第三話
2023.4/30 一部の漢数字を直しました。
大人が使うには、少し小さな椅子を小脇に抱えて窓際に置いて座る。この時間なら強い日差しが入ってくることもないだろうから、外を眺める為にレースカーテンを端に避ける。
丸の半分以上を山と山の間に沈めてしまったぼんやり顔の太陽を眺めながら夕飯に頂いたクリームシチューの余韻に浸る。
この屋敷の調理人が作るクリームシチューは人参の柔らかさが絶妙でとっても美味しいのだ。
後を引かないのにクリームの奥に潜んでいるチーズらしきものの濃厚さといったら絶品で、私の胃がもっと大きければ沢山おかわりをしたのに。
窓からは穏やかな夕方を演出する為にそよ風が入って来て前髪を遠慮がちに撫でた。
此処から眺める景色はあまり変化せず、清涼な香りもこの部屋にやって来たあの日と変わらなかった。ただ、冬はまだ遠くにいるようだ。
「ラバルは故郷の香りを思い出せる?」
小さく呟いた言葉に反応するようにベルトループに付けている鈴が心なしか自信なさげに一回、二回、中の玉を転がして音を鳴らした。
「帰ったら、ああこの匂いだって思うのかな」
随分と長い旅を出た。私も、貴方も。
もしかすると、すっかり故郷の香りを忘れてしまっているのかもしれない。それに気が付いた時、私達はまた”そんなこと”で傷つくのだろうか。
「……大丈夫だよね。例え故郷の香りを忘れていても、それ程に私達の旅路が長かっただけなんだから。大丈夫」
こんなにも心が求めている場所なのに不安はいつだって私達を優しく包み込んだ。可笑しな話であるが、これが人らしさというものなのかもしれない。不必要な不安に怯えてしまう臆病な生き物。臆病は弱さではないが、厄介なものだ。
見上げていた空から視線を外して腕を組み、重たい溜息を落とす。夕方とは不思議なもので夜とは違った郷愁が訪れた。
「ふ……シズリ、中にいる?」
これからしっとりとした夜が来るのだろう、と瞼を落としかけた時であった。どうやら私の元に訪れて来たのは故郷を思う寂しさだけではなかったようだ。
久々に会った友人にまだ少し緊張しているのかこの部屋のノックをした彼の声は心なしか不安げ。さっきはあんなにも熱く語り合ったというのに。
それを可愛らしいと思ってしまうのは不可抗力だろう。
「中にいますよ」
扉に向かって返事をすれば、先に顔を覗かせてから控えめに入って来たのは予想通りの息子さん……ルカさんだった。
「あはは」
「何笑ってんの」
恐る恐る入って来たルカさんの姿に私が思わず笑えば、彼は不服そうに口を尖らせながら、大きなマカロンの様なクッションに短い脚が付いているスツールを近くに持って来て跨る様に座った。
「椅子、交換しましょうよ」
「そういう遠慮はいらないって。もう雇い主と雇われじゃないんだから」
「ルカさんだって人のこと言えないのに?」
意地悪っぽく笑って低い視線の先にいる彼を見下ろせば「なにが?」とルカさんは首を傾げた。
「此処は貴方の家なのに、随分と遠慮がちに入って来るもんですね。まるで、あの日のようです。……もしや私に気を使っているのですか?」
「そりゃあ、寝ていたり着替えていたりするかもしれないのに勝手に部屋に入るなんて出来ないだろう? それに、物が無くなったりしたら疑われるのは勝手に部屋に入っていた人だ」
「貴方には、そんなことは出来ないと思っていますが、偏屈な私を納得させるには良い仮説を話題に出しましたね」
うんうん、と、満足げに笑って頷くと再び可笑しさが込み上がった。
幼い頃の様に私に丸め込まれることなく、言い返せるほどの言葉の手数が増えた様子。彼の考えることがより言語化されるということだ。
「ぷ……、あは」
「くくく……、はは!」
何とか堪えたと思っていたのに殆ど同時に弾ける様な笑い声を上げた。
ルカさんなんて片手をお腹に当てて笑っている。
「そんな大それた話でもないのに、”それらしく”して、おっかしいの」
「だって、そんな。今のは常識的な話だろう? それを、したり顔で回りくどく口数増やして……。相変わらずだな」
「あら、私がくどいなんて昔から知っていることでしょう?」
私は汲んでいた腕を解いて太ももの上に手を放り投げ、反対に彼は嬉しそうな顔をして「そうだったな」と言いながら腕を組んだ。
「シズリはさ、うんと長い時間生きていたんだっけ」
「はい。貴方が想像するお婆さんよりも、もっともっと、お婆さんです」
「この話をすると警戒されるかもしれないけどさ、まあ、聞いていてくれよ」
息子さんが警戒するような話を? これはなんとも面白い話の始め方をするものだ。
スツールにどっしりと座っているルカさんを見つめて話の先を催促すると、コホン、とワザとらしく紳士がするように立てた拳に咳払いをした。
「シズリにとって依頼主は子供の様なものなのだろうか」
「……そうですねぇ。今しがた年寄りの方々も私にとっては随分と年下ですし」
「数々の描いた絵も?」
「描いた絵も、そうですね。愛着のそれはまるで我が子の様に思える時があるかもしれません。……子供を手塩に掛けるのと同じく、丁寧に描いてきましたから」
しかしそれは依頼絵に抱くには些か行き過ぎている感情に思えもする。なにせ私が描いて来た絵は報酬を得た瞬間に私の手元を離れる。誰かの思い出を描かさせて貰っているのだからサインを忍ばせようが所有権は放棄したも当然。
私の絵の在り方はそれで良いと思っているだけに過ぎない。
「やっぱりそういうものなんだな。……じゃあ、別の質問。イチジクって変わっている木だと思わないか?」
「イチジクですか? うーん、そうでしょうか」
絵の話をしていると思えば果物の話。
次は何を言いだすのか心が軽やかにスキップするように面白がる。
「庭のイチジクはさ、受粉をしなくて種や花を作ることが出来るんだよ」
「……イチジクに花なんて咲きましたか?」
数えるのも億劫になる程の膨大な季節を振り返ってみるが、花がついたイチジクの木の姿を思い出せない。目を瞑って首を捻って考えてみるが思い出せなかった。
私がイチジクの生態について知らないことを察すると、ルカさんは嬉しそうな顔をした。
「イチジクの花は果実の中に咲くんだ。そういうのを隠頭花序って言ってね。貴女が此処に来た時にイチジクの実は熟していないと言ったけど、今は花が咲いている状態だ」
「へえ……。流石、庭に立派な木が立っているだけあって詳しいですね」
「この地方の特産だしな。街に行けばイチジクのスイーツや調味料が色々あっただろう?」
「ああ、言われてみればそうでしたか」
「元々はイチジクコバチという虫が花粉を運んで受粉をさせるんだけど、この辺りの種は単為結実といってその虫がいなくても実を大きく育てることが出来るんだ」
この土地の特産がイチジクだったことをつい忘れていた。
昔、あの頃に食べたイチジクはこの屋敷のものだけだったから印象が薄いのかもしれない。
彼は思い出しただろうか、この屋敷のイチジクは実に瑞々しくて美味しいことを。
「それで受粉せずとも実や花を付けることが出来るなんて、シズリみたいだって思ったんだよ」
「私? どこかですか?」
「俺が考える受粉って人で言う恋愛みたいなものだったんだけど、イチジクとはそれもせずに子供、即ち小さな果実を付けることも、育てることも己のみだけで完結させることが出来るんだ。それって凄いし不思議だけど、木の在り方としては他の植物となんら変わりがない。実の中に花を隠す木が花を咲かせる木の群生に紛れても特に目立ちはしないだろ」
「花を咲かせる木がイチジクの木に紛れることは出来ないのに」
「時として、美しく目立つことに人々は羨望を向けるのだろうな」
ふむ、と彼の言葉を咀嚼すべく、夜になったことですっかり暗くなった外の景色の中で、屋敷の光によって縁取られて見える庭のイチジクの木を見つめる。
私が依頼主や描いた絵を我が子に向ける様な愛情を持つならば、それは一人と一人が恋愛をして子を授かるようなものとは違った愛と呼べるのだろう。それに、依頼主が求める絵を導き出すために沢山の対話をしたとて、描くことは一人きりでするものであるからして、彼が言うイチジクの在り方を私に重ねることは無理がないように思える。
異質さを隠すために目立ちたくないと言う部分もそういえるだろう。
「面白いことを言いますねえ。……確かにそれを羨望と呼ぶならば、貴方が例えるように私は実の中に花を隠し目立たず紛れている方が良いですね」
彼の感性の豊かさに関心して風が過ぎていく方向に顔を向ければ、”そうだろう、そうだろう”なんて顔をしているものだから、それが幼い頃の姿に重なって見えた。
本当、貴方は愛嬌があるんだから。
「あの木は花が咲くのだと知るだけで印象が華やかにならないか?」
「そうですね。正に目に見えることだけが本質ではない」
花を食すとは、なんとも甘美な響きだろうか。
イチジクの葉が持つ意味の一つして、後ろめたいことを隠すだけがイチジクの在り方ではなかったようだ。
「イチジクの花言葉は子宝に恵まれる。……貴女が絵を完成させることは、人々の心を癒し、豊かに出来た証拠。だから、シズリが描いた絵はイチジクの実みたいだ。俺にとっての貴女の絵とは、そういうものだと思っているよ」
「なら、イチジクの木がこの家の庭にあることは私にとって納得出来るものですね」
「……それはどうして?」
目を丸める彼に思わず驚いて、瞬きを幾つかしてその顔を凝視する。
此処まで話していて分からないのか。
いや、まあ、のらりくらりと彼の言葉や感情をかわすようにして煮え切らない態度を取り続けていたのは自分だ。彼が思うより私が彼を重要視……、こういう時は特別視と言うべきか。兎も角、自分が如何にして大切に想われていることを気づいていない様子。私はこの鈍感さに助けられていたのかもしれないな。
「……私が一人きりで画家として仕事をしにやって来たのはこの屋敷が初めてでした。そして貴方と出会い、一度くらいはぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に入れてしまいたかった”人らしさ”をもう一度開いて、その皴を伸ばすことが出来たのです。私が旅に出ると決めた理由はどうであれ、此処は一人きりの旅路を勇気づける場所となり、もう一度訪れると自ら約束を持ち出した場所なのです」
何度も何度も重たそうにしながら扉を開いてやってくる彼の姿が頭の中を通り過ぎていく。
嗚呼、なんて可愛らしい子供だろうか。真っ直ぐで、健気で、まだ可哀そうな子。
あの日々の積み重ねが新たに私の心の形を作ってくれた。
貴方が子供の頃に出会えて本当に良かった。
「……私はイチジクの実を食べに来ることを理由にしてルカさんと再会する口実を作ったんですよ。それは貴方が生きている時にもう一度ここに来たいと思ったから。そして先程、貴方は私をイチジクのようだと言いました。だから、この家の庭にあるのが他の木ではなくて、イチジクの木だったことに納得が出来るのです」
そしてイチジクの葉が貴方の顔を隠してくれたこと。庭のイチジクの木の存在はあまりにも大きいと言えるだろう。
「じゃあ、本当に社交辞令なしでシズリも俺に会いたかったってこと?」
「そうですよ。社交辞令なんてするものですか。……花粉を求めずとも、イチジクの木だって根を張れる場所を求めるのでしょう。その根の意味は、私が再び此処に訪れたいと、そう思える場所が出来たことに準えられないでしょうか」
彼との出会いは必然ではない。だからこの出会いがあまりにも尊くて、この奇跡を想う程に切なくなる心を照れ隠しをするようにして眉間に力を入れて笑って見せる。
「それにしても、同じ宿り木を使う気なんてない旅だったはずなのに、私自身が木だったとは。……ルカさん、私は淡白だったでしょうがね、旅路に就いて、貴方に出会えたことを感謝しない日はありませんでした」
言葉を選ぶことは難しいもので、彼のようにもっと真っ直ぐ相手の胸に飛んでいく言葉はないかと考える。
飾り気なんていらない。心で見た景色を素直に口に出すだけできっと伝わるだろうから。だってルカさんだもの。彼なら受取ってくれると確信できるのだ。
「イチジクの花についてを知り、庭の木がイチジクだったことが嬉しい」
ねえ、友達らしく在れと言ってくれるのなら、今だけはこれまでの苦悩を取っ払って笑っても良いだろうか。
印刷がされていない己の喜劇や悲劇のパンフレットなんて鞄にしまいこんで、幕が下がったステージを見ながら隣に座る貴方と手放しに話をしても良いだろうか。
「やっぱり貴方の元に来たことは正しかった」
ラバル、私は昔のように笑えているだろうか。
変わることは怖いのね。一度目の私が本当の私だと考えるなら、今の私は一体何なのだろうか。それは考えても答えが見つからないもので、手探りで進むには酷くもどかしくて苦しかった。
ラバル。
私を故郷そのもののように語る貴方が人らしく在る為の鍵として私を選んだ理由が、どうしてだろう、より一層理解出来る気がするよ。
愛しき懐かしさとは心を温めてくれる掛け替えのないものなんだね。
「ねえ、ルカさん。貴方は私の大切な友達であり、私に明るい方向を指して教えてくれた凄い人なんですよ」
私たちは泣かずに済んだ日を明るい日と呼ぶのだろうか。
愛の日々を思い出さぬ私なんて、薄情ではないのか。
そうやって私は暗がりにいるべきだと自分を納得させる日が、何度も、何度もあった。それは苦しいと感じる位の弱い力で喉を握られているような感覚だ。
「明るい場所では色々な形をした愛が胸の中に飛び込んできました。私はそれを受けとめることが怖かったのです。だから、明るい方には行きたくなかったのに」
イチジクの木が己のみだけで実をつけて、その実を守り抜くことは大変なことだろう。もしかすると私はイチジクの木を労うことが出来るのかもしれない、なんて。きっとイチジクの木は私よりも立派だから、労われても実をひとつとて落としてはくれないだろう。
しかし大らかである木は、時に喉の渇きを求めて実を啄みにやってくる小鳥に寛容な心でその実を与えることが出来るのだろう。
木は物言わぬ。動かぬ。
だから根を張ることことは恐ろしい。
その土地に根付いてしまえば、木はただ立ちんぼで風に吹かれるだけなのだから。
根付く恐れがあるのならば、木とて足を生やそうかと考えるかもしれないが、私が知る木は静かに立つばかり。案外いまの形は悪いと思っていないのかもしれないね。
「好意や親切を疑う人は優しい人を知っている人だ。そして愛に怯える人も愛を知る人なのだろう。……貴女が怖がるなんたるかは、全て貴女が知っていることなのではないだろうか」
本当に、立派に成長したものだと感心する一方で、これでは私の誤魔化しが通じなくなる日は近いと意味もない焦りを感じた。
「……えぇ、その通りなのでしょうね。失ったものが大きすぎたのです。また愛するものが増えれば傷つくのは私だけ」
落胆するようにして思わず溜息を吐いてしまい、それを誤魔化すようにもう一度窓の外に視線を移す。部屋の灯りの方が眩しくて星の瞬きは殆ど見えない。
自分が思っている以上に肺の中はモヤモヤでいっぱいなようだ。
「耐え難かった。…………未だ、耐え難いのですよ」
出会った数多くの愛情を忘れられないなんて、まるで夜空の星の場所や輝きを忘れられないと言っているような無謀さがあるだろう。膨大な光をひとつひとつ覚えているなんて、誰が信じられるというのだろうか。
散りばめられた星の景色を一寸の狂いもなく目に焼き付けることは出来ないが、私が星であったなら多少は可能なのかもしれない。そしてその反対に、人である私が人を忘れずにいられることは、星を覚えているよりも難しいことではないのだろう。
「記憶の中にあるものを忘れてしまったと自覚した時、自分が許せなくなります。でも、愛する人々を覚えているのが私だけになってしまったとしても、私が覚えているということは己の結末が見つかる幸福と同じくらいの幸せなになり得るのか……」
永い眠りに就くとき、何が怖いだろうか。
苦しいのだろうか、痛いのだろうか。寂しいのだろうか、悔しいのだろうか。
誰かが手を握っていてくれるだろうか。
「……体という器を抜けた時のことで教えてあげたいことがあります」
「なに?」
僅かに前のめりになる彼を見てクスリと笑みが溢れる。
「一つは、魂が向かうべき場所を教えてくれる精霊がいること。もう一つが、貴方がいたことを私は忘れない、と言うことです」
死の近くに在る彼の印象は最悪だったものの彼の在り方を口に出して、漸くアスターという男の存在する意味が理解できた。
彼もまた、明るい方を指して教えてくれる人なのだと。
「なんて……。誰かが自分のことを覚えているというのは励ましにはならないでしょうか」
アスターは誰かを手助けしてやることが出来るが、私が出来ることとは大したことではない。それでも、終わりに向かう人の小さな希望になれるというのなら、生きている人の為に絵を描くことの他に、命を終えようとしている人の為にも出来ることがあるということ。
生者と死者の双方の為に存在できるのかもしれない。
「……うん、安心出来るかもな」
小さく呟いたルカさんを見下ろせば、優しげに目を細めて僅かに目を伏せていた。
「忘れられることは寂しいだろうからね」
それは妹のホーリィさんのことを思い出して言ってあるのだろうか。
妹を思い出したことで弔えるようになり、申し訳ない気持ちが襲っていたのだろうか。
結局のところ私の在り方について話した所で分からないことばかりだろうし意識を少しだけ反らすことにしてみる。
「それで、今の話のどこに警戒する部分がありましたか?」
「あー、ほら。イチジクの説明する時に恋愛の例えを少し出しただろ? 俺からその手の話題は出して欲しくないんじゃないかなって思ってさ」
その心遣いと健気な彼の様子に何度目になるか笑みが小さな吐息と共に溢れる。彼の言動はいつだって優しい気持ちにさせてくれる。
「愛を語ることを拒むわけないじゃないですか。私たちは何事にも愛を抱かずにいられないのですよ」
私のことよりも私は貴方が心配だった。
彼にとって、私が彼を友達と強調することは針でチクチクと刺すようなものかもしれないから。
しかし時間の経過と共にそれは数多くある内の一つであり、少し風変りの愛の形だったと徐々に納得していってくれたなら、そうしたら、漸く私は安心出来るのだけど。
勿論それを伝えることこそ酷なことは十分に分かっている。
「俺は傲慢だからな。それが貴女を傷つけやしないか心配なんだ」
「……貴方の何を持って傲慢と呼ぶのです」
ルカさんは組んでいた腕を解き、片方の太ももの上に肘をついて頬杖をついた。
おかしなことを言う。
彼のどこを見れば傲慢なんて言葉が浮かぶのだろうか。
「悲しい時は悲しいと、寂しい時は寂しいと言えって言ったけどな。俺は時にこの言葉が人を追い込むことを知った。それが出来れば人々の苦悩は一つ二つは減るだろうに、子供がいった言葉だっとしても浅慮な考えだった。……純真無垢で真っ直ぐだからといって全ての言動が許される訳ではない。人は些細なことで傷つき、動けなくなってしまうものだろう? 例えそれが好意や善意であっても」
己の言動を見直す様子からは彼の真っ直ぐさが顕著に現れていた。
ナイフなどで胸を突かれずとも、爪の先で出来た傷口が膿んで死んでしまうことがあるかもしれない。
肉体を得た者たちはそれほどに繊細なのだ。
「貴女に対して諦めず愛を伝え続けることは小さな引っ掻き傷をつけるようなものに思えるんだ」
「それは……」
「簡単に諦められる恋ではないけど、貴女が悩み俺から遠ざかるよりは今の関係のままの方が良い。今の貴女は俺を恋愛対象として見てくれやしないのだろうが、恋とはひょんなことで落ちるものだし、こればかりは焦った所で良い結果は生まれない。……ただ、寂しさや悲しさについては少し強引になってしまうかもしれないってことだ」
ルカさんは、はぁ、と重い溜息を吐く。それは私が一人この部屋で外の景色を眺めている時に漏らしたような溜息だった。なんだか私たち、溜息ばかり吐いていないだろうか。時間が進むにつれて何事も一筋縄ではいかないと知ってしまったから、肺の中でこもっている”難しい”ことをついつい吐き出してしまう。
「放って置けないんだ。こればかりは仕方ない、好きなんだから。挙句の果てに頼って欲しいと願う。だから俺は傲慢なんだよ」
分かるかな? なんて半ば私が理解するのを諦めているくせに目で訴えるように見上げられ、その清々しい言い分を聞いて呆気に取られた。
「確かにそれは傲慢と呼べるのかもしれませんね」
「……そこは同意しないところだろ」
「自分が欲しい回答を期待して誘導するのは幼稚ですよ」
うっ、と図星を突かれた様子で気まずげな顔をする彼が面白くて、さっきまでの仄かに暗い感情はすっかり引っ込んでいた。
「でも、その傲慢を持つことは至って普通です。誰かの好意を得たい時、その傲慢さは大切ですよ。恋に関してだけではなくて、ね。……それにあの時、悲しい時は悲しいと言って良いのだと知れたおかげで、私は灯りを見失わずにいられました」
ふと彼の綺麗に揃えられた爪を見る。爪の端は丁寧にヤスリをかけているのか、優しく丸みを帯びている。
「ルカさん。爪の先が必ず何かを傷つけるとは限りません。正しい長さを知っているのならば、柔らかなものを引っ掻くこともないし、指の先は優しく瞼を撫でることが出来ます。……それは貴方が私の涙を拭ってくれたように」
ルカさんは何か考えるように言葉を飲み込んだかと思えばそれを放棄するように口角を上げる。
「……そうか」
スツールから立ち上がって私が眺めていた窓枠に手をついて外を見下ろす。
そよ風にあたる彼の飴色の髪が流れ星の一線のようにひらり、ひらりと揺れていた。
「イチジクの果実なんて暫く見ることなかったのに、貴女が食べた話をしたから気にするようになった」
彼の呟きと共に視線を辿れば、やはりそこには僅かな光にぼんやりと光るイチジクの木があった。
「食べる為に採られることもなく、ぶら下がっているだけのイチジクの実が地面に落ちて潰れていても気にならなかったのに」
彼にとってあのイチジクの木の全てが妹との思い出を呼び起こすきっかけになり得たのだろう。だから、まるで視界には入れないと言わんばかりに、あの頃の彼は、彼の脳はあの木をないものと見做したようだ。
「それなのに見上げて、風に葉や実が揺れるのを見るようになった」
あの木は幼子のささやかな気持ちが後ろめたいものになってしまったことを憐れんだのかもしれない。
しかし、イチジクの葉は、もう、何も隠してやることはないと理解してくれたのだろうか。なんて、私から見ればイチジクはあの日となんら変わりもく至って元気そうである。それは今の彼にも同じように見えていることだろう。
庭のイチジクの木は葉が青々と茂り、実が愛らしく枝にくっついているだけの普通の実が成る木だ。
「食べられることもなかったのに健気に実っているものだと感心したよ」
小さなことでも世界を広く知ることが出来たならば、心の陰りには少しの陽ざしが傾いたのだろう。
「シズリ。改めて言わせてくれ」
間近に立っているルカさんが機嫌よく私を振り返る。
「妹を描いてくれてありがとう」
ここを離れる時に言った通り、私は望まれてやって来たに過ぎない。報酬だって貰った。彼と私の関係は売り手と買い手、そんな特別なものではない。彼女を思い出したのだって、私は取っ掛かりを作ったに過ぎず彼自身の力で記憶を取り戻した。
……些か彼は私を過大評価しすぎているように感じることがある。
それでもこういう時は誰かに礼を言いたくなるものだ。その気持ちが分かるから、私はそのお礼を受け入れようと静々と頷く。
「……私の方こそ、出会ってくれてありがとう」
嗚呼、夜風が気持ち良い。
庭のイチジクは手の甲を労わり撫でるように葉を重ねて、風の音を奏でていた。
面白そう、応援したい!思っていただけましたら、いいね、ブックマーク、感想をぜひお願いいたします!