。

 孤独と寒さの中で死んでしまった乙女は自身の幸せを願った。凍った体と頭が割れて離れてしまっても尚、乙女は物語を記す夢を見て、その手元を灯しているのだろう。


 森は歌う。

 哀れなる母を思い遣り、嘆くための歌を。


 

 かわいそうなレプティシー

 貧しさは人々に殺し合いをさせた

 彼女の左胸に突き刺さったナイフはそのまま


 家族を襲った人には見覚えがあった

「嗚呼。なぜ、どうして」

 言葉は声にもならず、喉の中で死んだ


 太陽はなぜ村を逸れるようにして巡るのか

 村を慰めるは憐れむ月の光のみ

 その月の光とて、太陽の恵みだという

 それだけでは足りぬ、我々は充分に暖がとれぬ


 次第に村は衰退して、滅んだ

 雪は全てを飲み込む

 床に転がり気が付いた

 私たちの下にも沢山の人がいると

 どうやら重なり合うように雪の下にいるらしい

 嗚呼、死にきれない思いが底から聞こえる


 かなしい、かなしい、くやしい


 かわいそうなレプティシー

 誰もいなくなった村で

 長い時間、家の中で転がり続けていた

 ある日、大地が大きく揺れたとき家の中で凍った体が転がりベッドの足にぶつかった衝撃で頭と体が離れてしまった


 かわいそうなレプティシー

 赤い月の夜、せめての慈悲が与えられた

 ……いいや、力を与えたのは彼女の方であっただろうか

 どちらにせよ、痛みからは解放された

 彼女は理解した

 月は温もりを分け与えてくれないが、傷を癒してくれるのだと


 かわいそうなレプティシー

 半端に大人になりきれなかった彼女は夢を見続ける

 

 彼女は夢の中で眠りにつく前の習慣を繰り返す

 熱を持ったランプが凍える手を温め

 温められた手でペンを握り物語を描き綴る


 凍った体でレプティシーは考えた

 脳が割れてしまわなくて良かった。そんなことを

 体は割れて離れてしまったが、心がある

 考える脳も凍ってしまったが欠けることもなくある

 ならばせめて、物語の中では幸せでありたい

 長い夢を見るように、自身が創った世界で生きたいと

 彼女はそう願ったの



「憐れむことがあれど、嘆くことはありません。世界とは幾つもあって、私たちはその一つだったというだけの話。慈しみ深い乙女が創ったこの世界は美しく優しい。私はこの世界を守る理由をそれだけで十分だと考えています」


 何度もやってくる愛しい人の手から自身の手が擦り落ちる感覚を覚えていた。幾度も誰かの手から滑り落ちる手を見て来た。どうして命は繰り返してはくれないのか、どうして私だけが命を繰り返すのか、沢山悩み苦しんだ。その原因が世界である乙女が物語を完結させなかった未熟さのせいだったと知っても、今の私に彼女を憎む気持ちは湧かなかった。

 当然だ。自身の手の中で生まれ健気に呼吸を繰り返す我が子を不完全だからといって愛せないなんてあり得ないのと同じで、優しい手つきで撫でてくれた親の手がぎこちなく重たいものになったことを憎む子供なんていない。

 どちらの立場もいずれ覚悟なるものが必要とされるだろうが、それでも、愛してくれるのなら私も愛そう。

 あなたが、私を愛してくれたように。


「凍える様な寂しさも悲しさも与えられ、私は十分すぎるほどの孤独も貴女の所為で知った。……でも、貴女が私に愛を教えたんだよ。たった一人の老婆の死は幸福に包まれるようにして終えた。貴女が私の”一生”を幸せなものとして描いたの。だから、私は貴女の幸せを願いたい」


 ステンドグラスに色を染める白き友人の姿が瞼の裏でキラリと光った。

 私たちは不幸であり、幸福であった。それはまるで画家の心を映す絵画のように、光と闇が交じり合う。鮮やかな絵であっても、悲しげな表情を見せたりもするのだ。悲しんでいるのは絵の中の人か、それとも自身の心か。どちらなのかは画家のみが知ることだろう。

 そうした二極性がある絵画の息は長く、多くの時間を経ても人々を魅了し続ける。


「成長した子は、今度は自分が親を支えてあげたいと思うもの。母や父が我が子が転ばぬようにと手を取って歩くのと同じように、子供もまた年老いた母と父の手を握るでしょう? 私たちを創造したのが乙女である貴女なのであれば、私が貴女の代わりに筆を握るのは何も可笑しな話じゃないはず」


 美しい歌声は嬉しげに、軽やかさを加えてメロディーは寒い夜に響く。

 私の言葉を聞いて、その上で応えてくれているの?


「私が生き続けている意味なんてものがあるとしたら、それは貴女がこの世界を諦められなかったから、握りしめる筆を折らなかったから。……そうなのでしょう? レプティシー」


 時に、これまで笑った数を覚えている者はいるだろうか? 数えている者は何の為に数えているのだろうか? 数を競いあったり自慢をする為には、相手も数を把握していなきゃあならない。数えることに意味がないものというのはあるものだ。それは悲しみも同じことで、流した涙を知る者なんていないだろう。

 だから、私は過去の不幸を探して数えるのを止めよう。辛く、耐え難い時代もあった。それらを思い出す度に苦労が頭に焼き付くのなら、美しいものに心を傾けよう。乙女は無邪気に、嬉しそうに歌っている。今はそれだけで良い。彼女が此処に居ることが分かっただけでも良いんだ。月の光のみならず、彼女の想いが私にとって少しばかりの慰めになるから。


「白いキャンパスばかりを見つめていた貴女に、これからは描いた世界の景色を見せる為に、何度だって此処に来るよ。物書きも、画家も、貴女と同じように焦がれる思いを創造してるのでしょう? 私たちは”そういうもの”であるはずだもの。思いには命が宿るらしくてね、それなら貴女は私の絵の中で生き続けるといい。私の絵の中は沢山の優しい人たちが生きていて、温かくて、草花に囲まれて、パンの焼けた香りやスープの香りがするのよ。全部、貴女の為に描いてあげる。凍える手には温かな手袋を編んで描いてあげる」


 祈りにも似た歌は喜びを得たように変わる。軽やかなメロディーが辺りを飛び回っていた。


「そうしたら、雪に埋まる貴女が少しでも救われてくれやしないだろうか」


 ふと、昔に姉の言葉を思い出した。「草花は虫の為にあるんでしょ」と葉を喰らい尽くす幼虫を掬って取り除いる姉に言えば、彼女は違うと言った。


 ――花も葉も、自分の為に生きてるんだよ。


 目を閉じればいつだって黄金色に包まれたリビングを思い出せた。

 もし、過去に憂うこともせずにあの温かな場所に居続けられたなら、今、こんな寒い森の奥になんていないだろう。しかし、私は望んでやってきた。これからも沢山の人を置いて進み続けなければならない私は、必死に手探りで誰かの為に在ろうとして、自分の為に在ろうとも思った。

 何の為に生きるのか。私はよおく分かったよ。何者であるか分からないまま生き続けない為に、人々が生きた痕跡が残るように、私たちは懸命に生き続けなければいけない。たとえ短い一生だったとしても、耐え難い別れが待っているのだとしても、せめてのことが出来るのなら、私がその思いを覚えている。

 


 洞窟を出れば案の定、辺りは真っ暗で、空には怪しげな色を(まと)った赤い月が浮かんでいた。私たちがそれを黙って見上げていればふわり、と白い雪が舞い降りた。

 ラバルと私は「あ」なんて力の抜けたような声を揃え、精霊は愛しげに降って来た一つの雪を指先に乗せた。雪は、精霊の体温によって溶けることはない。

 小さな雪のひとつにも慈愛に満ちた視線を向ける精霊を見て、私はひとつの疑問が浮かんだ。


「どうして、この世界は灰色の花(グレイノノル)が咲いたのでしょうか」


 こんなにも美しい世界なのに、どうして花が炭になり得る過去があったというのだろうか。

 

「この世界は一時だけ彼女の手元を離れたことがあるとか……。彼女が死に至り、頭部が体と離れた後の少しの期間、この世界は無秩序になったからとか」


 精霊は悲しげに首をゆるりと横に振る。

 

「彼女は酷く劣悪な環境に置かれていました。満足にご飯を食べることが出来ず、家から出ることも、家に留まり続けることもままならない。この世界の不幸な出来事は、彼女が感じて過ごしていた感情と極めて近いと私は考えています」

 

 細くて冷たい風が私たちの間を通り過ぎてゆく。ひやりとした冷気が、無神経に頬を掠めていった。


「では……、乙女が、争いを作ったというのですか」


 そんなのこと……。精霊は遠い過去に起こった信じられない程の悲劇が、この世界を作る為に必要なことだったと言うの? それとも彼女一人の力では争いを止める術が見つからないから、せめてこの世界での争いを止める術を見つけたかったの?

 そんなこと、そんな理由、この世界に生きる私には到底納得が出来ることではなく、酷く悲しい気持ちになった。私は精霊の指の先から視線を足元に下げる。

 だって、それじゃあ、親を亡くした子供の悲しみも、やりたいことを諦めて戦いに行かねばいけなかった若者も、みんな、みんな乙女がそうしようと決めたから起きたことだと言うの?


「この世界が誰かの手によって生まれたとしても、今後、貴女は起こり得る争いに関与できる手足や口があります。賢者の数が減ることは深刻でありますが、この世界には全の幸せを願う者が沢山いるということ、それは幸いなことなのですよ」


 ぐにゃりと歪む口にグッと力を込めて精霊を見上げて、理解した。そうか、精霊も悲しいのか。この世界そのものである精霊でさえ、このことは悲しいと感じることなんだ。

 

「シズリ、平和を求める者の中にどれだけがその中身を考えているのでしょうか。きっと、……平和を求めていない者を探す方が苦労するでしょうね。平和の為に出来ることを考えることが大切であるのに、失敗と成功は、いつだって傍観していたものが決めつけているのです。行動に移して失敗した者は何を間違えたのか考えることが出来ますが、そもそも心の中で平和を求めているだけの者は何がダメであったのかも考えません。私は、それを実に愚かなことだと思います」


 数が集まればその愚かさに気づけなくなっていく。時にそれを烏合の衆とも呼ぶ。この言葉は私への戒めであった。 一人でいることを寂しがり、多くの中に入り安心することは恐ろしいことでもある。

 

「……賢者となった今、私は傍観は許されず、諦観に徹することを望まれているのでしょう。如何なる状況においても世界の安寧を守る為に多くのことを知り、多くの言葉を知り、多くの姿を見なくてはならないのですよね。無知は許されず、口や目を閉ざすこともまた許されない。時に必要な言葉を選び、時に不必要な言葉は捨て置く。私はそうした世界に足を踏み入れた」

「そうです。例え貴女が耳を塞いで(うずくま)ってしまったとしても、誰も貴女を責めることは出来ません。ただ、先頭に立って貴女を責めるのは貴女自身であるということを覚えていてください。……それは酷く辛いことです」


 争いを止める術を模索した乙女にとって、私たちのような者でも及ぼす影響は僅かながらあったことだろう。誰だって苦しい環境から抜け出せるのであれば、どんな言葉にも耳を傾けるだろうから。

 色を失せた者は一に関与せず、ただ、全の為に在り続ける。では色を持つ私はどう生きていけばよい? 私は色を失ってなどいない。なら、私はそれを幸いとし全の為に在り続け、一の為にだって在りたいと願おう。だって乙女もまた一なのである。それがこの世界の息の緒に寄り添うことであると、私は信じている。


 では、願うばかりではなく、誰かの為に在るにはどうしたら良いのか?

 覚えていること、願うこと、それだけが救いになるなど、本当にそうなのか?

 考えなくてはいけない。今迄のことを、私が目を伏せ黙していた頃のことを。生まれる前からのことを。

 

 さて、過去の争いについて思い返すことが多かった訳だが、ひとつ考え直してみたいことがある。ある絵本の話を覚えているだろうか。小さな王様が様々な人に手紙を書いたお話だ。

 あの本は、優しさだけに感動して終えるべき話ではないのだ。小さな王様の手紙は根本的な解決策を導き出したわけではなかった。物語の本質を見ようとしなくては、ただ感情に訴えかけた美しい話でしかないだろう。耳心地よい言葉を並べて、本来人が持つ心とは美しいのだと、そうした呼びかけをすることで争いを終えたのだ、と。

 ここで何か違和感を感じないだろうか。誰だって自分の周りにいる大切な人の幸せくらい願うだろう。争い続ける者の誰もが気づかないなんて、そんなことがあるだろうか? 国を統治する人であるなら国民もまたその大切な一つだ。私は、民が苦しむのを見過ごす王ばかりがいたとは到底思えない。

 そもそも争いとは何処も同じ理由で起こっている訳ではないだろう。争いを始める理由など千差万別。土地の線引きであったり、引いた水の権利。過ごしやすい気候などが主な理由になっているだろう。人々は快適な環境を追い求める。そしてそれらを手に入れた先の生活は、今よりもっと良いものになると信じているのだ。

 同じものを欲した両者に妥協点が見つからないとき、不幸なことに争いが生まれる。だから多くを欲することは愚かなのだ。そして残念なことに、始める時よりも止める時の方が理由が浮かばないものなのだ。

 ……なんて、森を制しようとする大きな国に従い戦いに参加したラバルには、こんなこと言えやしないけど。


 私は息苦しさを感じて眉間に力を込めた。

 これまで主張して、何度も何度も繰り返した言葉を思い出す。覚えているだけでいいのか。忘れないだけで良いのか。本当に、それだけで良いのか……。 今こそ必死になって考えなくてはいけない。

 きっと、私はまだ大切なことから目を反らしている。

 

 あの絵本は子供向けに作られていた。子供のうちは自分と相手にとって最善で在るには何が出来るのか、それを想像させる力を(つちか)うことが大切である。では大人はどうだろう。如何にかこうが守らなくてはならないことが沢山ありすぎる。どうにかして、そうしたものを守る為の術を考え、時に無理をしてでもその術を身につけなければならない。主張ばかりをして相手が折れることを期待するなど、まさに幼子の姿である。

 悲しんでいる人に触れることを怖がり、自力で立ち上がった人に対して自身は見守っていたなど大した主張をするなんて、そんな振る舞いをしそうになる自分が嫌になった。なら、世界にとっても同じことが言えるのではないだろうか。

 物事に対して主張するのなら、理に適った発言をしなくてはならない。時に我々は、それはまるで一寸も間違えてはいけないように思えるだろう。しかし、ただ発言することが偉いのではない。意味のある発言をすることが大切なのだ。結果として間違えた者が愚かなのではない。結局、何もしていない者が一番罪深い。それは個人に対しての振る舞いもそうではないのか? 考えろ。必死になって、考えるんだ。

 中身のない発言はないものと同じだ。此処で言う中身がない発言と、意味のない発言は違う。過去のことも、未来のことも、誰かの心にも寄り添わず、誰かの為にしてやっていると考えたフリを演出する為だけの発言が罪深いと言うのではないか?


 夜に寝付けない子に絵本を読んでやったとして、眠りに就くまで物語の話を聞き返したりはしないものだろうか。暖かな布団の中でどのようにして子供は絵本の世界を旅をしたのか、聞いてやらないだろうか。そして寝息を立て始めた子の肩が冷えない様に布団を掛け直してやり、また明日、元気に過ごせるように瞼にキスを落としてあげたりはしないだろうか。

 賢者の役割とは、何処にでもいる親の様なものではないだろうか。問われればヒントを与えて答えに導いてやり、心を育てる為に時には口を閉ざし見守る。そして明日も皆が健やかに過ごせるように願うのだ。

 

 絵本の中は極めて簡単な思考で作られていた。一人の見知らぬ小さな王様の手紙を読み、納得し、争いをしたがっていた人たちは戦の手を止めた。それを好機だと言わんばかりに争いが続くことを求める敵が攻めてくるかもしれないのに、あの物語の中で国々は攻撃を止めた。

 それには不安や恐怖があっただろう。それには捨てたプライドもあっただろう。しかしそんな描写はない。小さな王様の世界に対する思いだけが美しく描かれていた。戦いを始めた罪を打ち消すことは出来ないが、戦いを止める決断を下すことも大きな功績と呼べるはずなのに。

 ただ祈るばかりで公に声を上げるでもなく、争いを止める為の行動を取ろうともせずにいた者が争いの原因であった人々に対して如何様な結果になろうとも非難する権利はない。どんな小さなことでも、私たちは世界に関与しなくてはいけないのだ。

 だから賢者は世界を巡る。言葉を話す。過去を記憶する。それが永らく生きる者の定めとして。

 私もこればかりは他の賢者と同じように振舞おう。再び灰色の花(グレイノノル)が咲かぬように、私は誰かの他者を傷つける欲望にそっと手を添えて沈めよう。浮き上がらないように、じんわりと手に力を込めて、せめて温い水の中に、私の手だけでも共に沈めてあげるのだ。もがき苦しむ悪意が水面に浮いてこないように、助けを求めるようにポコポコと浮かぶ(あぶく)に耳を傾けて、共に大変な苦労をしよう。

 悲しい花が咲かない様に、この世界が優しい姿のまま在り続けられるように。それまでは、私は様々な声を聞いて、沢山のことを見て回り、最後を迎えるその時には手を握ろう。


「灯りのない部屋に閉じ込められた時、一筋の儚い光が扉の隙間から差したとして、それを見つけた者は希望を抱き、また、絶望したりすることでしょう。部屋から出られないのなら、その光は残酷なものになるかもしれない。そうした、いつまでも諦めさせてくれない光でもありますから。幸か不幸か、貴女はその隙間から漏れる光に希望を見出しました。美しいばかりではないこの世界において、それでも……。それでも貴女はこの世界の愛を信じてくれるのですよね?」


 この世界の愛。

 愛とは即ち乙女のことをいう。ならば私の答えなど聞かずとも、湖の精霊なら、もう、充分に分かってくれるのではないだろうか。

 

「……美しいだけのものを探す方が難しいですから」


 じわり、じわりと涙が浮かび、眼球を充分に濡らした。世界を前にした自分があまりにもちっぽけで情けなくなったのだ。

 私は理解していた。どんなに自身を律し、戒めようとも歴史は繰り返される。いつかまた、多くを欲した者によって争いが起こり得ることを恐れているのだ。だから、私がいる。私たちという語り部、賢者がいるのだろう。

 これから尽きぬ命を使って多くのことを見て、知り、記憶し、次に繋げていかねばならない。世界にとっての最善とは何か、見つめ続けなくてはならない。

 私たちは発言をする。沈黙を貫くことは許されない。私自身が目を閉ざすことを許さない。世界がどんなに酷い姿になろうとも目を反らしてはいけない。

 この世界の至る所に足を運び、過去に失われた命や、過去より存在し続ける美しい命を証明し続けなくてはならない。発展と奪うことは違うと諭さねばならないのだ。

 どんな好機が訪れようが奪うのはあなた方ではなく、奪われるのがあなた方なのだと。

 

「……私たちは愛する村を守る為に槍を手に持って森に入った」


 ポツリと、ラバルが言葉を零した。

 パっと顔を彼の方に向けると彼は夜空を見上げていた。

 

「握りしめている手の平は血だらけさ。こんな手では誰の頬も撫でてやれない、握ってやれない。それが酷く悲しかった。誰の想いにも応えることが出来なくなったと思ったんだ。……だから、小さな手になってしまったのかもしれないね」


 そんなことはないと、彼の手を握ってやりたかったがラバルが(まと)う空気が拒んでいるように感じた。今だけは触れないでくれと言っているように。


「本当は自身の命くらい一思いに出来たなら、長い時を孤独に苦しめられなくても良かったのだろう。しかし、今、此処に居られることが嬉しいと思っている。……心から、そう思っているんだ」

「ラバル」

「……精霊さまに拾われ、同郷の少女と出会い、罪深いことに私の中に在った大きな葛藤は……。…………去ろうとしている」


 彼は自身の心が救われることに疑問を持ち、それで良いのかと自問している様であった。ギュッと胸元のコートを握り締めるその姿が、酷く心許ない。

 きっとラバルは今も尚、この森に対して罪悪感を抱えているのだろう。

 この森だって私たちにとっては村と同じくらい大切な場所だ。共に旅を続ける中、彼は何度だって故郷を渇望していた。そんな愛する場所を傷つけ、奪おうと武器を手に行進した遠い過去のことを、ずっと忘れることも出来ずに心は傷つき続けている。

 

「誰もが傷ついた。誰もが悲しい中に在った。でも、それはラバルだけの所為ではないでしょう」

「そんなこと……っ」


 ラバルは言葉に詰まるようにして、グッと拳を握りしめる。


 此処に来ても私は上手に彼を慰める術が分からない。月の光のように癒す力でもあればとこの時ほど強く落胆したことはないだろう。

 今だって必死に探した言葉で彼を傷つけているのではないかと怖かった。


「私は! あの争いの日々が作られたことだなんて、知りたくなかった……!」


 出会った頃のラバルは飄々(ひょうひょう)としていて、打ち解けていくと私の心を尊重するように振舞ってくれた。辛い時は励ましてくれた。そんな優しくて、冷静で知的であったラバルが声をひっくり返しながら悲痛な声で叫んだ。

 引き下がっては駄目だと分かっているのに、私は思わずたじろぐ。


「知らないままでいれたら、自分だけのせいに出来たのに」


 洞窟の中で涙を流したラバルは何を思っていたのだろうか。情けない私は分からない。これは彼の苦難に触れようともしてこなかったツケなのだろう。

 でも、もうそうしていてはいけないと思ったのではないか? 口を閉ざすことは罪だ。……いいや、罪だとかじゃなくって。悲しそうにしている人を見て見ぬふりをする奴は酷い奴なんだ。…………ああ、もう、そうじゃなくて。世界とか、そんな大きなことじゃなくて、今、目の前に立つ友人が傷つき続けているのに綺麗事を並べて、簡単に宥めようとすることが薄情なんだって!

 私は泣いてしまいそうな彼の姿に居ても立ってもいられなくなって、先程は躊躇(ちゅうちょ)した彼の手を、今度こそ握る。


「やめ……!」

 

 彼は驚いて咄嗟に手を引こうとしたが、私はそれを許さなかった。


「乙女だって、決して遊びの為にあなた方を争わせた訳じゃない。さっきのか弱い草花がそんなことを望んだと、本当に思ってる? 思ってないよね? ……守る為にしたんでしょう? あなた方は大切なものを守る為に戦ったのでしょう? そんな貴方が沢山の時間が過ぎても尚苦しむなんて、私は悲しいよ」

「……っ、私たちは、誇れるものがない。結局、戦いが終わるのを見届ける前に死んだんだ。故郷は今も残っているさ。でも、それは私たちが戦ったからではない。私たちの選択は間違えたんだ。乙女の思惑と知らずに、言い包められるようにして簡単に戦うと決意した。人の力が森に棲まう者に適うなんてあり得ないことだったのに! ……これだから、愚か者だと。…………世界中にせせら笑われるに決まっている!」

「ラバル……。ラバル、ラバル、ラバル」


 混乱しているような彼の手を引いて落ち着かせる。

 彼が叫んだ言葉は、時間を掛けて彼の中に蓄積していった思い。

 思っていないことさえ口に出してしまっているようだ。

 貴方がこんなにも苦しんでいるのに、戦うことを簡単に決めたなんて、そんなことないでしょう。


「何に怯えているの。誰かの言葉に傷つけられたの?」


 彼は図星を突かれたように口を閉じた。

 私はそれが悲しくて、悲しくて仕方なかった。

 身に覚えがない訳ではない。しかしそれはラバルだけにある話ではなくて、過去になっていく人々を未来の人は滑稽に見ることがある。私たちは必死に生きていたというのに、他者が積み上げて辿り着いた技術の発展という功績を我が物顔で語る者が多いこと。残念なことに、その数々の言葉の中にラバルが傷つく言葉があったのだろう。

 ただ今回ばかりは、私が思うに、自身を愚かだったと責め続けているのはラバル自身なんだと思った。

 

「過去に争った人間は愚かだと、当事者でもない未来に生まれた人に争いの良し悪しを結論づけられて貴方の心は(さいな)まれたの? 誰かに、そう言われたの?」


 ラバルはゆっくりと首を横に振る。

 彼は少しだけ混乱しているだけ。それは仕方ないように思う。彼らが置かれた状況が、まるであの時代の争いが望まれて起きたように思えたのだ。

 私だって自分が傷ついたことを肯定されたら、きっと悲しくて、悲しくて、その場に立ちすくんでしまうことだろう。


「ねぇ、ラバル。そんなのさ、求められることが厳し過ぎやしないだろうか」


 戦いに出た者が愚かなのではない。傍観して沈黙を貫いていた者こそ世界の為にならないのだと、貴方は分からないのか。

 街に立ち寄ると隅でわだかまっている人々はまるで得意げに言う。昔の人間みたいに愚かな考えはしないさ、と。

 ラバルたちが出した答えは美しい森を傷つけたかもしれない。しかし、それに至るまでの葛藤があり、彼らは守るべきものを優先した。その決断を誰が責められるというのか。

 乙女の何たるかを知る為の旅路は、結果として辛くて悲しい争いの時代が肯定され、そして彼は酷く傷ついた。これは私の責任だ。一緒にここまで来て貰った私のせいだ……。

 そもそも、過去を軽んじる者の言葉が的確にラバルたちを指して言っていた訳ではないだろう。彼だってそんなことは分かっているはずだ。

 それでも、名前も知らない誰かの何気ない言葉は彼を傷つけた。それが私をひどく情けなくさせた。

 

 喧嘩の仲裁者の役割は実に簡単なものだ。気苦労を負うだけでよいのだから。実際に怪我を負うのは当事者だけ。喧嘩を止めるのに本気になれる者がどれ程いるのだろうか。仲裁したことで命を落とす覚悟がある者は?

 グレイノノルが過ぎたばかりの時代しか知らない私などが幾ら過去の争いを憂い恥じようが、心に傷を負うことはない。寧ろ語ろうとすれば、その時代を生きた人を酷く傷つけ、(おとし)めるだけだろう。だって、私は何も知らずに生きて来たのだから。気落ちするような暗い物事だと目を閉ざし、語れるほどの知見もない。知る術も時間も幾らでもあったというのに。……無関心もまた罪だ。

 私はグレイノノルの残骸がまだ僅かに残る時代に生まれ、罪深くも口を閉ざした人間だった。肯定もせず、否定もしない立場に立つことを選んだ。戦いに向かった同郷を誇りに思いながらも口に出すことはない。あの頃は、みんな知っていることだったから。

 そして当時は戦いから僅かにも帰って来た人がいた。勿論、その話題は繊細なことであった。そうした全体の気遣いは、少しだけ異様な空気を生んでいた。

 語る程の経験もなく、問いかければ誰かを傷つけるかもしれない。気まずい、なんて言葉でまとめてしまうのは簡単すぎるだろうか? でも、そうした時代だった。…………そうした、時代だったのだ。

 

 ラバルの本心を聞いて、私は今更ながら怒りが沸き上がった。過去に生きていた人々を簡単に否定して、お前は何様だというのか。

 口を閉ざし続けて、過去の人たちに全ての責任を負わせて、私は……、私はたちは、ラバルたちのことも、そして未来を生きるあの村の子らのことを考えてやれてなかったのかもしれない。

 

 彼は彼の過去をほんの欠片しか話してくれなかった。なんて言い方は彼のせいにしているみたいか……。私は単純に気まずさを感じてた積極的に聞くことはなかっただけ。この話に触れればラバルを深く傷つけると思ったから。口を閉ざしていた時と、同じことをしていたのだ。

 彼を傷つけるかもしれない、なんて理由を作って傷を労ることもしてこなかった自分がなんとも情けなくかった。彼はずっと私の心を案じてくれていたというのに、薄情な振る舞いをしてしまっていた。

 

「私はラバルにいつまでも過去に苦しんで欲しくない。でももし、その辛い過去を捨てることさえ忍びないというのなら、貴方の(しがらみ)を全て受け入れた上で、私も一緒に後悔する。……ねぇ、ラバル。私が生きていた時代の村の皆はね、ご先祖さま方を憂いたけど恥じたことなんてないよ」


 指先が凍えている少し大きなこの手を、私は離しはしない。

 私が月の精霊に突き落とされた時、必死に手を伸ばしてくれたように、私もラバルを守りたいよ。


「こんなことを言って、どうしてそう思うんだって、思う?」

「……思うよ。私は、……自分が誰かに優しく想って貰えるような人間だとは思えない。それに誇れることがないと言ったじゃないか」

「こうしてラバルの思いを少しだけ知ることが出来た。貴方が故郷をどんなに愛しているかも知ってる。その想いを否定することは、私には出来ないよ」

「どうして、…………そこまで」

「それこそどうして?」

「どうしてって……」


 不安げに揺れる瞳を私は知っている。

 正しいことを言わないと怒られるかもしれないと怯える子供の瞳そのものだ。


 どうして、そこまでして彼自身を肯定しようとするのか。ラバルは不思議でならないらしい。いつもは聡明な貴方なのに、この時ばかりは分からないの?

 理解できない、分からないと言いたげな彼の姿を見て、私は悲しくて顔を顰める。難しく考えることはない。難しい言葉もいらない。私たちは至ってシンプルな関係だった筈だよ。


「……だって、私たち、友達でしょう?」


 自身の至らなさに奥歯を噛み締めた後、私が絞り出した声はあまりにも頼りなかった。


 長い時間、ラバルは苦しんでいた。

 彼は生まれた時代が悪かった。しかし彼が生きた時代もまた、世界の至る場所は美しかったに違いない。……思わないか? 命を懸けて守るべきものがあるなんて生きてきて滅多にあるものではないだろう。


 木枯らしの季節、細くて長い川の頭上をトンビがクルクル飛んでは笛の音のように鳴いている。

 色とりどりの草花が咲き誇る庭先は小高い丘から今も相変わらずよく見えるだろう。


 この世界には、昔も今も変わらず、小さくて美しい景色が沢山ある。


「…………否定ばかりしていても状況は何も変わらない。責め続けて、傷つけて、その者の心には何が生まれるというの? 次こそは最善を選択出来るように考え尽くさなくてはいけないのに、大切なことがてんで抜けてる。責められ続ける自分は委縮して言葉を失ってしまう。言葉を失えば、そこからは何も良いものは生まれない」


 握りしめた手に力を入れれば、ラバルの手にも力が入った。少しだけ答えてくれたように感じて、私は他に伝えたいことはないか必死に言葉を探す。

 何度だって、何度だって繰り返して言うよ。


「私たちの村を守ろうとしてくれたのが、貴方でしょう。必要なかった争いだったなんて、そんなの何百年も経って平和に過ごしている人だから簡単に言えることなんだよ。そんなもの、平和を考えるという議題に参加しているとも言えない無知で愚かな発言だ。…………私たちは、ううん。あの村で生きる人は、絶対にそんなこと思ってない」

「そん、なの……」


 私は言いたいことを言ってラバルの顔を覗き込む。彼は両目を力強く閉じ、一歩よろけるように後ずさりしたのち私に握られていない方の手で前髪をクシャリと握り、深く息を吸って、時間をかけて白い息を吐き出した。


「村の集会場には昔と変わない姿のままにあるステンドグラスが嵌められてた。あの色硝子は良く磨かれていた。大きくて磨くのが大変だろうにピカピカだった。……これだけでは証明にはならないのかな?」


 彼の反応は鈍いまま。私は彼を傷つけてしまったのだろうか。

 どうしたら心が救われてくるのか、私は分からない。彼が私に何を求めるのか、私に対して救いを求めるに値する相手だと思ってくれるのか。私は分からない。

 少しでも救われて欲しいとまざまざと言葉を並べるも、不安になって握る手を更に強める。

 言葉を口にすることは、難しい。


「ラバル…………」

「もういい」


 先程の熱を失い、静かに言い放った彼の言葉に私はギクリとした。


「……もう、いいよ」


 はぁーー、と長い溜息を吐いて瞼を覆っていた手をダランと垂らし、ラバルは私に掴まれている手をぷらぷらと数回揺らしたのち項垂れるようにして「…………強く握りすぎ」と呟いた。

 

「そう急かしてあげてはいけませんよ。少しずつ伝えてあげてください」


 興奮気味に話している私の背中を精霊がゆっくりと撫でる。ああ、私ったら……、てんでダメね。

 

「どんなに時間が経てど、救われる心というものはあるのですね」

「………………はい」


 精霊の優しくて、風に溶かすような声に彼は酷く安堵したようにそれに応え、私の手を力強く握り返した。

 俯きそうになっていた顔をパっと上げて彼を見れば、彼は柔らかく目を細くして私を見つめていた。


 悔しい。ラバルたちの決意や覚悟を分かっていない人たちがいることが、とてつもなく悔しいよ。

 勿論、全ての人が同じ質量で、同じ主観で過去を解釈できる訳ではないことは理解している。でも悔しいんだ。

 ……嗚呼、そうか。

 だから私たちは口を閉ざしてはいけないのか。

 仰々しく捉えつつあった賢者という存在。それはただ、在るがままを見て伝えるだけで良いんだ。

 それならば私は一人の友人を守る為に、まずはこの悲しくてやるせない、例えようのない心を証明しよう。過去にあったことを話そう。

 自分で言ったのではないか、一は一の為に在ると。

 私の思考は何度も同じ場所をグルグルと回る。頭では理解しているのに、何度も考えないと自分のことに置き換えられない。だって仕方ないじゃない。私は長生きしてるだけのただの人なのだから。

 身近な人の幸せを願うことがあまりに当たりまえ過ぎて、世界という大勢の幸せを願うことと、無意識に区別しようとしていたかもしれない。数は違えど、全て同じで在る筈なのに。

 語ろう。

 語るんだ。

 私にはもう、口を閉ざす理由がないのだから。


 筆を洗う為に用意した水が鮮やかに染まり、混ざり、濁る。美しい色ばかりを選んだというのに、水はとてもじゃないが綺麗とは言えない色になって価値をなくした。

 飾っている絵画を眺めて「綺麗」なんて言葉だけで終わらせないでよ。絵の中に描き託した私たちの想いを一生懸命に感じて、よく考えて。心でもなんでも、形にならないものでも、どんな絵でも描くから。どうか歪なものであっても嘲笑して、意思に反した"ホラ"を風潮することはしないで。作者の意図を履き違えて後世に語るなどしないで。私は色々な景色を、心を、絵の中で見せるから。どうか踏みにじることはしないでね。

 歴史もまた、輝かしい時代、暗き時代なんて名前をつけて決めつけないで。どんな時だって苦労も、幸福もあるのだから。美しいと感じることは今を生きる私たちと同じである筈だから。

 どうか、その心で沢山考えて。

 

「……我が愛しい冬の村に生まれた子よ。その心に根付く優しさが失せることもせず、この土地に帰ってきてくれたこと、私は心から喜んでいます」

 

 悲しみもやりせなさも肺に留めようととして、獣が唸るような声を喉の奥に締め押し込んだ日々。

 どんなに涙を流そうが体積は縮んでくれやしない。たくさん泣こうがこの世界から自分自身が減ることはなかった。それが何よりも私たちが生きている証だった。

 乙女は喋らない。もしかすると私たちの葛藤なんて知らないかもしれない。私たちは再び敷かれたレールを歩き続けるだけの日々が訪れるかもしれない。でも、考えることだけは止めてはいけない。

 

 歌う花は、稀にやってくる風に揺れ、果実は暗い洞窟の中で鮮やかな青色を映すのみ。

 この時、この場所のことを私は覚えていよう。覚えていることが唯一私が出来る一の為の慰めであり、語ることが全に報えることだ。

 

 ねえ、レプティシー。何かを生み出す人はいつだって筆を折る為に力を込めて握りしめていることでしょうね。……もしかすると、貴女もそんな瞬間があったんじゃない?

 自身が創る世界と真剣に向き合うほど、私たちの挫折する準備が整っていくのかもしれないね。

 

 今、この瞬間、随分と時間が経って乙女は後悔をしたかもしれない。この世界に自分を投影して気づいたのかもしれない。彼女が創った世界で生きる人々にも心があると知って、筆先を動かすだけで生まれた不幸を想って罪悪感に苛まれたかもしれない。

 私は、そうであったなら良いなと思う。私は貴女を想うから、同じくらい貴女にも私たちを想って欲しい。

 ねえ、私、随分と性格が悪いでしょう? だからね、貴女も遠慮することはないのよ。


 森は少しばかり賑やかだった。相変わらず花は歌い、星はメロディーを奏でている。

 伝わっているのやら、伝わっていなのやら。良くも悪くも彼女は無邪気だ。

 私たちの会話なんて聞こえていないような森の様子に、疲労を表すように小さく溜息を吐く。

 そんな私の様子を見た精霊は、クスリと笑った。

 私が視線を精霊に向ければ、細い指先から蛍のように雪が飛び立っていった。

 

 小さな思いつきで傷つく心がある。小さな勇気で救われる心がある。目が追うものが違うだけで絵も同じだと、私は思うのだ。見るだけで辛くなる絵があれば、心癒される絵もあるものだと。

 今は蝶との再会に喜び、私たちなんぞ気に留めていないだろうが、彼女は時間を掛けてよおく理解していくことだろう。己が書いた物語は、"この世界の人々"を傷つけたのだと。

 ……なんて、ね。全く、本当に本当、少しでも後悔してくれないと、そうでなければ、私は困ってしまうよ。


「シズリ、いつか私の絵も描いてはくれませんか?」

「描いていいのですか?」

「描いていけないものなんてあるのですか?」

「……うぅん。元来、人は神聖なるものを形作ることを禁忌と考えるきらいがあります」

「では貴女もその考えを持つ人であると?」

 

 探求心が失せた芸術は自身の感性のみで生きてゆかねばならないが、私は頭の中に浮かぶものだけを描けるような恵まれた才能を持っていない。

 私には見えるものを描く方が性に合っている。合っているのだが……。描くことは存在を知らしめることになる。滅多に人の前に姿を現さない世界そのものである精霊を描いても良いものか。

 ……まあ、精霊さまにあげるのなら他の人の目に触れることもないか。

 私は渋りながらも首を横に振る。


「それなら何も問題はありませんね。それでは、この森で貴女が描いた絵を届けに来てくれることを、いつまでも待ちましょう」

 

 私たちには十分すぎるほどの時間がある。なんなら終わりも分からない程の時間だ。時計の針は歯車を止めることもなく回り続ける。

 精霊が瞼を閉じて穏やかに呼吸を繰り返せば、連動するように森の大地も穏やかに呼吸を繰り返した。


「描くと決めたなら、そんなに待たせやしません。きっと満足に描ききった絵を持って来るとお約束いたします」


 悪戯気味に笑って見せれば精霊は意外そうな顔をした後、嬉しそうに笑った。

 もう、この森を遠ざけることも避ける理由もない。私はいつだって此処へやって来ることが出来る。

 それはこの世界が美しいものであったから、私の足を此処に向けさせたのだ。


「私も貴女の創る世界で生きることが出来るのですね」


 湖の精霊は冬の森が良く似合う。

 静かで、慎ましく輝き、時に鋭利である。


「シズリ、ひとつ気になることがあります」

「なんでしょうか?」

「貴女はその世界にいつ頃やって来るのでしょうか? 誰かが貴方を描くのでしょうか」


 それとも自画像でも描くのでしょうか、と尋ねる精霊の問いに首を横に振る。

 レプティシーが自身が創った物語に己を置いたように、私も私が描いた世界で生きたいと思う。精霊はそれを当たり前のように考えていて、至極真面目に、純粋に問うた。


「私が命の終わりを迎える頃に、絵の端に細やかなサインを」


 数多の命の産声を祝うように、夜空の星々は煌めいていた。

 クレヨンの為に用意された黒い画用紙に描く様に、夜空に私の名を書いた。


「それで絵は完成。画家は絵の終わりにサインを書くものですから、そうして私は肉体をこの世界に還し、魂を絵に投影するとします。例え乙女の世界が終わりを迎えようとも、この世界で多くの人に私の描いたものを覚えて貰えたなら、それも一つの世界として確立するのでしょう。……なら、乙女も、私たちも、永遠の命を得たと言えます」

「うん、……なるほど、……なるほど。……彼女は良い筆に出会えましたね」

「乙女の一級品としていられるように、これからも努力し続けなければならない訳ですがね」


 湖の精霊は冷ややかな頬を僅かに高揚させて、安堵した様子で頷いた。

 握ったままのラバルの手の先は、まだ冷たかった。




 季節や場所は変わり、黒曜の毛並みが美しい少年が、深い森の中でぽっかりと開いた空から穏やかな日差しを浴びていた。


「秋は短いんだよ」


 少年は地面に座り、大きな切株に肘を付いて私があげた紙に沢山の絵を描いた。


「どうして?」

「夕方って一日の中で一番短いでしょう? 空は青い時と黒い時が半々でさ。だから、赤色が同じ秋も短いの」

「誰から教わったの? お父さんに?」


 少年はううん、と首を振り私を見上げる。爛々(らんらん)とした力強い瞳が真っ直ぐとこちらを見つめた。


「僕が辿り着いた答え。赤は青と黒よりも短いんだ。春は芽吹いたばかりでよく空が見えるから青で、夏は葉が茂って空が良く見えないから緑。秋は赤、冬は黒」

「冬は白じゃないの?」

「冬は黒だよ。山の葉が落ちた木は黒いから」

「嗚呼、本当だ。……冬は黒だ」


 彼らは乙女の左頬で静かに生きている森の番人。

 少年と私の傍らには随分と痩せ細った大人の馬型の人が座ってこちらを見守っていた。


 冬の山は黒い。

 そうだ、枝が白い雪に映えるのだ。それを寂しく思えもし、一つの季節の休息に安堵できることだろう。

 森の中から見上げた空は黒い枝に覆われているか。山を近くから見ると、案外白よりも黒い木々の方がよく見える。少年は身近な景色をよく観察しているようだった。


「ねえ、貴女は色々な場所を旅して歩いているのでしょう? 外には何があるの? これは何?」


 今までに私が描いた絵を指さす少年に、ひとつひとつ描かれたものを説明する。


「これは琥珀という針葉樹の樹脂が固まって出来た化石であり宝石でもある岩よ。とても大きくてね、中には沢山お花が入っていたよ」

「樹脂ってことは舐めたら甘い?」

「んんっ、ふふ……甘いかもしれないね。でも、これは舐めちゃ駄目。大切に守り続けている人がいるからね」

「そっかあ」


 子供の発想とは純粋で可愛い。

 古の頃よりあるのだ、その甘みは想像以上に深いのかもしれない。

 

「この石の中にあるのはずっとずっと昔に生きていた者たちなんだよ」

「ふぅん……。でもさ、中にいる者たちは死んでるのでしょう? 大地に還ることが出来なかったの?」

「そうだね。でも、朽ちぬ体となって、今も岩の中でこの世界を見ているのかもしれないね」

「ふぅん。それならさ、周りの人がたくさん話掛けてあげなきゃね」

「……そうだねぇ。そうしたら寂しくないね」


 優しい心根の少年の頭を撫でれば嬉しそうに鼻の下を擦った。


「この絵は? この人、羽が生えてるよ」

 

 子供の興味は尽きない。

 少年は他のページに描かれた絵を指さす。

 それは羽の生えた女性と何も持たない男性が楽しげに陽だまりの中でお茶をしている絵だ。


「この女性は翼が生えた人でね、彼女らの種は記憶することが凄く苦手らしいの。大切な友人や恋人ですら忘れてしまうくらい」

「…………それは、寂しいことだね」


 萎むようにして悲しげに背中を丸めた少年が可哀そうで、私は頭を撫で続ける。この子の優しさが心に染み入る。

 

「でもね、この人はどうしてか忘れてしまった大切な人の元に戻ってくるの」

「どうして? 忘れてしまっているのでしょう?」


 空を憎んでやろうと、見当違いの考えをワザと持ちだした私の提案を己の欲望を抑える為にのんだある一人の男がいた。愛しい恋人の華奢(きゃしゃ)な腕を掴み、空に飛び立つことを阻止したいだろうに愛しているからこそ彼女を空に放った優しい人間。


「鳥というのは、此処は安全な場所だと学習すると何度でも帰って来るのだそうだよ。そうして同じ季節に帰って来るんだ」


 きっと彼女もそうなのだろうね。と傍に座る男性は笑った。

 少年はその言葉に、森の鳥の習性を思い出したのか、納得をしたように深く頷く。

 森の中は学びが多いなあ。


 彼女に取り残された男性の元へはこれまでも何度か立ち寄った。

 最近では顔色も少し良くなってきて、痩せ細っていた体も僅かながらマシになっていた。


 ――以前よりも、空は憎くないんだ。


 空を見上げた男性の顔はやはり寂しげであったが、きっと空からやってくる彼女を待つ術を身に着けたのだろう。

 彼女は彼の元にやって来る時、決まって「はじめまして、私の友人」と私が描いた絵を(おもむろ)に取り出して言うのだそうだ。そして続いて「これ、貴方でしょう? だってなんだか貴方の傍って安心できるんだもの。ねぇ、きっとそうなのでしょう?」と言って笑うのだと。寡黙な方の彼が彼女の勢いに押される様子が容易に浮かんだ。

 雨宿りをするように、彼と彼女は暫し穏やかな時間を共に過ごす。そして彼女は「さようなら、私の友人」と別れを言って、再び飛び立っていく。

 これを不幸と呼ぶか、幸せと呼ぶのか。男性は言った。彼女がいない時間は不幸であり、自身がいる場所を安らぎの場所として帰って来てくれることは幸福なことだと。そうして二人が別れたのち、男性は冬支度を始める山の中で、静かにまた来年に彼女がやって来るのを待つ。


 馬型の友人がいる森は、賢者”赤き星”が訪れる場所だから私は個人的な用事でしかその森を訪れない。滅多に訪れない場所だからこそ、私は友人たちに沢山の話を聞かせた。

 友人によく似た彼の息子が絵を描くことに興味を見せた為、教える体で共に風景画を描いたりもした。勿論、”臭いがキツくない画材”を使ってね。

 森の者は世界を広く理解していたが、その全貌を見る為に森を出たりなどしない。この子供は、それをどう捉えるだろうか。


「此処にはよく虹が掛かっていてね、触ることが出来るんだよ」

「虹は温かいの? それとも冷たい?」

「うーん、雨上がりに出来るから冷たいかなあ」

「それなら夏は重宝されるねぇ」

「そうかも。それで、この街は虹の力を使って灯りを灯すの。色とりどりの光に包まれた街はいつも賑やかでさ」


 毎夜カラフルな光るに街の姿に心躍るような気持ちになった。それはなんとも愉快な街だこと。

 少年が描く絵は次第に広がってゆき、一つの地図の様になっていた。


「寝る時くらいは静かに過ごしたいなあ」


 彼の父親、リュウランは紙に広がっていく我が子の発想を可笑しそうに見つめ、腕を組んだ。すると彼の息子は「大丈夫、この森には虹の灯りは届かないから」と言ってぐりぐりと地図に絵を描き続けた。幼い彼には世界がどのような姿をして見えるのだろうか。

 少年の隣に座って地図を覗き込んでいたラバルがちょっかいを出すようにしてカラフルな地図を指さしてあれこれ聞いていた。少年の話は途切れない。私たちが知らない世界の話は、尽きない。

 想像であろうが、他者から聞いた話で在ろうが、言葉を絵に起こすことが出来るようになれば、森の中の世界は果てしなく広いものになるだろう。



 

 季節は巡る。

 私もまた人らしく老いてゆく。


「ねぇ、ラバル」

「うん?」

「自分を縛り付ける者は自分でもあると分かった訳だけど、私の旅に付き合わなくたって良くなったんじゃない?」


 どうやって生きていくのか、何者になりたいのか。その答えが出た今、彼もまた私に依存しなくても良くなった。彼は自由なんだ。

 

「随分と寂しいことを言うね」

「悪い意味じゃなくって」


 ワザとらしく悲しそうな表情を浮かべる彼に、まるで私が酷いことを言った気にさせられた。


「私は好きな場所に行くよ。ラバルだって行きたい場所を選べる。私の姿に故郷を見なくても貴方は貴方でしかいられない。貴方も自由を選べるようになったのよ」

「まあ、依存なるものはしなくて良いと分かったわけだけど……」


 貴女が言いたいことも理解出来る、とラバルは、うんうん、と頷き「でもさ」と続けた。


「約束したじゃあないか。貴女は絵を描いて、私は美味しいものを食べる。そんな旅をしようって。まさか、楽しみにしていたのは私だけだったのだろうか?」


 今度こそ本当に寂しそうな顔を見せた彼に慌てて手を振る。

 そんな、まさか。ただ、私という故郷を見る為のスコープのレンズが曇らない為に、希望を持たせる為の。あの時に話したことは単に私への慰めだったのではないの? 


「私だって楽しみだよ」


 あの日の続きを話すまで、私は達観して彼を見ていたのかもしれない。

 彼は彼の為に私を必要としていて、私自身を認めているのではない、と。その考えがあまりにも愚かで、恥ずかしくなった。小さく狼狽える私に対してラバルは優しげに目を細める。

 

「心配しなくても良いよ。私は相変わらず手紙を運ぶだろうし、貴女と美味しいものも食べる。あとそうだなぁ、貴女がルカに会いに行っている間は故郷でステンドグラスの作り方を教えようかと考えているんだ」


 乙女がいる森に行って以降、私たちの故郷に向かう為の心のハードルは随分と下がったと思う。今では村の人々に名前を覚えられ、好きな時に留まることが出来るようになった。このことは、私たちにとって最大の希望となり、心を休めるひと時となった。

 

「…………それは素敵な考えだね」

「そうだろう? あ〜、やっぱり元の大きさは過ごしやすいよ」


 悪戯気味に笑う彼は人と同じ大きさ。私もどうもその方が安心出来るようであった。以前の彼は小さすぎたのだ。


「うん?」


 ラバルが突飛もなく私の目尻を親指の腹で撫でた。


「此処を赤くするよりも、どうか深い皴を刻めるように生きておくれよ」

「それをレディにお願いするには、些か不躾なのでは?」

「でも貴女はそれも良しと考えるだろう? 素敵だって」


 どうやら彼は私というものを良く理解しているらしい。木が年輪を増やす様に、人の皴もまた深く刻まれゆくもの。私はそれを一等美しいと思う。年老いて死にゆけることは幸せなことだ。そして、死に際に見る顔に刻まれる皴は眉間なのではなくて、目尻にあったのなら、見送る者は看取る時に安心出来ることだろう。幸福な人生を歩んできたのだろう、と。


「……あの時は言えなかったけど、貴女が私に言ってくれた言葉は嬉しかった。……でも、その心の僅かな隙間に、私の為の怒りをねじ込まないでくれ」


 ラバルは優しい。そんな彼だから長い年月を経ても人らしく在れたのだと思う。

 目尻を撫でる彼の手をそっと握り、目を細める。


「友の為に怒らず、他にいつ怒る場面があるっていうの?」

「そりゃあ……、…………いつだろうなあ」


 どんなに言葉を伝えようがこればかりは納得してくれないのだろう。

 平等でいる為に、正しきを見誤らない為に存在するということはあまりにも難しいと分かっているから、個人の為に怒りという感情を心に植えることにラバルは難色を示しているのだ。


「私にとって貴方も大切な一人なんだから、言葉通り"大切"にさせてよ」


 服の内側に縫い付けたポケットに収まる古びた手帳をコートの外側からそっと触れる。

 

 結局、賢者の進言とは在ることを証明することに過ぎないのかもしれない。過去は"こうして"荒んでいった、人は"このように"傷ついた、なんて。勿論、人々は何を見て喜び、何を得て感動したのかも伝えるべき話だ。

 長い時間を生きているだけの私たちには特別な役割などなくて、見聞きして来た光景をそのまま話せば良いのだと思う。そして私たちの話に耳を傾ける者が、過ぎ去った出来事の中から”幸せになれる選択”を見つけてくれれば良いのだ。

 だから私たちは口を閉ざさず、懸命に世界の隅々まで巡らなければならない。

 そうした役割なのだと思う。

 



 私は画家。

 元々は簡単な絵も充分に描けなかった、平凡な人間であった。

 素晴らしい師と出会い、描くことを学び、世界のなんたるかを知った。それでも、私は相変わらず平凡な人間で在り続けるだろう。

 描くことに葛藤し、誰かの死に悲しみ、上手に慰める術さえ分からないまま幾度も自身の絵が嫌になるだろうが、私は画家としていることを選んだ。

 世界の美しい景色を記録し、人々を記録し、また、自身の歴史を記録する。見えないものさえ描ける一風変わった、そんな画家なのだ。


 愛を持って描き、愛を持ってその絵を贈ろう。

 この世界に足跡を残すことが私の選んだ道なのだから。

 

 ねぇ、私たちが知った青はどこまで深いのだろうね。

 頬に落ちた銀色の雪は代わりに泣いてくれるだろうか?



 

 蝶の翅を毛布に見立てようか。

 私は画家だからね、どんなものでも描いてみせよう。

 絵の中ほど自由な場所はない。

 

 私たちのサナギは温かな寝袋にも見えるだろうか。

 柔らかくて温かなそのサナギの中で 乙女の頭を抱えるようにして 一緒に眠りに就くとしよう。

 額にはキスを落として、指先で優しくリズムをとって、随分と遠くで瞬いている星の銀色の音に耳を澄ませるんだ。

 心臓の音をメトロノームにして、どうだろう、少しは安心できないかな。


 サナギが開くとき、目を焼かれるような眩しさに産声をあげて新たな命を悲しみ、喜ぼう。


 月が隠れてしまう夜は手を取り合って、身を寄せよう。

 どうか私たちに明日をみせてください、と願うんだ。


 愛に満たされた絵の中の名前はトコシナエ。

 私たちは空が真下に来るまで歌いながら歩こう。

 花の根の下は光が青色になるほど深い。

 

 いまだ私が描く絵にサインはない。

 乙女が綴る物語にも ピリオドはない。

 それは実に幸福なことだろう。

 


 

 萌ゆる青き葉がその色を潜め、大地の糧とならんばかりに木枯色に成り変わる頃。

 地面に落ちた数多の一つを知らずに踏み、恐る恐る足を持ち上げる。水気を失った葉が割れたガラスのように散り散りになっているのを見て、今年の季節の終わりを目の当たりにした。

 ひとつ、ひとつと流れゆく年月は私との別れを惜しんではくれないだろう。

 嗚呼、腕に抱える乙女の頭がひどく重い。


 延々と呼吸を繰り返す私を誰かは指をさして永遠と言うだろうか。


 時に枝から離れた葉が足にへばりつき進行を妨げるように足止めをしてくるだろう。落ちる葉を見て私たちは引っ掻き傷のような、すぐに治るような小さな傷を負う。

 毎年、毎年、葉をつける木々を見て葉の別れを惜しまないように、何度も産まれくる私のひとつの終わりも次第に軽んじられてゆくのだろうか。


 葉の別れを惜しむは父母であり自分という木の枝先のみ。葉を失った梢が寒さに震え、心許なく積もった雪は音を立てて落ちる。

 

 冬はどこか寂しい。

 色とりどりの葉が落ちた枝を見るのは切ない。


 私もまた枝と別れた葉にすぎない。

 あの日に枝から離れた葉との別れを、今更惜しもう。

 私たちは生まれた日に茂っていた葉の色を知っているだろうか。

 私は死んだあの日の焚火が弾ける音を覚えているだろうか。


 一年前に聞いた蝉の声は覚えているか。

 二年前に聞いた葉が重なり合う音を覚えているか。

 三年前の誕生日に見た夜空の輝きを覚えているか。

 四年前に、五年前に、六年前の一日に見聞きしたことをどれだけ覚えているのか。


 私は描き続けよう。

 今日見上げた空の青さを、明日見る海の青さを。

 覚えの悪い私が生きてきた軌跡を忘れないように。世界は美しいのだと、人々に知らしめる為に。




 山で息絶えて数日、腐敗が進んだ魚は鳥の腹を満たしただろうか。

 それとも鳥は瞼を閉じることができぬ白く濁った魚の目に空の景色を見せてやったのだろうか。

 そして、そして。魚は地に落ち、ひとつの花の種を育てようとし、咲こうとした花は駆ける馬に散らされたのだろうか。

 愛は、愛とは。時に私たちの弱い心を惨めたらしめるが、行く先もわからず彷徨う小さな光に向かうべき先を指す。その先は明るいから怖いことはない。このまま進んで辿り着きなさい、と優しく教えてくれるのだ。

 進み続けて西の赤い星に辿り着くのか、砂に混じるあまりにも小さなガラスの一粒にたどり着くのか。誰かの涙に辿り着き、暫くは留まり、腫れる瞼にキスを落とすのか。サナギが割けるのを待つ私には分からない。


 私たちは明るい方に希望を見る。どうか、どうかと。死を目前として、ひとつの季節で立ち止まる人が見る小さな光と成り得る絵を描こう。

 どうか、どうかと。呼吸を続けるこの大地が寂しがることがないように、愛を、愛だけは、誠実にあり続けよう。


『シズリ』


 愛しい人が私の名前を呼ぶ。


 力が失せた月の欠片で作られたピアスが耳たぶを飾る。

 鼻の奥に草花の香りが抜けてゆき、丘の上で体を攫おうとする風は向こうに見える山まで吹き抜けて行った。

 私はこれまで出会った景色、贈られた物を身につけた時、背筋がよく伸びた。

 大切なピアスを身につけた時、丘の上に立った時、愛用の筆を握った時、自分が誇らしく思えるように、胸を張って大地に立っていられるように懸命に生きようと思った。




「精霊さま、ここに小さいの付けたいんだけどどうしたらいいの?」

「だから、私は精霊じゃないんだよ」


 此処はラバルが作ったステンドグラスが輝く村の集会所。

 友人は人と同等の大きさに戻ってからというもの精霊と見間違えられることがあり、本当に困った表情をするものだから「笑いごとじゃないよ」と言われても、面白くて私はついつい笑ってしまう。

 これが生前の彼のやりたかったことの一つなんだと。

 彼が自分の時間を大切にしている姿を見ていると、私も嬉しい気持ちになった。

 

「ねー、ねー、ここはどーしたらいいのー?」

「あぁ、うぅん……。おー、結構キツキツに詰め込もうとしてるなあ。これは怪我をしたヤギかい?」

「ここにテントウ虫ついてんの」

「あーー、だから赤い点がついているのか」

「点じゃなくてテントウ虫!」


 ラバルによく懐いた村の子が作業を変わった彼に寄り掛かるようにしてくっついた。「こら、危ないぞ」と言ってラバルは子供を優しく立たせ、無邪気な視線を誘うように手元を指差した。


「この位の大きさのものは浮いてくる場合があるから、硝子をピンセットで抑えながら細いハンダを使って付けるんだよ。ん、でも隙間を作ったまま付けようとすると後からひび割れる可能性があるからテープの面はしっかりくっつけて。……あと、あまりピンセットを熱するとそっちにくっついちゃうから……、慎重に、でも素早く、やる」

「んんー……」

「これなら君の黒子くらい小さな玉も作れるだろう?」


 火の気のある道具を遠ざけて、トン、とラバルが体を傾けて子供に肩を軽く当てれば、「んふふ」と子供は楽しげに笑った。

 

「……あとは空気がゆらゆらしている部分を当てて……馴染むようにして。ほら、後は自分でやってごらん」

 

 冬ばかりの村の集会所には、村の人がラバルからステンドグラスの作り方を教わって作ったモビールが吊るされていた。扉が開く時、誰かが通る時、それはくるりくるりと緩やかに回り、鮮やかな光が室内を駆け回る。

 その光景があまりにも眩しくて、私は目を細める。


「あ、そうだ。ルカから貴女宛に手紙を預かっていたんだった」


 子供の手元を見守りながら、ラバルは腰につけている巾着のような鞄から手紙を取り出して私に腕を伸ばす。

 忘れてたな、と思いつつもお礼を言って手紙を受け取れば、どうしてか私宛の手紙なのにラバルは楽しそうな、嬉しそうな表情をしていた。澄ました顔をして、彼は余程の人好きだ。




 時計の針が進む。悲しさも、喜びも、刻みながら。


 森の奥にある地図には虹を灯す街があって、テントウ虫がくっついたヤギは、……それはこの村にいるヤギだったか。

 子供の発想は時に驚きがあり、時に素朴であり、それがまた可愛らしい。


 あぁ、私は次にどんな画材を使って絵を描こうかなあ。

 色が見えぬ風を何色で塗ろうか。

 目に見えぬものを、どうやって見ようとしようか。

 どのようにして私たちの目で見て来たものを伝えようか。


 誰かの大切な人は、どうやって筆を動かして描けば共に生きてくれるだろうか。

 どうやって過去を知り、皮膚の下を巡る血の色を見れば温もりを感じ、息づかいを感じられるだろうか。


 村の子らが作ったステンドグラスのモビールの光がくるりくるりと回るようにして私たちの辺りを駆け回る。

 私たちは、私たちが得たものを惜しみなく未来に授けよう。そうすれば、未来はもっと鮮やかで明るい世界になるはずだから。


 懸命に描けば

 絵は心に報いてその様は美しくなり

 愛に満たされるだろう。



 あとがき


 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!


 私は、この物語を書き始めた当初は”メリー・バッドエンド”もしくは”バッドエンド”を迎えるつもりでした。どんなに人を想って行動したとしても他者の心を救うことは難しくて、自分を肯定することも難しい。そんなままならない気持ちや世界を書きたいと、そう思いながら書きました。

 『絵の中の人々』は少し寝かしていた時期があるのですが、その頃に私自身の心に大きな変化があり、その結果として結末も変わりました。

 この物語は常に死を意識して書いています。それこそ死を迎えれば後はどうにもなりません。残された人もどうすることも出来ません。その虚しさとも言える孤独をどうにかしたいと、私は主人公と共に旅に出ることにしました。

 シズリは極めて自我の強い普通の女性です。悲しく寂しい時間が彼女を消極的にしてしまいましたが、本来は良く見かける様なパワフルなおばあちゃんです。

 世界の正体を知った彼女が乙女を救いたいと一生懸命に考えるようになったのは、彼女が母親だったことが大きいです。近年では母親の愛というものでさえも繊細な話題であることは理解しています。しかし、この物語は男主人公でも良かったのです。そうすれば主人公が秘める心の一端に父親の愛を描いたと思います。

 その反対に、精霊やシズリ以外の賢者は性別も年齢も、色を失うようにして手放してしまいました。結局、私は他者を簡単には救えないと考えながらも、人を想うということを、自身が書く物語の中でさえ否定できませんでした。


 私は自身の中にどんな思想があるかなんてことは語る気はありません。

 ただ、この物語の中では他人との違いは差異であり、鼓動を打つことがない命も人間や他の動物と同等であるということをしつこいくらいに書き続けました。そして物語には沢山の色を登場させるように意識しました。その色たちを美しい過去を思い出す為のスパイスにも使いました。そうすると過去も未来もカラーシートの内容は変わらない筈なのに、歴史を作り、物事を分けて考えようとすると何かしら価値がついてしまうのです。だからこそ、私はこの世界にある全てのものは”等しく価値は無い”と考えています。とはいえ、価値がないものを蔑ろにするのとは違います。何故なら、蔑ろにすることも価値を付け、そうした振る舞いや扱いをして良いと判断した結果の行動となるからです。そして誰もが持っている自分だけの”美しい思い出”もまた価値なんぞつけるべきものではないのです。


 過去の悲惨は仄暗い色で描き、未来の希望は明るい色で描くことはこの物語の中では正しい色使いをしているとはいえません。洋服や靴、建物は姿を変えるけど、人間の姿は変わりません。花も、魚も、大まかな姿からは変わりません。今日、新たに開発されたものも明日には過去になります。未来こそ夢を見させてくれるおとぎ話であり、過去こそ私たちが生きている時間なのだと。だから過去の見たままのものや感じたままのことを伝え、それが残っていくことは”美しい”と私は思っています。どんなに時が経とうとも色だけは変わらないものですから、過去も未来も、世界の生い立ちでさえも、世界にあるのは同じ色です。

「ただ在ることをつまらない人生」と捉えるか、「人生においてただ在ることは難しい」と捉えるかを考えた時に、この物語の世界では後者の「人生においてただ在ることは難しい」を採用しました。それは変化を嫌っているようにも思えますが、そういう意味ではありません。ただ在ることは感情もないような気分にさせられるようなもので、姿形、文化、習慣、色、その全てに付加価値はありません。価値を付けたがる生き物にとって、それがどれほど難しいことなのか、主人公は少しばかり理解できたのかと思います。

 私は主人公である『シズリ』の言動に価値を付けまいと、彼女に様々な困難を与えようと様々な手を考えたものですから。

 最も”人らしい”シズリは自身の身においたり、他者の身になって考えなくては割り切れない性格をしていますが、それで良いのです。世界の均衡を守る為には感情よりも変化を求めず維持することを重視しますが、世界を作っているのは心ですので。だから、シズリと他の賢者を対立軸にあるように分けて描きました。

 そして『絵の中の人々』という世界にとっての"正解”を作らないことで、「こうした方が平和だろう」とか、「こうしなければ不幸はなかったのに」とか、この物語の中で考えられたなら、それこそ『絵の中の人々』にピリオドは打たれないのだと思います。


 今回、オリジナルの小説を書ききることが初めてで、物語を終わらせることの大変さを痛感いたしました。

 物語を物語として捉えるだけではなくて、共感できる心があったり、読者自身が見た美しい光景をこの物語を通して思い出して貰えたりしたなら、私はそういった形でこの物語が誰かの心の中に残ってくれたら幸せです。


 最後となりますが、SNSでのいいねやリツイート、各小説でのいいねや感想、ブックマーク。そしてファンアートを頂いたり、とても楽しく連載を進めることができました!

 私にとって、とても大切で美しい作品である『絵の中の人々』を最後まで読んでくださり、そして大切にしてくださり本当にありがとうございました。心から感謝いたします。


追伸.

 番外編や後日談、外伝なども更新していくので、今後ともよろしくお願いいたします。

 そして最後の最後のお願いとなりますが、いいねやスタンプ、感想やブックマークよろしくお願いします!



2022.12.12 遥々岬

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