第七話
2023.4/30 漢数字を修正しました。
2022.12/20 一部修正いたしました
朝、目覚めると昨日と変わらず何処も彼処も懐かしい香りがした。
髪も梳かさずにリビングに出て、ふと私は昨日には気付かなかった小さな思い出を見つけた。あぁ、食卓テーブルについた小さな傷のひとつひとつでさえ懐かしい。その傷のひとつを指の先でなぞってみると当時のことを思い出した。
こんな小さな傷のことさえ覚えていられた。そのことに気がつくと、私は嬉しくて鼻歌交じりに珈琲を淹れる為のお湯を沸かす。
私は覚えていた。
小さな、小さなちっぽけな記憶さえ覚えていたんだ。
ご飯を食べ終え、家の中で育てている観葉植物の葉についた水垢をふき取ってやれば一枚一枚が気持ちよさそうにしているように見えた。
今日は快晴。
こんな日は折角なら外に出ようかと思い立ち、私たち三人に気を使うように静かにしてたルカさんを道連れにして散歩に出た。
手始めに家の辺りを案内しながら目に入る花の種類をひとつひとつ教えてあげると、ルカさんはそのひとつひとつに頷いて聞いてくれた。
今日の私はきっと面倒臭い。自覚はあるのだが、この時の私はどうしてか彼にこの町のことを教えてあげたいという気持ちが勝っていた。
家から少し離れた場所に辿り着くと草原と小高い丘の境目を見つけて思わず指をさす。私は山や丘の境目を見るのが好きだ。意気込んで登りたくなるのだ。
丘のてっぺんから町の方角を見下ろすと、テオたちの家は大きな花の庭に囲まれているがよく分かるのだが、それがまた、まるでおとぎ話に登場する家のよう見える。そう教えてあげると彼は明るい声で「へえ」と二度ほど頷いた。
「テオは足を悪くする前まではよくこの丘に登っていたんだよ」
「シズリも一緒に?」
「うん。でも、彼は一人で登りたがることが多かった」
彼は小さい頃から家族を持たずにいた人だから、此処から見える景色は特別で、少し寂しい気持ちにさせたのかもしれない。
未だに分からない感情。幸せなのに寂しいとは、何故なんだろうね。
私たち人間は寂しがり屋だ。
「登る?」
「……帰ってきたらにしようかな。その時はぜひ一緒に登ろう。あそこから見る景色は実に良いものだよ」
もし、私が帰って来ることが出来なければ、代わりに見に行ってよ、なんてことは言えなかった。約束をしてしまえば私はそれを果たそうとするだろうから、諦める道を絶つにはあまりにも便利なも言葉だと思った。それにきっとそんなことを言えば彼は傷つくだろう。
「シズリがいないなら登らないからな。約束だぞ」
「はい。……ふふ、ルカさんはそういう人でしたね」
「あ、敬語抜けたと思ったら戻したな」
「そういえば……」
家に帰って来て気が抜けていたのだろう。
あの家にいる時は仮の名前なんて存在せず、私は私でしかなかった。
「怖いなあ」
自分らしくいることは、少しだけ怖い。
私は我儘だね。
自分らしく在りたいと願うことも怖いと言うんだから。
「怖いなんてことがあるか。俺は嬉しいよ」
嬉しい、か。
ルカさんは昔から私の言葉を肯定してくれる。
何故なんて考えるのはあまりにもわざとらしい。
風によって草原は波打ち、大きな獣の背に乗っているような気分になった。きっと彼にそれを言えば笑って頷いてくれるだろう。彼の周りは穏やかに時間が過ぎてゆく。
自分以外の人が見えている景色を言葉から思い浮かべることが出来るのは素晴らしい。例えばこの世にはない景色の話をしたとして頭の中でその景色を見たならば、私たちはその景色を”見た”と言うことが出来るだろう。
「やっぱりさ、登らないか?」
いつもなら引き下がるルカさんが珍しく食い下がった。どうして? そう問いかけるように彼を見つめると健康的な緑の波の中で最も太陽の反射光に近い色をした瞳が楽しげに弧を描いた。
甘い午後の色をした色。陽だまりのリビングで体を丸めて眠ることは至福。円やかに惑わされそうになる。
「だってシズリ、今てっぺんから見た景色を想像しただろ? やりたいことは後回しにしてちゃ駄目だよ。思い立ったらやらないと」
知らないこともやらないことも、後を過ぎてしまっては後悔しきれない。彼はそこまでは思って言ってはいないだろうが、私の言葉を付け加えるならば、あの時にああしていれば……なんて、滑稽。
幾度も美しい景色を見た。
何人もの美しい人たちを見た。
彼の背にある小高い丘を登れば平凡だがそれもまた美しいと思える景色が見える。何にも邪魔されることもなく、どこまでも広がる空を見ることだって出来るだろう。
草原には小さな花さえ咲いておらず、ただただ平たい草が生えているだけ。その草に足首を飲まれて、辺りに木もないから吹く風が少しだけ強く感じた。
飾り気もない原っぱで、少しだけ高いだけの変哲もない丘を背にしてこちらを振り向いて笑っている彼の姿が、どうしても絵の中に閉じ込めてしまいたい程に綺麗だった。
わたしは、今、この瞬間を描きたいと思った。
手元に紙がないことが悔しい。
……嗚呼、そうか。奇跡的な一瞬を収められる物が写真なのか。
今更、過去でしかないと否定したカメラを便利だと感じて、なんだか自分の中では新鮮で可笑しかった。別にその存在を忘れていた訳じゃない。一寸の狂いもなく見たものをうつす写真に現実を突きつけられるような気になったりもしたが、正しく過去を覚えていることの何が悪いと思ったのだろうか。
いいや、悪いなんてことは思っていなかったはず。ただ、ありのままのものを失くした気になって悲しくなったんだ。愛しい人が写っている横に自分も笑って寄り添っていたら素敵にはならないだろうか、と。それを叶えることが出来るものが絵だっただけ。しかし、そんな理由で手に取るのを躊躇するには勿体なかった。
だって、過去はいつだって愛されていたじゃないか。
「……最後になるかもしれないものね」
「そういう言い方するなよ」
捻くれたことを言う私にルカさんはあからさまにムッとした表情を見せた。そんなのはお構いなしに、私は彼の手首を握り歩み進んで、横に並んだのと同じタイミングで手の甲に手を滑らせ、追い抜かす時に別れを惜しむように指の先を手放した。
私たちは仲良く手を繋ぐ間柄ではない。私はそう思っている。
しかし、なんだか彼の手を引いて丘に登りたい気持ちになったのだ。ごめんね。
「なんだ、手を引いてくれるんじゃないのか?」
「その方面にはまだ消極的でいたいんです」
「線を引く時に敬語に戻るのはやめてくれよ」
ズンズンと丘の方に進む私の後ろを着いて来るルカさんは、やれやれ、なんて顔をしているのだろう。
うん、きっとそうだ。思い浮かべるとしっくり来て、吐息の様な小さな笑いが零れた。
幾度も美しい景色を見た。
何人もの美しい人を見た。
自分にとって大切なものとは多くの人を魅了する景色では無くても、至って平凡であっても美しく見えるのだろう。
そして、いつまでも見たものを忘れずに覚えていたいと強く願う。どうか心の底でいつまでも大切に在り続けますように、そう刻むようにして。それはまるで今朝、指先でなぞった小さな傷みたいだと思った。
風が葉っぱの香りを運んでいた。
青々とした香りとは、香りに色の表現を付けた人は凄いなあ。
足首の辺りでそよそよと揺れる葉っぱが直接肌には当たっていないのにこそばゆい。
何もない場所。
何も変わらない、道なき道。
テオはいつも私の少し前を歩いていた。彼の後ろ姿を見上げていると、やんちゃに癖毛が跳ねているのがよく分かった。
足を悪くした後に一緒に登った時、私は彼を支えるようにして横に並んでいた。
一人で登っていた時よりも不自由を感じるはずなのに、彼は真っ直ぐてっぺんを目指した。いつだって彼からは力強い生命力を感じた。
もし彼が私の様な境遇にあっても、あの眼差しは輝き続けるに違いない。
デイジーと登った時は少し息を切らす彼女の華奢な手を引いて登った。私とテオに遠慮をしていたのか、彼女は私たちと共に登り、丘の上からの景色を見たことがなかった。
この丘は特別な場所に変わりないが、特別な場所として"二人締め"したかった訳ではない。
私はデイジーにもあの丘からの景色を見て、綺麗だね、と共感して欲しかった。その願いは彼女によって容易く叶えれたのだが、私はそれがとても嬉しかった。
丘の上から自分の家を庭を見下ろして嬉しそうに無邪気に笑った彼女も美しかった。
この丘から見る景色はいつだって美しい。
見栄えするものも、目新しい何かが見える訳でもない。
季節に色を変えるだけの景色が広がっているだけであった。
草の香りがする風に合わせて後ろを振り向くと、私の視線に気が付いたルカさんが「うん?」と小さく笑ってこちらを見上げた。
彼から見える私の後ろ姿はどんな風に見えているだろうか。
そよぐのは緑色ではなくて、夕焼けに輝くすすきの黄金。
大丈夫。
きっと私は忘れない。
たとえ一枚、一枚と花弁が散ってしまっても花が咲いたことを無駄だと思う人がいないのと同じように、私たちが生まれたことも、出会ったことも無駄だと思う人はいない。
私たちは平凡な丘を登る。
それを無駄だと言う人も、いないだろう。
「それじゃあ」
何もしないで過ごした一日はあっと言う間に終わってしまった。
彼らと過ごした日はなんら前と変わらず穏やかなものだった。
私は自分と葛藤するあまりにその居心地の良い場所を出て旅をしていたのかと、不思議な気持ちになった。
「用事が済んだら直ぐに顔を見せに帰ってこい」
「うん」
私の姿を焼き付けるように見ている心配そうな目がこれを最後にするなと訴えていた。
「シズリ」
一歩、私に近づいて手渡された紙袋。
中を確認すれば随分と暖かそうなマフラーが入っていた。
「故郷は寒い場所なのでしょう? 体を冷やさないようにね」
「……うん」
胸に込み上がるものがあって一瞬息が詰まった。
どうしてこんなに優しい人達の元を離れたのか、不思議に思った。
私は自分が生き続けることを少しだけ許容することが出来るようになったのだろうか。
「デイジー」
彼女の首に手を回して柔らかな体温を忘れないようにと、頬を擦り寄せる。
「テオ」
彼女から離れて、テオも同じように抱きしめる。
この人は一緒に旅をしていた頃に比べると、随分と細くなったなあ。
「テオドール」
彼の頬にも擦り寄れば子供の頃によくして貰ったような手つきでポンポンと頭を撫でられた。それが懐かしくて、嬉しくて抱きしめる力を一層強める。これが最後かもしれないのだ。今ばかりは離れることがあまりにも名残惜しい。
しかし、私は行かねばいけない。今度こそ自分の為に。
存分に抱き着いたあと体を離し、一歩、二歩と後方に下がる。
「二人とも、愛してる」
人と精霊の争い、人と人の争い、争いの後の人の営み。私は過去のことばかり知っていた。
未来のことは皆と同様に分からないことばかり。未来は望んだものを与えてくれるとは限らない。
強く願うことは、再び此処に帰って来て「ただいま」と言いたい。たったそれだけのことなのに、叶えられるかは分からないのだ。
「いってらっしゃい」
さあ、もう行かなくていけないよ。そう言い聞かせるように、花を揺らすように私の体を風が優しく押した。こういう時って、さようなら、なんて言葉は似合わないよね。
いってらっしゃいと言われたなら、返す言葉ひとつしかない。
「いってきます」
後ろ髪を引かれる思いだったが、私たちを乗せて馬は駆ける。
「実はさ、家に帰ったら会わせたい人がいるんだ」
行きの時とは変わって沈黙の中、窓の外を見つめていればルカさんが重たそうに口を開いた。彼に視線を向ければ元気をなくし萎れているように見えた。何事かと見つめれば、ルカさんはこちらをチラリと見たあと組んだ指に視線を落とした。
「二年ほど前から、東にある花盛りの町の領主を代々受け継いでいる家系の子が居候しているんだ」
「領主ということはルカさんのように特殊な仕事を担っている方なのでしょうか?」
「彼女は四人兄弟の三番目で上に兄と姉が、下には弟がいてね。家自体は兄が継ぐそうなんだけど、家の為になることを見つけたいと言って交流も兼ねて我が家の仕事を見たいと申し出があったんだ」
「勉強熱心な方なのですね」
「あぁ」
家族の為に出来ることを見つけたいとは、なんて健気なのだろうか。
「その家の方々はどんなお仕事をされているのですか?」
「領地で管理している山に毎日登って、滝壺の水を汲んで花の妖精に献上するんだと」
「毎日、ですか」
「うん。風が吹き荒もうが、雨が降ろうが毎日だって」
毎日……。
あくる日も山に登って水を汲んで降りるなんて想像も出来ないほど大変なことだろう。そして、その土地からは離れることが出来ないこの人達は何かしら不自由だ。
「花の妖精は恩恵としてその土地で育つありとあらゆる植物に活力を与えてくれるらしい」
私たちを乗せた馬車が木々の間を抜けると朝のはつらつとした太陽が斜めに窓から射し、力強いその光は影との境目をくっきりと作った。
「人のみならず、植物が元気に育つことは全ての者にとって健やかに生きる術となる」
白い光があまりにも眩しくて目を細めて彼を見つめると、彼の方は顔に影が被っており難なくこちらを見つめていた。
「その家は男児には水を汲む者の名を、女児には銀の奏者の名を付けるんだと。彼女の名前はクトゥラトゥ。フルート奏者だ」
聞き慣れない名前だ。
東のほうには数回しか行ったことがないから馴染みがあまりなかった。
「水を汲む者は花の精霊に水を献上し、銀の奏者は虫を統べる。……銀色、虫、これを聞いてどう思う?」
「虫を統べる……ですか」
「シズリが見たものについて、何か知っているかもしれない」
しかも、その彼女身内に賢者がいるそうじゃないか。
……もしかすると彼が私に三日間の猶予を与えたのはその彼女が何らかの用事で家を出ていて、帰宅するのを待つ為だったのだろうか。
そうだとしたなら、私に気持ちの整理をさせつつ有益な情報を持っているかもしれない人物とのコンタクトを上手いことセッティングしたことになる。
抜け目がない人。
「お心遣い痛み入ります」
改めて頭を下げてお礼を告げると直ぐに顔を上げるように促され、顔を上げて見れば居心地悪そうな顔をしたルカさんがいた。とはいえ、私だって返しきれない程の恩恵を頂いていてちゃんとしたお礼もしないでいるなんて出来なかった。
「そんな大したことじゃないって。彼女がこちらの家に来たことはご縁があったことだ。俺の家だけでは無く、貴女にも」
どうしてこうも謙虚でいられるものなのか。
私は彼の出来た人となりについて感心してばかりであった。
「水と植物、そして虫。生き物にとって大切な要素が備わっているよな。話に聞くと東の地方は育つ植物の形がこちらとは少し異なっていて、咲く花もまたこちらとは違うのだと。……虫も植物にとって大切な役割を持っているよな」
虫がいなくては受粉が出来ない植物もある。
私はその通りだと頷くが、ルカさんは少しだけつまらなそうに尖らせた口を手で隠すように窓に肘をついた。
「…………こっちのイチジクにはあまり必要ないけどな」
彼の反応がいまいち理解出来ず首を捻るが、ルカさんはそのまま黙り込んでしまった。
流れゆく景色を眺める瞳で何を見ているのだろうか。
どちらかと言えば人好きである彼のその反応は不思議でならなかった。
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