第九話
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2022.12/20 一部修正いたしました
「ルカさんは何度もこの岬を登っているのですね」
沈黙を貫き、僅かに上がる息に規則性を持たせることによって長く歩き続けられるようにしていたが、振り返ると町が一望できるくらいの高さになって来たので漸く閉ざした口を開いてみた。
「そうだよ」
「想像していたよりも大変ですね」
「うん、大変だ」
平坦な道を歩き続けることには慣れているが、傾斜のある道を登り続けることは大変であった。
膝というよりも太ももの正面の筋肉が固まり痛みを感じる。
「体の重心を前にして。そうしたら少しは負担が軽くなるはずだから」
「はい」
休憩を挟んでいる時間はあまりない。
月の光の命は短いのだと。収穫の時期を逃せば再び実る頃まで待たなくてはいけない。痛みに苦しむ人は一刻もその痛みを取り除きたいと思っているだろう。だから彼は歩みを止めない。一歩、一歩と確実に進み続ける。
「少し休もうか? 今回は早めに家を出ているし大丈夫だよ」
「……まだ大丈夫です」
「そう」
私の方をちらりと振り向いたルカさんは苦笑いを浮かべていた。
ルカ《月に梯子を掛ける者》は人々の為は遥かに高い岬を登る。
彼が慣れたとはいえ足の裏の皮は誰よりも厚く、膝が受けている負担は年々蓄積いていることだろう。
「この道、昔は父さんと登ったんだ」
「はい」
「あぁ、相槌はいいよ。疲れてしまうだろ」
少し前を歩く彼の背中を見つめる。
父親に連れられていた頃の彼もまた、頼れる人の背中を見つめて歩き続けたのだろうか。
「その時に色々な人の話を聞いたよ。……病に伏せる者、怪我を負った者、心が疲れてしまった者。人だけのみならず、獣も魚も、植物さえも月の光は痛みを取り除いてくれるって」
足元を照らしているのはスズランの様な小ぶりの花。
街灯のように垂れさがる花弁の中心から仄かに黄色を帯びた光がぼんやりと輝いていた。
「たまに人の為だけに月の光は使うべきだと異を唱える人がいる。でも、命は平等だ」
彼の背中から視線を下ろして地面を見つめて気づく、視線を上げて登った方が疲れにくいと。
もう一度上げた視線の先の彼もまた、真っ直ぐと前を向いていた。
「ガリガリに痩せこけて路地裏の奥で伏せている野良犬と温かな家の中で家族に囲まれて献身的に看病をされている小さな子供を目の前にしても、俺たちは平等でいなくてはいけない。命に優劣をつけないというのは、そういうことを言うのだと教わった。薬にもならならない一つの季節しか生きられない小さな植物と何十年と生きて様々変化をもたらす人間を天秤にかけようが一方に傾くことはない。俺たちは助けを求められた順番に月の光を渡すだけ」
「出会った順番すら呪う者がいたら?」
「それも致し方ないよ。ただ、苦しんだままの者が少しでも減れば良いなと思うからルカは月の光の収穫を逃さない。……とは言っても、ルカがいるからといって世界が救われる訳ではないんだよ。クトゥラトゥが言っていたように、元々受ける労力や痛みを得るだけなんだ。ただそれのことですら人が独占するなんて、あまりにも残念だ」
「人間が、人よりも他を優先にし続けることは可能なのでしょうか」
少しだけ後ろを振り返る。
私たちの視線の高さは町よりを良く見渡せるようになっていた。
光が密集している所が人が多く生息している場所。
それ以外の場所は他の者が多く生息している場所。
こうして見下ろすと、暗い場所の方が多く見えるものだ。
「可能とか不可能とかじゃないんだよ。精霊からの恩恵を無にするか、約束を守ることで最期の苦痛を取り除くことが出来るかどうか。迷うまでも無く、俺たちは恩恵は受けていたいだろう? だって、痛みの中で瞼を落とすことは、とても怖いと感じるはずだから。少しでも苦痛から逃れたいと思う者がいるなら、人を優先にするなんて考えてはいけないことなんだ」
それではあまりにも酷だ。他者の気持ちや感情を考えることにいずれ疲れきってしまいそうではないか。
相手の気持ちをある程度読み取れる力を持つことは己の自衛にも繋がると彼に言ったが、そんな次元の話ではない。人を思いやることはあまりにも大きすぎる重荷だ。
「…………私が、少しでも人を気遣えたら良いと言ったことはあまりにも短絡的なものでしたね」
小さく上がる息は一人分。
彼はまだ呼吸を乱してはいなかった。
「どうかな。人の過去に干渉することは月の光を配る時に心の妨げになるかもしれないけど、誰かを思いやれずに守り人にはなれないと思うよ」
誰かの為になりたいと初めて願った時、私たちは誰かを想う気持ちを持っていることに気が付く。
そして、なんの目標もなしに痛みに苦しむ人に寄り添うことはあまりにも難しいだろう。
医療も、癒しも、実際に痛みを知らずとも、苦しむ者の恐怖や痛みを想像出来がなくては改良の余地がない。
私たち人間が様々なものを生み出せるのは、考える力が他の者よりもより発達したからだ。
「あの日、シズリの言葉は実感も無く、そんなものなのか、としか思えなかった。でも、相手にも心があって、そんな相手との距離というものがあると気づくきっかけになったのが、あの日の会話だったんだ。近すぎても駄目だし、遠すぎてもいけない。それは守り人になるにあたって必要な思考だと思うんだ。そして、このことは俺が月に梯子を掛けられなくなる日まで考え続けなくてはいけないことなんだって」
考えることを止めてはいけない。
私たちは現存することに疑問を持ち続け、良し悪しを見つけることでまた新たな発展をすることが出来る。そうして新たに発展したことは新たに生まれて来る者の助けになってくれると信じている。たとえ、今を生きる私たちが求めているものの技術が間に合わなかったとしても、未来を生きる人が更なる未来を生きる人に繋げていってくれたら、そんな嬉しいことはない。
「梯子をかけなくなったら、ルカさんはなんて呼ばれるのですか?」
「ルカの名を継ぐ者に与えて新しい名前を頂くんだ」
「ルカではなくなるのですか?」
「そうだよ。ルカは守り人としての役割の名前だからね」
では、いつの日かルカと呼べなくなる日がくるのか。
その時、私は彼の傍にいることは出来るだろうか。……新たに与えられた彼の名前を呼べる日を迎えられるのだろうか。
「シズリとは逆だね」
「……そうですね」
生まれた時に名前を与えられる者は幸せだ。個を差す名は同じ音を得ても、同じ意味は持たない。
役割から得る名前はあまりにも重たいだろう。
頃合いを見てから、ルカさんは立ち止まり後ろを振り返った。
「少し休憩しようか」
ルカさんは道の端に座る私に、屋敷から持って来ていた水筒から温かなミルクティーを淹れて渡してくれた。
「シズリはさ、人の心を思いやるのに苦労したことはある? それとも昔からそんな性格?」
「そんな性格っていうのが分かりませんが、そもそも私は誰振り構わず心を砕いている訳ではありませんよ」
「そうなの?」
遠くの景色を眺めていた視線をちらりとルカさんに移してみれば、彼は目を丸めてこちらを見つめていた。
「……どちらかと言えば心の距離を置きすぎて何もしていない人になっている時がありますね。それと、関与すべき物事ではないと見切ることすらあります」
「想像つかないな」
「親が、歩き始めたばかりの我が子が転んで頭を打ったりしないようにいつでも手を差し伸ばせる場所で様子をみることを”見守る”といいますね。また、苦痛や悲しみに対して限界を訴えている人が声を上げても黙って見ていることは見守るとはいいません。時に、私は見守っているつもりになって”ただ見ている人”になることがあります。……夜、冷えたリビングで泣いている人に毛布を掛けてやれないように、世界を旅したいという友人を説得して一緒に行こうと言ってやれないように、己の行動に悔やんで泣く人が向ける怒りの受け皿にさえなってやれないように、私は相手と一線を引き、口を閉ざして傍観することに徹している時があります。それが積もりに積もって自己嫌悪となり、誰かの為に在りたいという気持ちを枯らそうとするのです」
描いた絵を受け取った人の顔を思い出すのと同じくらい、悲しみに暮れる人の姿も頭にこびりついた。
声を押し殺す人や鼻を啜る人、僅かに漏れる小さな声が、降り続ける雨音のように思い出される。
その度、私は自分の無力さを呪った。
「でも、献身的にずっと傍にいることも違うと思うのです。そう納得しなくてはいけない時があることも分かっています。私のような存在は誰かの一生を背負うには不安定すぎる。一時の優しさは無責任で残酷なものになり得ますから」
実際、乙女の鼻先と呼ばれるこの岬は天辺に辿り着こうが空の入り口にすら届かない。しかし、何処よりも高い岬にいると、空にたどり着いてしまったような錯覚がした。
此処には何もないし誰もいない。在るのは空気に漂う煙のような雲、そして一本の道と道を照らす花のみ。
誰かが泣く声に耐えられなくて誰もいない場所に行きたくなることがあるが、此処に一人でいることはとても寂しいだろう。
「私が勇気を出して言葉を掛けたり手を差し伸ばせたときは、相手が私を思いやってくれているからなのですよ」
「俺に言葉を掛けてくれた時も?」
「……あの部屋に何度もやって来てくれたから、今の私たちの関係があるのだと思います。あの部屋のドアノブは、貴方にとって酷く重たかった筈です」
ね、そうでしょう? と彼の顔を見やれば、何度か瞬きをしたあと驚いたように小さく見開いた。
「どうだろう。あの頃の俺は薄情だったから、妹の部屋だってことも忘れていた。……シズリが思っている程、俺は利口でも優しくもない。ただ、あのままホーリィのことを忘れて過ごしていたら、俺はあの子の兄だと胸を張って言えなかった。それだけは分かっている」
「思い出すのが遅くなっても、貴方は彼女のお兄ちゃんですよ」
「うん。……でもさ、シズリは相手が自分を思いやってくれるから勇気を出せると言ったけども、手を差し伸ばしてくれたのはシズリの方が先だったじゃないか。確かに、話すきっかけになったのがあの部屋に俺が行ったことだったとして、それでも、俺はシズリだったから友達になりたいと思ったんだよ。俺を部屋に通わせたのは、貴女の人柄と思いやりだよ」
「……そうなのでしょうか」
「そうなんだよ」
ふと出会った頃に似た様な会話があったなと思い出した。
たしか女性の美しさについて私が語った後、照れて少し気まずそうに彼がしていて……。
――そういうもんか。
――そういうものです。
今では私の方が聞き手側にいることが多い様に感じる。それは沢山の人と出会い、話し、理解しようと努めたことによって得た見識だろう。
彼は彼なりに色々な物事を見極め、そして熱い気持ちを抱えながらも天秤が傾かない様にと一生懸命になっている。
天秤が傾かないようにすることは、実に難しいのに。
そんな彼の姿を見て、何か微力ながらも力になりたいと思うのは必然であった。
「あとどれくらいで着くのですか? 月までとなると食料や飲み物が持つとは思えないのですが」
「近づくにつれて月の力が強まるのか、不思議と空腹が収まっていくから心配はないよ。足の痛みも和らぐ。感覚的には五日ほど歩き続ければ辿り着くかな」
「この岬の天辺から梯子を掛けるのですか?」
「うん。きっと驚くよ」
ルカさんは美味しそうに甘いミルクティーを飲んだあと、甘みにうっとりするように息を吐いて笑った。
「これ」
彼は口元に笑みを作ったままワザとらしく困ったような顔をして水筒のカップを持ち上げて見せた。
「本当はコーヒーを淹れて来たいんだけど、トイレが近くなると思って」
「そうですね」
「俺はさ、心が挫けそうになったり、この仕事が明るく感じなくなった時に貴女が好んだコーヒーを飲むんだ。角砂糖は二個、ミルクはカップに三分の一くらい。でも、元気がない時はミルクは多め。あの日、ケーキを一緒に食べた日と同じくらいにね。そうしたら、貴女みたいに誰かのことを思いやりたいという気持ちがムクムクと湧いて、また頑張ろうって思うんだ。だから、本当は頑張り時の仕事中にこそ飲みたいんだけど、まあ、我慢してるんだよね」
「仕事内容に気を使うのは基本中の基本ですからね。我慢出来るのは立派な大人の証拠です」
「あー、また子供扱いするんだから」
「え、そんなつもりはないのですよ」
すっかり大人びた顔をしていたルカさんは幼い子供がするようにツンと口を尖らせた。
本当にそんな気はないのだ。
しかし、彼にしたら子供扱いをされていると思う様な言動をしてしまったのかもしれない。
確かに、大人の証拠なんて立派な大人には言わないか。失言だったな……。
「あはは。そんな気負いしたような顔をしないでよ。頼りっぱなしの俺だけど、いつか頼られるような男になるからさ」
へりくだって「だから気にしないで」って笑うルカさんに申し訳ない気持ちになった。
「頼っていますよ。だから貴方の元に来たのですから」
――私が覚えているわ。ずっと覚えている。……貴女の人生を、貴女が愛した人々を。そして貴女がその人たちの愛の中で生きてきたことを、私はずっと覚えている。
デイジーの言葉が、落ちた花弁が水面でユラユラと揺れる情景となって浮かぶ。
私の願いは何か。
誰かの慰めとなる絵を描きたい。
まだ見ぬ色に出会い、世界を知りたい。
誰かに、シズリが生きていたことを覚えていて欲しい。
誰かに。
誰かに。
大切な人に。
三つも願いごとがあるのだ。
少ないなんてことはないだろう。
「身勝手なことを言っていると理解していますが、私は貴方に覚えていて欲しかったのだと思います。私はとっても貴方を頼っていますよ。そして、これからも頼りにしています」
「そりゃあそう言ってくれるのは嬉しいんだけど、袖の端を引っ張って歩みを止めるだけの頼みじゃなくてさ、もっとこう……、気軽に?」
「気軽に?」
「うん。躊躇いもなく頼ってよ」
道端に咲く花の光に照らされる彼が持つ飴色が一層美しく輝いていた。
ふわふわと漂う星のように温かくて優しい光。地上の人々には名前も座る席もない、小さな星の光に見えているだろうか。
それとも道すがらに足元を照らす花の光に見えているだろうか。
地上の人たちは、小さな花の灯りが見えているだろうか。
「躊躇いもなく……」
「うん。それで、無理な時は無理って言うし、そう言えるほどの小さなことも頼って声を掛けてよ。こう見えても家族や友達はとても大切にしているつもりだよ。勿論、シズリだってその中に入ってる。……妹がそうであったように特別にはしてあげられないけど、それでも、貴女のことは大切に想っているよ」
ルカは、苦しんでいる大勢の為にその痛みを和らげる月の光を収穫し続けてきた人たちなのに、彼らはそれを家族の為には使わなかった。他の人にあげてしまったから手元に使える光がなかったのだと。
彼の両親も、彼自身も、これからもずっと平等から解かれることはないだろう。
そうじゃないと、あの子はどうしてあんなにも苦しんで死んでしまったのかと、今度こそ心が壊れてしまうだろうから。
「はい。ちゃんと理解していますよ。私も誰かを押し退けてまでして得た特別は欲しくありません。それに、私だって画家の仕事を貴方が友人だからといって優先して順番を入れ替えることはしません。……こういったことは守らないといけないことばかりですよね」
「……うん。…………うん」
私の絵を描くことと、死の間際に痛みを和らげてくれる月の光を渡すことを比べるものではないが、それでも、私たちの在り方を指すのであれば間違いではないだろう。
平等でいることは酷く苦しいことだ。
彼がルカでなければと思うことだってある。それは、一人の友人を想ってのこと。
だけど、彼がルカであって良かったとも思う。彼は、彼ら家族は約束を守る人だから、だから今も尚、人々と月の精霊の親交を続いている。
彼らがいるから、救われる人が沢山いるんだ。
「さて、これを飲んだらまた歩き出そう」
「はい」
「頑張ろうね」
「はい、頑張ります」
与えられた権利はあまりにも残酷だが、それでも彼に引き継がれて良かったと思わなくてはいけない。
大きなものを背負う者は肯定されずに存在することは難しいだろうから。
暫く歩き続けて、一本道であるからして目指す先との距離は蛇行するよりも遥かに早く縮んだことだろう。
しかし気を緩めれば転がりそうな斜面に恐怖心が膨れ上がった。
「下はもう見ない方が良い」
そう言われて振り返ることをやめた。
もう、前に進むしかない。
振り向けば腰を抜かして進めなくなったり、怯えからの動揺で足を絡めてしまうかもしれない。そうすれば下まで転落することになるだろう。私はあまり運動神経が良くない。
岬を登る前、彼に言われたことを思い出す。
――いいかい? 一定の距離を進んだら道の端に固定できる箇所があるから、腰に付けている命綱のフックを掛け直すんだよ。寝る時は特にちゃんと確認するように。じゃないと転げるか、そのまま坂を逸れて落ちて死んでしまうからね。終盤の道は、それこそ梯子を登るような道のりになる。
一度足を滑らしてしまえばタダでは済まない。
振り返ることは危険で、それは好奇心に負けて暗がりを見て戻れなくなったり、光を見て目を焼いてしまった者の末路のようだ。
私たちは登り続けた。
斜面がきつくなると階段の様なものが続いた。始めにこの岬に登ったルカが削って作ったのだろうか。
休む時、もう座ることは無かった。
立ったまま温かいものを飲んで、そして歩き出す。
地上よりも近づいた星々は温かそうに輝いているのに、乙女の鼻の先は酷く凍えていた。
数日間、歩き続けて私たちはとうとう岬の天辺に辿り着いた。
あまりの高さに下を覗く気にもなれず、ルカさんの傍に立って辺りを見渡す。周りには穴が空いていて、そこには水が溜まっていた。道を照らしてくれていた小花は幾つもあるその水溜まりを囲うように咲いていた。
「おかしいよなぁ。幼い頃、下から見た梯子は確かに月に掛けられて見えた。でも、本当は人が用意した梯子に月の精霊が光の梯子を繋げて、清らかな身をそれに添わせるようにして降り来てくださるんだ」
岬の天辺の真ん中で、真っ直ぐと月を見上げるルカさんがポツリと呟いた。彼の言葉につられて見上げて見れば、これまで生きて来た中で一番大きな月が浮かんでいた。
「これから梯子を掛けるけど、本当にいいんだね?」
「ここまで来たんですよ? 今更やめたは無しです」
「それでも……」
彼はいつだって私を気遣ってくれる。
こんな地上から遠い場所に来たというのに、それでも相変わらず。
「ルカと月の精霊さまの清らかな誓約に添える賢者となれるように、尽力いたします」
今朝、彼に開口一番に言った言葉をもう一度伝える。
「時として精霊の言葉を、時として人々の言葉を受け止めましょう。人の成れ果てである私が賢者とし、あらゆる者との中立として在ることを誓います。人が、その他と同等で在り続ける為に」
私は手の平で空を救うようにして、目の高さで左手の甲を右手で包み込むように握り胸元でぎゅっと力を入れる。そして、ゆっくりと瞼を閉じると同時に顎を引いてその手の上に乗せ、瞼、顎、手を首の辺りで力強く握り、深く誓いを立てる。
これは故郷で破れぬ誓いを立てる時にする作法。
誓いを破った時、呼吸のもとを絶つという意味がある。
「……分かった。では、梯子を掛けるよ」
緊張した様子で声色を硬くしたルカさんの言葉を聞いて閉じていた瞼をあける。
ふかく深呼吸をして、彼が手の平を月に向けて大きく広げると空中を漂っていた光の粒子が彼の手元と月の間に集まり始める。
ルカさんがその光を握る動作をすると、ルカの名を所以とするその物がはっきりと姿を現した。
その形は正しく”梯子”であった。
しかし梯子は途中までしか現れず月には到達していなかった。
それでも梯子の先を見上げるルカさんを見て、私もその先を凝らして見る。
そうして暫くするとキラキラと光の粒子が月から伸びて来て、向こうから形作られた梯子が、彼が伸ばした梯子にくっついた。
「……これはこれは」
「本日はご紹介したい者がございまして」
「よい、よい。空より見ていた。その者のことも良く分かっている」
遠くから息を忘れそうになる程の美しい人が掛けた梯子を緩やかに歩く様にして降りて来て、近くに来るとルカさんに声を掛けた。
金色に光る癖のない長い髪の毛を滑らかに揺れる。それと同じく金色に輝く睫毛と瞳、そして黄金の素肌。あまりの完璧な造形美に黄金の像でも見ているようであった。
憂いを帯びたような表情でゆっくりと瞬きをして、私たちが立つ岬に立つと精霊は金色の輝きを潜め、夜に浮かぶ数多の白い星々のように灰色に成りを済ました。
「レプティシーの森の守り人を父に持つ、悪戯娘。シズリだろう?」
「レプティシー……ですか?」
「父親から何も聞いておらぬのか」
「は、はい」
切れ長の瞳が流れるようにこちらに向いたことで、緊張で体が強張った。
世界そのものである精霊。私はその存在に酷く畏怖の念を抱いた。
「小さき者がより小さくなっていてはこちらも気を使う。早急にことを進めようとせずに、少し話をしよう」
縮こまる私の様子を見て、月の精霊は少し辺りを歩き一つの水溜まりを覗いた。
「この溜まっている水は世界の何処かで流れた涙だ。月の光をあてて癒そうにも水が減ることはない。寧ろ、今にも溢れようとしている。ルカが頑張ってくれているが数多の命の苦悩は尽きぬようだ。結果が目に見えて分かる分、心挫くこともあるだろう。……しかしルカよ、我は貴様が賢者にその者を選ぶとは思ってもいなかったのだが、それを望んでいると言うのだな」
「はい」
芯の通った声で答えるルカさんに精霊は「ふむ」と言って自身の顎をひとつ撫でた。
「私とその者の付き合いは実に長い。なんて言ったってレプティシーの愛用だからな」
「あの、先程から仰っているレプティシーとは一体……」
「そう急くな。私から彼女の話をするのは次の機会があった時にするとしよう」
精霊は私の質問には答えず、衣服を地面に引きずりながら別の水溜りの前に移動して同じように水底を覗き込んだ。
「涙といっても、悲しみや苦しみに流れるものだけが溜まっている訳ではない。命は喜びを感じる時も涙を流すだろう? 人も、草も、空も、全て」
私は人の感情しか分からないから、頷くことも出来ずに精霊を真っ直ぐと見つめる。その様子が面白かったのか月の精霊は可笑しそうに笑った。
「もう一人この場に客人がいるようだな。……こちらに来て手を付いて良く覗いてみると良い」
もう一人という言葉に疑問を抱きつつ、ルカさんに視線を向けると彼も緊張した面持ちでゆっくりと頷いた。
私は月の精霊の傍まで行き、言われた通り手を付いて誘導された水溜まりを覗く。
「わ……!」
顔を近づけると、チャプンと音を立てて華奢な腕が伸びてきて、私の首筋を撫でた。
水から飛び出たその腕の指先が常につけているネックレスのチェーンを引っ掛けるようにして珊瑚の飾りを首元から取り出し、名残惜しそうに撫でた後、そのままチャプンと小さな音を立てて水の中に消えた。
驚いて水の底を覗こうにも、深い水底が続いているだけであった。
「こんな高い場所に人魚が来るのはいつぶりだろうなあ」
私を見下ろしていた精霊を見上げれば、楽しげに目元は弧を描いていた。
「あの、人魚って……、もしかしてハルムの……」
「顔が良く見えなかった故、何者であるかは分からぬ。ただ、見間違いなければ飛び出て来たのは人の腕の様な形。人の形をしていて水辺に潜っていられるのは人魚くらいなものだ」
たとえ先程の腕が人魚のものであったとしても彼女な訳がない。だって、彼女は……。
「人魚だというのなら彼女である筈がありません。だって、リーリアさんは人間であって、人魚というのは私が描いた絵にすぎないのですから」
「ふ、っふふふふ……貴様は実に愚昧であるな。では、人魚の存在はどう思う? 見たことがないから存在せぬと言うか」
「……人魚の存在は精霊さまが仰る通り見たことがないので、はっきりとは断言できませんが、いて欲しいと思います。……ハルムに住む人々が信じるなら、私もその存在を信じたいです」
「見たことがあるから存在して、見たことがないから分からない、か。しかしこの世には”そういうものだ”と理解もせずに納得していることが沢山あるとは思わないか? 薔薇の妖精は”おしゃま”であり、目に見えぬ者の存在に限らず獣の手足を持つ者は人間から迫害を受ける」
精霊はちらりと視線を下げて目を細める。
「妖精は甘いものが好きだ、と」
「そうは言いますが、実際その通りなのではないでしょうか」
私は精霊の視線からベルトループに付けている鈴を守るように手を添える。
風の精霊がこの鈴の中に入っていることはお見通しらしい。
ラバルが甘い物が好きだと言ったのだから、私はそうだと納得するしかないだろう。
「それが浅はか、いいや、実に滑稽と言っているのだ。特に貴様。この世界で筆の名を自ら名乗っているのに道を綴ることもせずに他者の言葉を鵜吞みにし、与えられた言葉の意味を変えようとも考えぬ愚か者」
「精霊。畏れ多くも、私も精霊さまのお言葉は難しく感じられます」
月の精霊が何を言いたいのか、皆目見当が付かずなんて答えれば良いのか分からずいるとルカさんが助け舟を出してくれた。
怒っているのだろうか……。表情からして呆れているようにも見えた。
「まあ良い、この話は後程するとして……。それよりも、悪戯娘は何百年と賢者をルカとの間に置かなかった我と誓いを立て、賢者になりたいと申していたか」
「はい。私は、ルカと月の精霊さまの清らかな誓約に添える賢者となれるように尽力いたします」
膝を付いていた体を起こし、ルカさんに立てた誓いをそのまま精霊にも立てる。
精霊さまがお話になることは非常に気になる。
しかし私は自身のことを探る為に此処にやって来たわけではない。
「良いだろう」
平等にいなくてはいけない者が自身を優先にしていては信用を得ることは出来ないだろう。
すぅ、と自然の流れで私の手を取り、月の精霊は岬の端まで歩いてやってきた。精霊さまの手は想像していたものとは違って私と同じくらいの体温だった。
岬の縁に立たされて漸く私は岬の天辺から地上を見下ろす。
「今も尚、乙女は筆を折らない」
足が竦みそうになるのを堪えてその場に立っていると握られていた手がするりと解けて、トン、と肩を押され、私の体はいとも容易く地面から投げ出された。
「ならば証明してみせよ」
「え?」
私たちのやり取りを緊張した面持ちで見ていたルカさんが岬の端に駆けつけて手を伸ばすが、私はその手を掴むことも出来ず地上に向かって落ちていった。
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