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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十二章 再会
55/63

第四話

2024.3/22 一部修正いたしました。

2023.4/30 一部の漢数字を修正しました。

2022.12/20 記号による表現を修正いたしました。



「出掛けるぞ!」


 朝、大きなノックと共に扉の向こうから聞こえたのは大きくて元気な声。

 いつも通りなら、私はこの時間は起きていただろう。しかし昨日は泣いたり感情が高ぶったりしたからか、ぐっすりと眠り込んでしまっていた。

 そして今、叩き起こされるようにして体を驚きに震わせて(まぶた)を開けた。


「む、むすこさん?」

「ルカだ! なんだ、まだ布団に入ってるのかい?」


 ルカさんは扉の向こうでハキハキと喋る。

 嗚呼、目覚めが良いのは彼の長所だったな。どんなに早起きでも直ぐに活動的になれることは羨ましい。


 私を起こすことに抵抗はないみたいだが、彼は勝手に私の部屋に入って来ることはなかった。


「外出の支度が済んだら声を掛けてくれよ」

「ど、何処に行くのです」


 猶予(ゆうよ)を貰った三日間は私が賢者になるかどうかを考えて決める期間だった筈なのだが。


「デイジーさんの家だ」

「……え?」


 今、デイジーと言ったか? その、デイジーと言うのは、あのデイジー?

 いや、”あの”デイジーしか見当がつかないだろう。なんていったって彼にとって私が良く知るデイジーは彼の伯母にあたる人なのだから。

 しかし何故こんな唐突に行くことになったのか。ベッドの上で首を傾げても思い当たることがなかった。水もつけず、(くし)さえ通していないクセ毛の髪の毛を大雑把に搔く。

 

 まあいい。今回は無償で泊めて貰っているのだから今日は彼が望むことをしよう。


「デイジーと、テオの家かぁ」


 彼のサプライズは楽しみと緊張が手を取り合って私を囲むようにして軽快に踊り合った。想像するは、今回の装飾音は息継ぎ無敗のイリアン・パイプスに任せて、リズムを叩くはバウロンとスプーンズ、そして手拍子。主旋律はティン・ホイッスルとフィドル。途中からコンサンティーナ奏者が手を取り回る踊り子を囲うようにして陽気に逆回りはじめる。

 軽快な音楽の中心に辿り着いたら終わり、奏者が飽きるまで踊りの輪から逃れられない。


 なんて、ね。

 夢の続きを話すような思考回路を破り捨てる。


「……服」


 旅続きといえ一着や二着お洒落な服は持っている。

 どうだろう、久しぶりに会う彼らを安心させるために少しは華やかさを(まと)って行こうか。


 未だベッドから出ずにパンパンに膨れている鞄を見つめる。


「たまにはそれも良いか」


 特別な人に会うのだ。たまには良いだろう。

 たまには、たまには……うんとお洒落を。




「これはこれは」


 服を着替えて顔を洗い、髪の毛を纏めて談話室に向かえば新聞を広げてソファーでくつろいでいるルカさんがいた。

 全く。声を掛けてくれというのであれば、何処にいるかくらいは教えてから離れて欲しいものだ。


「なんです?」


 開いたままの新聞を膝に置いてキョトン顔でこちらを見つめる彼に首を傾げる。


 ……髪、崩れているだろうか。

 結んだ髪の毛の表面を撫でるように触って確認をしてみるが、そのようなことが起きている感触はない。


「薔薇の海」

「え?」


 今日は朝から間が抜けた反応ばかりしてしまう。

 それもこれも、思ったことをそのまま口に出しているだろう彼が悪い。えぇ、そうよ。彼は随分と”気を楽”にしている様子なんだもの。


(まぶた)のふちの色」

「薔薇の花束のことをいっているのですか?」

「なんだ、知らないのか」


 分からないから首を傾げたり聞き返しているのだけど。

 しかしまあ、言葉足らずの彼が珍しくて怒るふりをする気にもならない。彼にしたら私の方が”言葉足らず”なのだろうし。

 私は、彼が言う”薔薇の海”の意味を知らないことを意思表示する為、再び頷く。


「少し紫がかった淡いピンク色の小さな薔薇をそう呼ぶんだ……良く似合うね」


 元から垂れ目である目尻を下げて甘ったらしく笑う彼に、胸焼けに近いものが胃の中でせり上がった。

 これはこれは、と言いたいのは私の方だ。

 この感じでスマートに褒められたなら、世の女性は彼を放って置かないだろう。

 彼の成長に可能性を感じられずにはいられないが、私としてはこの調子で話を進められるのは勘弁して欲しい。

 私は彼の新たな一面に驚きつつ、私のことはもう良いと言わんばかりに「ありがとうございます」とこの会話を区切る。


「それで、デイジーとは”テオドール”の奥さんのデイジーですか?」

「そう。そのデイジーさんだよ」


 畳んだ新聞をテーブルに置いた彼はニッコリ顔だ。


「どうして急に」

「背中を押して欲しくて俺の所に来てくれたんだろう? それなら、恩人である彼らの所にも行った方が良いと思ってね。(さいわ)い俺は仕事を溜め込まない主義なもので、しかも月に向かうのは二日後と来たではないか」


 ワザとらしい口調は、まるで集会場の前で聞こえて来る演説のよう。これは良からぬことを考えたものだ。


「……故郷に帰った貴女が、俺達と再会できるかなんて保証はないんだろう? ……それとも、君に相談もせずに、俺は余計なことをしでかそうとしているのだろうか」


 ご演技が掛かった態度を見せていた彼は(わず)かに(うれ)いた視線をこちらに向ける。

 嗚呼、もしかすると今朝の元気な調子は少しだけ無理をして出していたのだろうか。

 (ようや)く彼の心遣いを理解し、私は応えるように笑い返す。


「お気遣いいただき、ありがとうございます……そうですね。もう一度、彼らに会いたいです」


 元は私よりもうんと年が下だった彼ら。

 テオもデイジーも、良い年齢になったことだろう。

 

「猫がいなくなることですら寂しいのだからさ」

「えぇ。随分とお世話になったというのに、私は少しばかり身勝手でしたね」


 死の間近に猫は姿を隠す。

 亡骸を見ることがないということは、何処かで生きているのでは、と飼い主は期待を持つだろう。そして帰りを待つ者は、長い長い時間を寂しく過ごす。

 死んでしまうなら、見送ってやりたいと思うはずなのに。

 どこかで果ててしまったのだろうか。それとも今も何処かに独りで物陰に隠れているのだろうか。

 そうやって探し続けて家に帰りつくころ、どうして傍にいてやらなかったのだろうかと、私たちは悔やむだろう。


 今度こそ私が消滅するのであれば、便りなき死を迎えることも思いやりであると思っていた。

 彼らを悲しませる必要はない。私は旅を続けているのだと、そう思わせたままでもよいのではないのかと……。弔えないことは悲しいと言ったのは私なのに、自分のことになると想像力に欠けてしまう。


「サンドイッチを作って貰ったから馬車の中で食べよう」

「はい。何から何まで、ありがとうございます」

「これはポイント稼ぎだよ。どうか二日後に良い返事を貰える為に、ね」


 私の格好のことを褒めていたルカさんだったが、旅の支度にジャケットを着た彼だって、それはそれは素敵な出で立ちである。

 しかし、私はその姿に見惚れることはなかった。


「それはいけませんよ」


 ジャケットとセットの帽子を手に取り、私を振り向く彼は(いぶか)しげに首を傾げる。

 先ほどの私の反応と逆転した。私はそれが面白かった。


「ポイント稼ぎだなんて、自分から言うものじゃありませんよ。それはまるで、ワザと(いや)しい人を演じているようではありませんか。……貴方の行動は私を想ってのことでしょう?」


 小さな言動のひとつ、ひとつが、周りに己の存在を軽んじさせる理由になるだろう。

 それは時に危険で、非常に愚かなことである。たとえ、相手を立てて自身を謙遜(けんそん)する為に選んだ言葉であっても、言う必要はないのだ。

 彼は冗談めかしく気軽に言ったつもりなのだろう。「参ったなあ」と言って人差し指の腹で頬を掻いた。


「さて、そろそろ出発しようか」




 馬車の中、ルカさんの向かいに座って二人してガタンコトンと揺られる。

 日除けを退けた窓からは白い光が私たちの元に届いた。


「この道を貴方と一緒に通ることになるとは、思いもしませんでした。まるで、あの日を思い出すようです」


 流れる景色を眺めていたルカさんに視線を移すと、私の視線に気が付いたのかチラリとこちらを見て笑った後、再び外に視線を向けた。


「眩しかったら言ってくれ。日除けを下ろすから」

「はい。お気遣いありがとうございます」


 彼の視線を辿る様にして、私も外を眺める。

 遠くには町が見えた。ルカさんたち家族が住んでいる街よりも細やかな規模であるが、丸っこい住居が建つ可愛らしい町であった。

 馬車はその町を横切り、広大な畑の間を分かつ道を走り続ける。


「少し先に見えるのがイチジクの畑だよ」

「では、今、あの場所は満開なのですね」

「そうだな……此処からではあまり見えないけど」


 流れゆく景色に見えるは木、木、木。

 秘めやかに花を咲かせているだろうイチジクの木があった。


「そういえば、街にはイチジクのジャムが売っていましたよね」

「うん」

「帰りに買いに寄ってもいいですか? 腕によりを掛けてパンケーキを作りますから、珈琲のお供に食べましょうよ」


 同意を求めるように彼に視線を向けると、彼も同じタイミングで私を見る。

 先程から同じような動きが続く。私たちは少しだけ、緊張しているみたいだ。

 ルカさんは少しだけ考える素振りを見せたあと、表情を驚きのものに変えた。


「シズリが作ってくれるの?」

「はい」


 あの日、イチゴをくれた貴方にお礼をしそびれたままだった。

 言葉では感謝の言葉を伝えられたが、それでは物足りなさを感じるほどに、私は嬉しかったのだ。

 ルカさんは「それは楽しみだな」と嬉しそうに笑って頷いた。

 

 白い光が、彼の飴色の髪を照らす。

 上下した時にさらりと揺れたその一本一本が、キラキラと輝いて美しかった。


 私が眩しげに目を細めて彼を見ていると、ルカさんは、なんだ、と言いたげに首を傾げる。

 その美しい光から目を反らすように瞼を閉じる。


「テオ達に会うのは嬉しい反面、緊張します」


 ゆっくりと開いた瞼の視線は、自身の膝に落ちていた。

 下げた視線の先に映る自身の指の先を交差させてみる。

 テオという人は、私にとって偉大であり、恩人であり、憧れの人である。しかし、私たちの関係は、ルカさんが想像する以上に複雑であった。


「でもきっと、今の私を見たら少しは喜んでくれると思います……私は、以前よりも希望を見ているのですから」


 今からこんなに緊張していては、家に辿り着く頃にはどうなってしまうのだろうか。


「楽しみだな」


 頭上で、ふと笑う空気を感じて視線を上げる。

 少し変わった……いや、成長したとでもいうのだろうか。そんな私を見せられるのだ。

 それは彼が言った”楽しみ”というシンプルな言葉が全てあるように思えた。


 ニカ! と笑うルカさんに応えるように、私も目いっぱい笑って見せる。


「はい。楽しみです。……とても」


 サンドイッチを食べ終わる頃には、通り過ぎた町はすっかり見えなくなっていた。

 馬車の中で、私たちは他愛無い話を幾つもしては笑い、景色を眺めては世界の一部を見た。


「シズリは色々な景色を見たんだろう? 何処が良かったとかある?」

「そうですね……」


 何処が良かったか。

 つまらない場所なんてひとつもなかった。

 何から話そうか。

 私は指の先で顎を擦る。


「坂の上に建つ家の窓から眺めた紫色の海、海を背に汽車を追いかけるように並走するカモメ、オレンジ色の街灯の下でアコーディオンを奏でるおじさん。先が見えぬ一本道の脇で揺れる野花。どの景色も美しかったですが……こうして誰かと見た景色が一番心に残りますね」

「じゃあシズリは、今、俺と一緒に見ている景色をずっと覚えていてくれるのだろうか」

「えぇ、きっと。……ルカさんは?」


 小さな森に入ると、馬車はストライプを横切った。木々の狭間からリズムよく光と影が流れていく。

 それは(さなが)ら映写機の光のようであった。


「俺も、きっと忘れないよ。忘れられないと思う。君との旅は、夢にまで見た願いだったからね」


 影と光が交互に私たちを通り過ぎていく。

 森の香り、揺れる馬車の椅子、優しく微笑む友。

 その全てが、最期に見る幸せな夢のようであった。




「ほら、シズリ。ベルを鳴らしちゃうぞ」

「は、はい」


 二つ隣の街に辿り着き、いよいよ私たちはテオの家に辿り着いた。

 見慣れた家の扉の前にはルカさんが立ち、私は二、三歩下がった場所に立っていた。


 やはりというか、先程よりも心臓は大きく膨らんでは萎むを繰り返していた。それを抑えるように胸の前で両手を握りどうにか落ち着こうと試みるも無意味に感じた。


「シズリ」


 大丈夫だから、そう言うようにルカさんが私の名前を呼ぶ。

 いつまでも渋っている訳にはいかない。そんなことは分かっている。

 私だって、二人に会えることは楽しみだった。それに嘘偽りはない。

 しかし、その嬉しいって気持ちの中に少量の”怖い”という気持ちが混ざってしまった。水分を含むその感情は、明るい色をじわりじわりとマーブルに濁らせていく。

 マーブルが黒に近づく前に勇気を出さなくてはいけない。でないと、私の足の裏はこの場にくっついて、一歩も踏み出せなくなってしまうだろう。


「……はい」

 

 私が意を決して頷いたのを見届けた彼は家のベルを鳴らす。

 嗚呼、遂に鳴らしてしまった。

 家の周りに植えられた多種の愛らしい花が楽しげに揺れていた。花の妖精は笑っているのだろうか。私の顔を覚えている者は……。

 隅々まで手入れが行き届いた美しい庭先を見て実感する。

 私は帰って来た。

 彼らの元に帰ってきたのだ。

 落ち着きのない私は、大した意味もなく顔だけで後ろを振り向いてみる。

 後方では、私たちを乗せて運んでくれた馬車馬が、暇な様子で前足で地面をトントンと叩いていた。


「はぁーい」


 家の中から女性の声が聞こえた。

 懐かしい声だ。

 ベルの音に応えるだけの短い声であっても、私の耳は彼女をよく覚えていたようだった。

 視線を扉に戻し、私はルカさんの後ろに隠れるようにして体を委縮させる。そして、息を飲むようにして扉が開くのを待つ。

 暴れ狂う心臓を余所に、程なくして解錠(かいじょう)の音がしたあと、扉が開く。


「早かったわね」

「急に申し訳ありません」

「いいのよ。……それで」

「シズリ、ほら」


 ソワソワと落ち着きなく、服の中に隠すようにして付けている珊瑚のペンダントを服の上から握っていれば、呼ばれたのは私の名前。

 結局、私は彼女と対面するギリギリまで不安を拭うことができなかった。(すが)るようにルカさんを見上げると、彼は困った表情をしていた。

 ……困らせたい訳ではないのに、私はどうしようもないな。

 このままでいる訳にもいかない。私は決心をして、彼の横から顔を出すようにして扉を開けた女性を見る。


「デイジー」


 お久しぶりです、とか。ただいま、って言うつもりだったのに、口から出てきたのは彼女の名前だけであった。

 私たちの目の前で、大分、年を取った様子の女性が嬉しそうに笑顔を浮かべていた。その笑顔が若かりし頃の姿と、全く変わりなくて、安堵すると共に心の奥底に小さな(なまり)が沈んでいった。

 いつだって時の流れとは、残酷だった。

 現実を受け入れようと、キュっと唇を噛み、胸元のペンダントを再び握り直す。どうか、勇気づけて。そう縋るよう思いで。


「……デイジー」


 彼女の老いを感じて、私の心の中には不安が広がっていく。

 それを払拭(ふっしょく)すべく、彼女の存在を確かめるように、もう一度その名前を呼ぶ。

 彼女は私の言葉に応えるように、深く頷く。


「顔をよく見せて、シズリ」


 デイジーは一歩踏みだすと、ルカさんの後ろに隠れている私の顔を掬うように優しく両手で包み込んだ。

 私はその彼女の手に(いざな)われるようにして、(ようや)く彼の横に並ぶ。


「おかえりなさい」


 まるで安心したように耳元で囁かれた言葉に、私はグッと胸が熱くなる。

 随分と心配を掛けてしまっていたらしい。なんて、そんなことはよく分かっていたじゃないか。


「………………ただいま」


 重たげに出た言葉と共に、珊瑚を握り締めていた手を離して彼女の背中に腕をまわし、温かな胸に頬を預ける。

 ただいまと言っても良いのか。そんなことは愚問であった。

 私を抱きしめる力の強さが、私の言葉を受け入れてくれた証だろう。


「さあ、中に入って。ね?」

 

 デイジーは嬉しそうに声を弾ませていた。

 彼女に(うなが)されて家に入ると懐かしい香りが鼻を(かす)めた。

 靴を脱ぐとデイジーはスリッパを置いてくれたが、私はそれを断る。スリッパに足を入れたルカさんは、私が断ったのを見て、え? といった顔をしていた。


「こっちのが身軽で好きなんです」

「シズリは昔からそうなのよね」


 昔から。

 私は、なんだか恥ずかしくなって頬を軽く掻く。


「あなた、シズリが帰って来ましたよ」


 デイジーの声が、再会するのを僅かに畏怖(いふ)しつつも心待ちにしていた人に向けられる。

 この時、私の心臓は限界を訴えるように大きく暴れていた。

 リビングの奥に見える大きな窓の前にゆったりとした一人掛けの椅子に座っている男性が、こちらを見つめていた。

 その顔は少し逆光になっていたが、よく見知った顔の人が座っていることは分かった。


「テオ」


 私は思わず彼の名前を零す。

 少しの間も怖い。

 傍に立つデイジーをちらりと見ると、彼女は優しげな顔をしていた。そして、大丈夫だと言うようにゆったりと頷き、お茶でも入れる為か私たちを残してキッチンの方に行ってしまった。


 私の口からは「……えっと」とか「あの」なんて言葉がボソボソと出ていくだけで、終いには口を閉じてしまう始末。

 ただいまって、どうして言えないのだろうか。

 自分が情けなくて、奥歯を噛みしめる。掌を握り締めると、僅かに爪が食い込んだ。


「遅い」


 名前を呼んだ私に対して、返って来たのは予想外な言葉。彼らしいといえば彼らしいが、開口一番に聞くのが、そんな言葉だとは思わなかった。

 俯き気味になっていた顔が弾けるように上がり、視線を彼に向ける。

 私以上に驚いていたのは後ろに立っていたルカさんだったらしく、彼は「へ?」と小さく素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。


「私とデイジーに何かあったら、泣くのはお前なんだぞ」


 彼の言葉に私は顔を強張らせ、コクンと頷く。

 緊張する心臓は収まってくれやしない。暫くは落ち着きそうにもないな……。

 私は自分の心臓に半ば諦め、彼にゆっくりと近づく。


 彼の表情を薄らと隠していた影が明ける距離になり、椅子に座る彼のすぐ傍に膝を付いて肘掛けに置かれていた片手を取る。

 テオはどんな顔をしているだろうか。怒ってる? それとも笑ってる……?

 心臓の動きに体ごと揺れそうになるのを抑える。

 握った彼の手から顔を見上げると、テオは目を細めて安堵したような顔をしていた。

 彼のそんな表情を目の当たりにして、込み上がる涙を眉間に力を入れて堪えてみる。


 「嗚呼、ほら。言わんこっちゃない」

 

 しかし、無情にも涙は流れた。

 涙を止める術はなし。

 溢れる涙を拭うことを諦めて、私は握った彼の手を額にあてる。


 なんて言えば良いのだろうか。

 何を彼に話せば良いのだろうか。

 いや、まずはただいま? それともごめんなさい?


 ……私は、彼に何を伝えたかったんだっけ。


 言葉に悩んでいる間も、皺くちゃになった分厚い彼の手の上に私の涙で濡れた。

 それを振り払うこともせずに、テオは私に手を握られたままにいる。


「……苦労をしたみたいだな」


 (いた)わるような声が頭上から聞こえて、私は額を付けたまま首を横に振る。

 彼が心配するようなことはなかった。ただただ、私は心を動かされながら”普通に”生きた。

 貴方と出会った頃よりも、心は豊かに育っていったんだよ。

 それはテオやデイジーがいてくれたから。そして旅の途中で出会った人々のおかげで、私は私を探すことにしたのだ。


「テオ、テオドール」


 カチャ、と後ろから音が聞こえた。デイジーがお茶を運んで来たのだろう。しかし、私はその場を動くことが出来ない。

 鼻を(すす)り、デイジーの時と同様に彼の名前を呼ぶばかり。


 言いたいことがあった。

 伝えたいことがあるんだよ。

 そう。私は沢山のものを見て、知って、そして描いたの。

 今世の旅は不思議なことが沢山あった。

 その不思議なことは素晴らしいものばかりだった。そんなことを話したい筈なのに。嗚呼、何から話せば良いのかな。

 会話とは、どうやって始めるのだっただろうか。


 陽だまりに包まれるようにして窓際に座る年老いた彼を見て、ルカさんに話した夢の様なお話(・・・・・・)が、まるで日差しに目が慣れるように、はっきりと形が見え始めた。

 それは輪郭が描かれ始めたばかりの線の終着がない”今はまだ夢物語である”お話。


「小さな希望を見つけてきました」


 やっと絞り出した言葉は震えていた。


「見つけたばかりだから、まだ、心許(こころもと)ないものだけど」

 

 テオは握られている手と逆の手で優しく私の頭を撫でる。出会った頃の小さな手とは違う、大きいな手で。

 私はその変化が恐ろしい。

 しかし、今だけは彼の老いに怖気(おじけ)づくことは堪えよう。


「どんな希望だ?」

「生きる、希望です」


 彼の手を握り締める手にそっと力を入れる。

 死ぬことも出来ない身であるのに、彼ならこの言葉の意味を理解してくれることだろう。

 生きることを望まないまま生き続けてしまうのと、生きる理由を持って生き続けることは全く違う。そう気づけたの。

 ただ、私は形にもならない希望という光を手の内に収めることが出来たに過ぎない。

 その光が再び息絶えてしまうのか、それとも辺りを照らす灯りになるのかは、まだ分からない。

 分からないけど、今はそれが出来ただけでも私を見捨てずにいてくれた貴方たちの優しさに報いることができる気がするのだ。

 

 そうだよね? テオドール。

 

 私は、許しを()うように彼の手を握る手に力を入れる。

 

「そうか。……生きたいと言ってくれるのか」


 絞り出すような声に顔を上げればテオは泣きそうな顔をしていた。

 彼のその顔が意外で、私は息を飲む。

 だって、この言葉を待ち望んでいたと言わんばかりではないか。


「やっとその言葉が聞けたなあ」

「う、ん……。うん」


 (せき)を切るように涙が止めどなく溢れる。彼は、私の頭を撫で続けた。

 彼に(すが)るようにすすり泣いていると、ふわりと柔らかな温かさが背中に覆いかぶさった。

 その温もりの正体は、デイジーだと直ぐに分かった。


「嬉しいよ」

「えぇ、本当に」


 私を包むもの。それは優しくて柔らかな二人の愛であった。

 嬉しそうな二人の震える声を聞いて、この時、嫌というほど、以前の私は残酷だったと理解した。

 生きる希望を見つけることを諦めて、いつか命が終わることを願いながら、ただ在り続ける私の姿は酷く痛ましかったことだろう。

 彼らに帰りを受け入れられたことも、私の希望を受け止めてくれたこと。その全てが嬉しかった。

 そして二人のそんな姿に、私は過去の愚かな自分を叱責(しっせき)したい気持ちにさせられた。


「……そろそろ」


 デイジーに抱きしめられながら、彼の手に瞼を押し当てて幸せの余韻に浸っていると、戸惑ったような声が頭上から聞こえた。「うん?」とその声を辿る様に顔を上げようとするも、私の頭を撫でる彼の手に僅かに力が入った、気がした。

 どうして頭を押さえるの。


「もう少し良いじゃないの」

「ううん。……お茶も冷めるし」

「もう。照れ隠しが下手なんだから」


 ゆっくりと私の頭からテオの手が離れてゆく。

 その手を追うようにして顔を上げると、テオは気まずげに私を見下ろしていた。

 耳が赤い。

 昔から、テオはよく分からないタイミングで照れる。

 そんな彼の様子を不思議に思いながら、私はデイジーに視線を移す。

 彼女は立ち上がる時に、するりと腕から肩に掛けて私を撫でた。


「年老いても少年の初恋は枯れることはない」

「おい、デイジー」

「一度は娘と同じように育てたとしても、秘めやかな果実の味を知った少年の特別な想いは色褪せないのよ。貴女が私をお母さんではなくてデイジーと呼び、彼をお父さんではなくてテオと呼ぶように、私たちは”良い友人”のまま。そうでしょう? テオドール」


 悪戯げに笑うデイジーの言葉に、私は握っていた彼の手をパっと離す。

 その話は彼女から聞くことも、ルカさんの前で話されることも気まずい。

 確かに、いくら育てて貰ったとしても、テオもデイジーも、私の両親にはなり得なかった。


「えっと……あの、それはどういう意味なのでしょうか」

「ル、ルカさん」


 これまで黙って私たちの様子を見守っていたルカさんが戸惑ったように口を開く。

 テオも私と同じ気持ちなのだろう。深い溜息をついて深刻そうに濡れた手を拭うこともしないまま指を組んだ。

 私はというと、デイジーを止めれば良いのか、ルカさんに弁解をすれば良いのか分からず、床に膝たちのままいた。


「勘弁してくれよ」

「だって、久々に焼いちゃったんだもの」

「デ、デイジー」


 デイジーは、それぞれのカップにお茶を淹れ始めた。私がデイジーの名前を呼べばウィンクを返される。

 嗚呼、本当に彼女は若い頃と何も変わっちゃいない。

 私はみるみると自分の顔色が青に変わるのを感じた。

 ちらりと覗き見たテオの顔色も悪い。年寄りに心労を与えるとは、デイジーは悪い子だね……。


「あの」


 良い線まで察している筈なのに、ルカさんは焦るように誰かの言葉を待っていた。

 蚊帳の外にいる彼の様子を見て可哀そうに思ったのか、テオが再び溜息を吐く。そして私の頭を一度だけ撫でたあと、机に椅子を寄せた。


「この人には振られているんだよ。……何度も」

「それで私が傷心の彼にアプローチをして結婚して貰ったのよ」

「して貰ったなんて言い方……」


 全てのカップにお茶を淹れ終えたデイジーが、ルカさんが座るソファーに私を座る様に(うなが)し、私の分のカップをテーブルに置いて優しく微笑んだ。

 やきもちなんて、嘘ばっかり。私たちはちゃんと”話あった”じゃないか。

 私は彼女の可愛い悪戯に口を尖らせつつ、いそいそとルカさんの横に移動してふかふかのソファーに座る。


「俺はちゃんとデイジーに恋をして結婚をしたんだ」


 テオの横に一人掛けの椅子を持って来てニコニコと紅茶を飲むデイジー。そして彼女にしてやられている私と、同じように口を尖らせているテオ。その二人の様子を目を丸めて交互に見るルカさんを横目に、私もカップを手に取って一口お茶を飲む。


 まあ、なんというか。

 私からは”そういう時もあった”としか言えない。

 ……詳しくなんて話さないけど。

 前のめりになっていたルカさんが信じられないような顔をして私を振り返った。


「それにデイジーだって初恋は俺じゃないだろ」

「あら、やきもち?」

「そりゃあ……」


 戸惑っているルカさんを置いて二人はすっかり甘酸っぱい空気を作り上げていた。

 全く……ルカさんの前でこの話を持ち出すなら、ちゃんと落としどころを付けてよね。


 私とテオは、彼が八歳で私が二十三歳の時に出会った。

 その時、私たち二人には家族がいなかった。

 始めは、親しいお兄さんやお姉さんに向ける憧れや甘えに似た様な感情があったに違いないだろう。

 しかし、成長ともに芽生えた彼の恋心が、私に向くことは必然だったというべきか。

 彼は、はっきりと私に胸に秘めた想いを伝えてくれた。それは、彼自身が大人になったと自分を認めた頃の話しだった。

 彼は、何度も真っ直ぐと繊細な感情を私に伝えてくれた。

 しかし、私はルカさんに伝えた通り、私の初恋もまた枯れる術を知らずに咲き続けている。

 それが、その時に私が彼に出した答えであった。

 彼は、私が振り向いてくれるまで何度でも言うと言っていたが、旅を共にしながら私の初恋の花が枯れないことを知っていっただろう。そして、徐々に己の恋心に疲れていったことだろう。

 そんな中、花屋で働く愛らしい女性が彼に愛を伝えた。一生懸命なアプローチに、心は傾くというもの。

 恋とはひょんなことで落ちるものらしい。

 二人の並ぶ姿を見て、私は素敵だと思った。

 異質な私との別れにもならぬ最期を迎えるよりも、共に生きて、共に死んでいける人と幸せになって欲しい。

 大切な人。どうか人並みの幸せを。

 私の願いは、そればかりであった。

 

 テオは、私を心から想っていてくれたのだろう。

 私の身勝手な願いを誰よりも理解していた。

 だから、私たちには今があるのだ。


 デイジーだって、彼の心が私に向いていると知っているのに、それさえも受け止める覚悟をした。

 私さえいなくなれば良かったはずなのに、年老いた私を家に招き、家族として手を貸してくれたのは彼女。

 産まれ直しをした私を養子にすると始めに言ったのは彼女。

 私に世界を知るという選択肢があることを教えてくれたのも彼女だった。


 私は、二人の愛情に守られて今世に在る。

 

「この世の愛を搔き集めても、私が二人に抱く愛にはきっと敵わないよ。こればかりは、そう思っていたい……デイジーが初恋は枯れないと言ったように、私の愛だって不滅だよ。ずっと。……ずっと」


 照れくさいことを言っているだろうか。

 いいや、そんなことはない。

 これは、事実なのだから。


 私では幸せにできない人たち。

 私がいなくても幸せになれる人たち。

 この二人を命の恩人と呼ばず、何と呼ぶというのか。

 そんな尊い人たちの愛を受けられたことは、私の次なる人生の始まりであった。

 

 二人は目を丸めて、そっくりな顔をして私を見つめていた。

 そんな意外そうな顔をしなくても……。

 私は、これまでだって家族には愛を伝えて来たつもりなんだけどな。

 伝わっていなかったの? なんて思いつつも、手に持っていたカップを机の上に置かれたソーサーの上にカチャ、と小さな音を立てて置いた。


「……それで、私が此処に来た訳を話しても良いかな」


 居心地の良い空間にリラックスしきってしまう前に、私は本題を切り出す。

 大切な人だから、大切なことを話しに来た。

 私は、ルカさんに誘われて此処に帰って来たのだ。

 怒られようが、止められようが、私はもう止まることは出来ない。

 そして、己の欲を満たす為に、これまで避けて来たことを遂行(すいこう)するのだ。その上で私自身が消滅するのか、それともこれまで通り命は継続し続けるのかは分からない。

 だから、私はテオドールとデイジーに会いに来た。

 二人は、私の我儘を受け入れてくれるだろうか。


 私は先日ルカさんに話した内容をそっくりそのまま話し、二人は静かに私の話を聞いていた。


「…………”かもしれない”話は聞き入れない」


 最後まで話を聞き終えたテオは険しい顔をして椅子の背もたれに深く寄り掛かった。

 空気が重たくなるのを感じ、私は彼の顔色を(うかが)うように見つめる。


「ちゃんと帰ってこい」

「テオ」


 テオの名前を呼んだのは、デイジーであった。

 彼女は、私の気持ちを()んでくれていた。

 まるで繊細(せんさい)な花の声を聞き、充分に水が与えられているか葉の柔らかさを確認するように。

 私の心を見守ってくれる。

 彼女がテオの名前を呼んだのは、彼が私の願いを無視するように感じたからだろう。


「昔から言うように、たとえ貴女自身が死を望んだとしても俺は大切な人の死なんか願えない。俺の言葉によってシズリが傷ついたとしてもだ。……それに、もう大丈夫なんだろう? 帰って来いって言っても、もう傷つかない。そうだろう?」


 私は込み上がる感情を押し込めるように目の際に力を入れる。

 デイジーは、私が辛そうにしていると感じたのか、座り直して口を開こうとしていた。


「傷つかない」


 彼女が口を開く前に、私ははっきりと言い切る。

 私は、生きて欲しいという言葉に、容易(たやす)く傷ついてきた。

 誰かの優しさに、身勝手にも私は傷ついていたのだ。

 

「もう、傷つかない。胸はまだ痛むかもしれないけど、人の優しさを跳ね除けるようなことはしない。そうした時の胸の痛みは、傷を負っている訳じゃないと分かったの。……私は形になってもいない希望の光をちゃんと見たい。それがこの世を去る人々に出来ることだから」

「それで結局、その希望ってのはなんなんだ?」


 テオの険しかった表情が穏やかなものに変わる。私は、自分の想いを言葉にすることが出来ているらしい。

 彼のその表情を見て誰もが緊張の糸を緩めたことだろう。

 

 外を飛ぶ蝶の影が、私たちが囲んでいるテーブルの上をひらひらと舞っていた。


「出会った人々をずっと覚えているってこと。死んでしまった後、何も残らないと悲しい気持ちにならなくて良い。私がいる。私が、この世界で一緒に生き続ける。この世を去ることが寂しいなら、私に大切な思い出を託して欲しい。預けられるものは半分より少ないかもしれないけど、覚えていることは誰かの救いになるかもしれない。……そう、伝え続けたい。私が言っていることは不確かなことばかりだよ。でも、もしだよ? 私が理想とする生き方が誰かに寄り添うものになったのなら、私が生き続ける意味があるんじゃないかって」


 何故、私は死ねないのかを考えて過ごすよりも、明日は誰と出会えるのか考えられる人生の方が良い。

 私は出会った人々を忘れない。

 大切な人たちが歩んできた時代を忘れない。

 今という時間を正しく覚えていたい。


「時計の針は戻らない。貴女の針も、俺の針も。……しかし、俺を忘れずにいてくれると言うのなら、貴女が存在する限り死ぬことは怖くないのかもしれないな」


 テオはゆっくりとした動作でリラックスしていた姿勢を正した。

 

「貴女の旅路が気の遠くなる程のものだと理解しているからこそ、この言葉は伝えておきたい」


 テオドールの灰色の瞳が光に透かされて僅かに灰緑(かいりょく)色に輝く。

 彼の瞳を見ていると、外から温室を眺めているように、私の好奇心を(くすぐ)った。

 温室の中は美しい場所に違いないのだろうが、ガラスの壁が上手に室内を隠す。

 温かな部屋の景色に思い()せるように、彼はどんな風に世界を見ているだろうか。

 幾つものプリズムを思い描いてみるが、その小さな光の粒が睫毛(まつげ)の裏に引っ付いて見えやしない。

 彼の瞳を描くには、私はまだまだ力量が足りないと感じるだろう。

 

「貴女が生きる希望を見つけて、更には我が心を(たく)せと言うならば、俺たちはきっとまた出会えるのだろうと信じて止まない」

 

 きっと、彼が見て来た景色は美しいものに違いないだろう。

 その美しいものの数々が、彼の瞳を作り上げた。

 

「だから、その時が来たら、次は貴女が俺に絵を教える番だ」

「……私が、貴方に?」

「そうだ。肉体が水になり、空に(のぼ)り、雨となって地面を濡らし、川や海に還るように。体を抜けた魂もまた、様々なものに還っていく。だから、俺が巡り巡って次もまた人であったなら、再び出会えた俺たちはよき友人になれるはずだ」


 死んでしまった魂がもう一度この世に戻ってくるなど……。

 テオが語る”おとぎ話”を頭の中で否定しようとした時、私はベルトループにつけている鈴の存在を思い出した。

 そうだ。

 あり得ない話なんかはない。

 私が知らなかっただけで、この世はもっと知らないことが沢山あるのだ。


「俺たちはシズリのように記憶を持っては行けない。だから、再び会えた時の約束をしてくれ。そうしたら、俺は安心して貴女に画材道具の全てを預けることが出来る」

「画材って……」

「貴女のことを知った時から決めていたんだ。俺の大切な仕事道具を任せるなら”アンタ”にって」


 テオの言葉にデイジーは穏やかな動作で頷いた。それは

 彼女も承知のことだったらしい。

 出会った頃のように生意気に”アンタ”呼びするテオに、ずるいと思った。

 そんな風に言わないでよ。


 彼の遺言の様な言葉に、私はテオとデイジーがいなくなる未来を少しだけ想像してしまった。

 そんな未来だけは、頑なに跳ね退けていたというのに……。

 私は暗闇の穴に落ちてしまったような恐ろしい気持ちになった。

 しかし、彼は言った。魂は様々なものに還っていくと。

 私が彼らを忘れることなく在れたなら、再び会えるかもしれないと。


 止まった涙が溢れる。

 それを受け止めるように両手で顔を覆い隠す。


 希望の光は形を(ふち)取り始める。

 私が見つけた未熟な光が、彼の力を借りて完成しようとしていた。

 

 何を見て、何を知った気になっていたのだろう。

 (ぜろ)の次に続くものがあるのなら、不確かで実現できないものの根拠を(ぜろ)にすることは出来ない。

 (ぜろ)とは、誰にも存在を見つけて貰えないことをいうと言うのに。

 

 どんなに長い時間を掛けたとしても、人ひとりの全てを理解が出来ない。

 それと同様に、世界(おとめ)の全てなんて知ることは出来やしない。

 世界を知りたいと願うことは、即ち、乙女を知りたいと願うことと同義である。

 

「テオ。テオドール」

「うん?」


 震える声をどうにかしてテオの名前を呼ぶと、彼は柔らかく相槌(あいづち)を打った。

 自身の視界を塞いでいるから、彼の表情は分からない。でも、きっと……優しい眼差しで私を見つめていることだろう。

 

「私に絵を教えてくれて、ありがとう」


 私は、貴方に感謝してもしきれない。

 貴方が苦労して、努力して得た技術を惜しむことなく私に教えてくれて、本当にありがとう。

 

 今、この瞬間にこの気持ちを伝えず、今度はいつ伝えられるだろうか。

 貴方と出会えたことは奇跡であり、幸福なのだと。


「貴方から世界の色を教わって、私は今まで生かされて来た。そして、これからも……」


 顔から手を退かせば、予想通り、テオもデイジーも優しい表情をしていた。


「私は命という色を知ることができた」


 激しい炎が燃えるように、今まで見て来た様々な色が混ざることなく、勢いを増して天に向かって激しく揺れる。

 また別の人は、水に反射する色を見るのかもしれない。

 水面に色を見た人は、一定の間隔で水面に落ちる水の粒が枯れるのを見届け、最後の一滴が作る色彩の波紋が岸のたどり着くのを待つ。

 炎であれ、水面であれ、二度と同じ光の色を見ることができないのと同じように、人々が見る人生の色は尊い。


 それは赤色であり赤色ではない。

 それは青色であり青色ではない。

 それは黄色であり、黄色ではない。


 その色に名前はない。

 私たちは同じ色を二度と作ることはできない。

 パッと目に映り、消えていく一瞬の輝き。

 この世界には……いいや、私の中には私しか知らない色がある。

 そして彼が見る命の色も、デイジーが見る命の色も、ルカさんが見る命の色も違う。

 私たちは、互いが愛した色を知ることはできない。


 私が見ていた色は、あまりにも酷い有様だったのだ。

 絵具に例えるならば、その色は使い道を決めずに意味もなくパレットの上に出してたまま、筆を染めることもせず水に溶かすことができなくなった乾いた色だ。

 乾いた絵の具の上には埃がくっついてしまう。それはまるで、地面に伏していた頃の私の様ではないか。

 再び使うにも、チューブから出たばかりの絵の具には戻れない。


 人生の色。

 折角、果てなき色があることを知ったというのに、我が人生を不幸と名付けるにはあまりにも浅薄(せんぱく)な考えであった。


「私は私の人生に、もっと、もっと、色を足したい」


 他種族や同族が争そうが、無力な者が腹を空かせて地面に伏せようが、乙女の姿は変わりない。彼女は片方の頬をしてにして、横向きに眠り続けるのみ。

 心が壊れそうになるほど悲観しようが、時計の針は止まり方を見失ったまま。

 進み続ける針を止められないのならば、人生を悲劇にする方法を見つけてその通りだと納得しようなんて、あまりにも勿体ない。


「画家を名乗っているんですもの。名前のない色だろうが、姿形がないものであろうが、私は描いてみせる。……此処に帰って来られたら、絶対に見てね」


 帰って来ることが出来たなら。


 帰ってくること、こればかりは”絶対”を約束できないと知っているのに。

 でも、もしも再びこの温かな家に帰ってくることが出来たなら、映写機がスクリーンに映像を映すように、私は真っ白なキャンバスに美しい情景を描くから。だから、二人はその絵を見て笑って。


 これまで終着駅を超えてしまったが為に、レールが敷かれていない終わりなき道を歩いて来た。


 精霊さま。青き果実や蝶よ。

 貴方たちが私に干渉しているというのなら、どうか、私を家族思いの猫にだけはしないでください。


 願わくば、私の消失によって、大切な人々が悲しみに暮れることがありませんように。



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