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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十二章 再会
61/63

第十話

2023.4/30 漢数字を修正しました。

2022.12/20 一部修正いたしました。



「シズリ……――!」


 ルカさんの青ざめた顔と彼が必死に叫んだ私の名前が遠ざかる。

 (くう)を切った手は簡単に解ける風だけを掴んで、体は地上に向かって落下した。


 落ちゆく中で見えるのは岬の天辺まで私たちの足元を灯してくれていた小さな花。それがまるで火球のように通り過ぎては消えた。

 体に掛かる負荷は大きなもので、口を開けていれば顎が外れてしまいそうなほど痛み、私は堪えるようにグッと口を閉ざす。


 このまま地上にぶつかれば確実に死んでしまう。

 ……いや、この体が壊れてまた赤ん坊に戻るだけか。


 ――ほんとうに? 本当に産まれ直しが出来るのだろうか。

 散りぢりになった肉片はどうやってサナギを作るというのだろうか。

 知らない。そんな死に方は知らない。


 ワンテンポ遅れて、置かれた状況に気が付いた心臓はドクンッと大きく跳ねた。


「……ぁ」


 落ちゆく景色の中で、これまで得た経験を小花が作る火球の群生の中に見た。

 

 一緒に焚火を囲んだ友と交わした再会の約束はまだ果たされていない。いやだ、約束を守れない人になんてなりたくない。

 

 デイジーが愛しげに赤ん坊を抱いている姿が見える。あれは、私だ。

 姉とたまに喧嘩なんてして、テオの膝の上で色づいていくキャンバスを見ていた。あの愛しい日々が通り過ぎていく。


「いやだ……っ」

 

 クルクルと回るトンビの鳴き声が遠ざかり、視線の端で光が消える度にこの体で得た経験が、思い出が、燃えて灰となっていくようであった。

 このまま地面にぶつかり潰れてしまっても、またいつもと変わらず産まれ直すのかもしれない。でも、成長とは時間が掛かる。


 嫌だ。

 必死に手を伸ばそうにも何も掴めそうにない。

 私は特別ではない。羽化も出来ないサナギは(はね)さえ持っていない。


 投げ出された体を守る術など持っていない、ただの非力な人間だ。


「いやだ…………!」

 

 同じ視線に立ち、同じ時間を生きて来た人たちと築いたものが一瞬で消えてしまう。

 そんなのは嫌だ。

 私は”この体”で故郷に行きたい……!


 遠い光の一つの中で、収穫もされずに放置されていたイチジクの実が音を立てて地面に落ちて潰れたのを見て、喉が窮屈(きゅうくつ)そうな音を鳴らした。

 

「ラバル……!!」


 恐怖に襲われて友の名前を必死に叫ぶと鈴からラバルが出てきたが私の体は彼を置き去りにして落下し続ける。

 溢れる涙が空に取り残されていた。


 この体は、もう、駄目になってしまうの?

 

「シズリ!」


 遠ざかって行ったラバルが必死に私に辿り着こうとしていた。小さな体には摩擦(まさつ)を受けるようにバチバチと火花が散っていた。

 

 小さな手が私を必死に掴もうと伸ばされ、私もその手を握ろうと必死に手を伸ばす。


 ラバルの手が私の右手の中指を掴んだ時、彼の体が燃えるようなオレンジ色に光ったのと同時に強い力で手首を掴まれてグイッと引っ張られた。


「大丈夫だ――」

 

 眩しい光は温かな何かにすっぽりと体を包まれて見えなくなる。

 後頭部と背中に回された温かなものが、まるで人の手のように感じた。


 耳元で聞こえたのは、よく聞き慣れたラバルの声であった。


「……っう」


 一瞬襲った浮遊感に胃がひっくり返りそうになる。

 私たちは木の葉が地面に付く前に空気抵抗を受けるように一回転し、擦るようにして地面に到達した。


 閉じていた目を恐る恐る開ければ私は誰かに庇われるように抱きしめられていた。

 背中を痛めた、なんて軽いもので済むはずはない。力強く後頭部に回っている手から逃れる様にして私を抱きしめている人の顔を見て、心底驚いた。


「……ラバル、なの?」

「い、……てて」


 いてて、で済むものではないだろう。

 私は慌てて起き上がってその人の無事を確かめる。


 その人の顔を見て、私は小さな友の名前をもう一度呼ぼうとしたがうまく音にすることが出来なかった。


「無事かい?」


 恐る恐る指の先でその人の頬を撫でると大きな手が私の手を握った。

 あたたかい。

 その瞬間、大粒の涙がみっともなく溢れ出して彼の顔にいくつか落ちた。


「こんなことでは死なないから、泣くんじゃない。私に掛かれば風に乗っかるなんて朝飯前さ。だから、どうか泣かないでくれ……」


 握られた手を自身の額に思い切り押し当てる。


 死んだと思った。

 死んだと思った。

 

 ――ラバルも死んでしまうと思った!


「泣くよ、ばかあ!」

「う!」


 動揺からか、安堵からか、思わず作った拳を彼の胸に振り下ろす。

 (うめ)くような声にハッとして慌てて謝れば「平気、平気……」とラバルはぐったりとした。

 嗚呼、庇ってくれたのになんてことをしてしまったんだ! 自分の行いに後悔しつつも無事でいられたことの喜びに、地面に倒れている彼の今しがた殴ってしまった胸に頬を当てる。


 不思議だ。

 小さな体の頃の彼の心音などあまりにも細やかで聞こえなかったのに、今はちゃんと聞こえる。

 彼の胸に耳を当てて、一定のリズムを刻む心音を聞くことが出来る。

 

 どうして体が大きくなったの? とか、どうして私たちは助かったの? とか、そんなことは今はどうでも良くって、友人と私、二人が揃って生きていたことが嬉しかった。


「無事であったか」


 声がする方を見れば緩やかな川に映る月が揺らめき、精霊がその川の水の中から出てきた。

 ラバルは勢いよく上半身を起こして私を庇うように肩を抱いた。


「そう警戒するな。もう驚かせるようなことはしない」

「いいえ、それは出来そうにもありません。貴方のしたことは度が過ぎる」

 

 すぅ、と目を細める精霊の視線に緊張が走り、私を抱きかかえるラバルの手にも力が入る。

 月の精霊の登場に緊張が走り無意識に握りしめていた手にジワリと汗がにじんだ。


「敵意はない。確かめたかっただけなのだ」

「何を……」

「今、我の目の前にいる貴様が彼女の求める人物であるかを、だ」

 

 彼女とは誰なのか。

 精霊の言いたいことが分からないと意思表示をする為に首を横に一,二回ゆっくりと振れば精霊はそれも承知していると言いたげに頷いた。


「貴様が乙女の意志であるなら、彼女が救うと思った」

「乙女は……。乙女は何もしていません。私はラバルに助けられたのです」

「乙女は自身の力で我らに干渉は出来ぬ」


 精霊は憂うように小さく溜息を吐いて川の流れに揺れる月の姿を見つめる。

 先程から精霊は何を言っているのだろうか。この世界は乙女の頭部の様な形をしているが、その言い方ではまるで乙女自身が生きているとでも言っているようではないか。


「私は貴方がたを敬う気持ちはありますが信仰する気持ちはありません。名前を与えられた者は皆、平等です」


 乙女信仰や精霊信仰が全くない訳ではない。

 しかしその信仰を率先して否定していたのは精霊たちだ。


「土地に序列を作るべからず。貧富に序列を作るべからず。命に序列を作るべからず」


 そうですよね? と精霊を見つめれば目を伏せてゆっくりと頷いた。


「この世界には強き者も弱き者も存在しない。誰もが強い、そして弱い。誰かを庇って命を失うことは賛美されることに値せず。されど心とは時に命を投げ打つことも(いと)わないと言いたげに体を支配する。その行為に価値などあってはならない。誰もが何かの掛け替えのないものだからな。……例えば、独りきりで生きて来た者が小さな花を鉢に入れて育てていたとして、その者がいなくなれば花は悲しみ、水を与えてくれる者もいなくなり枯れゆくだろう。たかが物言わぬ花と思う者がいるかもしれぬ。しかしそれこそが命に価値をつけていると言っているのだ。命は平等。短命だろうが、身動きが出来ようが出来まいが、温め合える体温があろうがなかろうが同じ重さを持っている。故に、貴様を庇った妖精の行動を讃頌(さんしょう)することもない」

「別に讃頌して欲しいなど思っていません。ただ、この子が死ぬのは嫌だっただけです」

「それで貴様が死ねば、その子は友を失うことになるだろう。仮に、他にも友がいるから問題ないと思うか? 我はそれを是としないと言っているのだ」


 見上げている精霊の後ろで悲しげに星が流れた。

 

「そもそも信仰心など求めていない。慰めや助けが欲しいのなら我らよりも貴様らの方がよほど理解しているだろうからな」


 精霊は優しい。

 そして、私からしたら正しい考えを持っている。


 精霊の言う通り庇ってくれたラバルの行為に感謝をする一方で、私は彼を失ったかもしれないという恐怖に襲われた。

 彼を失った時、一つ得たこの世の未練が、一つ失われることになっただろう。ならば私は自身の消失を受け入れた方が良い。落ちている間はあんなにも死ぬのは嫌だと思っていたのに、友に庇われて生き永らえることはあまりにも酷だ。

 だから、私を庇った彼の行動を良しとしない精霊の言葉に酷く安堵した。

 

「では乙女の意志とはなんなのですか。……干渉できぬ者の名を出すということはそれなりの理由があるのですよね? 精霊さまの仰る話はどれも不思議なことばかりですが、”存在しないもの”を都合よく口にするとは思えません」

「その通り。我らは真実のみしか話さぬ。故に、乙女の意志は存在すると言えよう」

「それが分からないのです。乙女とは、この大地の形をそう呼んでいるだけですよね。その言い方では、まるで乙女が……」


 まるで乙女が生きていると言っているように聞こえる。

 最後まで言い切ることは出来なかった。口に出すことすら恐ろしいと思ったから。


 精霊が真実しか話さないことは知っている。精霊とは”そういう者”だから。嘘を付けない訳ではないのだろうが、嘘を吐く理由もない方々だ。

 だからこそ、この話は晦渋(かいじゅう)で理解が出来なかった。

 

「何故、貴様ら妖精を六枚羽と呼ぶか知っているか?」

「……いいえ」


 小さな妖精は六枚の羽を持っていると言われている。

 どうして曖昧な言い方になっているのかと言うと、ラバルもそうだが、実際の彼らの背中には羽がないからだ。風の妖精は一枚の小鳥の羽を背中に背負っており、風に乗る時はその羽を持って飛ぶ。

 しかし羽が生えていなくても妖精は別称で六枚羽と呼ばれていた。

 そして生前の心を完全に失った時、その羽は抜け落ち完全体になるとラバルから聞いた。だから彼は六枚羽のままでいたいと、そう願っていた。


 どうしてその話を今するのだろうか。

 

「では、辛夷の花は好きか」

「…………はい」


 また関係がなさそうな話が出てきて、眉を(ひそ)めつつも何か繋がりがあるのだろうと自分を納得させた上で頷いて見せれば、月の精霊は下げていた視線をこちらに向けた。

 

「乙女もまた深い冬の中で生きていた。辛夷の花は寒い地方にとっては一番に春を告げる花。彼女もその花が好きだった」

 

 まるで乙女を懐かしむように話す精霊の目元は先程よりも和らげに見えた。


「名の由来は幼子の手のように愛らしい小ぶりの姿から来ていると言われている。それは知っているな?」

「はい」

「妖精とはあまりにも小さな姿をしているだろう。彼女は妖精を生み出すにあたり、見慣れている花の柔らかな花弁を羽に見立てることにした。辛夷の花弁は大抵が六枚。だから小さき妖精は六枚羽と呼ばれているのだ。……羽の消失が自我の消滅なのではない」

「しかし現に心を失った者はいました。私はそういう者を見たのです」


 ラバルは少しだけ口調を強めた。

 

 彼が生きた時代はあまりにも厳しいものだったと、私は思う。

 人のみならず沢山の命が淡々と生まれては消えていく。彼が見てきた時代は多くの悲しみが充満としていたことだろう。

 

「射って落された星の屑より生まれた妖精だっただろうか……。うぅん、誰が言い始めたのだったか。元より感情もない者から生まれた妖精も、他と融合(ゆうごう)して生まれた妖精も、時間が経てば妖精らしくなっていくとな。”そういうもの”というのはひょんなことから生まれる。妖精とてひょんなことが重なり生まれるのだ。だから、その考えは確証がなくとも、いつしかこの世界の常識として浸透していった」

「……しかし、私は確かに自我が薄れゆく感覚を覚えています。それは思い込みによるものではありません」

「世界の大半が”そういうもの”だと認識すれば物事はその通りに進もうとする。人の心を失わない様に抗い続けることはあまりにも苦痛では無かったか?」


 ギリリ、と奥歯を噛む音が、彼が過ごした時間が如何(いか)ほどに残酷であったかを示していた。


「貴様は運が良い。筆の名を与えられた者が同郷であり、しかもその本人が貴様が人らしくあることを望んだ。だから貴様は大勢が生み出したこの世界の常識に抗うことが出来たのだ。そして、その者の現在の姿を乙女は手放しはしないと一つの常識を覆すことにした。……貴様にその機会を与えたのは、そうすることで悪戯娘が救われると乙女が判断したからだ」

「私が人の頃の姿に戻ったことは彼女がそう願ったからと言うのですか」

「それは違う。貴様が己を”妖精とはこういうものだ”という枠組みから外したから成り得たのだ。乙女はその機会を与えたに過ぎん。元来、貴様らが小さな姿に収まることになったのは多くの妖精の認識が影響しているのであり、貴様自身の認識のせいだ。結局、人らしく在りたいと願うのは本人次第であり、人らしさを手放してしまいたいと願うのも本人次第。貴様は自らの手で落ちゆくその娘の手を掴みたいと、本来の体を取り戻したいと強く思ったのではないか? ……人とは特に気難しくもあり能天気、そしてその心は打たれ弱い。悲しみに耐えるのが苦手な生き物だ。人らしさが残ることは苦痛なのだろう。その姿は貴様がそれらの苦痛を押し退けた、ただそれだけのことだ」


 そんな夢物語の様な話など、到底信じられるものではなかった。


「そうだな、他に例えてみよう。私が月より降りて来るのでは無くて、川に映る月から浮き出て来たことも大勢の認識がそれを可能にさせた」

「……どんな認識があるのでしょうか」

「水面に映る月の姿を見て、時にそれを本物と同等に見る者がいる。それはいつしか詩になり、歌になり、物語に登場することもしばしば。いつしか水面に映る月は風情の一つとして存在することになった。空に浮かぶ月は時に眩しがられるが水面に映る月の灯りは穏やかで優しいのだと。だから水に浮かぶ月もまた本物の月であり、月の精霊である我はその月にすら存在することが出来る」

 

 確かに、大勢の認識が作る道の地盤の固さといったら、正しさや間違いなど関係ないと思う程に強度である。正しき目を持つ者が黄色だと教えても、多くの者が緑色だと言えばそれは緑色になってしまう。正しさなど数の多さに比べるとちっぽけなものだ。

 そうやって時代だって景色を変えて来た。私たちは沢山の足で大地を踏み歩き、そして道を築き上げてきた。その道がそもそも間違いだなんて言われたって受け入れることは容易くない。


 現にラバルは人の心を失いたくないと私に懇願(こんがん)した。彼の心を支配しようとするセコイアの葉に必死に抵抗をしていた。

 私はその姿を的外れな勘違いなんて思えない。

 たとえ、これこそが認識の一つだと言われても、あの時のラバルの気持ちを捨て置くなんて出来はしない。

 認識から外れることで変化出来ることを教えられたところで簡単に納得が出来ないから、私たちは時に苦しんできた。

 その苦しみを否定することもまた苦痛なのだ。

 

「物語を紡ぐ者にとって月は手元を照らす灯りであり、筆は夢を描き続ける為の道具である。だから、筆の名を得た貴様はこの世界に出来上がった仕組みを覆す程の力を持っている」


 そんな都合の良い力を私が持っているわけがない。

 そもそも命は平等だと言ったのは精霊だ。私はただの人でしかない。人らしい、一人の人間だ。

 月の光のように痛みを取り除く力もない、心傷ついている者の傍に上手に寄り添えない、そんな私が世界の仕組みを覆す力を持っているなどあり得る訳がないじゃないか。


 精霊の言葉に、私は初めて嫌悪した。

 

「では、私が望めばその通りになると言うのですか」

「否定することは出来ぬが、我はほぼ不可能だと思っている。行き過ぎた欲求は均衡(きんこう)を容易く壊す。言うたであろう。大勢が抱く一色の認識とは非常に大きな力を持っていると。……レプティシーを失った我らは彼女の意志の下にこの世界を守っている。だから我らのような変化を妨げる者がいるのだ。例えば、力を欲したが故に巨体を得たとしても辻褄(つじつま)を合わせなくてはいけなくなる。怪物を生もうとすれば、生まれるまでの過程が必要となるのだ。お伽噺(おとぎばなし)に出て来る魔法石のような物で呼び寄せようとしても、その石がどのように生まれたかの過程が必要だ。また、召喚する為の術式に辿り着くまでにも過程がある。この世界にないものを(ぜろ)から生み出す為には多くの時間が必要となるだろう。到底、この顔ぶれが揃っている時に形作られるものではないだろうが、不可能なことではない」


 それでは私が望んでも手に入れられるものなど、殆どないだろう。


 海を愛する人々に人魚の姿を見せることも。

 薔薇の花を散らす風から守る術を得ることも。

 短命の友の命を永らえることも。

 空を愛する者の記憶を取り戻すことも。

 

 ”そうなったらいいな”って思う未来を得ようとした時には、既に尊い人たちはこの世にはいないだろう。それでは意味がない。では、私は何を望むというのだろうか。

 

「だがな、欲のままに創造した異質な者の末路とは孤独なものだ。だから命を創ることは禁忌であり、新たな物事を(つづ)る為にはそれ相応の根拠と時間が必要となる」


 異質な者。

 私は図星を突かれるような気持ちになった。


 一つの異質なものを創れたとしても独りぼっちでは生きていけない。私は孤独がいかに恐ろしいかを知っている。そんな悲しい命を生み出すための大それた理由なんて思いつかなかった。


「……人とは執念深い。どうしても得たいものが出来た時、独りきりになるのを恐れなくなる。その時が来たら、貴様が望むモノが生まれるのかもしれぬがな」


 自分に都合の良いことで世界の仕組みを変えようと思い立った時、欲望を得たと同時に生まれる不幸を想えなくなれば、私はどんなものも生み出すことが出来るというのだろうか。

 賢者や精霊は人の生き方から逸れた者を人成らざる者と呼んでいた。それは肉体的なことを言っていたのだと思うが、それならば人の心を失くし誰も想えなくなった者はなんて呼ばれるのだろうか。

 この先、相も変わらず生き続けた挙句に誰かの痛みも想えなくなったとしたら、それは”私”なのだろうか。


 今だけはそんな未来はないと信じたい。

 私は誰かの為に絵を描き続けて、自分の為に絵を描き続ける。

 その絵は喋りもしないし体温もないが、ぎゅっと抱きしめたくなるような優しい絵をしているのだ。

 

「…………そもそもレプティシーとは一体何なのです」


 先程から疑問に思っていた名前。

 私はその名前を知らない。

 

「レプティシー……、我らの愛しい人であり唯一の存在。彼女こそこの世界の全てを創った」


 私と視線を合わせない精霊の言葉に小さく息を飲む。


 だって、その言い方では……。

 この世界が紛いものだと言っているようではないか――。


 肩を抱いていたラバルの手が力抜けるようにスルリと滑り落ちた。


「レプティシー、それは生まれた時に彼女が与えられた名前。そして我らは世界を紡ぐものを総じてレプティシーと呼ぶ。我らが住まう世界を外の世界から創造し、干渉できる人々のことだ」


 目の前がグルグルと回転でもしてしまいそうな気分になった。

 精霊が言うことが本当であるなら、乙女とは元々生きていたことになる。しかしこの世界は乙女の頭部のみ。


「我々は哀れだ。……愛しの乙女は横たわったまま、二度と起きることはないのだから」

 

 川の流れる音が嫌に大きく聞こえる。

 いつもは虫が歌っている時間であるのに辺りは沈黙が続いていた。


「これだけは覚えておくがよい。長さが違う布を縫い合わせた時、はみ出した一方の先には何もない。また別の布を縫い合わせれば良いのだろうが縫い合わせた一つのものは歪になっていくだろう。布の分厚さも、縫い目の幅も違えばいずれ何処かしら(ほころ)ぶ。この大地も、空も、海も力強く存在し続けていてくれはするものの酷く(もろ)い。……無理やりに異物をねじ込めば均衡(きんこう)は壊れ、彼女の均等性も失われていくだろう。そしてそれは(すなわ)ち、この世界の崩壊を意味する。頭部しかない乙女がこの世界を失えば、二度と同じような世界は現れない。彼女は今も最下層の雪の中にいるのだからな。……忘れてくれるな。貴様の在り方次第では世界が壊れることもあり得るということを」


 私が望めば世界は姿を変え、時として世界を壊してしまうなんて……。

 

「私は変化を望みません」


 瞼をぎゅっと閉じて首を横に振り、ゆっくりと立ち上がる。

 見上げた精霊の背面には大きな月の姿が。

 あまりにも壮美であるその姿を前にして、怖気づきそうになる自分を鼓舞する。

 

「私が望むは孤独を感じている者に対する無力の救済です。それは大層な願いではありませんし、私だけではなく皆が持つ力です」

「無力の救済とな?」

「私は人間です。ですから、人間のやり方でやっていくしか出来ません。私が持っている水の残りが少なくても渇きに天を仰げずにいる花がいれば水をやり、私が治療を必要として、怪我を負った野良犬を見つければ包帯を巻いて手当てをします。凍える人がその肩を自身の手で擦ることも出来ないのであれば私がその肩を抱き寄せて体温をわけます。例え、私の体温が奪われようともです」


 正直、乙女が実際に生きていた人だったと言われてもピンとこない。

 私が乙女の道具、筆であるというのも理解が出来ない。だって、私が筆を名乗ったのはこの体になってからだから。

 私はそれ以前から生き死にを繰り返して来た。それなら、この道理はどう説明してくれるというのか。

 

 望めば得られる可能性があるなんて、そんなものもやはり理解が出来ない。

 私は多くを望まない。以前は自身の死を望んだが、この世界に対する自身の深い愛に気が付いてしまった。死ぬにはまだ惜しい。だから、私は与えられる死を迎えるまで世界を見たいと夢を抱いたのだ。私にとっては大きな夢であるが、他の者にとっては大それたものでもないだろう。

 

 リゥランの顔が(かす)んで消えた。森を出ないと決断した友の顔だ。

 

 ……考えを少し改めよう。

 何者にとっても大それていないなんてことはないが、投げ打つものがない者は他よりも些か自由である……。

 私たちは色々な物事を捨て置く覚悟が出来ないだけで、大義名分がなければ世界を歩くなんてものは他の者も望めば得られる夢だ。

 

「大切な人を失い泣いて過ごす人が一枚の絵を求めるのなら、私は絵を描きます。他者の悲しみに触れることで心がすり減ろうとも、私は画家ですから。…………私は乙女の物語を(つづ)る筆とは違う。私は画家の筆。そして精霊さまがおっしゃる通りならば、皆と同様、乙女が創った物語の中にいる力を持たない一人の住人なのでしょう」


 私はちっぽけな画家だ。

 憧れを抱いた一人の画家の足元にも及ばない、まだまだ駆け出しの画家。

 されど、私は多くの人の慰めとなる絵を描きたいと夢を見る。


「乙女が私に世界の何たるかを託すなら私は好きにさせて貰います。私は世界中を旅したいのです。此処が彼女の思い描いた物語の中だというのなら、私は彼女の目となって世界の隅々までを見ます。もう、死にたいなんて願いません」


 何度も星々に願ったのだから精霊さまは知っているだろう。

 私が何度も、何度も命の終わりを願っていたことを。ならば、今ここで私は撤回しよう。私は”少しだけ”変わったのだ。

 

 私の願いは至ってシンプル。手に入らないものを求めはしない。

 失われていく者の儚さに涙を流したとしても、誰かの命の終わりを奪うことも願わない。命は終わりがあるべきだ。

 

「貴様らは賢くないが愚か者ではない。決められた物事の枠組みから飛び出ることが出来ると知ったならば、己ができる選択の広さに戸惑いはしないか?」

「正直戸惑っています。でも、この先でもっと私がどういう存在なのか、この世界がどういった世界なのかを知ったところで生き方は変わりません。此処にいる私は”駆け出し”の画家ってだけです」


 月の精霊の切れ長の目が僅かに見開いた。


「精霊さま。どうかこれだけは覚えていてください。私は私の思い出があるから今も辛夷が大好きなんです。精霊さまからしたら私という人物は乙女が考えたものなのかもしれないけど、彼女が私の心を私以上に知り得るはずがありません」

 

 精霊も少しだけ気を張っていたのか、今度は憂いを帯びた溜息では無くて安堵するようにゆっくりと息を吐いた。


「分かった、覚えておこう。……貴様は(おもむ)くままにゆくが良い」




 月の精霊が手を上げると岬の天辺から静かに梯子が下りて来て、精霊がその梯子の一段に乗ると吸い寄せられる様に上昇していった。

 私は精霊の脇に抱えられるようにして運ばれていると坂道を走るルカさんの姿を発見した。間に合わないと知りながらも私の元に駆けつけてくれようとしていたのだろう。

 精霊は彼を私と同じように回収し、あっと言う間に岬の天辺まで登っていった。

 

 ……これを便利な力だと思わずしてなんだと言うのだろう。

 数日掛けて登って来た道のりを思い出してドッと疲れが押し寄せた。


「うっ」


 抱えられて浮いていた足が地面につくとルカさんにつぶされるかと思う程の強い力で抱きしめられた。


「……無事か? どこか痛むところは?」

「なんともないですよ」


 私が助かったのはラバルのおかげなのだが、それを伝えることは無かった。


 ――上に戻るなら私は鈴の中に戻るよ。

 ――どうして?

 ――好きな人の傍に異性がついていたんだと知ったら複雑な思いをするだろう? 時に恋心は心臓を燃やし灰にしてしまうらしいからね。


 まさかラバルからそんな言葉を聞くとは思わず何度か瞬きをする。


 ――まあ、恋も知らぬ内に死んだ私が言うには大袈裟かもしれないけど。あの子の気を揉ませるようなことは止めておこう。


 あの子、か。

 ラバルからしたら私もルカさんも子供のようなものなのだろうか。


「…………精霊さま、流石に先程のことはやりすぎです」

「ルカさん」


 声を震わせるルカさんの名前を呼べば更に腕の力がこもった。


「必死になっても、何も出来ないことほど辛いことはないと言ったじゃありませんか。この人は私の友人です。……ぞんざいに扱えば貴方でも許せそうにない」

「それは悪いことをしたな……。しかし喜べ、ルカよ」


 彼の腕の中で少し藻掻(もが)いて顔を肩口に出せばすぐ傍に月の精霊が立っていた。

 精霊は優しく微笑み、ルカさんの頭をポンと撫でた。


「悪戯娘は己の存在を私に知らしめた。証明されたのだ。我はこの者を賢者として認知しよう」


 精霊の言葉にルカさんの腕がピクリと動き、ゆっくりと体が離れた。

 両肩は掴まれたままだが漸く見れたルカさんの顔は今にも泣いてしまいそう顔をしていた。


「じゃあ、シズリは賢者になれるのか?」

「そのようです」


 安心して欲しくて笑って見せれば彼はクシャリと顔を歪ませ、凍えるように呼吸を震わせた。

 乙女の鼻先は寒い。空が近いからだろうか。

 次第に彼の鼻の先は、まるで寒さに当たっているかのようにじんわりと赤に染まった。

 

「………………ありがとう。これまでのルカも喜ぶよ」


 流れはしなかったが、彼の目元に溜まった涙がキラリと光った。

 泣くまいと堪えているのだと思う。

 彼は友人のルカさんでは無くて、守り人のルカとして礼を述べたのだろう。

 

 これまでのルカ。賢者の在り方とは精霊とその他の命の間に入る者だった。

 何故、彼がこれほどまでに感極まっているのか、私は分からない。


「命とは生まれた瞬間からして余命幾許(いくば)もない。俺の命なんてこれから迎えるだろう膨大な未来にすれば一時の繋ぎでしかないだろう。……いつの日か、ルカがこの大地から絶える日を迎えようが、賢者がいてくれるなら痛みに耐える人の慰めは途絶えない。俺は今、心底安心しているよ」


 グラリとひっくり返りそうになる視界に足を踏ん張って耐えるとベルトループにつけている鈴が小さく鳴った。

 

 私は酷く動揺した。命とは平等であり、価値すらも乙女からすれば全てが平等。抜き出る命などない。その通りなのだが……。

 忘れていた訳ではない。命というものの在り方を理解していると言った口で、彼は違うと思っているなんて、そんなことは無かった筈なのだ。

 彼はルカを覚えていてくれる者が現れたことに心底安堵した。

 命が受け継がれていくことは難しい。物事が受け継がれることも難しい。

 例えルカが途絶える未来があったとしても、賢者(わたし)がいれば月の精霊と人々の繋がりは失われない。尽きぬ命を得た者はルカの意志を守り、新たなルカの再来を待つだろう。


「………………わたしは」


 震える手で鈴をギュと握る。怯える心が大きく脈を打つようにし震えていた。

 もう片方の手は空を掬うように仰いで首筋に手のひらを当てる。誓いを立てた時と同じ動作だ。でも、今の心持ちは先程の比にならない程に緊張していた。


 理解していた筈だった。

 ただ、死にきれないだけで私の命も必ず終わる時が訪れる。私は不老不死ではないから。

 彼がいずれ死ぬことも分かっていた。守り人であるが、彼は至って普通の人間だから。

 そんなこと、残酷なまでに理解していた筈なのに。


「この命が続く限り、ルカ《月に梯子を掛ける者》を見守ると約束します」


 他の口上なんてものは思いつかない。私は短い約束ごとを言葉にすることに精一杯だった。

 

 誰だって死ぬのはこわい。

 誰だって残されることも、残すことも寂しい。

 

 彼は、ルカが絶えるかもしれない未来に怯えていたのだ。


 見守るとは、直ぐに救いの手を差し伸べられる距離にいることをいう。

 私はこの先、目の前の彼がいなくなってしまったとしても、彼が守ろうとしているルカを見守り続けよう。


 私たちは何の痕跡も残らないことが怖い。

 泥の道を歩けば足跡が残って欲しい。

 水の中を歩けば濁って欲しい。

 

 私という人間は誰かを大切に想い、誰かに大切に想われていたと知っていて欲しい。

 

 与えられた三日間の猶予(ゆうよ)で私はもっと、もっと深い部分まで考えるべきであった。そして焦らすようなことはせずに直ぐに返事をしてやれば良かった。彼らにとって異質な者との出会いなんて手放したくないものであったはずだ。

 しかし、彼は私が断ればきっとそれを受け入れてくれただろう。

 ルカさんはそういう人だから。


 しかし結果として、私たちが過ごした時間は妥当だったのだと思う。

 何故なら、私は私のことで精一杯で、彼が与えてくれた時間があったから何の(わだかま)りもなく此処に立っていられるのだ。

 人生に近道はない。これは誰が言った言葉だっただろうか。

 

 ルカの名を何者かに授けた後の未来を想って安堵する彼の姿が目に焼き付いた。


「貴様とルカの相性はなんとも絶妙だな。まどろっこしささえ感じる」


 私たちのやり取りを見ていた精霊が微妙な顔をしてポツリと呟いた。


「悪戯娘よ。我は今しがた理解したぞ」


 片目を細め、やれやれと言った様子にフンと鼻を鳴らす精霊のその表情の意図が分からない。


「……貴様が他者の為の筆になると言葉にした時、乙女もまた貴様に一筋の希望を見た。己の両手が動かなくともこの世界は動き続けるとな。そしてこの世界で生きる者の幸せを願いたくなったのだ。我は何故この人間に期待したのかと疑問に思っていたのだが」

「私が筆を名乗った理由なんてそんな大それたものではないですよ。ただ、この世に溢れる画家の道具の一つであり、画家にとっては特別な一つで在りたいと思ったからそう名乗ったのです」

「創造された世界を一番に愛しているのは作り手(レプティシー)である。貴様も己が描いてきた絵を一番に愛しているのは貴様自身だと思っているだろう? その絵を描く為には筆は必要。勿論、文字を書く者にとっても筆……、ペンは必要だ。乙女は再び握るペンを欲していた。故に、乙女が貴様に目を付ける理由なんてその名前以外あるとは思えぬ」


 胸元を指さされて服の裏ポケットに入れている手帳を服の上から抑える。


 そうだ。

 死んでしまった人ばかりの絵になってしまったけども、この手帳に描いている人たちは私の中で生き続けている。この人たちを忘れない為に、この人たちが生き続ける為に描いた。

 この手帳の中で生きている人々、絵の中の人々をこの世界で一番愛しているのは”私”だ。

 

 ――筆は画期的です。字を書けるし絵も描ける。筆がこの世に無ければ私たち人類は今も指を使っていたかもしれない。そうなれば指の先の皮はあっという間に剥けて石のように固くなっていたでしょうね。あぁ、枝を使うという手もありますけど、まあそれも不便でしょうね。道端のあちらこちらの地面には誰かのメモが残っているのかな。精密な絵は描けないだろうなあ。


 ルカさんに筆と名乗った時に言った方便。

 トランプのジョーカーは言った。描く為の指を落ちてしまったなら、再び筆を握る為にその指を拾えば良いと。指を拾うことは簡単であるが難しいことでもあると。

 指が無くなっても手の平がある、足がある、口がある。

 描く為の腕を失くした時、私は描く為の手段を必死に探す筈だ。

 

 乙女にとって、私は落とした指……。いいや、落としたペンだったのかもしれない。

 ペンを拾うことは無くした体のパーツを拾うことよりも遥かに簡単なことだ。

 私に役割を与えることは彼女の身に起こっていることよりも簡単なことだったのだろう。

 

「そして貴様は乙女が望むがままに世界の景色を欲している。その真心は足跡ひとつない雪原のようにあまりにも綺麗なもの。乙女にとっては逸材だったというわけだ」

 

 妖精のこれまでの在り方を覆すように、人と同じ大きさに戻ったラバルを思い出して鈴を握っている手に力をこめる。

 私やラバルの生死などこの世界にとってはちっぽけなものだったはず。だけど、この世界を守る一つの方法として私たちを助けたというのなら、それはどれ程の愛情があったのだろうか。

 

 作った物語を終わらせたくないなど、まるで”ただの少女”のようではないか……。

 

 彼女は、私が手帳に描いた絵の中の人々を愛し続けているのと似た様な気持ちで、私たちを見守っていたのだろうか。




「な、なにがあったんですか」


 月の光の収穫作業があるルカさんを置いて一人で屋敷に戻ると、帰りを待っていたような様子でクトゥラトゥさんが出迎えてくれた。屋敷を出た時よりもボロボロの姿になっている私を見るとギョッと驚愕し、ツカツカと早足で目の前までやって来て優しく腕を掴んだ。

 

「ちょっと試されと言いますか、なんて言いますか」

「そんなボロボロになるような試練があるなんて聞いたことがありません。基本、精霊は優しいですから」


 私があはは、と笑えば彼女の眉間にグッと力が入った。


「ルカさんは?」

「ルカさんは月の光の収穫があるそうで、私だけが戻ってきました」


 月の光の収穫は三日間かけて行う。

 いらない心労を掛けたからと言って彼の帰りは精霊が地上に送り届けてくれると言っていた。私もそうして送り届けて貰ったのだが、登る時に掛けた時間を考えると今更ながら疲れを思い出した。きっとルカさんも深い溜息でも吐くだろうな。

 

「……そうですか」


 彼の仕事を理解している彼女だからこそ、開きかけた口を堪えて絞り出すような声で納得したような言葉を呟いた。

 文句の一つでも言ってやりたい、そんな表情を隠さずに私の腕を握り続けている彼女の優しさが嬉しかった。


「何笑ってるんですか」

「え、あ……、ホッとして」

「………………それで、どうだったんですか」


 ヘラヘラ笑っている私をジトっと見たあと、腕を引いてゆっくりと歩き始めた。私はそれに大人しくついていく。


「賢者になれました」


 私を腕を引く手がピクリと動いたが、彼女は振り向かなかった。

 

 引かれるようにして辿り着いた部屋は彼女が与えられた部屋だろう。

 なぜ分かるかというと、部屋の机には楽器が入っているだろうケースが置かれていたから。部屋の中は甘くて、でも爽やかな香りが充満していた。


「こちら側にようこそ」


 振り向いた彼女の顔は、ルカさんと同じようなものだった。

 複雑そうでもあり、安心しているような、そんな表情。


 ”こちら側”、か。


 多くを言うつもりはないらしい彼女はそのまま口を閉ざした。

 私のこれからを想って深刻そうな顔をしているのだろうか。


 ――貴女はひとつを忘れる度に傷つくんでしょうね。


 ……きっと、誰よりも永らえる私を想ってくれているのだろう。


「これ、あげます」


 差し出された手から受け取ったのは小さな銀色の笛。


「むしゃくしゃした時にでも吹いてください」

「何か寄ってきたりします?」

「さあ……、幸運でもやってくるかもしれませんね」


 ちいさな笛をそっと握りしめて笑みを彼女に向ければジトっとした目を向けられた。

 きっと照れ隠しなのだろう。


「末永く、どうぞ宜しくお願いします」


 私よりもこの世界を見て来ただろう彼女に(おごそ)かに頭を下げる。


「こちらこそ、ひとつよしなに」


 

 自室に戻り、まずはラバルの手当てをした。

 背中に包帯を巻き終えると彼は早々に鈴の中に戻ってしまった。

 

「はぁ……」


 一気に色々なことが分かったなぁ。

 ベッドに投げ出した体は暫く動かすことは出来ないだろう。天井を見つめながら再び命を得たこれまでの日々を思い出した。

 

 私は故郷の森を目指す。

 知らなくてはいけないことがあると信じて止まないから。


 ルカさんとは既にお別れを済ませて来た。

 死なない確証があるから、見送りはいらないと断ったのだ。そもそも友達の見送りを理由に投げ出せるような仕事ではないのだけどね。


 ポケットに手を入れるとドングリの帽子よりも小さな石が入っていた。

 それをギュッと握ると僅かに温かかった。


 これは力を持たない月の屑。

 

 ルカさんが初めて月に登った時に貰ったあまりにも小さな欠片なのだと。

 少しでも癒しの力が秘められていたのなら手元に置くことは許されなかっただろうが、少し温かいだけ、少し光っているだけの役に立たないものだったから、彼はそれを貰った。

 そして、この光を私と再会した時に渡すと決めていたのだと、彼は言っていた。


 全く、可愛いことを考えてくれる……。


 ――本当はピアスやペンダントトップに加工しようかと思ったんだけど、貴女は耳に穴が空いていなかったし既に胸元には思い入れのあるものがあるみたいだから……。手を加えなくて良かったよ。


 そうは言いながらも彼は寂しげな顔をしていた。


 ――それなら、帰って来た時に貴方が私の耳に穴を開けてください。身に着けていた方が失くさないでしょう? ……イチジクの約束もまだ果たしていないけど、もう一つ約束です。

 ――お、俺が開けるのか?

 ――はい。体に穴を開けるなんて初めてですし自分でするのは怖いので、お願いします。


 ギョッとして顔を青ざめたり、かと思えば頬を少し染めていたり、彼の表情は実に豊かであった。

 

 乙女の鼻先で行われたやりとりを思い出していると、思わずフ、と小さな笑みが零れる。

 きっと大丈夫。私は彼との約束を果たすことが叶うだろう。そうでなければ、月の精霊が話していたことは殆どが与太話だったということになる。

 精霊とは正しいことしか話さないのではなくて、話せない。

 

 深呼吸ひとつ、溜息ひとつ。

 不安がないという訳ではない。ただ、大きな不安であったことが一つ解消されたことで酷く安堵していた。

 ルカさんと出会ってから見える景色が変わったな……。

 

 手の中の温かさに、星々の温もりを重ねた。

 ヒイラギさんが星を射抜く精霊を己の一番星と言っていた。

 貰ったのは月の欠片だが、これは私にとっての一番星。彼は……、ルカさんは私の一番星だ。


「夕暮れのオレンジ色に、一番星の(さや)かな光かぁ。……寂しくなる時間には彼を思い出してしまうね」


 返事をするように鈴の中に留まっているラバルが鈴の玉を転がす。

 落下する私を受け止めた結果怪我を負っていたのはラバルの方だった。きっと鈴の中で彼は月の精霊が詫びにとくれた月の光に癒されていることだろう。

 

 ――リリィ、ン。

 

 沢山のことを思い出していると外からマツムシの鳴く声が聞こえると漸く気が付いた。

 

 明日、私たちは再び旅立つ。

 これからを生きる為に、心から求めていた故郷に帰るのだ。




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