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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十二章 再会
52/63

第一話

2023.4/30 漢数字と一部文章を修正しました。



 雪解けの水が山の土を潜り坂道を下る。

 沢水は山を降りると長い川になった。その川はどこまでも、どこまでも続いていて、多くの者を潤してくれただろう。


 川で生まれた魚は流れに逆らって山を登ることはあるのだろうか。

 例え登れたところで、魚が山頂にたどり着くことはないのだろうか。


 魚は世界を見下ろすことはないのだろうか。



「急だったから驚いたよ」


 懐かしい香りのする屋敷に招かれ、客間に入って向かい合うように座る。

 別れた頃の青年らしさをすっかり脱ぎ捨てた息子さんは立派に私を持て成してくれた。テーブルの上にはティーカップに入ったミルク珈琲。そのチグハグな組み合わせが酷く懐かしい。


「元気にしていたか?」

「えぇ、恙無く(つつがな)。息子さんは?」

「俺も変わりないよ」


 その一言に安心して二度、小さく頷く。


「イチジクはまだ熟していないけど」


 悪戯げに笑う息子さんに対して私は笑い返す。

 実る頃。庭先に立つイチジクの木には実がなっていたが、それはまだ食べごろでは無かった。私が言った”イチジクが実る頃に遊びに来る”は果実の食べごろを意味していた。

 即ち、イチジクが実る頃に遊びに来る、という約束は正確には果たされない。


「イチジクはお預けです」


 笑みを浮かべて「ふぅん?」と言って向かいに座る息子さんはカップを手に持ち香りを楽しんだ後、綺麗な所作で一口飲んだ。

 作業部屋に入り浸っていた少年とは思えない程、彼は立派になっていた。


「この屋敷を出た後、港町に行きました」


 旅の話をしようと思って順序を追って話を始める。

 ここに来た要件が気になるだろうに、旅の話を始める私を息子さんは特に気に留めず、楽しげに目を細めた。


「美しい紫色の珊瑚が有名でしてね。普通、海って青いでしょう? でもね、そこの海は紅碧色をしているのです。これがその珊瑚です」


 首から掛けて胸元に隠していたリーリアさんのペンダントを取り出して彼に見せる。


「綺麗な色だな」


 眩しげにペンダントを見て微笑む彼の反応に心が満たされた。

 手紙にも綴っていたが、もっと詳しく旅の道中で見た美しいものたちを教えてあげたかった。一枚の絵ハガキだけでは伝えきれない程、世界は綺麗だったのだと。


 続いて回って歩いた町や出会った人達の話をした。

 薔薇には可愛らしい妖精が住んでいること、私達は猿型という型にはまり、世界には他にも色々な種族がいること、色々な精霊がいること、お喋りをする物について、そこで食べた物が美味しかったこと。テーブルに置かれた珈琲を何度もおかわりする程、沢山のことを話した。


「それで、突然会いに来た理由は? そろそろ教えてくれても良いと思うんだけど。もしや、俺に会いたくなったとか?」


 自分の言葉に照れるのを誤魔化すように悪戯げに笑みを見せる息子さんに「そうですよ」と言えば、「え」と驚いたような顔をした後、僅かに頬を赤らめた。


 ごめんなさい。

 

 少しだけ深く座っていた姿勢を正し、手に持っていたカップをテーブルに置く。

 この先は貴方が期待するような楽しい話はないだろう。


「漸く貴方に自分のことを話す決心がついたのです」


 笑みを作っていた口角を戻して、ジッと彼の目を見つめる。


 どうして急に連絡も無く来たのか。

 私は覚悟が欲しくて彼に会いに来たのだ。


「どういうことだ?」


 只ならぬ雰囲気を感じたのか息子さんも笑みを引っ込めて私の顔を見つめる。その表情は聊か険しい。


 ぴくり、と目元が痙攣する。

 体は素直なもので、細やかなこの一言にすらストレスを感じているようだった。


「私はずっと浅い夢を見続けていました。百年、二百年と長い時を、ずっと」


 これまでの人生は頂上を目指す魚そのものであった。

 泳ぐことを止めれば何処までも流されていくだろう。海に辿り着けたなら幸運なことで、そうでなければ力尽きた体は至る所にぶつかり、途中で打ち上げられてしまうだろう。そして土に還るか、鳥にでも食べられる。

 しかしそんな終わりを迎えることは叶わず、意志と反して尾ひれは止まる術を忘れてしまった。


 魚は辿り着くことが出来ない山頂を中途半端な場所で目指し続けるのだ。


 黄金に輝く琥珀色に映る自身の姿を見て、思わず視線を目の前のテーブルに落とす。


「年老いて死に、そして乾燥して朽ちた体の”ガワ”を裂いて赤ん坊として生まれ変わり続けて……完全に死ぬことが出来ないのです」

「……しかし、貴女は俺の義姉に当たると父に聞いていたのだが」


 それなのに、おかしなことを言うのか。

 そう言いたいのでしょうね。


「貴方のお父様の年の離れた弟さんと結婚したのが私の姉、そう聞いているのですよね?」

「そうだ」


 彼の父親であるこの屋敷の旦那様と実の弟さんは年が八つ離れており、当時十八歳であった。そして私の姉が十六歳の時に二人は結婚したのだ。その時、私は十二歳。この屋敷にやって来た年齢だ。

 私が屋敷を去った後に知ったことなのだろうが、彼の認識に間違いはない。しかしそれは、これからする話の入り口に過ぎない。


「姉と私は血が繋がっていません。……姉の父親であるテオが八歳の時に私は彼と出会いました。その時、私は二十三歳です」


 眉を顰める息子さんの反応を見ながらゆっくりと話を続ける。


「三度目の人生を生きている時。故郷を離れて、化け物の様な私は人の中に入り込むことを恐れて、掃き溜めのゴミのように地に伏せていました。……そんな私に声を掛けてくれたのがテオです」


 絵を描いてお金を得ていた彼だって充分にご飯を食べられない日があった筈なのに、私にパンを分けてくれたのだ。

 地に伏せて何もしないから、何も得られないのだと、そう言って。


「……テオさんが子供の頃に、貴女と出会った?」

「そうです。テオは後に結婚をした妻と共に頼れる者がいない私を家に招き、最期を看取り、そして妻であるデイジーが私の年老いて枯れた体の裂け目から赤ん坊の私を取り出してくれたのです。気味の悪いことだった筈なのに、彼らは養子として私を受け入れてくれました。…………彼らには一人娘がいましてね。彼女が貴方の伯父の配偶者に当たる人。……彼女がテオ達の第一子であり、私は後に迎えられた養子なので彼女を姉さんと呼んでいます」


 なんとも現実離れした話だと思う。

 整理しないとややこしい話でもあるだろう。


 ただ、どうして此処に来たかを説明する為には必要な話なのだ。


「幼い頃、どうして私がこの屋敷に来たか。ずっと知りたかったのではないですか?」

「……それは、まあ」


 幾ら絵が上手いとは言え、子供が住み込みで大切な絵を描くなんて少し無理な話だ。状況を整理しようとしても疑問が浮かんだことだろう。

 話の当人がいないのだ。説明をしようにも混乱を生み、ややこしくなるだけ。それなら私の話は話さずとも良いと判断したのだろう。


「テオに拾われたあと絵を描く方法を沢山教わりました。何年も、何十年も。……テオは、道端に座って心に傷を負っている人や寂しさを抱えている人の為に絵を描き続けていたのです」


 画家の筆は魔法の杖。

 その杖の先から生まれるは虹色の希望。


「もし、私も彼と同じような生き方が出来れば、何もせず生き永らえるだけだった命の使い道があるんじゃないかと、そんな希望を抱いて」

 

 魔法は視覚から伝わり、脳や心臓を優しく包み込む。

 美しい色が、懐かしい色が、そっと誰かの肩を抱き、手を握り、背中に手を回して擦ってあげるような優しい魔法。


 彼の絵はどれもが誰かの幸せの為に描かれた絵であった。


「……幼児期に入り、歩行がしっかりとして筆をちゃんと握れるようになると、デイジーが頻繁に小旅行に連れて行ってくれるようになりました。もっと絵が上手になりたいと奮闘する私の為に沢山の景色を見せてくれたのです。テオはその頃から足を悪くして、姉は学校に通っていたので二人とはあまり行けなかったことに関しては残念ですが、沢山絵を描いて、それをテオと姉に見せながら旅行の話をしました。二人はいつも楽しそうに笑ってくれて……、家族が楽しそうにしてくれるのが嬉しくて、家族の団欒が懐かしくて、……得難いほど愛おしかった」


 思い出すのは暖かな食卓と笑い声。

 私は素敵な縁に恵まれた。


「それで、いつだったか。どうか元気づけて欲しい人たちがいる、とデイジーから話がありました。それが、貴方達、家族のことでした」

「……俺達?」

「はい。私もテオのように人の為に絵を描きたかったのです。……旅行をしながら誰かの為に絵を描きました。でも、それはデイジーがいたから、大人がいたから出来たこと。絵の仕事を一人きりで受けるのは息子さん家族が初めてで、年甲斐もなく緊張しましたよ」


 なんて、その時の私は十二歳。年相応ではある。


「でも、大きなものを貰ったのは私の方でした」

「特別なものなんて渡していないと思うけど……」

「……子供なら泣いてしまえば良いのに、記憶の奥底に仕舞いこんでまで悲しみに耐えて、それなのに貴方は何処までも実直だった」

「俺?」

「そうですよ。飽きもせず部屋に来ては駄弁って、面白い話を聞かせてくれて……」


 息子さんはウッ、とばつの悪そうな顔をしたが、そんな顔をする必要はないのにと思わず小さく笑ってしまった。


「凄く楽しかったなあ、って。いい子だなあって」

「良い子って……」

「あの部屋で貴方を待っているのが楽しみだったんですよ」


 ニッと笑って見せれば、彼は嬉しそうに再び頬を染めた。純粋な所は相変わらずなようだ。


「居心地の良いあの部屋を出る時はとても寂しかった。でも、あの部屋だったから良かったんです。私の画家としての一人旅の門出を迎えられたのですから」

「その割に別れ時は惜しそうじゃなかったが」

「二百年ぶりに出来た友達と約束したんですもの。心は晴れやかでした。これまでは誰かと知り合っても一時の出会いだと思っていたんです。だから、また会おう、なんて約束……、あは」


 思わず笑えば彼は目を真ん丸にした。

 私は、未だに込み上がるあの時の高揚を抑えるように胸元のペンダントの珊瑚を握る。


「……嬉しかった」


 山頂を目指す魚は気が付いた。

 少しだけ、ほんの少しだけ自身が山を上っていることに漸く気が付いた。

 魚は目を閉じることが出来ず、ただただ同じ景色を見続けていたが、それならば、と前を凝らして見ることにした。

 太陽が昇れば水の中は光り輝き、夜になれば暗闇に沈む水の色が目を癒した。

 揺れ動き続ける尾ひれは千切れでもしない限り、泳ぐことを止められない。ならば、自身も必死になって尾ひれを動かそうではないか。この調子で泳いでいたら山頂に辿り着くには気が遠くなる程の時間が必要だろうが、幸い、自分には幾らでも時間がある。

 僅かな前進をこんなにも嬉しく思えるのならば、上りきってみようじゃないか。例え、水の道が途絶えていようが。


「そんな風には、見えなかった……」


 むず痒そうに口をごにょごにょとする息子さんに「凄く嬉しかったんですよ」と念を押せば、また照れるのを誤魔化すように米神を掻いていた。


「あの時、良い奴だよって言ってくれて嬉しかった。イチゴをくれて嬉しかった。言ったじゃないですか」


 あれはその場で良いことを言ってやろう、なんて安直な気持ちで言ったのではない。

 複雑な気持ちを抱えていたにも関わらず、彼と過ごした時間が本当に楽しかったからこそ口に出して伝えたのだ。


 誰かと繋がりを持ったこと、楽しいと思えたこと。

 あの日々の中で、私は終わりなき人生に絶望をして遠ざけていたことを思い出したんだよ。


「私のやりたいことを汲んでくれたデイジーの薦めがあった。これが、この屋敷に来た理由、意味です。そして、これから話すことが、突然訪ねた理由です」


 懐かしい話はお終い。

 私がこの屋敷に来た理由も、私がどういう繋がりだったのかも分かったことだろう。


「次に話すのはお願いです」

「お願い?」


 笑みを引っ込めて、重苦しく頷く。

 

「この屋敷を離れる時、旦那様と青い果実の話をしていたことを覚えていますか?」

「あぁ」

「私の一度目の人生、何も知らない幼い子供だった時の話です」


 ただ、私が悪いことをして、どうなったかと言う話。


 そしてこれからどうしたいのか、それを聞いて欲しい。


「私は大人の言い付けを守らず雪に覆われた森に入りました。森の奥には洞窟があって、中には蛾か蝶の銀色のサナギが敷き詰められていて、その奥には青い果実が実った美しい植物が生えていました」

「……まさか、その果実を食べたのか」


 察しの良い彼は直ぐに合点がついて、声を沈め、神妙な面持ちで正解を口にした。


「はい」


 たった二文字を声に出すだけでこんなにも緊張することはないだろう。

 

 恐る恐る視線を彼に戻せば想像通り悲哀に満ちた表情していた。

 相変わらず、彼のそういった顔を見るのは居た堪れないものだ。


 私の愚かな行いは、いつだって誰かを悲しませてしまう。


「その果実を食べたから存在が不確かになってしまったのだと思い、青い果実について探っていたのです」

「青い果実を探してどうする気だったんだ」

「もう一度食べれば治るのかな、と。でも、旅の途中でそれでは治らないことが分かりました。……もしかすると果実は精霊の物で、私が勝手に食べたことを怒っているのかと、今ではそう思っています」


 ――悪いことをすればごめんなさいと謝らないといけないよ。


 旅の途中で出会った賢者は言った。

 その通りだ。私は人の物を勝手にとって食べたのだから。


 子供がしたことだろうが、悪さの重さは変わらない。

 大人が食べようが、子供が食べようが、そこにあった果実はなくなってしまった。誰が食べたが重要なのでは無く、果実がなくなったことが重要なのだ。


「今までは何となく故郷の森に近づけませんでした。今更私を怒ってくれる村人なんていないだろうに、酷く怒られると思っていたのです。……どんなに長生きをしていても、まるで子供みたいでしょう?」


 全く、自分にほとほと呆れる。


「……でも、漸く決心がついたのです。後は貴方に背中を押して貰いたいと思って」


 無意識に下がる肩。前を向きたいと話しているのに落胆しているようだった。

 そんな自分に苦笑いが浮かぶ。決心をしたのに、肝心な覚悟が出来ない。情けないったらありゃしない。


「それだけなら、どうしてそんな困っているような顔をしているんだ」


 本当、離れている間に察しが良くなってしまって。

 言わなくても良いことまで言わなくてはいけなくなってしまった。


 ……いや、言わなくて良いことではないか。


「元々朽ちている筈の体なのですから、上手くいくということは死を意味するのかと」


 息を飲む息子さんの顔を見ていられなくて視線を僅かに下げる。

 楽しくない話をしてから、珈琲は全然減らなくなってしまったね。


「……ずっと本当の死を迎えたかったのです。でも、その考えは旅を続けて変わりました」


 ちっぽけな一人の物語の結末を奪ったのは私自身。

 破り捨てた結末を漸く見つけられると思った時、死に対する恐怖が追い付いた。


 確か、死に対する恐怖を持ったのは一度目の人生だっただろうか。

 いいや。あの時は確か旦那の元に行けると思って、晴れやかな気持ちであった気がする。

 では、二度目や三度目は? あの時も怖くなかった。死ねるかもしれないという期待もあったと思う。それなのに今はどうしたというのか。


「……旅の道中で色々な人に私の安らかな死を願わせてしまいました。友人や懇意にしてくれた人に、です。それはあんまりなことだったと、遅いけど、気づいたんです。……コロコロと考えを変えて、信頼に置けない考え方かもしれませんが」


 死に対して安堵しなくなったのは、きっと、もっと世界を見てみたいと思ったから。

 自分なりの生き方が見つかったから世界との別れを惜しむ気持ちが生まれてしまったのだ。


「死にたいとか、生きたいとか、信頼も何もない。……誰だって友人には生きていて欲しいだろ」


 息子さんは私の哀れな願いを素直に受け入れない。私が望むならば、悲しい祈りの為に目を伏せない。彼の生き方は実に輝かしい。

 じわり、と目元が熱くなり、拳を握って溢れそうになる感情を押し留める。


「遅くなってしまったけど、森の精霊に謝り、更に図々しくも願いを乞おうと思います」


 これは山頂を目指そうと決めた魚の心境。

 魚にとっての山頂は私にとって何処を指して何を見せるのかは分からない。

 それでも、私は藻掻かないといけない。水を飛び出して息苦しくて、体のあちこちが痛かろうが天辺に上って、茂る森を見て、遠くで輝いているだろう海の青を見たい。魚の目では霞んで良く見えないかもしれないが、上った甲斐があったと心は達成感で満たされることだろう。


「なんて。……なんて願う気だ」


 息子さんが恐る恐る尋ねるものだから、私はもう一度彼の目を見つめる。

 ああ、やっぱり貴方の深刻そうな顔は苦手だ。誤魔化そうとしていた自分の心が背筋と正そうとするんだ。

 

「まだまだ世界に飽きることはなく、私は人々の傍にいたい、と」


 自分の意志とは反して唇が震え、気道が細くなって声も出しづらい。死にたいと願っても、生きたいと縋っても、結局どちらも恐ろしい。

 それでも彼には伝えたかった。もしかすると今度こそ故郷の森で朽ちることになるかもしれないから。だから、友人である彼には言いたかった。黙って消えてしまうことだけはしたくない。


 震える口を押えた掌も同じように震えていた。


「まだ、生きていたい……って」


 願いを音にした時、心臓がぎゅぅと掴まれたように切なくなった。

 溢れた涙が口元を抑える手の甲を伝って落ちゆく。


 未だこんな感情があるなんて思わなかった。

 死にたいと思う夜が幾つあっただろうか。同じように震える体を抱きしめて、声が漏れないように口を押えて泣いた日はどれ程あったか。

 夜空のグロッケンシュピールは夢見るばかりで子守唄を奏でてくれやしない。


 孤独な夜は酷く寒かった。


 彼は徐に立ち上がり、私の隣に座って頬に手を沿えるようにして親指の腹で零れる涙を拭った。

 私の顔なんてすっぽりと包んでしまえるほど大きく立派になった彼の手の平に、大きくなったなあ、なんてしみじみした。


 情緒が安定しない私の頭の中と変わって、息子さんは口を開けたり、唇を噛みしめたり、言葉を選んでいる様子。

 いつだって彼は人の為に一生懸命に言葉を探した。


「好きだ」


 励ましの言葉でもくれるのだろうかと思っていたら予想の遥か上を過ぎた言葉が彼の口から発せられた。

 口に手を当てたまま、涙が止まらないまま彼の顔を見上げる。


 そんな辛そうにして、告白する時に見せる顔なんかじゃないよ。

 私がこの屋敷を出る時に見せた表情の方がよっぽどそれらしい顔をしていた。


「覚悟なんて必要ない」


 涙を拭い続ける親指の動きはそのままに、もう片方の手も同じく頬に触れる。

 優しい声が私を甘やかそうとする。


「決意もいらない」


 警鐘を鳴らすように腰に付けた鈴が一際大きく鳴った。

 彼の言葉は私の心を揺らぐには大きな意味を持つのだ。聞き終えて良いものか。


 でも、私は彼の言葉を聞きたい。

 こんな私に向き合ってくれる彼だからこそ、如何なる言葉も零すことなく聞きたいのだ。


「どうなるか分からないなら、そんな所に行かなくていい。ずっと此処に居たら良いんだ。……貴女が好きなことをして旅をしているのなら、この土地を離れられない俺は迷惑になるだろうし諦めようと努力をした。しかし、簡単に手放せるほど貴女に対する想いはチープなんかじゃなかった」


 秘めたる想いが溢れんばかりに吐露した。

 固い声質に、彼の葛藤が半端なものではないことが伝わる。


「……なんだよ、死んでしまうかもしれない場所に行く為に勇気をくれって。そんなことを俺に頼むなんて……、あまりにも酷だと思わないか」


 頬に添えられたままの右手の親指が眼球の丸みを確認するように、瞼をゆっくりと撫でる。


 これは私の責任だ。

 少しだけ、そんな気はしていたのに彼の幼い恋心を放って置いてしまった。離れれば、きっとその気持ちは薄れていき他の愛すべき人と出会えるだろうと思ったから。しかし、私はうっかり忘れていたのだ。

 彼がまごうことなき誠実な人だったことを。


「生涯、添い続けたいと思えるのは貴女だけなんだ」


 両方の親指の腹で尚も零れ続ける涙を優しく拭い続けるその温かさに、なんて酷いことをしてしまったのだろうかと後悔した。

 此処を離れて暫く経ったのに、彼の優しい手付きに、向けられる優しい視線に、怖気づいた。


「それでも……、その森に行くと言うなら俺も連れて行ってくれよ。そんなことを知って、待つことはもう出来ない。独りでなんて、駄目だ」


 到底受け入れられない申し出にこれでもかと眉間に力が入る。私は何も彼を巻き込みたいなんて考えていない。ただ、最後かもしれないから一目見たかっただけなのだ。隠していた素性を明かしたかっただけなのだ。

 もしかすると、それさえも私の我儘だったのかもしれない。


 結局、彼を傷つけ、自身は困ることになってしまった。


 彼が言った駄目は、独りきりで死んでしまうなんて駄目だ、という意味だろう。

 どこまでも優しい彼は霞むことなく、子供の頃の純真さをそのまま持って大人になった。


 そんな彼を前にして、私は自分が酷く恥ずかしい。


 俯いてしまいたかったのに、彼の手はそれを許さない。私は抑えていた口から手を外し、諦めた様に彼を見つめる。


 子供だった貴方はもういないのですね。

 ちゃんと向き合わねばいけない時が来たのだ。



「ルカさん」



 観念するように”彼の名前”を呼べば、驚いたように目が見開かれた。

 まだ人と距離を置いていたかった私が自衛をする為に考え付いたあだ名。

 画家と雇い主の息子。それだけだった筈の関係の中に生まれた友情が彼の名前を特別にした。

 ずっと、ずっと口に出すことがないまま大切に仕舞っていたその蓋を開け、両手で掬って漸く取り出した彼の名前。


 月に梯子を立てる人の意味を持つ、この家の者にしか与えられない名前。

 そして、梯子をかけることを精霊に許された者が与えられる名前。

 それは彼の人となりに劣らず、輝きを持った音であった。


「言ったでしょう? 私の恋は実らない、と」


 私の顔を包み込んでいる彼の手の上に、未だ震えている手を申し訳なさそうに重ねれば、私に掴まれた大きな手が緊張したように僅かにピクリと動いた。


「人妻の子持ちに言い寄るなんて駄目ですよ」

「……え?」


 幾ら諦めさせたいからって、この言い方はずるいかもしれない。でも、事実に違いはない。

 新しい恋が出来るほど辛夷の思い出は過去に成りきれない。


 最愛の人は今も心の中に。


 未だ私の恋心が夫の元に在ることを彼に隠すことは失礼だと思った。

 

「どれだけ時が経っても、私は一途なのです」


 浮かぶ笑みは自虐からか、それとも取り返すことが出来ない愛しさに対してか。

 どうか私の大切な愛を上塗りしてしまわないで。彼はそれが出来てしまうだろうから。


「それに、貴方には普通の恋をして欲しいのです。同じ時を生きて、同じ時に死にゆけるそんな人と生きて欲しい。私の恋がそうであったように、普通の愛を育んで欲しい」

「俺の想いだって普通だ。普通の愛だ」


 ルカさんも食い下がらない。

 分かっている。彼の気持ちが半端なものじゃないことくらい、その視線が充分に理解させてくれた。


「私は人成らざる者になってしまいました」

「そんなのは理由にならない! ……貴女がだ、んなのことを忘れられないと言うのならそれでもいい」

「よくありません。ぜんぜん。全然よくありません。……他の人を愛しているのに、貴方を二の次にしても良い? ……そんなこと、私が絶対に許しません」


 尚「でも、」と食い下がろうとするルカさんの未だ頬に添えられている手を震える手で強く握れば、彼は口を噤んだ。


「私は。…………わたしは、貴方の人生を奪いたいが為に会いに来たのではない」


 どうして私は上手に言葉選びが出来ないのだろうか。

 いや、どうしてこんなことを言わせてしまうような行動しか出来なかったのだろうか。

 

「こうして貴方を傷つけてしまうのなら、会わない方が良かったのでしょうか……?」


 ずるい言い方だと思う。

 でも、そう思わざるを得なかった。

 大切な友人だと言う口で、彼の愛を拒絶する。なんて自分勝手で酷いやつ。

 こんなことになるなら、結末がどうなろうが何も言わずにいれば良かったのだろうか。


「筆……」


 縋るような声に、少年の頃の姿が浮かんだ。

 貴方のその頼りない態度がどれほど私の加護欲を掻き立てるか理解しているのだろうか。


 面白い話をしてあげよう、何か甘い物でもシンシアさんに頼もうか。前は出来なかったけど、今度こそ二人で街に出てみようか。


 私は貴方が可愛くて仕方ないらしい。


 しかしそんな気持ちも抑えて、私は言葉を絞りだす。


「友よ、お願いだから聞き分けてください」


 目を閉じて懇願するように彼の片方の手の平に頬を押し付ける。


「……どうか、長い時を生きるだけで成長もしない私の心を勇気づけて。今度こそ、イチジクの実る頃に会おうと約束して。貴方に背中を押して貰えたら、わたし、もっとこの世界を愛せるから。だから、…………お願い」


 私が頬を寄せている手と反対にある手を背中に回して、彼はそっと自分の肩口に私の頭を引き寄せた。私の目元の窪みが彼の鎖骨に当たって服を濡らす。


「そんな顔されたら、駄目、なんて言えないだろ……」


 怒っているような、呆れているような声だった。


「一生のお願い、と言うものです」


 折れた彼に開き直ってグリグリと顔を押し付ければ優しい手付きで髪を攫うように撫でられた。懐かしい気持ちになったが、それが誰の手を想ってなのかは分からなかった。母か、父か、旦那か……。私の頭を撫でてくれた優しい手は、遠い記憶の果てに。


「一生のお願いはまだ取って置いてくれ。……使う機会はきっと、また訪れるから」


 僅かに香る男性用の香料と外の匂いが鼻の奥を迷い込んだ。

 今は同じ時を生きて、同じように年を取っているが、次に目を覚ました時に貴方はこの世界の何処にもいないのだろう。若しくは、先に朽ちるは今度こそ私が先か。


 少年だった貴方の成長が嬉しい反面、進み続ける針の時計が恐ろしい。

 時間は私から様々な物を奪い去る。


「分かった。果たせる約束だからするんだからな。……俺は今までと変わらず此処で待っているよ」


 不幸か幸か。色々な人と出会い、この世界に大きな未練を作ってしまった。

 残された人々の為に過去を描き、未来を向く為の絵を描き続けた。望まれるままであったが、その場凌ぎになった絵もあることだろう。


 しかし、一瞬でも誰かを救えていたのなら、私の筆は、筆を名乗ると決めた私は、誰かを照らす魔法を使えたのだろうか。



 その誰かとは自身も洩れなく含まれるのだろうか。



「貴女はもっと自分の為に絵を描いた方が良い」


 誰かの為に在りたい気持ちは、私に向けることは出来るのだろうか。

 私は正しく自分を愛してあげることが出来るのだろうか。


「俺を向くべき光の方に導いたように、貴女は貴女自身を輝かしい方向に己を導くことが出来る筈だ」


 私が杖を使う魔法見習いならば、ルカさんは呪文を唱える魔法使い。

 芯が真っ直ぐと伸びた者が唱える呪文は、月の光さえ霞むほど眩しい。


 そんな直向きで健気な貴方だったから絆されたのだ。


 グイグイと顔を彼の肩に押し付けて、恐る恐るすっかり広くなったその背中に手を回す。

 彼は相変わらず緊張したように一瞬ぎこちなくなったが再び私の髪を撫でた。


「気が遠くなる時を過ごした故に終わりを見つけたいと祈る友人の背中を素直に押してやれないが、生きる理由を得た友人の生きたいという願いを喜ばない者はいない。……少なくても貴方の目の前にいる人物はね」


 私が私の為に描く絵。

 自分の為に何を描こうか、なんて、一通り悩んだところで決まっている。

 六枚羽の妖精が懇願したように、朽ちて砕けるならその景色の一途になりたいとわたしも願うだろう。


 私たちが愛した白銀の故郷。


「月の光が何者も選ばないのと同じで、我が愛しの乙女は全ての為に在り、そして貴女だけの為にも在るんだよ」


 私の髪を撫でていた手と反対の手が恐る恐る背中に周り、控えめに力が込められた。

 怖がることはないよ、そう言うように。


 不幸の前では自らを不自由とし、多くの幸せの為ならば、私たちの心は何処までも自由である。




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