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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十二章 再会
56/63

第五話

2023.4/30 一部の漢数字を修正しました。



「ヤキモチなんて焼いていない癖に」


 デイジーが淹れてくれた甘いロイヤルミルクティーの表面を口に含みながらわざとらしく拗ねたような顔を作って見せれば、彼女はクスクスと笑いながら手作りのクッキーをさくりと噛んだ。


「あら、それはどうして?」

(とぼ)けても駄目だよ。目が楽しそうに笑ってる」

「ふふ、そう? ごめんね」


 愛らしい草花の模様が描かれた紙ナプキンに(かじ)りかけのクッキーを置いてじっくりと閉じた瞼を花弁のように開けば、少年少女の頬が染まるような薄桃色の瞳が私の姿を視界に(とら)える。

 

「貴女に劣等感を抱くのもヤキモチを焼くのもし尽くしてまったわ」


 クッと目元で弧を描く瞳は愛しさと諦めが(にじ)んでいるように見えた。私はその視線から逃れるように握っていた温かなティーカップから手を離して、揺れるカップの中身を見つめる。

 

「ねぇ、ずっと疑問に思っていたのだけど。デイジーはどうして苦労をしてまで私を大切にしてくれるの?」


 ()わば私は恋敵。

 (いく)らテオが誠実な男であったとしても、以前恋慕(れんぼ)の情を抱いていた相手が近くにいるなんて……、心が疲れやしないのだろうか。

 

「そうねぇ」


 物(ふけ)るような言い方をして彼女は天井を見上げた。

 その視線を辿っても、私は彼女が見ている景色を見ることが出来ないだろう。


 すっかり細くなってしまった彼女の体の線を辿る様に見つめる。

 

「貴女が自分には不幸が似合っていると言いたげな顔をしていたから、かな」

「……そうだっけ」

「そうだったわよ」


 すっかりおばあちゃんであるのに、悲劇のヒロインを演じるのは恥ずかしいものだ。彼女が持った私の印象があまりにも幼稚であり、気まずさと居心地の悪さを誤魔化す様に鼻の頭を掻いた。


「私はね、テオドールに恋をしたの」

「うん」

「優しくて、頼りになって、可愛らしい人に恋をしたのよ」


 同意するように深く頷けばデイジーは嬉しそうに目を細めた。


「あの人の全てを知りたかった。幼い頃のこと、絵のこと、旅のこと……、そして貴女のこと。あの人が大切に想っている人を私も想いたかった」


 彼女の健気な想いを聞いて眉間に力が入る。


 彼女にとって私は恋敵であった。だから、あの時は私はテオドールの元を去ることが二人の幸せだと信じてやまなかったのだ。

 それなのに、私の手を先に掴んだのは指先のタコが硬い手ではなくて、指先が冷たくてか細い手だった。


「貴方達の元に慰めを求めて人がやって来るように、花屋に来る人は幸せを買いに来るのよ」

「うん」

「私はお花屋さんをしている両親の元に生まれ育って、今も現役。この環境の中で育った私にとって家族や友人の幸せを心から願うことは必然で、貴女だけがその中にいないなんて、そんなことないじゃない」


 旅の道中、私とテオはこの町にやって来た。

 各々必要な物を買いに出かけ、夕方になり後から帰って来た彼の顔を見てピンときた。


 彼は素敵な人と出会った、と。


 歯切れの悪い返答、交じり合わない視線。

 しっかりとした性格をしているのに多くの買い忘れ、そしてちょっぴり赤くなった耳の先の全てが物語っていた。

 これでも私は旦那がいて子供もいるのだ。孫だっているお婆さんの目は誤魔化せないよ。


 きっと彼はこの町に留まり、花が群生するように可愛らしい花畑を作ることだろう。

 彼女こそ彼の全てを愛してくれる。そう確信した。そしてそれは間違いではなかった。


 デイジーの言葉が嬉しくてもう一度深く頷く。

 

 陽だまりの中で開かれた小さなお茶会。すっかり懐かしめるほどこの家の香りは私の鼻によく馴染んだ。我が家の香りとでも言うべきか。


 この家は今の私が唯一「ただいま」と言える場所となった。


「家族の……。……旦那の話をしても、いいだろうか」


 心の中で生き続けている、私の大切な人。

 私がいて、彼がいて、そして子供たちがいる。そんな有触れた話を今更彼女に聞いて欲しくなった。

 気恥ずかしさもあってごにょごにょと「出会った頃の話というか……」と口籠る。

 

「聞かせて?」


 ちらりと様子を伺うように見た彼女は私の話を心待ちにするように、その愛らしい薄桃色の瞳を優しげに細めてこちらを見つめていた。


「……私と旦那は同郷だったの」

「幼馴染だったの?」

「そう」


 私はまるで心の中を歩くように、深い場所まで意識を向ける。

 遠い場所からざくり、ざくりと雪を踏み締めるような音が聞こえる気がした。


「……冬が長い土地だった。冬を生きることは厳しくて、私たちは子供の頃から周りの人と力を合わせることの大切を教えられたの。……足元の空洞に気づかず歩いて穴に埋もれてしまったり、軒下(のきした)の雪を退けようとして家と雪の隙間に体が入ってしまったり。……春はそうした人たちが雪解けと共に見つかった。ともかく、冬は危険だった。家が雪に押しつぶされない様にすることも、歩く道を作ることも、一人でどうにかするにはあまりにも過酷だった」

 

 すっかり霜焼けの(かゆ)みを忘れてしまった手の甲と指の先を撫でたあと軽く握る。

 暖かな家の中にいれば安心かもしれないが、安全な場所を確保するには外に出なくてはいけない。冬に眠り就く野の獣とは違い、私たちはどんなに寒かろうが安全な生活を続けて行く為に行動していかなければいけなかった。

 

 雪解けの季節に育てた野菜や果物は貴重で、保存をきかせて新たな年の雪解けの季節が来るまで食べきってしまわない様に質素な暮らしを続ける。地面が見える季節まで、花が温かな風の訪れを教えてくれるまで、山が緑に笑うまで。

 私たちは(かじか)む手を(こす)りあい、温かな吐息で凍える指先を温め合う。


「人口が多い村ではなかったから、だから、彼と恋に落ちたのは必然だったのだと思う。……多くの選択肢を得られることは嬉しいのだろうけど、私は限られた選択肢を得られたことが嬉しかった」


 あの時の喜びを思い出すように、ロイヤルミルクティーの甘い香りを肺一杯に吸い込む。

 暖かな部屋の中で、私は優しい香りを鼻の奥で刺激してゆっくりと瞬きをした一瞬に村の景色が見えただろうか。


「私は彼のことが今も大好き」


 彼と育んだ愛を未だ過去にすることが出来ずにいて、私のそんな苦悩を時間は解決してくれないまま。


 ――シズリ。


 瞼を閉じればいつだって彼に名前を呼ばれた気がした。

 彼の声はこんな声だっただろうかと疑問に思うこともあるのだが、もう、確認することは出来ない。だから私は答えを知る術がないまま彼の声を想像する。

 その声は落ち着いた低い声で、優しい音。たしか、そうだったのだ。


「長い冬が終わるころ、山には辛夷(こぶし)の花が春を手招く様に咲くの。小さな可愛らしい花を二人でよく見に行ってね、そして(ふもと)にある村を暫く眺めた。彼も私も白い景色の中で家々の煙突から上がる白い煙を見るのが好きだったの」


 降り続ける綿毛のような柔らかい雪の中で「あそこの道は明日には埋まっているな」とか「今度村に外の人が来るから馬小屋は綺麗に雪を掻かないといけないな」とか他愛もない話をした。


 あの頃は明日を見つめて、冬を越す為にその時その時を必死に生きていた。


「辛夷の花はここら辺ではあまり見られないわね」

「……此処は温かな場所だから」


 この町は私がいた村とは違い冬の季節が短い。

 熱帯の植物も扱い方を守れば上手に育てることが出来る。

 冬が訪れたとて、身長を超す程の雪が積もる訳でもない。温かで人に優しく、住みやすい町だった。大好きになった町だが、此処では故郷の凍てつく風を思い出すことは難しい。


「家族のように育った私たちの関係は彼からのプロポーズによって変化した。雪掻きをするため朝一に私の家に来て、私が扉を開けて直ぐに結婚をしようって、彼言ったのよ?」


 着膨れするくらい防寒をしっかりして彼が来るのを待っていた。時間になりノックの音が聞こえて扉を開ければ同じように着膨れをした彼が立っていた。

 そして私の「おはよう」の言葉に返って来たのはこれまでの人生で聞いたこともない言葉。特別な言葉だった。


 ――結婚しよう。


 彼は突然そう言ったのだ。

 朝の挨拶を返してくれる訳でも無く、至ってシンプルで特別な言葉を。

 家の中にいた家族は気づいた時には酷く静かで、多分息を潜めていた。私以上に緊張した面持ちで玄関で向き合って固まる私と彼を見守っていたのだと思う。


「私、驚いちゃって始めは何て言われたのか理解が出来なかった」

「もしかしてその日にプロポーズをするって決めていて、扉を開けて貴女の顔を見たら頭の中で繰り返していただろう台詞を言ってしまったとか」

「ふふ……、多分それが正解。だって、どうしてか彼も驚いていたんですもの。それで、その後は一言も話さず家を出て村の入り口から雪掻きを始めて……」

「うん」


 デイジーは楽しそうにテーブルに肘を立てて合わせた手の甲に頬を乗せて微笑んでいた。その仕草や表情はまるで恋の話に花を咲かせる少女のようであった。


 彼の名前を呼んで先程の言葉を聞き返そうか迷ったが、いつも通り雪を掻く彼の姿を見ていると聞き間違いだったとしても良いかと思った。例え聞き間違いだったとしても私たちの関係は変わらないと思ったから。

 でも、彼はその日をいつもと変わらない日として終わらせる気はなかったらしい。

 

「少し休憩をした後、いったんお昼ご飯を食べる為に各々の家に帰ろうとしたとき、もう一度同じようなことを言われたの。結婚して欲しいって」

「素敵ね」


 ――して欲しいなんて、私の方こそ貴方以外考えられないのに。

 ――そっか。


 休憩場所にしていたのは村の集会場。

 昔の村人の一人が作ったと言われている美しいステンドグラスの鮮やかな光だけが、互いを特別にしようと誓いあう私たちを見守ってくれていた。


 ――……なら、これまで通り一緒に幸せでいよう。

 

 へとへとに疲れて、長時間冷気に当たっていた為に赤くなった頬。真っ直ぐこちらを見下ろしていたアーモンド色を私は忘れない。忘れることが出来ない。

 人は人の何処から忘れていくかと聞いたことがあったか。


 そんな問いに一般的な話なんてなんてものは無かった。だって、人は忘れないように必死になるものだと思うから。

 では生きていく者には何が残るのか。

 

 私には、彼の瞳が残った。


「世間ではもっとロマンチックなプロポーズを夢見るのだろうけどね」

 

 私たちは柔らかな鹿革の手袋をしたまま恐る恐る両手を握り合った。それだけで心が満たされたの。

 

「着飾ることも嬉しいけど、実直なことは大きな信用に値するわ」

「……そうだね」


 ロマンがないと言われるかと思ったが、私も彼のプロポーズは素敵だと思っていた。

 好きな人の言葉なら装飾なんて気にならない。彼の言葉、そしてその言葉の意味が掛け替えのないものだから。

 恋が魅せる世界なんて、きっとそんなものなのだろう。


「それから私は彼の家で生活することになるけど、環境は全然相変わらずで順調に平坦な人生を歩んだよ。旦那は寒い季節であっても眠らない野の生き物を狩り、私は下処理されたその肉を使って料理をしたり、暖かな衣類などを作った。動物の毛皮はかたくて子供に着せると筒のように寸胴になってね、それがとっても可愛いの」

「それはぜひ一目見てみたかったわぁ」


 筒のように寸胴な子供を想像しているのかデイジーは可笑しそうに笑った。


「姉さんも、可愛かったじゃない」

「ロザリー?」

「うん」


 見てみたいと言うが、私と彼女が共有できる愛らしさは身近にもあるではないか。

 姉さんは姉さんだけど、でも、子供の視線から見る姉の姿はとても愛らしかった。貴方たちの子供なんですもの。色眼鏡を掛けていると言われてしまうのだろうが、姉さんが真っ直ぐで可愛いのは当たり前のことだった。


「私に世話を焼く姿も、大切にしてくれている姿も。……姉さんの姿を見て何度も娘を思い出したものだったよ。姉さんにとって私は妹なのに」


 少しだけお転婆で、テオと同じ明るい黒髪の柔らかなくせ毛をふわふわと風になびかせて、私の少し前を歩いては振り向いて名前を呼んでくれた小さな姉。


 ――シズリ、こっちこっち! こっちにいらっしゃい。


 世話を焼きたがる姉は私がいつまでも捨てられずにいたシズリという名前を何度も、何度も呼んだ。 それは忘れてはいけないと言われているような気さえするほどだった。

 

 小さな手が成長して大きくなっても、相変わらず彼女は私の手を引いて可愛がってくれた。


 当時四歳だった彼女は、老いた私の皮から産まれ直した私を見ていたというのに。


「私たちが考えるよりも子供の方が寛容(かんよう)で、事実を事実として受け入れられるのでしょうね。……生まれ方なんて関係ないのよ。どんな光景を見たとしてもあの子にとって貴女が妹であることは(くつがえ)らなかった」


 影が差すように、肘を付いている片方の手の甲に唇を押し付け僅かに瞼を伏せるデイジーの姿を見て、私を受け入れた姉の偉大さを知った。彼女は、たとえ誰が何て言おうが私を妹として受け入れてくれるのだと思う。

 

「さっきも言った通り、テオドールの大切な人を大切にしたいと言った気持ちに嘘偽りはない。でも、潜在的にあった小さな取っ掛かりが完全に振り払われたのは貴女を愛する我が子の姿を見たから」


 私の様な異質な者を誰も彼もが受け入れられるほど世の中は優しさだけでは出来ていない。そんなことは良く分かっている。

 だからこそ笑顔ばかりが思い浮かぶ彼女の苦悩に満ちた表情は私の心を熱を持って刺した。

 

 デイジーにとって私を家に招いたことは、苦難をも招いたことだろう。


「私だって取っ掛かりがあるなんて思いたくなかったわよ。だけど、貴女が過去の話をしてくれたのにその気持ちが全く無かったと言い切るのは、違う気がする」

「分かってる。分かってるよ、デイジー」


 私の過去を聞いたからといって彼女がこれまでやって来たことを疑問に思い、自身を責めるなんてことはしなくて良いのだ。

 彼女は私を一人の人間として扱ってくれた。それだけで十分なのに、今もこうして友人として、母親としていてくれている。私はこれ以上何を望めるというのか。


 それ以上言わなくても良いと彼女の名前を呼ぶが、視線は交わらなかった。


「……ロザリーが貴女を愛している姿を見て決意したの。貴女達二人を分け(へだ)てなく我が子として育てようと、そう……、誓ったのよ。自分に。そして、愛の精霊さまに」

「愛の、精霊……」


 幼い頃、デイジーが姉と私に繰り返し読んでくれた絵本。その中に登場した愛の精霊さま。優しくて綺麗な精霊は愛を持って、愛に誠実でいて、愛に清く生きる人を見捨てはしない。そう描かれていた。

 このお話もまた小さな国の王様に並んで人気があるお話であり、私もまた我が子に繰り返し読んであげていた物語であった。


「なんて、なんだか大袈裟に聞こえるけどそんな大それたことじゃないわね。だって、出会った頃を思い出せば分かるはずなのよ。それはもっと簡単な理由」


 今思い出さねばいけないような様子でデイジーは小さく唸り、暗闇の中で糸を手繰り寄せるように、過去に抱いていた己の気持ちを探っていた。


「……何故シズリを受け入れたか。理由はもっと明快なものだった。そうよ、やっぱり同じような言葉でしか言い表せやしない。どんなに考えたところで理由はこの他に思い浮かばないわ。……でも、言い方が違ったみたい」


 自問自答を繰り返すように、デイジーはふるふると首を横に振ってきつく瞼を閉じた。

 辛そうな彼女の姿を見て、私は成す術もなく次の言葉を待った。

 自身の胸元の服を掴み不安を耐えたかったが、その衝動を抑える。


 彼女が導き出した言葉を、感情を、これまで抱いていたであろうことを知るのが怖いのだと思う。

 

「私は、貴女に身の不幸を得て当たり前だと思いながら生きて欲しくなかったのよ」


 ”不幸が似合っていると言いたげな顔をしていた”と冗談を含んで指摘した時とは打って変わって、苦しげに絞り出された言葉は心の底から私を案じてくれていたのだと、この時ようやく身に染みて分かった。

 

 私の扱いなど想像を絶するほど大変だったろうにこの人は何処までも優しくて勇敢であった。

 

 愛の精霊が愛する人とは、彼女の様な人間のことをいうのだろうか?

 その発見は、一滴の水滴が作った波紋が岸にたどり着くのを見届けた時の感動に似ているのかもしれない。とはいえ、そんな小さな出来事を見届けたことはないのだから、不恰好な頓知(とんち)を思いつくほど彼女が導き出した言葉に私は心を動かされた。


「デイジー」

「うん?」

 

 息を吸い込むと唇と喉が震えた。

 彼女の表情や声色から過去の葛藤が伝わってくるようだったが、それ以上にこんな私を深い愛情の中で育ててくれていたのだと知り、水を得た花のように心は満たされた。


 不幸だと思ったことを不幸と言い、幸福だったことを幸福であったと話しても良いのであれば、それはどれほど心を豊かにしてくれるのだろうか。


 自業自得で、ちっぽけでなんの力も持たない私が、心のままにこの気持ちを吐露(とろ)しても良いと言ってくれるなら、いつまでも、私は私の過去を愛し続けることが出来るというのか。


 デイジー。

 私自身、もう、心を隠すことには疲れてしまったみたいなんだ。


「私ね、……私は、今もね? 誰の気持ちにも応えられないの。……彼以外の人との道があるなんて、考えられないの」


 我慢していた涙が一粒だけ手の甲に落ちていった。

 清らかな愛情を前にして、絡まった心の糸を無造作に放置しておくことは己に酷く罪悪感を植え付けた。


 貴女は、愛する人が埋まる土の上で眠りに就きたいという、願いにも似た気持ちを理解できるだろうか。

 己が死した後、土の中で混ざり合ってこの世界の源に還りたいと。

 そんな壮大なことさえも考えてしまう、私の気持ちが分かるだろうか。


「この心をどうやって言葉にすれば良いか、ずっと分からなかった。……私は詩人ではないから、自分の心を表現する言葉を見つけることが出来なかった。でも、自身と向き合い、真心を持って他者と向き合うなら、寿命尽きるまで時を経ても我が心は未だ彼の物であるとしか……」


 言葉にしたところで心が納得してくれない。

 心は水を切らすこともせずに、愛情はいつまで経っても潤い続け、私の彼に対する愛は未だ枯れ方を知らずに咲いていた。


「…………私の心は、彼の元に在るの」

「うん。……そうなのね。…………そうなのね、シズリ」


 ぽろ、ぽろと加えて二,三粒涙が手の甲に落ちたところで私は漸く目元を拭った。

 年をとると涙(もろ)くなって仕方ない。


「私が覚えているわ。ずっと覚えている。……貴女の人生を、貴女が愛した人々を。そして貴女がその人たちの愛の中で生きてきたことを、私はずっと覚えている」

「う、ん」


 目を細めてこらえてみても涙は止んではくれなかった。

 ()き止めることも出来ない涙を隠すように両手で顔を(おお)えば肩に触れたか細い人の手。その温かさに心そのものが抱きしめられた。


 私の話なんて誰も覚えていてくれやしない。

 私の人生なんて歴史書に残された古い時代の記憶にすぎない。

 どんなに私が愛する人を想っても、彼はもうこの世にいない。

 人は前を向きたがる生き物だからこそ、励ますように次の愛を大切にすれば良いと言う人がいるのだろうが、私は次を催促されることが嫌だった。彼を忘れてしまえと言われている様な気になるのだ。彼のことも子供のことも、そして私自身のことも。

 優しい励ましは私から大切なものを奪っていくようにさえ思えた。

 

 否定されるかもしれない恐怖から話すことが出来なかった。そうしている内に、私たちがいる過去はどんどんと古びていった。

 自身を語るのに抽象的な言葉で誤魔化したのはそれで事足りたから。そして今まで自分のことを詳細に話す必要性を感じなかったから。

 でももし、心の中に仕舞いこんだ小さな宝箱に分厚く積もった埃を払ってくれるなら、その宝箱は本来の輝きを取り戻せるはず。

 貴女が優しい手付きでその宝箱の汚れを払ってくれるというのなら、私は安心して鍵を開けて中を見せるから、だからどうか、いつまでも見たもののことを忘れないでいて欲しい。


 私たちがいる過去を覚えてくれるなら、私の愛した故郷はこの世界にあり続けられるはずだから。


「ねえ、貴女の子供の名前はなんていうの? 教えて、シズリ。たくさん聞かせて」


 私は己の人生に満足し終えた後、長い時を経て良き友人に出会い、そして良き母親に育てられた。

 

 運命とは尊いものだ。ボタンを一つ掛け間違えれば今歩んでいる人生を得られなかっただろう。

 

 私はこの人達に生かされて今に至る。

 

「本当はね、もっと貴女の話を聞きたかったのよ」


 心を砕いて接してくれていたように見えていた彼女だったが、今が一番近く感じた。

 家族の元を去ったことによって深い孤独を得たが、私はもう、何も持っていない独りぼっちなんかではない。過去は誰かと共にあり続けるものだ。

 

 今なら自信を持って言える。

 愛の精霊は私を見放してはいなかった、と。

 



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