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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十二章 再会
62/63

第十一話

2023.4/30 漢数字を修正しました。

2022.12/20 記号による表現を修正いたしました。



 土の表面に乗っかっているだけの雪をブーツの底で踏み歩けば細かなガラスが割れる音がした。ぽっかりと穴が空く様にして靴の裏の形に見えるのは湿った黒い土。

 膝まで長さのある冬仕様のブーツを履くのはいつぶりになるだろうか。息を吐き出す度に白い空気が口からふわふわと浮いて出て空の雲に馴染むように消える。

 途方にもない程に長い時間、近づくことを止めた道を私は忘れることも出来ずにいたらしい。あんなにも忘れたくないと躍起(やっき)になっていたというのに。

 冬の入り口を潜り、徐々に強まる寒さに頬が突っ張った。

 

「寒くないかい?」

「寒いけど、今はこのままでいたいかな。……なんだか懐かしいの」

「……うん、そうだな」


 彼が過ごした冬も同じくらい冷え込んだのだろうか。それとも今の方が寒い? この場で問いかけるには下らない内容に思えて口を閉じる。

 会話に夢中になって口呼吸ばかりしていれば前歯が凍って、肺が冷え始める。そんなのはごめんだ、と鼻の先まで覆える長くて分厚いマフラーに鼻を軽くこすり付けた。

 根雪にもならない時期であろうが、既にこの辺りは酷く寒い。雪が積もってくれていた方が些か暖かっただろう。


 (ようや)く見えて来た村の姿。

 一瞬立ち止まりそうになる足に力を入れて、ゆっくりと私たちは焦がれ続けて来た故郷に向かって再び歩みを進める。

 ラバルは胸が早まるように歩く速度も早まって行った。並んで歩いていた私たちだったが、私は彼の一歩後ろを着いて行く形になった。

 

 村に一歩入ると懐かしさや愛しさ、そして悲しさが心の中で混ざり合った。この感情をなんて呼べば良いのか分からない私たちを哀れに思ったのか、雪になろうとしている小さな雨粒が申し訳程度に冬を演出しようとしていた。

 雪は根雪にならなかっただけで既に何度も降っているのか小さな白い山が建物の直ぐ傍に積まれていた。

 

 真っ白な景色とは突然あらわれる。前ぶりもなく朝起きたら窓の外は一面真っ白になっているのだ。だから、もしかしたら明日にはこの秋の残骸のような景色は真っ白になっているかもしれない。

 暫くの間、休みなさい、眠りなさいと言うように冬は土や木の枝、山や森をも覆いつくしてしまう。厳しい冬、されど優しい冬。どんな穢れすらも隠してしまおうと季節の色を終わらせてくれる。


「にいちゃーん、もう積めないのはどうしたらいいの~?」

「それなら馬小屋の近くの小屋に運んで」

「はーい」


 二人の兄弟が直に訪れる冬の準備をしていたのか暖炉で使うであろう薪を運んでいた。

 黄色とオレンジ色のお揃いのマフラーを付けて、遠目から見ても防寒着に着膨れしている子供はいつだって可愛らしい。

 

 あの辺りは、私たちの家があった場所だろうか。うぅん、良く見えない。

 軒先に鳥よけでも吊るしているのだろうか。幾つもの小さくて丸い光に視界が遮られた。

 

「シズリ?」

 

 目を細めて手の甲で目元を庇うようにしてその光から逃れれて再びその子供の兄の顔を見て、私は一瞬呼吸をすることを忘れた。

 此処に帰って来るまでに、どれ程の時間が過ぎたと思っているのだ……。

 出所が分からない小さな光はクルクルと回り、何度もチカチカと視界を遮ろうとした。しかし、私は元気に動く子供から視線を外せない。

 

 あれは、あまりにも似すぎている。


「どうかしたのかい?」

「…………たまにさ」


 少し先を歩いていたラバルが降り向いて呆然と立ち尽くしている私の元に戻って来た。


「親よりも祖父母の顔にそっくりな子供が生まれることがあるけども、流石に遺伝子が強すぎるってね」


 私の言葉の意味を察したのかラバルはゆっくりと私の視線の先を辿るようにして振り返り見る。


「そっくりなのか?」

「うん」


 くっきりとした力強い眉毛。

 芯の強い黒い髪。

 鼻は太く高く。

 きっとあの子供が笑った時はえくぼが出来るのだろう。


 グラリと傾きそうな体を支えるも足は半歩程下がった。

 ふつふつと腹の奥から乾いた笑いが込み上がりそうになったが、気でも可笑しくしてしまったかと心配を掛けまいと必死に抑える。


「絵を確認しなくても、どうやら私は彼の顔をまだ覚えているみたいね」

 

 雪原を眺めたときのように、少年の顔が眩しくてたまらない。

 馬小屋に向かった弟を追うように体を(ひるがえ)した彼の背中を惜しむようにして瞼を閉じる。


 私の成長を見ていたのなら旦那の顔をラバルは見たことがあるのだろうが、きっと彼は覚えていない。

 あの人のことは私が良く覚えている。今ではもう、私だけしか知らない。

 新調した分厚いコートの裏地に取り付けたポケットには大切な手帳が入っている。私は無意識に、コートの上からその手帳を抑える。

 

「触れられないものを辿るのは心にくるな」


 優しい声と共に目元をグイっと撫でられた。

 涙なんて出ていないのに、目元に触れるなんて可笑しいのね。

 風を(まと)って冷気を防げばよいのに、ラバルはそれをしない。撫でた親指の腹が少しだけ温かったのは私の目元の方が少しだけ冷たかったからだろう。


「…………やっぱり一人では此処に来られなかったと思う。ラバルがいてくれて、本当に良かった」


 震えそうになる声を叱るように喉を締める。こんなことを堪えられず、感傷に浸って泣いていては体中の水分が抜けて干し上がってしまうだろう。

 何故なら、この村はあまり姿を変えていないようであったから。懐かしくて仕方ない。


「お互い様だよ」


 ゆっくりと目を開けると、もう、あの少年の姿はなかった。



 

 すっかり古くなった集会場の重たい扉を開けて中に入れば鮮やかな光が室内を照らしていた。私と旦那が共に居ようと誓い合う姿を照らしてくれていた光。そしてラバルが作ったであろうステンドグラスの光だ。

 夢の中を歩く様に、ゆっくり、ゆっくりとラバルがステンドグラスに歩み寄る。


「結局、私の後に他のデザインの硝子を作ってはめる者はいなかったようだね」

「昔と変わらず大切にされているんだよ」

「……それは嬉しいよ。私が作った物が大切に後世に残されていたことは嬉しいさ。でも、残念でもあるんだ」


 ポツリと呟いただけの言葉だったが彼の言葉は集会場に反響した。

 

「……私は学んだことを村の人にも教えたかったからね。そうしたらこの村の家々にも鮮やかな硝子がはめられて、部屋から漏れる灯りはオレンジ色だけではなくて、様々な色をしていて……、それが雪に反射して綺麗だろうなと思っていた」


 この村には便利な物も目新しい物もない。外部の人が村に訪れる様にする為にはそれなりに珍しいものか綺麗なものがなくてはいけない。何も観光に富んだ場所にしたい訳ではないのだろうが、ラバルはこの村に出来ることを自分なりに考えていたのだと思う。

 村に閉じこもっているだけで生きていけるなら苦労はないのだろうけど。


「この光は何を想って作ったの?」

「様々な色の空を思い描いたよ。快晴、夕焼け、満天の夜空。そして様々な葉の色を思い描いた。夏の力強い緑、秋の赤や黄色、冬の黒い木の枝、春の新緑。それに溶け込むのは人の色。細やかな濃い青は海や川の色。この光を通して色々な景色や季節を見られるように沢山の色を作って組み込んだんだ」


 嗚呼、だから明確なモチーフが見えて来ないのか。

 この色硝子は不思議なもので、見る度にその姿を変えた。はめられた色は変わらないはずなのに、この光を通して見る景色が違うのだ。


 小さい頃は親や兄弟と、親になってからは我が子と、この鮮やかな光が何に見えるか話をしたりしたものだ。


「……なんて、最初は飼っていた犬を作ろうとしたんだったかな」

「犬を飼っていたの?」

「あぁ、頼りになる用心棒だったよ。ヤギのミルクから作ったチーズが好きでさ、冬は寒さに強いっていうのに母に毛糸のセーターを着せられていたよ」

「犬用のセーター?」

「うん。可愛かったなあ」

 

 当時を思い出しているのかラバルはフッと鼻で笑い、照れくさそうに笑いながらこちらを振り向いた。

 用心棒と言うのだから大きな犬種だろうか。

 人が乗ったソリすらも難なく引っ張っていけるほどの大きな犬……、がセーターを着せられているのだとしたらそれはとっても可愛いだろう。


「でも村長に皆の為の場所に取り付けると言われてデザインを改めることにしたんだ。長い時間を掛けてね。それで出来たのがコレだ」


 振り返った彼の表情を見て、私は言葉を失った。漸く彼の人らしい姿を見た気がしたのだ。

 外の風が中に入れろと集会場の扉をガタガタと揺らすも入って来た風はか細かい。小さく溜息を吐けば白い吐息が一瞬にして消えた。

 

「…………ラバル」

「うん?」


 私たちが持つアーモンド色の瞳は光に透けると赤に近づく。

 赤いけど、暗い色。それは樹木のような色にも見えるだろうか。

 濃淡の差があるだろうが、長いこと受け継がれて来た優しい色だ。

 

「仄暗い赤が貴方の目を」


 照らしている。最後まで言えずに声は(しぼ)んだ。

 彼が思い描いた様々な景色や季節が私たちを柔らかく照らしていた。

 

 湿った古い木の床のにおいが、まるでずっと大事にしていた宝箱のにおいに似ていた。


「白に近い風色の髪も、瞳も、まるで貴方が手掛けた色硝子に染められる為にあるキャンバスの白のように見える」


 色を失った彼の全てがステンドグラスの色を受け止めていた。

 ラバルはポカンとした顔で私を見つめた後、恐る恐る自身の目を片手で触れた。


「暗い赤……、貴女に似た色?」

「もう少しだけ明るいかな」

「…………もう少し、明るい。…………そっか」


 私の瞳の色を確認するようにジッとこちらを見つめ、視線を床に落とした。

 

 ラバル。

 貴方が持っていた瞳の色はどんな色だったのだろうか?

 私がその色をこれからも知ることはない。でも、もしも貴方自身がこの色硝子に自身が持っていた色を投影していたというのなら、まさにその赤色は貴方の色に近いのだろう。


 夏、彼の瞳は何色に光っただろうか。

 秋、彼の髪の毛の色は何色に光っただろうか。

 冬と春。彼は何色の光の中で笑って過ごしていたのだろうか。


 きっと今こうして私たちを照らしてくれている色硝子の優しい光と同じくらい、優しい光の中に貴方はいたのだろう。

 

「貴方が貴方らしくある為のことは、既に貴方が自身の為に残していたんだよ」


 私たちが生きて来た軌跡を辿ることは困難だ。

 それなのに、此処に来て見つかるなんてさ。嬉しいね。私は嬉しいよ。


「ラバルが思い描いたような未来の姿とは違うのかもしれないけど」

「うん。……うん」


 陽の光に揺れる色硝子のその揺らめきが、今にも彼が泣いてしまいそうだと思わせた。

 きっと、そんなことはないのだろうけど。

 

 雪解けの水が沢を下り、様々な場所に辿り着く。

 川から海へ、海から空へ。跡形もなく冷たい白色は消えるけど、冬は大きなものを残してゆく。

 

 私たちは自分を見失うことに怯えて過ごした。自分や誰かの痕跡を残そうと必死になっていた。しかし、なんの痕跡もなく消えてしまうことの方が難しいようだ。


「貴女といると不思議なことばかりを見聞きする。……それは時に心臓を酷くかき乱してくれたが、妖精の身になって、これほど人の頃を身近に感じたことはないよ」


 彼は泣かない。

 声がどんなに揺れようが、泣かないだろう。

 こんな所で泣いていては身が持たない。一度泣いてしまえば中々止められそうにないのだ。


「このステンドグラスを通して様々な景色を見るように、風もまた様々な景色を見る。私が風の妖精として再び命を得たことには意味があるように思える」


 ステンドグラスの分厚いガラスが鮮やかな光を何層にも包み込んで、白昼夢を縁取るように微睡(まどろ)んでいた。

 ゾートロープに浮かぶは羽ばたく鳥の姿、草原を駆ける馬。魚は海を泳ぎ、風に花は揺れる。回る回る絵の中で、人の子が駆けていた。

 

「意味を持たない者はいない。それは私たちにも当てはまるんでしょう? 命が続く意味、私たちはそれを見つけた。そうなんだよね?」

「うん、自分の存在を確立する為に怠けてはいけない、だったか」

「うん。何者になるかは自分で決めなければいけないらしい」

「うん、うん。そうだった。……そうだったな」


 ラバル。

 雪の下に芽吹く草花を意味する、春を待つ者。

 白い季節を耐え忍んだ先に訪れるのは、優しい色の季節だ。


 視線をステンドグラスに戻したラバルに(なら)って視線を鮮やかな光に戻す。

 見上げること、眩しいものをみること、私はその意味を知っていた。

 私たちは明るい方向に希望を見て、そして目も焼けぬほどの優しい光に温もりを求める。


「旅の人ですかな」


 ギィ、とドアが軋む音と共にしゃがれた声が聞こえ、私たちは振り向く。入って来たのは年老いた男性だった。


「……綺麗な光が扉の隙間から見えまして、勝手に入ってしまいました。申し訳ありません」

「いいえいいえ、此処は皆の為の場所ですから気にしなくて良いですよ」


 男性は夜空の様な紺色の生地に白色の刺繍が施されたジャケットを着ていた。私はそれだけでこの人がどういった人なのか分かる。


「充分に休ませていただきました」

「もう行かれるのですか?」

「はい。行かねばいけない所がありまして。……村長さん」


 重たそうな瞼の奥の瞳をジッと見つめれば男性は意外そう瞬きを繰り返した。

 

「良く分かりましたね」

「そのジャケットは村長さんだけが着ることが出来るものですよね」


 笑みを作り顔色を(うかが)うように顔を僅かに斜めに下げ、反応を確認するように見上げれば、彼は肯定するように頷いた。


「……忘れていたら失礼ですが、何処かの家のお嬢さんでしたかな?」


 彼は知っているのだろう。

 私が持つアーモンド色の瞳がこの地方一体にしかいない人々の色であると。だからこそ聞いた、この村の人であるかを。

 私は曖昧に首を横に振り、ラバルに目配せをする。もう行こうか、そう意味を込めて。

 流石は村長さんと言うべきか。見ず知らずの旅人を詮索(せんさく)するようなことはしないでいてくれるようだ。


「少しの間、休ませていただきありがとうございました。私たちは、もう行きます」


 「そうですか」と不思議そうに首を傾げる男性を横切り集会所を出る。


 空は青い。快晴だ。




 森の奥に進むにつれて寒さが増す様であった。

 春まで眠る準備をする為に木々は葉を落とし、私たちがそれを踏みながら歩みを進めれば少し沈んだ時に水気が(にじ)んだ。

 ザク、ザクと音を立てて道なき道を進めば、より一層、寒さが増した。


「ねえ、ラバル」

「うん?」


 此処までは無心で歩いていたが、どうにも話をしたくて仕方ない。もしかすると、私は自分では気づかない程に緊張しているのかもしれない。

 私たちはこれから精霊にお会いする。まあ、なんていうか。緊張しない方が凄いだろう。


「甘いものが食べられるから郵便屋になったってさ、嘘だった?」

「……いいや」


 突飛もない話題にラバルはクスリと笑った。


「妖精とは随分と甘いものが好きらしい。森にいた頃は花を(くわ)えて蜜を吸ったり、刺されないことを良いことに蜂の巣からハチミツを取る者もいた。蜂はうるさいんだ。それなのに大勢から文句を言われるなんて、私は嫌だからあまり食べなかったよ」


 ああ、蜂に怒られるのは嫌だなあ。うるさいって、ブブブブってなっているのは翅の音だと思っていたけど、蜂はどんな声をしているのだろうか。

 それにしても妖精は刺されないのか。うぅーん、羨ましい。


「妖精の気持ちが(まさ)っていた頃はあまりにも無邪気だったように感じた。楽しいこと、甘いもの、子供が好きそうなものが魅力的だったよ」


 確かに、どんな物語にも出て来る妖精は無邪気で子供っぽい。

 もしかして、作者は妖精を見たことがあるのだろうか……、なんて。


「人の心なんて早く手放せば楽になったのだろうけど、長い葛藤(かっとう)の渦の中にいたことも今となっては良かったと思えるよ」

「そっか」


 吐き出す白い息が細長く濃くなっていく。

 まだ眠りについていない森の至る所からは小さな音が聞こえた。


 一生懸命木の実を集めているリスは、春になると隠し場所を忘れてしまうらしい。

 寝ぼけたクマが川に足を突っ込んで驚くこともあるとか。


 今はまだ、陽気な季節はお預け。

 一生懸命生きた一年の中で、唯一期限もなく、沢山眠れる冬がやって来る。

 その準備に、辺りの動植物も、山自体も忙しそうだ。


「……前に私たちが報復をしないと決めた話を覚えているかい?」

「うん」

「これから、もっと長い時間を異質な者として生きていくと決めた貴女に言わなきゃいないことがある」


 横を歩いているラバルを見上げるも視線は交わらなかった。

 彼は話にくいことを話そうとするとき、視線を合わせてくれない。いい加減分かるようになったんだよ。


「私たちが報復しない理由はさ、歴史を渡るような……、子々孫々にまで続く恨みの応酬のし合いが起きないで欲しいからなんだ。人間と妖精という種族の(くく)りだけで相手を憎まないように自分を(いまし)めるため」


 本来、人と妖精が共存することは難しい。

 人が持つ欲望というのはこの世界の為になることばかりではないから。


「もし実行するのなら自分にとって大切なものを傷つけた相手だけにすることだ」


 ラバルの声は沈み浮かんでこない。

 

 水の中に投げ入れた石を見失わない様に近くで見張るように。その石を誰かに向けて投げていたら、それだけで沢山の人を巻き込んで、長い間を争うことになるかもしれない。それは実に下らないことだと思うだろう? しかし、それだけで私たちは争うことが”出来てしまう”。

 一つくらい水に投げるくらいならどうってことはないだろう。まして、水が痛いと言わない限りは。では、石は……、石は冷たい場所に投げ入れられて悲しくなるだろうか。

 意思疎通が出来ぬ者に心を通わせるなど無駄なことだろうか? 明日、私は突然話せなくなるかもしれない。目を開けることが難しくなるかもしれない。手足を動かすことも、笑ったり泣いたりすることも出来なくなるかもしれない。そうなったら、私は抵抗が出来ない石と同じになってしまうのだろうか。

 

 鼓動を持っているかは関係なくて、私は何にも思いやれる方が優しさを忘れずにいられると思う。

 だって、傷つけることに戸惑わなくなると、動いていようが、生きていようが、物を言わぬ石と同じに見えてしまうのだろうから。


「私は自身の恨みのけじめをつけることを悪いとは考えていない。泣き寝入りはごめんだからね。いいかい、シズリ。報復しないことは理不尽な暴力を受け止めるってことじゃないよ。私たちが私たちを捕えようとする人間を殺さなかった理由、それは彼が妖精狩りを実行したという証拠がなかったからだ。彼の姿を見た時に酷く腹を立てたのは彼が人間だったから。それは彼を傷つけても良い理由には出来なかった。……結局、自身や相手がやった覚えのないことで争い続けても終結を見失うだけだからね」


 落としどころを見失った争いほど悲惨なことはない。

 止めたくても止める理由がないのだ。理由があるとしたら、双方とも”やられたから”と言うのだろう。

 

「だから、例え貴女の身に起こったことが湖の精霊の意志があったとしても、どうか精霊や妖精を憎まないで欲しい」


 名前に価値を付けて、顔も知らない者を恨み続けることに希望なんてものは見えない。


 私はこの森を憎んでいた時期があった。

 精霊を、銀のサナギを、青い果実を。勿論、勝手に果実を食べたのは私。申し訳ない気持ちになる時だってあった。

 その情緒は荒れ狂う海のように激しく、私という存在を酷く(おとし)めたように思える。

 今は会ったこともない精霊を憎むことは、実に無駄なことだと知った。


「理由も知らずに感情を生まない様に、そうする為に此処へ来たんだよ。たとえ今の状態が精霊の(たわむ)れの所為だったとしても、これまで出会った精霊や妖精……、貴方との関係は変わらない。もしも乙女の意志であったとしても、私の心は日向の中で静かに座るように穏やかに居られると思うよ。今はそう思えるの。だって、私が出会った精霊や妖精は優しい者ばかりだったから。だから私がラバルを嫌いになることなんてない。私たちの仲でしょう? 不安にならないでよ」

「………………あぁ。うん、そうだな。ふ、ふふ」


 指の甲を鼻の先と唇に当てて肩を震わせて笑うラバルの姿に首を傾げる。


「不安にならないで、か。うん。……貴女に関しては心配していなかったよ。ただ、報復をしないと決めた時の話を誰も恨むなと解釈しないで欲しいと改めて伝えたかっただけなんだ」

「分かっているよ。私が大切にしているものを傷つけられた時はちゃんと怒る。大丈夫、ちゃんと理解してる」


 彼は心配しているのだろう。彼の過去の話から私が影響を受けて正しい怒り方を忘れてしまおうとしていないか、と。でもね、お生憎さま。私はそんなに純粋でも聖人でもないの。傷つけられたなら悲しいし、理不尽な目に遭えば怒りが湧く。怒りを抱えないこと、全てを許すことが正しいとは思っていない。だって、怒りだってこの世界に”ある”ものであって、意味のないものではないから。

 大切なものを傷つけられた時、ちゃんと怒らないといけない。ちゃんと分かっているよ。


「言葉は慎重に選ばないといけないね。許せないことに軽んじた言葉を使ってはいけないだろうし。……言葉はいつだって扱い方が難しい」

「真っ直ぐに伝えれば良い訳でもなくて、足りな過ぎても伝わらない。慣れてしまえば斧を使って薪を割る方がよっぽど簡単だ」

「うん。……ふふ、そうだね」


 歩きながら、ラバルの顔を見上げると居心地悪そうに頬を掻いていた。

 私が勘違いしていないと信用してくれているのだろうが、”もしも”のことがある。だから言葉にして伝えてくれたのだろう。その気持ちだけで私は胸いっぱいに嬉しくなった。


「……私さ、月の精霊が言っていた誰かの為に自分を失うことは讃頌(さんしょう)するに値しないって言葉、理解をすることが出来た反面すごく動揺したんだ」


 漸く目があった彼は言葉の意味を探るように僅かに顔を(しか)めた。


「誰かが亡くなれば必ず悲しむ人がいる。でも、誰かを助ける為の行動の全てを私は否定することが出来ないよ」


 関係の深さだけが悲しみの重さなのではない。

 木の上から雛が落ちて地面で死んでいれば悲しい。

 公園の池に魚が浮いているのを見つけてしまえば、やっぱり悲しい。

 その時の感情は、痛かっただろう、寒かっただろう、寂しかっただろう。様々なものがあるだろう。

 私はその見ず知らずの者の為に揺らぐ心はとても大切にしないといけないと思う。


「助けられた者やその周りの人たちは感謝しきれない程の恩を抱くのでしょうが、一方では庇って死んでしまった人が残した人たちは大切な人の死を理解したフリをしなくてはいけなくなるじゃない。命を(なげう)ってでも人を助けたなんて、”あの人はそういう人だったよね”って思っていないと、心が救われないんだよ。……命がある方に”貴方が無事なら良い”、なんてさ。言えやしないよ」


 助けられなかった人も、誰かを助けて死んでしまった人も、悲しむのは死んでしまう人ではなくてその周りの人たちだ。

 誰にも手助けを得られなかった人はその周りにいた人を憎むだろうか。

 誰かを救って死んでしまった人の大切な人は助けられた人を憎むだろうか。

 

 怒りは正しく扱わなくてはいけない。理性を手放して怒りを得てはいけない。

 私は、この先もずっとその感情を見誤ることがないようにしなくてはならない。


「体というのは勝手に動くことがあるけど、ちゃんと止めることも出来る。自分にとってどんな選択が後悔しないかは自分で考えるしかない。……仕返しをした先を想像すれば悲しくなるだろう? 危険な状態にある人を助けなかった先のことや命がけで助けた先のことを考えても悲しくなる。だから自分の気持ちだけは裏切らずにいるしかない。結局、私たちは悲しむことばかりなんだから」


 どれを選んでも悲しいことばかり。

 後悔をしない選択なんて僅かにしかないのだろうか。

 それなら、私たちは大切な人を悲しませるようなことはしないように、そうしなければいけないね。


 ねえ、ラバル。

 貴方は私が妖精という括りで憎しみを抱く可能性を考えたのだろうけど、森の物を無断で取ったのは私の方なのよ。

 私が精霊を憎むなんてね、そんなことはあり得ないことなんだよ。

 言葉にしなきゃ伝わらない。でもさ、きっとこのことは分かってくれているよね。


「シズリ」


 朝の起き掛けに冬の到来に気が付くように、ラバルはハタと前を向いた。新緑が沈む森の水の色をした瞳が向かう視線の先を辿るように、私も森の奥を見つめる。


「見えて来た」


 息がより一層白さを濃くした。

 木々の合間から見えるは開けた場所に在る湖。今日は快晴。枝や葉に太陽の光を遮られることもなくキラキラと輝いていた。

 その中央には人の影があった。私たちよりも何倍も大きな体をした女性の姿をした人物が秋の冷たい湖の中に水浴びをするように立っていた。


「ラバル……」

「この森の……、湖の精霊だ」


 寒い筈なのに、緊張で心臓が早まったせいかじっとりと汗が(にじ)む。

 どうやって声を掛けたら良いのかな。何の前触れもなく話しかけることは失礼にあたらないだろうか。

 

 精霊が大きいからか近くにいるような錯覚すらした。

 ええい、此処まで来て怖気ついてどうする。礼儀作法も知らないのなら、こちらに気付いて貰う為に声を掛けるしか手段は浮かばない。


 精霊に声を掛ける為、恐る恐る息を吸い込めば冷たい空気が肺を痛めつけた。それに躊躇(ちゅうちょ)するように一度口を閉じれば、精霊がゆっくりとこちらを振り返った。


「あ……」


 気づかれた。そう思ってしまった。

 見つかることが”まずい”と思っているような自身の気持ちが少しだけ嫌になった。

 

 氷の様に透明な髪や皮膚、透明と透明が重なり僅かに白くなった瞳。あの精霊が、この森にずっといた精霊。

 父が出会っていたかもしれない精霊さま。

 

 穏やかな波のようにこちらに歩いてくる精霊の大きさはどうしてか変わらない。それは歩みながら体を小さくしていっているようであった。


「よく来てくれましたね」

 

 目の前にやってくる頃には精霊の体は私たちと変わらない大きさになっていた。それに酷く安心してこっそりと胸を撫で下ろす。

 きっと大きいまま目の前に来られたら、私は怯えてしまっていただろう。


「ラバル。久しぶりですね」

「はい」

「元気そうで何よりです」


 ラバルに掛けた声は、冬の快晴の日に頬をひんやりとした細い風が撫でる様な、繊細な声だった。

 冬の細い風は、ついつい追ってしまいそうになる。


「さて、どんなことを知りたくて会いに来てくれたのでしょうか?」

「……あの」


 アスターや月の精霊よりも、人からもっと離れた容姿をした精霊。

 それは美しくもあり、恐ろしい。壮大な清らかなものに抱くは畏怖であった。


「私、は……この森で青い果実を食べてしまいました」

「はい。随分と頑張って奥までやってきましたね」


 僅かに、精霊の言葉に引っ掛かるも私は話を続ける。

 

「……そのせいで何度も死んだり生まれたりを繰り返しているんじゃないかと思って。それは、その……この考え方は間違えているでしょうか」


 湖の精霊は憂いを帯びた様に首をもたげて儚げに笑みを浮かべた。


 遠くにある一つの枝から鳥が飛び立った。

 精霊は下半身を湖に沈めたまま、そこから生まれた小さな小さな小波が遠くの岸を目指して流れゆく。きっと、あの波紋は端まで辿り着けるのだろう。


「シズリ」

 

 精霊に名を呼ばれて、とさり、と胸の中に小さな雪の塊が枝から落ちるような感覚に陥った。

 何もかもを見透かされているような気になって一歩後ずさる。

 ”随分と頑張って奥までやってきましたよね”? それでは、やはり精霊は見ていたのだろう。あの日、あの冬に私が一人でこの森にやって来たことを知っているのだ。


 ハクハクと口を動かすも不格好に空気が抜けていくだけで声にもならなかった。


「顔色が優れませんね……」

「……入ってはいけないと言われた冬の森に立ち入って、あんなにも綺麗な果実を勝手に食べてしまったから、だから怒っているのかと思って」

「わたしが?」


 関節が軋みヒリヒリと痛みを帯びている手で拳を握り締める。

 この精霊の周りは酷く寒い。


「家に帰ったら母親に怒られていたでしょう?」

「……母、ですか?」

「そうです。そして貴女はそれ以降、この森には立ち入っていない。ならばわたしから何かをする必要もないでしょう」


 それじゃあ、精霊自身が私に何かをした訳ではないってことだろうか。

 産まれ直しについては精霊は関係がなくて、果実の方にあるということだろうか。でも、ヒイラギさんはもう一度たべようが直らないと言っていた。


「そもそも森に立ち入るなと決めたのはあなた方ですよ。それはあなた方があなた方の為に(いまし)めたことにしかありません。わたしからは、ただ、あまりにも過ぎたことをすれば今一度棲み分けを(わきま)えるべくして再び対峙(たいじ)することなる、そう言ったまで。そしてこの森の動植物を得たいというのなら、森を守って欲しいとお願いしたのです」

「……それだけ、ですか?」

「人だけが特別に他の者に配慮しなくてはいけない理由はありませんからね。必要以上のものを奪ってはいけないというだけ。貴女の父親は約束を充分に理解をした上で守ってくれていましたよ」


 私が知らない父親の話。

 お父さんが亡くなって随分と年月が経って、最近になってこれまで森で何をしていたのかを知った。


 精霊と共に在った父親、そして父を支えていた母を私は誇らしく思う。

 私の気持ちを伝える手段はもうないのだけど、描いた中で二人が生き続けているのなら何度でも言いたい。二人の元で育って、愛情を与えられて、私は幸せだったと。

 

「それで、貴女はその繰り返しを止めたくて此処へ帰って来たのですか?」


 私が、此処に”帰って来た”と言っても良いのだろうか……?

 

 カラカラと音を立てて落ち葉が転がる。土の上に分厚い秋の葉の絨毯が出来ていた。

 何層にも重なり合う葉は濡れていて、表面より下にある葉や地面は突き刺す様に冷たいだろう。


「繰り返しを止める術があるのですか……?」

「物事を生むとき、その終わりを決めなくてはいけません。青い果実の役目を決めた者が命の繰り返しの仕組みを作ったのならば、その者しか終わり方は知りません。しかしどうでしょう。青い果実の終わり方はこの世界の命の終わりにも影響を及ぼしました」

「何度か死んでも、何度も赤ん坊に産まれ直すのです。私には終わりが見えません」

「はじまりがあるのなら、おわりは必ずあるもの。月の血より新たな命を与えられ、月を失う夜に命は絶えます」


 月の血とは、赤い月のことを言っているのだろう。

 ラバルが生まれた夜。赤い月は様々な死んだ者達に新たな命を与えた。


 月を失う。月がない夜……。

 私たちから隠れるようにして黒い(もや)が月を覆う夜。人々は月のその不思議な姿を見上げる。

 頻繁には見られないが珍しい現象ではない。

 

「月蝕、ですか」

「そう。月は苦痛を取り去り、赤い月は自らの血を数多の残骸に生を分け与える。肉体的に、そして生命に関与する月が消える夜。真っ暗な夜はどんな命も終わらせることが出来るのです」


 何故、月は苦痛を取り除くことが出来るのだろうか。

 何故、月は生き死にを与えることが出来るのか。

 何故、月には精霊が棲んでいるのだろうか。


 何故……。

 

「……月とはなんなのですか? 私たちはどうしてこんなにも月に左右されるのでしょうか」


 ――私とその者の付き合いは実に長い。なんて言ったってレプティシーの愛用だからな。


 月の精霊と私は乙女にとっての愛用。

 精霊はそのことについて教えてはくれなかった。私と月の精霊が間違えてもセットにされるような存在ではないことは確かなはず。そんなこと、考えるのも烏滸(おこ)がましい。

 

「月はテーブルの上を照らす裸電球。乙女はライトが明るい内は筆を持ち物語を空想しました。ではあなた方の様な人間は電気を消した後、どうしますか?」

「…………暗いから、寝ると思います」

「そうですね。……乙女が眠る頃、わたしたちの世界はかつてない程に静まり、そして穏やかで恐ろしい目にあうのです。乙女の意識が届かぬ暗がりの夜こそ、わたしたちは自身の命を自由に出来る」


 では月が存在する今も彼女の世界の電球は光ったり消えたりしているのだろうか。

 私が自分の意志だと思っている行動は、彼女の手中(しゅちゅう)にあることもあるのだろうか?

 

 そんな筈はない。私は私らしくやって来たつもりだ。導き出しそうになる考えを拭うようにブンブンと首を横に振る。

 地に伏せていた時も、誰かの為に在りたいと祈っていた時も、どんな時も私は私でしかなかった。そういうことだったのかと、認識を改めてはいけない。


 私は、私だ。

 

「乙女は今も生きているのですか……? 頭だけになったと聞きましたが」

「乙女は既に息絶えました。しかし、この森の奥で乙女は生きています。もっとも光が届かぬ暗がりの中で」


 乙女は息絶えているが、生きている?

 ……そもそも乙女はどうして死んでしまったのだろうか。どうして、この世界は終焉を迎えることが出来ないままになってしまったのだろうか。


「乙女は銀細工のように美しい花を咲かせ、それにこの世で一番美しい青色の果実を実らせ自身の故郷によく似た場所で静かに在り続けています。そして赤い月の日に死んだ蝶の上に一つの雪が落ちて命を得たのが銀の蝶」


 精霊はラバルを見て小さく微笑む。大して彼は精霊の言葉の意味を考えているのか眉間に皴を寄せて難しそうな顔をしていた。


 私は、乙女を食べてしまったのだろうか。

 その事実に大きなショックを受け、もう中にはないだろうに自身のお腹に手を添える。


「……冬に舞う蝶は喉の渇きを乙女の花から蜜を得ました。そして乙女は思い付いたのでしょうね、独りきりで暗がりにいるのは寂しかったでしょうから。例えば蝶が死んでしまっても、柔らかな(はね)で小さな体を包み、再びサナギとなり羽化をするようにしたら、ずっと一緒にいることができる。そう、考えたのかもしれませんね」

「銀の蝶が乙女の花の蜜を吸った時に彼女はあの植物に役割と意味を与えた……」

 

 とぷん、と鈍い水の音を立てて精霊が地面に上がる。

 精霊の体は濡れている筈なのに、木枯らしの表面は乾いたままだった。


「新たな命が生まれる時、意味が付けられるのです。人とセコイアの葉が一つとなった時、風そのものの様に生きたいと願った者がいたから風の妖精は生まれました」

「そしてそれに続く者は自身も”そういうもの”だと思い込む……」

「そうです。サナギになるは蝶であり、サナギを作るは蝶の翅。雪の様な銀色を授かったサナギは幾度(いくど)も羽化をしては飛ぶための翅で再びサナギとなる。翅も持たぬ多足の柔らかな体は二度と戻らない。蝶は蝶としてしか生きられぬ体になったのです。そのサナギを他者が()こうが、溢れ出る血や臓が形作るはサナギのみ。命を繰り返すことからは逃れられない。それは蝶が蝶であることを自覚し、ひらりひらりと舞う雪の姿を思い描いたから銀の蝶は冬にも舞い続けられる。……産まれ直しの意味を授かった植物に実る果実を食べた貴女もまた、蝶の生を(なぞら)える他なし」

 

 暴れる心臓によって体が揺れるのか、それとも寒いからか、怖いからか……。分からなかった。


「花や果実は話さず、蝶も話さず。どちらも無口なもので話したことがありません。だから、私は未だこの世界の結末を知らずにいます」


 月蝕とは、頻繁(ひんぱん)に起こるものではないが一年に何度も起こり得る現象。

 それでは、私はいつだって自分の命を終わらせることが出来たということ。なのに、死にたいなんて泣いて苦しんで、それでも見苦しく足掻いていたというのか。


 眩暈(めまい)に襲われる様に二,三歩後ろによろけるとラバルが慌てたように私の背中を支えた。

 霜が降りた森の土がサクサクと音を立てた。空を仰ぎ、両手で顔を覆えば少しだけ楽になった。


「辛いですか?」

「辛いです。……辛いけど、今知れて良かったんだと思います」


 ギリ、と奥歯を噛みしめて、拳を握り締めて顔から手を退かして仰ぐようにして見上げた空の青さといったら、何て憎たらしいことか。


「生きるも自由、死ぬも自由。選択の方法を知って目的は果たされたのでしょうか?」


 今、私は酷い顔をしているだろう。

 そんな簡単なことだったのかという気持ちと、早くに知っていれば私はこの場にいなかっただろうという恐怖心。

 ままならない。心とは、本当に、ままならないものだ。

 

「……あともう一つだけあります。もう一度、乙女の姿を見たいのです」

「人の身で何度も産まれ直すなんて随分と苦労したでしょうに、貴女はもう一度乙女に会いたいと言うのですね。……良いでしょう。では共に参りましょう」

「あと……、あと、乙女のことを知りたいです。この世界の人じゃないけど、この世界そのものである人のことを知りたいです。月の精霊に私は彼女の筆だと言われました。私は私だけど、……もっと、もっと彼女のことを知りたいです」


 懇願(こんがん)するように一歩あゆみ出てお願いをすれば精霊はにこり、と笑って頷いた。


「歩きながらお話しましょう」


 そういって音もなく歩き出した精霊の後ろをグルグルと気持ち悪くなりそうな胃を擦りながら着いて行く。

 卒倒するかと思った。私の尋常じゃない取り乱し方を察したのか後ろを歩いているラバルが私の左手を黙って握ってくれていた。

 彼の手は、私の涙を掬える程の大きな手を持っていないと言っていたけど、すっかり私の手よりも大きくなっていた。 


「彼女は”冬ばかりの土地”に生まれました。争いは彼女を貧困に(おとしい)れ、希望を奪おうとした。仄暗い中で生きていると思考もまた暗がりに慣れてゆくもので、貧しいながらも彼女は一つの物語を考えました。それは誰にも理解されなくても良かったお話。ただ、愛する人の手で冬の森に凍てつかぬ湖にその身を沈め、極めて細い糸を水に解くように体を溶かして消える、そんな最期を夢見たのです。バッドエンドのような祝福を与えられた結末。それは突然殺された彼女にとっては救いのある死だった」

「突然殺された……?」

「…………貧困は人々を狂暴化させました。月も見えぬ暗い冬の夜、一人の男が家の物を奪おうと押し入り、彼女とその家族を殺してしまったのです。彼女が描いていた物語はまだ終わっていないのに」


 か細い指先が頬や髪を撫でる様に酷く冷たい風が私たちを通り抜けて行った。

 私はなんだか悲しくなって、マフラーに顔を埋め、ギュッと握りしめる。


 未完成のまま死んでしまうとは、きっと無念だっただろうなぁ。


 乙女の話を聞いていると、自身の苦難が少しだけ和らいで思えた。

 人の不幸話を聞いて落ち着きを取り戻すなんて、私は酷い奴だ。

 

「未練とは形がないだけで残ることが出来るものらしく、彼女の意識は死しても尚その体に宿りました。……冬に死んだ彼女の体は固く凍り、何年も何十年も、何百年も自室に転がることになっても、彼女の意識は生き続けているのです」


 彼女の住む世界に精霊はいないのだろうか……。

 冬を生き抜くために、人と色々な種族が助け合うことは出来なかったのだろうか。

 

 私たちは助け合って生きて来た。

 深い冬の中にある故郷も、村の外からの助けを得ることがあった。

 乙女の世界ではそれすらも難しかったのだろうか。


「辺りの家にも人はいなくなり、雪は積もるだけ積もったある日のことです。大きな雪崩が彼女たちの村を襲いました。雪崩の雪は彼女たちの家にも押し入り、あっと言う間に村があった場所を何もない場所の様に飲み込んでしまったのです。家に雪が流れ込んで来る時、彼女の体はベッドの足に強く打ち付けられ、その衝撃で体と頭が離れてしまいました。そしてそのまま、また何百年と経ったある日、彼女たちが埋まっていることも知らずに外からやって来た人々は埋まった村の上に新たな村を作りました。……そして彼女の体がある世界は何度も、何度も同じことを繰り返し続けているのです」

「今も、ですか」

「そう、今も尚。土に還ることが出来ない者たちが何層にもなって、雪の狭間で眠ったまま」


 精霊が歩いた道は僅かに濡れて、落ち葉を色濃くしていた。漸くそれが精霊の足跡の様に見えた。

 

「彼女の名前はレプティシー・フラウン。人の数がどの生物よりも少ない頃から彼女は存在していました。そして人々は冬の寒さの中に生息する人間に冬の名前であるフラウンと名付けたのです」


 フラウンとは物語に出て来る冬の精霊の名前だ。

 まさか冬そのものの名前だったとは考えもしなかった。


「レプティシーは作り手の呼称。では、彼女は冬を作る者の名を授かったということでしょうか? それは一体……」

「フラウンは乙女が生きる世界で呼ばれる名。雪に覆われた地域に住む人間に名付けた種族名の様なものです。……そうですね、乙女と呼ぶ他に彼女の呼称があるとするならば、愛の精霊と言えば分かるでしょうか」

「愛の精霊……といえば愛に不誠実な者を忌み嫌うといわれている精霊のことですか?」


 精霊が可笑しそうに、ふふ、と笑ったものだから、私は首を傾げてしまう。

 

「そうです。……彼女はただの一人と手を取り合う様な豊かな恋も、ただ一人に向けたり、向けられたりする豊かな愛も知らないまま死んでしまったが故に、愛に対しての純粋さが際立って強い。だから”愛の精霊”は誠実さに欠ける者を許しません」


 恋を知らずに死んでしまった乙女。

 この世界には沢山の愛が溢れている。彼女は人の痛みを理解することが出来る優しい人だったのだろう。

 きっと、誰かを愛する彼女は沢山の幸せを得られたはずだ。


 それなのに、雪の下に埋まったままだなんて……。


「シズリ。あなたはこの森の名前をすっかり忘れてしまったのでしょうか」

「え?」


 少しだけ歩みを緩めた精霊の声は悲しげであった。


「ラバルは覚えているようですね」

「私はこの子よりも長くこの森の裏側にいましたから、覚えていられたのは意識していた時間がとても長いせいでしょう。……シズリ、よく思い出してごらん。きっとお母さんやお父さんに教わった筈だよ。そして貴女自身も子供に教えたはず」


 後ろを振り返ればラバルが優しげに笑っていた。


「だって、あの村の子供はこの森の名前を知っている筈だからね」


 月の精霊にその名を聞いてからずっと引っ掛かっていた。

 どうにも耳触りが良いのだ。


「此処はレプティシーの森」


 歌うように紡がれた言葉の音がなんて美しいことか。


「乙女の名前が付けられた森。レプティシーは乙女の名前。レプティシーには作り手の意味が。レプティシーは永遠に在り続けるもの」

「乙女の森、作り手の森……。どちらの意味があるのでしょうか……」

「レプティシー、本来の意味は(とこ)しなえ。永久に不変であるという意味があります。……これが彼女が両親から授かった名前の由来です」


 レプティシー。

 永久に不変。

 作り手。

 その言葉は連想することが出来るかもしれないが、意味は掠りもしない。

 

 一つのものに幾つもの意味があるなんて、なんだか花言葉みたいだと思った。


「名前に幾つもの意味があるのですか?」

「そうですよ。名前とは様々な感情が与えられて音となるものです。あなたの名前も、ラバルの名前も、一つだけの意味のみならず沢山の愛情が含まれていることでしょう。はじめに与えられる愛情は名付けられた時に、そして生きた分だけ他者から様々な愛情が与えられ続ける。勿論、誰かの手によって創造されるものにも沢山の愛情は与えられていて、その愛は永久的に存在することを願われているのです」


 ぴたりと歩くのを止めて後ろを着いて歩いていた私たちに道を譲るように精霊は横に一歩よけた。


「冬に死んだ彼女は唯一の楽園であった物語の中に自ら閉じこもることにしました。自分の名前を忘れないように、彼女の故郷の風景、匂いを全てこの森の最奥にあるこの洞窟に仕舞いこんだのです。春になれば花は芽吹き山は笑うでしょう。しかし此処は深くて長い冬を耐え忍ぶ土地。愛らしい蝶は冬の間、彼女が寂しくない様に寄り添い続けています。世界は乙女の姿をしているのに、残念ながら彼女の顔を知る者はいません。……僅かに未熟な淑女の安らかな頭部は左頬を下にするように転がっており、瞼を閉じ続ける彼女は夢を見続ける。彼女は白い世界と、淡く色づいた景色しか見たことがありません。……知りたいのでしょうね。彼女は、レプティシーは故郷の白い景色に彩りを求めて、己が見たことのない世界の姿を今も思い描き続けています」


 白い雪原を何も描かれていない紙に見立てたのだとして、私はそれを色づけることが出来るのだろうか。

 彼女が求めている世界の情景や色を描くことが出来るのだろうか。


 若くして死んでしまった彼女を哀れに思った。

 しかも体は朽ちることもなく雪の下にあり続けるなど、どうにかして掘り起こして暖めてやりたい。それは叶わないのだけども……。


「精霊さま。私は、私を置いて死にゆく人をずっと覚えていようと心に決めました。私のことを覚えていてくれると言った人もいます。沢山の人と出会いなさいと言った人もいました。それが凄く嬉しくて、幸せで……、自ら死ぬものではないと思ったのです。一は全の為に、全は一の為に。……画家として生きたい私は誰かの一となりたい」


 こちらを振り向いた湖の精霊は悲しそうに微笑んだ。


「悲しい話を聞いて乙女を想わずにはいられません。……精霊さま、精霊さまが知っている乙女のお話をもっと聞かせてください。私の命がある限り彼女のことを覚えていますから。この世界の人と同じように、彼女が生きていたこと、生きていることを忘れません。私は乙女を一とし、皆に願うのと同じように彼女に寄り添いたいです」


 彼女が生き続けることは簡単なことであった。

 テオが私に言い聞かせたのと同じで、多くの人の心にその名前と存在を覚えていて貰うこと。それが生き続ける術だ。


「怖くはありませんか?」


 ゆっくりと、されどしっかりと頷いて見せる。


 なんて……、決意を決めた顔をしているけど本当は少しだけ怖い。

 だけどこの先に”居る”乙女の姿を再び見られることは、私の心を高揚させた。


「私はこの世界で生き続ける為に、この世界の核心を確かめにきました。……長い長い遠回りをした挙句に導き出した希望に誘われる様に、乙女の何たるかを知りたいと、この故郷(・・)に帰って来たのです」



 臆することなかれ。

 乙女は創造した世界に危害を加えることはなし。

 乙女はただ、世界を一途に愛すのみである。




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