第二話
2023.4/30 漢数字と一部文章を修正しました。
閉じようとする山は酷く寒い。
山を登る魚はオレンジと青緑に体を縁取り、身重の頃には背中の黒い斑点に紛れて桜色の模様が浮かんでいた。
まるで観賞される為に作られた鎧のような鱗とこれまたガラスで出来ているような鰭は白銀の煌めきを纏う。
美しい魚は役目を果たし、後は息絶えるだけであった筈なのに山の頂上を目指した。
水源地なんぞ疾うに通り過ぎたというのに未だ息絶えぬ魚は地を小さく飛んで上へ、上へと登った。
途中、ある鳥は魚が山を登るなど奇怪な光景を見て、思わず声を掛けた。
――水に適した体で土に擦るなんて、どうしようもなく痛いのではないのか?
水なき陸では声が出せない魚は代わりに目指す方向を見つめる。この先を見てみたいのだ、と。
鳥は正しく魚の意図を汲み取れない。しかしこの時、魚を食べてやろうと思っていた鳥だったが、まだまだ魚が息絶えそうにもない為、喰らうのは死んでしまってからでも良いだろう、と考えた。
なんて馬鹿な魚だろうか。
森に棲む者は誰もがそう思っていただろう。惨めな姿を見て笑う者もいた。
しかし魚は頂上を目指して一生懸命に飛び跳ねる。
魚とて考えなくもない。川の頂上に辿り着いた時に満足すれば良かったものの、可笑しなことを思い付き、よくそれを実行しようと考えたものだ、と。
しかし次第に可笑しなことをしている魚を笑う者はいなくなった。
漸く森の者たちは魚が山の頂上を目指しているのだと気が付いたのだ。頂上なんぞ行ける筈も無く、魚が森を見下ろせる筈がないのだと決めつけもしたが、この地を飛ぶ魚がもしも本当に山の頂上に辿り着いたのならば、そう期待するようになっていった。
魚が夢を成し遂げたのならば、他の者は自由とは果てしないものだと知り、そして自力の強さと己の内なる願いを見ることだろう。
鳥は空を飛ぶ者であり、蛇は地を這う者である。
野の獣は森を出ず、魚は海や川から出ない。
魚は夢を見た。
役目を果たした筈なのに、どうにも自分の命が終わる気配がない。ならば一つ山を登ってみようか、なんて。
はて、この川は末無し川であっただろうか。
遥々遠い海より上って来たのだからそんな筈はないのだが、本能や習性を脱ぎ捨てた魚にはそれが分からなかった。
そうだ。海よりいつも見上げていたあの盛り上がった場所から見下ろしたこちらはどう見えるのだろうか。
抱いた夢は大いに無謀。
陸に適応していない体を擦り、地面に叩きつける度に皮膚が破けて中身が出てしまいそうだ。
魚はこんなにも大変な旅路になるとは想像が出来なかった。
しかし諦めるにはこれまた中途半端なもので、ならば諦めて息絶えるのではなく、出来る限りを尽くした場所で死んでしまおう。
元より子を産んで息絶えたならば野の獣や鳥にでも食べられる運命だったのだから。
魚の願いなんてそんなもので、野心が突き動かすのではなく、ただ漠然とした疑問と好奇心を解消する為に始めた旅であった。
大層な意志なんて無かったがやり遂げた時の気持ちの良さを想像すると胸の鼓動は弱まるどころか高まり続け、乾いて傷んだ体はどうしてか力が漲っていた。
旅を続ける魚は考えた。
海や川が魚の棲みかなのではない。
季節の通りに生きて、役目を果たして死ぬために山へ帰って来たわけではないのだと。
山は魚の為にも在り、海や川とて鳥の為に在る。地を這う蛇は地底に辿り着くことが出来るだろうし、脚力に自信がある兎や蛙は空よりもっと遠くの場所へ行き、虫は眩い星を家にして臀部が光る者は星の輝きに紛れて緑や青と光らせるのだろう。
魚が頂上への道を間違えそうになると鈴の音を転がす虫が道案内をしてくれた。
ああ、高い場所に導かれる為には銀色の音色が必要であったか。
強い眠気に襲われたならば頭上で鳥が喰らってやろうかと言わんばかりに騒がしく鳴く。
自慢の鎧が剝がれ土のザラザラした感触が耐え難い痛みになって来ると、魚が通る道には労わる様に草が茂った。
死に底なった魚の一人旅であったが、魚が山の頂上に辿り着くことはこの森の者の希望にさえなりつつあった。
我々は、いつだって明るい方向に希望を見る。
「それで、貴女の名前はいつになったら知ることが許されるのだろうか?」
抱きしめ合うようにしていた私達は漸く落ち着ける距離を取り、昂っていた感情を沈めるように温くなった珈琲に口を付ける。
香りを引っ込ませた温い珈琲の代わりに異国の甘いスパイシーな香りが服の袖に移っているような気がした。
「……知らないのですか?」
今更なことを言うルカさんの言葉に驚いた。
だって、私が彼の名前を知っていたように、彼も私の名前を知っていると思っていたのだ。私に関する資料を見れば分かること、旦那様や奥様に聞けば分かること。それなのに彼は調べることもせず、誰かに聞くこともしなかったと言うのか。
「友がいないところでその正体を勝手に暴くなんて趣味が悪いだろ」
そうは言いつつも罰が悪そうに頬を掻くルカさんの姿が出会った頃の姿と重なって見えた。
「……何笑ってんの」
不機嫌を装ってはいるが、反応がない私に不安になったのか抗議の言葉は些かか細い。
そんな可愛い反応を見せる彼に笑みが浮かぶ。
真っ直ぐに人と向き合える彼の姿に胸に熱いものが込み上がる。
「ふ〜で〜?」
「ごめんなさい。あまりにも素直なもので……」
このままでは彼が完全に不貞腐れてしまうかもしれない。
もう良いのではないだろうか。
可愛らしく険しい顔を作って見せているルカさんの瞳から僅かに視線を下げる。
本当の自分を彼に告げても後悔なんてしないのかもしれない。だって、私がどうやって生きてきたのかを知った時、この人は否定もせずにそのまま受け入れてしまったのだから。それに比べて名前なんて驚く要素はないだろう。
「……私の名前、か」
彼は随分と察しが良くなった。
声を潜めた私に気がつくと、耳を傾けた。
「私の故郷は一年のほとんどが雪に覆われた小さな村でした」
「私が生まれた日もしんしんと雪が降り、屋根には分厚い雪の層が出来ていたそうです。生まれてすぐに泣かない私を産婆は背中を叩いたり、逆さにしてみましたが泣かなかったそうです」
「体が弱かったのか?」
私は首を横に振る。
「特に病気らしい病気を持っていたわけではありません。ただ、生まれた時は泣かなかったそうで、どんどん周りの大人は焦っていったそうです」
「そりゃあ焦るだろうよ」
それで? なんて話の続きを気にしている様子だが、私がこうして目の前にいるのだから無事であるのは確実だ。
「家の中が慌ただしくなったせいか、たまたまか。屋根からすごい音を立てて雪が落ちたらしくて、それに驚いたのか私は漸く泣いたのだと」
これは記憶にない、両親や祖父母から聞いた話。
「それで沈黙の白銀の世界に彷徨うことがあっても、雪が落ちる音が私の目を覚まさせてくれるようにと、木の枝から雪が滑り落ちることを意味する垂り、と名を授けたのだそうです。とはいえ、雪が木の枝から落ちる音と屋根から落ちる音は比にならないので、随分と上手に豪快さを隠したものだと思いますがね」
特別変哲もない少し面白いだけのエピソードだったでしょう? そう同意を求めて下げた視線を再び彼に向けると優しげに目尻を下げてこちらを見つめていた。
「シズリ」
深い情を持つように名前を呼ばれてバツの悪さに胸がギクリと軋んだ。
私という存在を確かめるようにして丁寧に呼ばれた名前が私を引き出そうとした。
「シズリです」
隠していた自分が明るみに出ないように少しだけ茶化すように彼の言葉を復唱する。ラバルが私の名前を呼んだ時とは違う感覚。
気まずげな自分の心のその意味を知っているのに、それだけは自覚したくないと往生際悪くも知らないフリをする。
「シズリ」
「はい、シズリです……よ」
何度も咀嚼するように呼ばれる自身の名前に恥ずかしさが追いつこうとした。
どうして何度も名前を呼ぶのだろうか……。羞恥に負けそうになり口を開こうとした時、ルカさんがあまりにも穏やかな笑みを浮かべゆっくりと瞼を閉じたものだから、そのゆったりとした動作に目が奪われた。
「やっと知ることができた。……貴女らしい綺麗な響きだなあ」
飴色の髪の毛と同じ色をした睫毛が光に晒されてキラキラと光っていた。
「綺麗、だなんて」
綺麗な人に言われてもどんな反応をしたら良いのか分からなかった。
ただ、心の何処に仕舞いこんで何処かやってしまったのか分からなくなっていた大切な感情がひょっこりと出て来てしまったようだ。
私の名前はそんなに大切に呼んで貰えるほど特別なものだっただろうか。
私にとって当たり前にあったものなのに、いつの間にか忘れてしまっていた。
「……自分の名前、好きなんです」
真っ直ぐに私の名前を受け止めてくれた人を前にして照れ隠しをする為に適当に口を開くなんてことは止めよう。
彼が私と向き合ってくれるというのなら、私も私と向き合おう。
蔑ろにしてきたシズリをいい加減労ってやっても良いじゃないか。
「私が生まれた日の話はあちこちで笑い話になりましてね。あぁ、悪い意味ではありませんよ? ただ、その話で大人に構って貰えることは嬉しかったので。……自分の名前、好きなんです」
じんわりと滲み始める涙を誤魔化すように口角を上げてみる。
「嗚呼、どうして」
戸惑う言葉が思わず零れたと同時にポロポロと涙が溢れた。
戸惑う私に顔を上げたルカさんは少し驚いた顔を見せ、こちらに伸ばしかけたで手を空で止めた。
ほら、また察しが良い。
その優しさが友として誇らしくあり、嬉しい。
「こんなにも名前を呼ばれることが、嬉しいなんて」
グイ、と乱暴に手の甲で涙を拭う。
家族を置いて一人で旅路に出た。
しばらくは誰とも関わらず生きてきた。
その間、私の名前は誰にも呼ばれなくなった。でも、それで良かった。その名前を呼ばれると親の愛情を求めてしまいそうだったから。旦那が呼ぶ名前が、友が呼ぶ声が、届かない場所で優しく手招くのだ。
その度に思い出を語り合える人はいなくなってしまったのに、懐かしさで気が狂いそうになった。
だから、名前を心の奥に仕舞い込んだ。
テオやデイジー、それと小さな妖精の一人だけが呼んでくれたら良かった。それだけで満たされたと思っていた。彼らの他に私の命の在り方を知る人はもう現れないと思っていたのだから。
筆という名前は勇気をくれた。
なりたい自分の姿を描いてくれた。
だから、このままでも良いと思っていた。
心の奥に仕舞い込んだことなんて忘れて、暗がりを照らす魔法の杖として存在できるならば、この世界に少しでも貢献が出来ている気がしていたのだ。
でも、私が賢者に言ったではないか。自分らしく在りたいって。その言葉に偽りはない。旅を始めて、私を私として受け入れてくれる人たちを前に、もう、自分を隠したくないと思ったのではなかったか。
……いいや、隠そうなんてことではない。
ただただ、私を知って欲しいと思ったのだ。
私は彼に私自身を話してしまった。ルカさんは僅かにも私という”人成らざる者”について理解をしてくれただろう。
後戻りは、もう出来ない。
「俺の名前はルカ」
色々と自分を曝け出してしまったことに不安を感じ始めた時、ルカさんが唐突に名乗った。その突然さに驚き様子を伺えば、二つの琥珀色は真っ直ぐと私を捉えていた。
「貴女の名前は?」
「私の名前はシズリ。シズリです」
彼の真似をして再び名乗ればルカさんは満足気に笑って手を差し出した。まるで握手を求めるようにして。
「よろしくな、シズリ」
差し出された手と彼の顔を交互に見るが、特別催促するわけでもなく彼は笑って手を差し出しているだけ。
あぁ、そうか。
"息子さん"と"筆"は友人であったが、"ルカ"と"シズリ"は今、この瞬間に初めて出会ったのか。
この芝居ったらしい自己紹介には意味があるのだ。
漸く彼の意図が分かり、差し出された手を握る。
「よろしくおねがいします」
「友達になるのだから、余所余所しいのはやめろよ」
ルカさんはまた不服そうな顔を作って握られた手を遊ぶようにぶんぶんと振った。
「……それもまた、私たちらしいじゃないですか」
これ以上彼に踏み込まれることが怖い。小さな不安が頭を過り、可愛げのない小さな反抗が口から出た。
無意識に尖る口をそのままに抗議をするも握られた手は離してもらえない。
「もうその手には乗らないぞ」
「え?」
「個の付き合いではなくて関係上の名前で呼ぶのも面白い、そう提案したのはシズリが先だった。なら、今度は俺が提案する番だろ? だからもっと俺たちは俺たち”らしく”話そう」
彼の提案に口が簡単に開こうとするから、躊躇をするように掌に力が入る。今の彼には私のこの動揺は簡単に読み取れただろう。
これまで色々な人と一線引いて来たのには意味がある。
それは私よりも先に死んでしまう人達に期待をしないようにするため。自分を守る為に距離を置いて来た。
彼があまりにも私と真っ直ぐに向き合おうとするものだから体よく絆されそうになっているだけ。分かっているのに、それも悪くないと思っているのだからどうしようもない。
握手をしていない方の手を握手している彼の手にそっと添えて、ゆっくりと握り合っていた手を解く。
力なく膝の上に置いた手が少しだけ重く感じた。
「急には難しいです……。でも、シズリなら応えたいと思うはずだから、追々ということで今は勘弁してくれませんか?」
「まるで自分のことを他人事のように言うもんだな。……まあ、友達なら無理強いは出来やしない」
やれやれ、と大袈裟に首を横に振る彼の仕草を見て拍子抜けする。先ほどから押しの強さを感じていたが、私が本当に困っている時の引きの潔さには驚かされる。
随分と大人らしくなったと思えば子供っぽい仕草をするルカさんを見ていると、大人だとか子供だとか、区切りを付けたがっているのは私の方だったと気づかされた。
年を重ねれば出来ることが増え、それに伴ってやらねばいけないことが増える。子供からは純真さを、大人からは行動を、そして年寄りからは知恵を。私たちは余すことなく誰からも学ぶことが出来る。それなのに、すっかり大人びたルカさんを見て、子供の頃を懐かしむような気持ちになっていたなんて、彼を過去のままにして置きたがっていたのは私の方だったようだ。
「そう言って貰えたら……助かるよ」
慣れる為には私自身の意識が大切だ。そう思って敬語で締めようとしていた言葉をテンポ悪く砕けば、「そうそう、その調子」と彼は嬉しそうに笑った。
この笑顔が見られるというのならば、引いた一線なんて取っ払ってしまっても良いのかもしれない、なんて。彼は相変わらず私の調子を崩すのが上手い。
「さて、それでシズリ。改めて、もう一つ貴女にお願いがある。……この時期に来てくれたのも運命だと思って話だけでも聞いてくれ」
ふぅ、と溜息を一つ落とし、隣に座っていた彼は腰を上げてこの部屋にやって来た時と同じく私の向かいのソファーに座り直した。只ならぬ雰囲気に私はより一層背筋を伸ばす。
「月の精霊と俺たちの間に立つ賢者になってはくれないか?」
賢者。
今世で何度その言葉を聞いたことだろうか。
特別な人の呼び名がどうして私に当てはまるのかと首を傾げる。
「賢者、ですか」
私の戸惑いを察知したのか彼は視線を下げ、手の指を汲んで声を潜めた。
「俺たちが長年抱えていた問題だ。……月の精霊との対話は先祖代々この家の当主が行ってきた。しかし他では精霊と人の間には賢者がいると聞く。賢者とは精霊よりも人に近く、人よりも精霊に近い人を呼ぶそうでね。……その賢者が見つけられないんだ」
人と精霊が対話をするなど大変だっただろう。
精霊は無慈悲ではないが、寛容でもない。”ただ在り続ける”ことに重きを置く。即ち、それは何事にも”同じ姿のまま”を意味する。
世界に変化を求めず、欲を求めず、規則正しい世界の心臓の鼓動となって秩序を守る者たち。その方々を私たちは精霊と呼ぶのだ。
「賢者には一度だけお会いしたことがあります」
「……へえ」
下がっていた視線が上がり僅かな希望に煌めく瞳が私を見つめる。その視線に私は少々困った表情を作って見せた。
彼が期待しているような話は持ち合わせていない。
「あの方のように出来るか……。私は自信がありません」
「貴女なら立派にやってくれると思う」
私は人の為に在りたいと思って来た。彼の楔に繋がる役割さえ羨ましいと言った。しかし世界の神秘を目の前にすると長生きなんてちっぽけなもので、彼の為に出来ることが私の経験や知識の中にあるようには思えなかった。
それなのに、不安がる気持ちなんて蹴散らせるように彼は言い切った。先程から弱い部分ばかり見せる私の何を見て言い切れるというのか。
「……なんてさ、頼るなら貴女が良いと俺が思っているだけなんだけど」
自信に満ち、希望を抱いていた彼が此処に来て自信なさげに頬を掻いて笑ったのを見て、直ぐに肯定が出来ない己の不甲斐なさに情けなくなった。
一人を救えず、他に何者を救えると言うのか。ずっとそうやって自分に問い掛けてやって来たのではないか。
自分らしく在りたい、そう思ったのは私だ。賢者が全の為に在るのならば、私は一の為に在りたいと。いや、一の為に動くことで精一杯なのだと理解したのではないか。
水溜まりの存在を是としたのに、水溜まりの様な生き方は嫌だと思った。
一時だけでも他者の喉の渇きを潤すことが出来る水溜りの在り方は嫌じゃない。それは本心であった。
彼こそが全を潤す雨だ。
無事に賢者として認められたならば、彼の雨を得られなかった者に私は一時の潤いを与える水溜まりになれる。
しかし、これではどうも自身の在り方について承認欲求を満たす為に力を貸すと考えているようで決まりが悪い。
「月に上る日は三日後。本当に良いタイミングで来てくれたって思ったんだよ。……焦るような旅路でないのなら、数日此処で過ごして共に月に来てくれるか考えてはくれないだろうか」
お願いします。そういって頭を下げる彼に胸が大きく揺らいだ。
直ぐに肯定出来なかった自分があまりにも弱くて悔しかった。
それでもこれは慎重に考えねばならない。
自分のために、彼のために、月の光を求む者のために、ちゃんと考えなくてはいけない。
「決心する時間をください」
「……あぁ、勿論」
期待に目を輝かせる彼に、嗚呼、これは断れそうにない。と心の中で溜息を吐く。
「昔から私はどうも貴方には弱いみたいだ」
どうせ貴方は私の言った意味なんて分からないだろう。目を丸める彼に、私はそれで良いのだと小さく口角を上げる。もしも私の心情の至る部分まで察知が出来るようにでもなられたら、それこそ私は彼の全てを拒める自信がない。しかしそこまで完璧ではないのが彼らしくあり、私が彼という人間が好きである所以なのだろう。
漸く話の区切りがつき、お互いに緊張していた空気が緩みピンと伸びていた背筋が少しだけ縮んだ。
しかし、賢者としての道を掲示されるとは思わなかった……。
私は明くる日も、明くる日も、この死にぞこないの命の使い道を探した。
ある画家と出会い、絵を求めた人々と出会い、様々な人の生き方を知った。同じ人生を歩む者は一人もいなくて、どんな人の生き方の有り様も尊いものであった。
この時、私は既に自分だけ結末がないことを悩み、悲観していたことが情けなくて、情けなくて、仕方なくなっていた。
水溜まりの形は、彼を通して漸く私を納得させるものになって姿を見せた。
彼の傍で同じ景色を見ることが出来たならば、長靴や荷馬車にかき回されて汚く濁り、何処にあってどんな形をしていたか分からない水溜まりなんかではなく、水を求める者が見る、一時の救いになるのだろう。
”有限に”終わりなき者である私には色々な人生を選択することが出来る。
多くの者に救いの光を届ける月に梯子を掛ける者はその職務から逃れない代わりに、せめて己が望む人を斡旋者に選ぶことが許されるだろう。例え精霊が私を受け入れてくれなかったとしても、それでも希望が絶たれる訳ではないのだから人々は何も言うまい。
賢者は水溜りを無価値と決めるには浅はかだったと言った。
あの時、彼女がどのようにして私の言葉を捉えたのか考えもしなかったが、互いに知見を広げるきっかけだったのかもしれない。
それなのに、汚れ、惨めにされ、人知れず消えて行くのは嫌だと、妖精に泣いた日を思い出して恥ずかしくなった。
妖精は言った。
どんな華美な額に収まっている立派な絵よりもボロボロの手帳に描かれた私の絵を美しいと。
描くこと。絵の探求とは、私にとって何処までも自由であった。
私たちはいつだって自分に課せられた人生を不幸にすることが出来るのだろうが、幸福の重きを何処に置くかで人生の彩りは変わるだろう。
元より私たちに役割なんて存在せず、己を決めつけるのは結局のところ己自身なのだ。
我々はいつだって明るい方向に希望を見る。
そして、それを光と呼ぶのだろう。
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