第八話
2023.4/30 漢数字を修正しました。
2022.12/20 一部修正いたしました
丹念に磨き淡い装飾を纏った爪は美しいものだが,、他者に触れるには慎重にならねばならない。
何故なら、意図せずに誰を傷つけるかもしれないからだ。柔らかな部分を引搔いてしまった時、傷つけられた者も、傷つける者も悲しい思いをしてしまうだろう。
花とて自分の存在を良く分かっているのではないだろうか。庭師と真紅の薔薇なんてどうだろう。
薔薇の花びらは淡く柔らかいが茎に沢山の棘がついている。どれよりも綺麗な一本に鋏を入れようとすることは少し危険で、束を作ろうものなら切り取る者の手の皮膚をたやすく傷つけることだろう。傷がついた者は自身の血に眉を顰め、薔薇は申し訳なさそうに揺れるだろう。
どちらにせよ、美しい者の手を取って連れ出すことは勇気がいるものだ。
「はじめまして。私はシズリです」
天気は曇天。私たちが屋敷に戻る頃には重たそうに灰色の雲がゆっくりと空を覆いつくしていた。気圧のせいだろうか。肩が重い様なのだ。……いいや、本当は分かっている。緩やかだが、確実に自分の身の振りを決める時が近づいていることに体が力み緊張しているのだ。
「……クトゥラトゥです。東の国よりやって参りました」
細かなウェーブが掛かった髪は腰まである髪は蒸栗色、ジトりとこちらの顔を下から顔を覗く様にして見る瞳は翡翠色をしていた。
「なんでもいいんだ。この人に家のことを話してやれないかな」
「家のこと……。出会ったばかりの人に?」
「話せる範囲で」
私と向かい合うように座っている華奢な少女は何処か艶やかな雰囲気。
柔らかな声質であるが物言いには小さな棘が含まれている様に感じた。
もしかするとこの場に渋々連れて来られたのだろうか。そう思うと少しばかり申し訳ない気持ちになった。
「……銀色のサナギを見たことはありますか?」
本題に入る前の前座に旅の楽しい話をするような空気でもない。
直感だが、彼女の様な人は短刀直入に話を進める方が好むだろう。彼女が虫を統べる者の名を持つらしいことを馬車の中で知った私は青い果実よりも先に銀色のサナギについて聞くことにした。
「銀色。……ううん、綺麗な灰色を指すのであれば見たと言えますし純銀の輝きを言っているのであれば見たことはありません」
「灰色、は違いますね」
「そのサナギがどうしたんですか?」
少女はゆったりとした動作でティーカップを手に取り紅茶を口に含んだ。その際にチラリと見えた翡翠がこちらの様子を伺っている様であった。
「幼い頃に見たことがありましてね。……美しきものを不躾に触れたことで果ても見えぬほど長生きするようになってしまいまして」
「果ても見えぬほどの長生き、ですか」
紅茶を飲んだことで体が少し温まったのか、彼女は「ふむ」と一息ついた。まじまじと私を見つめる目は先程の怪しむ目つきでは無く、年相応に可愛らしく真ん丸としたものだった。ただ、その目が証明したことは、彼女がこの手の話について心底分からないと言いたげに首を捻らなかったということ。
「貴女は賢者か何かですか?」
ほら。
賢者の存在が身近であるような反応を見せた。
たとえ銀のサナギや青い果実についてを知らなくても、世界の一部について知ることが出来るかもしれない。
「賢者とはどういった者か知っているのですか?」
「私が質問に答えられるかどうかは貴女の返答次第です。今はまだ貴女が最終的に知りたいことが見えません」
なるほど。この少女を子供の類と見るにはあまりにも失礼なのかもしれない。
彼女の出し惜しみのような振る舞いには警戒が滲んでいた。大衆と違う者は慎重にならなくてはいけない。彼女が何も話してくれなかったとしても、それは仕方ないことだ。
一瞬、窓の外を見れば雨が降り始めていた。
目を伏せる様にして彼女に視線を戻し、此処に来て何を勿体ぶることがあるのかと自身に小さく溜息を吐く。
私は未だに自身の見てくれを気にしているようだった。
「比べるのも烏滸がましいことですが、賢者としての生き方を掲示されまして」
「貴女が?」
「はい」
「誰に」
「西を示す赤い星と呼ばれる人にです」
「……ヒイラギさんですか」
「知り合いですか」
今度は私が目を丸める番だった。
私の反応を見て彼女は少し面倒臭そうに目を細めて視線を反らした。
「…………口外して欲しくないことですが、いいでしょう。これは社会経験を積ませてくれたルカの名に報いことにしましょう」
そういってチラリと彼を見やり、小さく息を吐き出した。
彼女が言ったルカとは、彼の名前ではなくて月に梯子を掛ける者のことを言ったのだろう。
「……私の大きいおばあちゃんが賢者でしてね」
「大きい?」
「体の大きさではないですよ。長生きし過ぎて何世代前のおばあちゃんなのか分かりにくいのでそう呼んでいるだけです。……賢者とは”色を失う者”ばかりと思っていましたが、貴女はその若さでそう言われたのですか?」
色を失う者。
ヒイラギさんも言っていた。脆い部位から劣化していくと。
髪の色は抜け、瞳の色は白く濁る。
対して私は何を失った? 時間や人々を失えど、自身の何かを失くしてはいない。姿だけでは私の異質さなど分からないだろう。
私は彼女たちが呼ぶ賢者とも違うように感じた。
「長生きといっても不老不死のそれを言っているのではありません。私は貴女と同じように死にます。そして、その体から赤ん坊の姿で産まれるのです。記憶を持ったまま」
想像が出来ないだろうか。クトゥラトゥさんの表情は険しいものになってしまった。
訪れていたはずの沈黙を雨の音が和らげていた。
「それは証明しようもなく、暴きようもないですね。……と、言うことはですよ。私の口からは私以外のことを話せないという訳なんですよね」
「……どうしてもか?」
「………………異質な者はいつ迫害を受けるか分からない。ルカさんだって知っているじゃあないですか。私はこの人と今しがた出会ったばかり。貴方のように彼女を信用するには性急なんです。私は彼女のことをひとつとして理解出来ていない」
寂しそうな表情をするルカさんに対して少女は気まずそうに目を反らした。彼の”ああした”反応を見るのは居心地が悪いらしい。
それについては私も良く分かる。どうにも彼を悲しませている自覚をしてならなくなるのだ。
クトゥラトゥさんは、ふぅ、と小さく息を吐いてテーブルを見るように視線を下ろした。
「私たち家族は街の発展の為に身を粉にして己の役割を全うしています。賢者の様な存在になれないとしても守り人として代々その土地を守って来ました。その役目が私たち……、私の代に引き継がれたんです」
嗚呼、そうか。彼女は私”以外”の話が出来ないと言った。だから彼女に関する話をしてくれようとしているのか。
言葉とは時に悪戯げで、巧妙なカラクリが隠されているものだ。
私は彼女の優しさに感謝し素直な気持ちを持って言葉に耳を傾ける。
「毎日、水を汲むことは苦しいことです。楽器を奏でるだけの私には兄や弟の苦労は計り知れません」
「奏でる者はどんな役割があるのですか?」
「簡単にいえば虫の道案内です。適した季節が訪れたなら虫は勝手に生き死にを繰り返すのでしょうが、放って置けば作物を荒らすような者も出て来るわけです。それをさせないようにメロディーを奏でて違う場所に誘うのが私の仕事。又、植物に良い影響を与える虫を外から呼ぶこともあります。精霊に分けて貰った生きた水を兄たちが汲むことで植物は健康的に、そして良い作用をもたらす虫を誘導することで緑のものは何処の地のものより恵まれるんです」
少女が持つ力は特殊な力と言えるだろう。
その力を得るには、精霊の許しを得なければならない筈だ。
そんな大層な力を得ても、彼女たちは富や名声などといった多くのものを望まず、また、彼女は虫には虫の生活と習性があることを理解しているようだった。
彼女は言った。街の発展の為に己の役割を全うしていると。
私は彼女たち家族が行っていることは美しい発展だと思った。
これこそ世界と人の共存なのだろう、と。
「私の街では”とあるお話”がありましてね、なんでも底が割れた瓶を飲み口から小さき者を見ると人の成りに見えるそうなんですよ」
「それは本当のことですか?」
「さあ、あると思っている者の世界では虫を私たちの姿として見ることが出来るのでしょうし、ないと考える者の世界では虫は虫でしかない」
クトゥラトゥさんは小さく笑い、どこか悟ったような表情を見せた。
「……貴女の世界の虫はどんな姿をしているんでしょうね」
おとぎ話の裏には真実がある。
そして語る者は口々に言った。どうだろうね、ただ、信じる者の世界には在るのだろう、と。
「もしかして、おぞましい存在でしょうか?」
図星を突かれた気になった。
私の世界の虫はあの洞窟で見た死んでいるのかも分からない銀色のサナギだけになってしまったから。
花の周りを舞う蝶は朦朧とする頭で見る様にして歪む。私が見たい蝶は野の蝶ではなかった。
しかし私は往生際も悪く、翅の色を知ることも出来ないでいるあのサナギを裂く勇気すらない。
静かに降る雪をただ見続けたことはあるだろうか。それは、ひらり、ひらりと揺蕩う蝶を見つめている時の心情と似た不安定さをを感じないだろうか。
もし羽化した蝶を見ることが出来たなら。
もし蝶の色がサナギと同じ銀色であったなら。
幼い頃より親しみがある雪を見るように、受け入れることが出来るのだろうか。
何もしていないが失われるものはある。何もしなかったから失うものもある。
過去に私が森に行かなければいずれ生を失っただろう。今の私は森に行ったから死を失った。
あの森に原因がある。今では強く確信していた。だって、あの洞窟に行ったこと以外の人生は本当に変哲もない一人の小さな人生だったのだから。
雪を眺め続けて失うものがあった。
自身の体温、そして積もる雪は帰り道も奪った。
得るものがあるとすれば雪解けに沢を下る水だろうか。水を失くして生きられない私たちは屋根を潰してしまう程に雪が降ろうとも受け入れなければいけない。
それと同じとは言い難いが、結局人生とは成るようにしかならず、それもまた仕方ないと受け入れるしかなかった。輪郭もなぞれない程に不安定な言葉であるが、全ての意味を受け入れることが出来る人はどれ程いるのだろう。
「ひとつを除けば虫は虫でしかありません。干渉し合わずとも人にとって虫の存在とは間接的に大きく関係していくものなのだと思います」
生きることを受け入れた私にとって花畑の蕾が一斉に開花するのを見たいと思うのと同じで、洞窟にへばりつくサナギの大衆が羽化し翅を広げた蝶が羽ばたいている姿を見たいだけなのかもしれない。
何故なら羽化した蝶が美しい銀色であったら、少しは救われるかもしれないからだ。
深刻な面持ちで生きて来て結論付けようとしてみれば”たかがそんなこと”なんだ。悩んできた時間を想うと、自分のことであるが私は若干の侘しさを感じるよ。
「……賢者になるという話は保留にしていましてね」
僅かな沈黙の後、少し遠回りしてしまった素軸を戻す。
小雨の音が心地よく耳に届いた。
焦ったところで話し尽くすには時間が足りない。それなら、私は思っていることを素直に話そう。
「二二八年、生き死にを繰り返し続けていますが直ぐに答えが出せないのです。……私にとっての虫とはそれほど悩ませる存在……、生き方を縛る存在、とも言えるかもしれませんね」
素性を隠しても怪しさが増すばかりだろう彼女もルカさんと同じ守り人だ。私の話を聞いて怯えることはない。
銀色のサナギについて、僅かなことでも知るチャンスがあるというなら、私は真摯に話そう。
「この世に生を受けて今に至るまでの時間が分からなくなるなんてことはありませんんでした。私はどうやって生きてきたのか、どうやって死んだのか、全ての時間を忘れたことはありません。この体は十分の一ほどしかまだ生きていませんが、数々の知り得ないことばかりを見聞きしてきました。それは、まるで一度目の人生のように新鮮なものばかり。…………私は今世のこのチャンスを逃したくはないのです」
今度の死が訪れた時、私を知る者は殆どいなくなっているだろう。唯一存在することを信じることが出来るのは妖精のラバルだけだ。
翡翠の瞳がパチパチと瞬きを繰り返し、手に持っていたティーカップをソーサーの上に戻した。
「……大きいおばあちゃんが長く生き続けることは孤独だと言っていました。私は、死を失くした者の気持ちは想像をすることしか出来ません」
申し訳なさ追うに目を伏せる彼女に、何も気に病むことはないのだと急いで首を横に振る。
そもそも受け入れてもらうには難しい話を聞かせているのだ。それを気味悪く思うでもなく言葉を返してくれているだけで、私は嬉しい。
「貴女の大きなおばあさまが大勢の為にいる賢者なのではなくて、ありふれた家族であるのと同じように、どうか私を異質な者としないでください。私はただ、生きることを不幸とし、死ぬことを幸福とするのはお終いにしたいのです。この世界の役割を与えられるというならば受け入れたい。……あの銀のサナギと青い果実が本当に実在するものなのか、生きるために知る必要があるのです」
「それを知ることが本当に生きる為に必要なんですか?」
「知ることで自分の存在を確かめられるというなら必要なことだと思うよ」
暫く黙って私たちの話を聞いていたルカさんがとうとう口を挟んだ。
私を庇うようにしてくれる彼と、私と話すことを選んでくれた彼女に申し訳ない気持ちになる。
「命を生きることとは繰り返し続けること。唯一繰り返せないのは生まれること、そして死ぬこと。シズリさん。貴女が異質な者として扱わないで欲しいと願うなら、貴女の願いを聞かせて欲しいです」
「……だから」
「私が何を言いたいのか分かりますか? シズリさん。私はね、もっとフルートが上手になりたいですよ。もっと自分の音で沢山のメロディーを奏でられるようになりたい。そのおまけで、友人の家が営んでいる農園の果実水を有名にしたいんです。作物とは水も虫も切り離せるものではありませんから。目指す高みは道が違えど辿り着く場所は同じです」
「果実水、ですか」
意外な言葉にポカンとする私たちの反応を見てクトゥラトゥさんは少しだけいじけたような顔をした。話すつもりはなかった、と言いたげに。
「……そうです。その暁には有名になった果実水で乾杯するんです。おいしい! そういってグラスを持ってまわって踊り明かすんです。楽しそうでしょう? ……ね。そうしたら、わたしは」
彼女は更に悔しそうに眉を顰め、一瞬だけ言い淀んだ。
「もっと音楽を愛せると思うんです。もっと、真剣に音楽に向き合えると思うんです。虫に向けて聴かせるメロディーじゃない、大勢の人の為に演奏するんじゃない。私は別に感謝されたくて街を想っているんじゃないんです。……得た力を努力でもっと高めることで出来ることが増えるというなら、友達と夢を叶える為に切磋琢磨に競い合っているだけの普通の子になれる気がするんです。特別でいることを望んでいる訳ではないんです。守り人はただの人なんです。私は、ただ、皆と同じように努力をして生きていたい。誰かの為にいなくてはいけないと言うのは、時に荷が重すぎるんですよ。……だから、そんなちっぽけな目標があるから、私は虫かごの中でも生きていけるんです」
きっと彼女が描く夢は楽しくて明るいものだろう。
楽しい音楽ならいつだって奏でたら良いじゃないかと思うが、彼女たちはもっと高みを目指し、辿り着いた先を見据えて力をつけようとしていた。
虫かごと言ったのは自身の家のことだろう。
守り人は、守るべき土地から離れることはない。
「貴女の描く希望には貴女の姿が見えません。誰かの為に在ろうとすることは素晴らしいことですよ。でも、生きる力は自分の為につけなくてはいけないんです」
私は命が燃える色を見た。
そして未だ知らない世界の色を知りたい。
知って、それから?
「私は、……世界の色を見たい」
「見るだけですか? 画家なのに?」
胸の奥で火の粉が燻ぶり始める。
どうして絵に希望を見出したのか。私はテオのように誰かを笑顔に出来る様な絵が描きたかった。
でも、それはテオの生き方だった。どれほど彼に憧れても同じ絵は描けない。どうしたって私は彼にはなれない。
私は、私の眼球が得る色を信じたい。そして世界を旅してテオやデイジーに見て来た景色を描いて見せてあげたい。
世界の姿に焦がれた友、リゥランにもその絵を見せながら色々な話をしたい。
誰かを覚えていること。
それは誰かの為にしてあげたいという気持ち。
なら、私は私の為に何を求める?
彼女の言葉の追撃は続いた。
「なぜ生きていきたいと思ったのか、自分は自分の為に何者になりたいのか、必死に考えなくてはいけません。自分の存在を確立することを怠けてはいけないんです」
早まる心臓が痛みと錯覚するのを堪えるように瞼を閉じる。
急いで答えを出してはいけない。大切なことをその場しのぎに言ってはいけない。漸く世界や自分に向き合えるようになったじゃないか。
小さく深呼吸をして、ゆっくりと瞼を開ける。
誰かを想おうが、自分を想おうが私の真新しい人生の序章は覆らない。
始まりの地は同じであるが、その後は枝のようにいくつも分かれる道を選択していけば良いのだ。だから、たとえ体の消滅を迎えようともこの屋敷を出て、終わる為と始まる為に目指す場所は変わらない。
「……明るい旅路に出るために銀色のサナギを確かめに行きたい。それが本心です。だって、世界を知りたいと思っているのに美しきの原点を見ずに私は何を追い求められるというのでしょうか。青い果実は、それはそれは美しい色をしていて、その味は甘美なものでした。しかし、想いを持つものこそ美しさの真骨頂。……私は冬が深い小さな村で産まれ、そして死にました。その一度目の生に縛られているというのなら、解き放つことが出来るのも同じ場所です。私たちはあの美しい故郷を忘れません」
ベルトループに繋がっている小さな鈴をそっと握る。
私たちは人であった頃に過ごした故郷を想い、愛し、そして執着した。
あの村はこの世で一番、美しい。
冬の香りを覚えているか。
私たちが人であることを覚えていられるのは人として生まれた記憶があるからだ。
冬の香りを覚えているか。
そんなこと、考えるまでもなかった。
忘れようとも、忘れ去れるものではないのだから。
「愛を教えてくれたのが故郷なのですから、愛に柵などあってはいけません。施錠するも、解くも、村に……、森に行かねばいけないのです」
彼女は未だ納得がいかないような顔をしていた。
きっと、私からはただ生きたいという言葉が聞きたかったのだろう。なんの言い訳もない、純粋な言葉を。それなのに往生際も悪く自己満足のケジメを手放せない。
頑固なものは一度持った考えをなかなか手放すことは出来ないのだ。
言葉にして見て心が軽くなるのを感じて少しだけ緊張していた表情筋を緩める。
テオたちに会い、これ以上軽やかになれることがあるなんて思いもしなかった。
クトゥラトゥ。
彼女が守り人と呼ばれる所以はその思慮深さと優しさにあるのであって、特別な力を持つ者すべてがそう呼ばれる訳ではない。
「……あとは美味しいものを食べて、やっぱり絵を描きたいです」
握ったままだったから、玉が転がった鈴は音が鳴ることはなかった。
ああ、漸く小雨の音が耳に届いた。
短い時間きこえなくなっていた音が再び聞こえ始めたことに気が付きゆるりと窓に視線を移す。
「美味しいもの、ですか」
「はい。世界中の美味しいものを食べ歩くんです。お金は絵を描いて稼ぎます。……それは誰よりも自由な生き方とは言えないでしょうか?」
窓から彼女に視線を戻し、肩をすくめて笑って見せる。
「……それとも、まだまだちっぽけなものでしょうか。まだ、私は自分を思いやってやれていないでしょうか」
幼い頃に見た悍ましくも美しい果実と蝶の存在を確かめることが出来たなら、私は土地に縛られることもなく再び故郷を出ることが出来るだろう。
その時は過去と違って何度も後ろを振り返って。
「ちっぽけです」
「クトゥラトゥ」
「……私の見る夢と同じくらいちっぽけ」
まるで咎めるように彼女の名前を呼んだルカさんは彼女の言葉に驚いた様子で口を閉じた。
ふ、と小さく笑った彼女だったが視線を落とし冷え切ったティーカップの中身を見つめた。
その姿は小雨に濡れる小花のように寂しげであった。
「私たちは虫を統べる者なんて言われてますけどね、そんな大層なものじゃあないんですよ。……虫はね、私たち人間より遥かに真正直に生きています。季節を知らない者や弱い者は死んでいく。ただ、それだけのことなんです。懐くこともなければ、虫を統べる者と呼ばれる私達とて死んで数日経てば体にはハエやうじ虫が湧くことでしょう。守り人を失った街は懇意に与えられていたものがなくなるだけで、人々は農作物の為に天候や気温、そして葉を食い荒らす虫と戦い、本来受けるはずの”小さな”苦労を沢山感じるのです。……私たちが失せても、それは”たったそれだけのこと”なんですよ」
結局、私たちはいようがいまいが世界は相変わらず過ぎ行くということ。
自分の行いによって一人でも笑顔になれる者がいてくれたら、と願うがそれも乙女にとっては小さなひとつのことでしかない。
砂に混じる硝子の屑を見つけることは根気がいることだ。
いや、探して見つけられるものではないだろう。私たちとはそれほどちっぽけなもの、存在しないのとないと同義でもある。こんなにも苦悩に塗れ、一生懸命生きているというのにだ。
彼女はよく理解しているのだろう。
農作物を守り育てることの偉大さを。土を耕し、土を育てる、そして葉や味を作り上げることの難しさをよく分かっている。
しかしそれは私たち人間の生活の話であり、人間以外の生き物にとっては畑と畑ではない場所の線引きなどない。
多種の命の前に"育てた物を食べる人間"いう区別は一つしかない。だから彼女は私たちの苦労など世界中に在る他の命にとってはちっぽけだと言ったのだ。
そして、それが寂しいと思っているのだろう。
「貴女はひとつを忘れる度に傷つくんでしょうね。……辺りはちっぽけなものばかりなのに、それなのに、忘れたことに気づいた時、目一杯かなしくなるんだ」
寂しそうに呟く彼女は誰を思い浮かべて話しているのだろうか。彼女が大きいおばあちゃんと呼ぶ人のことだろうか。
「縋るほどの希望は目を焼き、落とした目が見るのは底の見えぬ暗がりです」
「……でも、まだ耳があるじゃないですか」
ゆっくりとこちらを見た翡翠はゆらゆらと揺らいでいた。それはまるで迷子のか弱い双子の星のように見えた。
世界の一部となって生きることは難しい。
人とは夢を抱き、より明るい方を求める。彼女は守人の名を持たずに生まれた自身を想像して悲しい気持ちになる時があったのだろうか。
大勢の輝きである今よりも、静かな灯りになれた自身の姿を。
「鼻がある、声がある、手がある、足がある。私たちは朽ち果てるまで諦めずにいることは出来ます。そして死しても尚、名が生きるというなら誰かの希望の星となって夜を照らしてくれます。人は体を失えど簡単には死にきれませんよ」
しっとりと雨が降る今日。
人々の為に生きる少女と出会った。
誰かの為に在れることは幸福と考える私の考えは陳腐なものだったのだろうか。
つい忘れてしまう時がある。
私も、彼女たちも、この世界の一部として生きたいと願うちっぽけな一人の人間だったのだと。
「銀色は憧憬、金色は幸福。……なら青色は? 青色というのは果実の色ではありえない。青色だと思っていたものでも追及すれば青み掛かった紫などが殆どです。ないのにある。それはまるで見えるのに触れられない夢の様。その果実について分かった時、何か他のことが分かるかもしれませんよ。この世界に意味を持たないものがある筈なんてないのですから。……それを知ることは怖くありませんか?」
白い世界を抜け出したあの日から今日に至るまでに知り得た色を使って絵が描きたい。そして、まだ見たこともない色をもっと見つけたい。
絵を描くなら紙が必要でしょう? 世界を描くのならば、白い世界をもう一度得てからが良いと思うのだ。
私は彼女の言葉に僅かな笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横に振って見せる。そんな反応を見て彼女は渋そうな顔をした。
「……………………話し過ぎましたね」
ふぅ、と溜息を吐いて冷めた紅茶を一気に飲んでクトゥラトゥさんは立ち上がる。
「長く付き合わせてしまい、すみません」
「いえ」
「ありがとうな」
「気になさらず」
扉に向かう彼女を廊下まで見送ろうと後ろを着いて行けばドアノブに手を掛けた彼女がこちらを振り向き私の顔を見上げる。
翡翠が、キラリと光が一周まわるように美しく煌めいた。
私はその美しさに思わず笑みを浮かべ、何か言おうとして振り向いたであろう彼女はそんな私の反応を見て訝しげな顔をした。
「あ、えと。今度、演奏を聴いてみたいなあ、なんて」
「……それだけですか?」
演奏を聴いてみたいというのは噓ではない。ただ、私がにやけた意味を探る彼女には、そんなことを思っていたのではないとお見通しだったようで、ぐっと眉間とドアノブを握る手に力が入った。
「あ、あと綺麗な瞳の色をしていると思いまして。挨拶をした時から」
「目?」
ふぅん? と訝しげにこちらを見上げる彼女の反応に少しばかり緊張する。これ以上失言はしたくないものだ。
「……何色に見えます?」
「淡い翡翠です。優しい色の」
彼女は私の言葉を聞いてこちらに向けていたジトっとした目を何度か瞬かせて驚いたように少し顎を引き、ふい、と扉の方を向いてしまった。
「そういえば、少しだけ言い残したことがありました。銀色のサナギについて……、虫もまた得たものによって生かされます。青い果実が洞窟の中にあるのなら光を必要とせず、しかし、水なしでは生きられる筈はありません。その土地、もっと絞るなら水に秘められたものはないのか、どう思われますか? 大地も海も空も、繋がっていますよね」
ぽつり、ぽつりと呟く声は不安げであった。
それは小さな子が大人の顔色を窺う様な、そんな様子。
「私が感じた疑問はこんなところです。……不確かなことを言うつもりはありませんでしたが、目が良い画家だったようで。…………はあ。もしかすると、今日の夜はうっかり窓を開けたまま練習を始めてしまうかもしれない。あーぁ、まったくもって気を付けなくてはいけない」
それは窓を開けていれば聴こえて来るかもしれないということだろうか。
彼女の瞳について、褒めた内にもはいらないような言葉だったが、気を良くする程に彼女は気に入ってくれたのだろうか。
ありがとう、そう言おうとしたが彼女がドアを開く方が先であった。
「私の目、家族は羽化したばかりの蝉の色だって言うんです。同じ色をしている癖に。…………淡い翡翠、悪くないですね」
チラリとこちらを見たのを最後に彼女は廊下を進んで去って行った。
夜、くっきりとした雲が急ぐように流れるそれには小さな星の光が見えた。
彼女のうっかりを楽しみに窓を開けて夜空を眺めていれば、暫く鈴の中に納まってくれていたラバルが姿を見せた。
「なんだか掴めない雰囲気の子だったな」
いつもの少し無邪気な話し方とは変わって落ち着いた様子で、ラバルはクトゥラトゥさんの印象を口にした。
「賢者とは、守り人とは何なんだろうね」
「リゥランが言っていただろう? 私たちも同じ人間なんだって」
嗚呼、そうだったね。
私たちは同じ人間だ。
違うことと言えば、生きていく時間だけ。でもそれは種族なんて関係ない。命の長さなんて誰にも分からない。
「ラバルもなんだかいつもと違うね」
「……村に帰ると思うと、気が引き締まるよ」
それは”人”であるラバルの自我がセコイアの葉よりも大きくなっているということなのだろうか。
「それで、月の精霊については考えているのか?」
「うん。……ひとりの友人の願いも聞いてやれないなんてさ、この先、誰かの為になる絵を描きたいなんて言えなくなってしまうよ」
「それが答えなんだな」
「うん。これが私の答え。……ラバルは反対する?」
冷たい風が頬を鋭く撫でる。
窓のフチに座るラバルはワザとらしく肩を上げたあと小さく息を吐き出した。
「やりたいようにやればいいさ。一緒に美味しいものを食べ歩くってことを忘れてくれなければね」
「忘れないよ。私だって楽しみにしているんだもの、ラバルとの旅」
照れているのか相槌を返さずにラバルは肩を竦めた。
雨上がりの夜は何て清々しいのだろうか。
夜の冷たい空気が気持ち良くて瞼を閉じれば、風に乗って銀色の音が聴こえた。
静かな水溜まりに木の葉から雨粒が滑り落ちるように、時に小さなステップを踏む音は細やかなダンスを楽しんでいる様であった。
「彼女は冬を生きていた私たちとは遠い季節にいたんだね」
演奏の邪魔にならないように、ラバルは小さく呟いた。
夜のフルートの音は、風に乗った妖精が寝静まった窓をひとつひとつ覗いて行くようだ。
穏やかで優しい。ああ、凪に乗る風の音のようでもあるな。
いま、彼女は何を想って吹いているだろうか。
「黄緑色をしたセミの皮膚が光輝くころ、はつらつとした夏が訪れる。夏は私たちにとって短い季節だったね」
「うん。……色が濃い季節でもあるよね」
「あぁ。このメロディーも、あまり馴染みがない」
異国を感じるリズムと言うべきか。
穏やかであり、不思議なメロディー。
遠くから届くメロディーを聴いて、どうしてか彼女の街での生活を垣間見ることが出来た気がした。
「でも、心が弾むようなメロディーだよ」
「うん。違いない」
胡坐を組んで座っていたラバルは機嫌良さげに膝をぱた、ぱたと動かしていた。
「羽化したばかりの蝉は、宝石のように美しいね」
故郷を想っていた時の様な表情とは変わって、ラバルの横顔は優しげに真っ直ぐと夜空を見つめていた。
それがなんだか嬉しくて、私も彼と同じように夜空を見上げて美しい音色に耳をすませた。
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