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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十一章 秋のすすき
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第三話

2023.4/30 漢数字と一部文章を修正しました。



 私がこの屋敷にやって来たことで可愛らしい部屋の内装は随分と変わった。

 美しい白鳥の刺繍がされた薄手のレースカーテン、柔らかな部屋の客人を持て成す為に一式揃えられた檸檬色の白鳥が描かれた子供サイズのティーセット。

 少女の面影を拭うように、愛らしくも美しい彼女の私物を汚さない様にと別の部屋に移して貰った。

 だから、だろうか。

 少年は近寄ろうとも考えなかっただろう、この部屋にやってきた。すっかり作業場となってしまったこの部屋に来て、そして昼寝をする私を見つけてしまったのだ。


 この部屋は彼にとっては悲しみを思い出す鍵となる。

 拒絶反応が出るかもしれない。少年は過去を無理に思い出すことになり、塞ぎ込んでしまうかもしれない。

 何も覚えていない彼がこの部屋に来ることはデメリットにしか思えなかった。しかし私は彼を追い払うこともせずにこの部屋に留まることを許した。いかんせん、私は雇われの画家だったから。

 家の者を拒む選択肢など存在しなかったのだ。


「筆はさ、月に上る人達をどう思う?」

「……どう思うっていうのは?」

「凄いなぁとか」

「凄いですよねえ」

「うーん、そうじゃなくて。こう、筆にはどう見えてるのかなって」


 少年は私の何を気に入ったのか、若しくはこの部屋に感じるものがあるのか、毎日のようにこの部屋に訪れるようになった。私好みのコーヒーの味を覚え、私がはぐらかす言葉を良く咀嚼し理解しようとした。


 優しくて、賢い。そして子供らしい子供。

 彼は好きな部類の人間であった。


「月の光は痛みを和らげてくれるんでしたね」

「うん」


 月の光。

 乙女の鼻先は世界で一番高い岬。この街はその岬を管理していた。そして、少年はこの街を収める領主の家系。

 彼はいずれ、父親がしている仕事を受け継ぐのだろう。


「みんな、月まで続く梯子を上ることは怖くないのかな」

「……怖いのではないですか?」

「やっぱりそう思う?」


 父親に家の仕事について、何かお話があったのだろうか。


「月の光は沢山の人の痛みを和らげてくれる。大切なお仕事だって分かっているけど、もし落ちたらどうなるんだろうって考えちゃうんだ」


 月までの距離は長く、一度梯子を上れば直ぐには帰って来れないだろう。

 月は見えるのに、上る人の姿はいずれ見えなくなる。怖い。そう感じることは普通のことのように思えた。


「もし落ちちゃって少しの間生きていたら、俺は自分の手で掴むことが出来なかった月の光を抱いて死ぬのかな」


 まるで地に落ちて死にゆく鳥の死を想う様な気持ちであった。

 月の光を手に入れられない者は、痛みに苦しむ小さな鳥の首を捻ってやるか。それとも、小さき命に希望が無いことを知りながらもその鳥が息絶えるまで傍にいてやるのだろうか。

 鳥にとって、どちらが残酷なのか。私達は延々に結論付けることは出来ないだろう。


 首を捻る者の理由は千差万別。

 苦しむ鳥が見るに堪えないから。力なく鳴き続ける鳥の声が切ないから。長く苦しむよりも一瞬で終わらせてやった方が鳥の為だから。善意でも悪意でも、鳥の首を捻る理由は作ることが出来る。


 鳥が息絶えるまで傍にいてやる理由も千差万別。

 命は他者が手を加えて終わらせるべきではないから。もしかすると奇跡的に死なずに生き続けるかもしれないから。……手を、汚したくないから。優しさでも無関心でも、鳥を放って置く理由も作ることは出来た。


 結局、この二つの共通点は鳥が死ぬことは分かっている、というだけ。

 月の光の採取が始まると、苦渋の二択は選択肢に上がることが少なくなった。瞼を落とす者に恐怖を与えず、看取る側に覚悟をさせなくて良くなったのだ。


 痛みが和らいだ鳥は、これまで飛んで見て来た空の景色を思い出すのだろうか。小さな鼓動が止まる、その時まで。

 記憶は脳の染みとなり、懸命に点滅しながらクルクルと回る光に照らされて、鳥が愛した情景を見せてくれるのかもしれない。


「痛みもなく最期に言葉を残せるのなら、月の光は沢山の人々を救う。そうなんだよね? 俺は自分が恐ろしいと思うことを誰かに押し付けることはしたくない。……でも、お父さんや皆がするように俺は月に上り続けることが出来るのか、それだけが不安なんだ」


 将来に不安を抱える少年の気持ちは良く分かった。

 命を落とすかもしれないのだ。まだまだ子供である彼に、それを想像させることさえ酷な話だろう。


「私は貴方が少し羨ましいです」

「……筆が俺を?」

「うん」


 友人として受け入れてくれた少年の意向に沿って会い続けていると、たまに敬語が外れた。私も随分と絆されたものだ。


「月の光を採取する人がいるから多くの命は安らかな時間を得ることが出来るのです。誰かの為になりたくても上手に出来ないことの方が多いのに、貴方たちはその意味を考える必要もなく、誰かの痛みの為に出来るのです。自分で梯子を上る答えを見つけなくても、それは明白なことなんですよ」

「そうかな……」

「私はそう思います」

「筆はそれが羨ましいの?」


 甘いコーヒーが入っているコップを両手に持ったまま、私を見つめて首を傾げる少年からは幼さがまだまだ感じられた。私が彼くらいの年頃の時、どんなことを感じて、どんなことを考えていただろうか。

 誰かを想う気持ちだけは手放さない様にして、幼い自分の気持ちはとうに忘れ去ってしまった。いずれ、誰かの為に在り続けようとして自分を見失ってしまうのだろうか。そうしたら、私は何の為に絵を描き続けるのだろう。


 自分さえ大切に出来ない者は、誰の心も想えないというのに。近い未来、私はちぐはぐな存在になってしまうのかもしれない。


「羨ましいですよ。誰かの為に在れることは私の生きがいですから」


 自分を手放し、残るのは他者の為に在ろうとする自分だけ。

 誰かの為に存在できなければ、私は再び地に伏せ、動くことが出来なくなってしまうのかもしれない。

 しかし、自分を失くすことは耐え難い程に残酷であった。


「じゃあ、俺も筆みたいに人の為に頑張るよ」


 夕暮れに、風にそよぐすすきは黄金に輝く。

 彼の琥珀色の瞳はその黄金色を纏い、屈託なく弧を描いた。


「私、みたいですか……?」

「そうだよ。誰かの為にあるっていうのはさ、筆の絵みたいに誰かを幸せに出来るってことだろ?」


 秋のすすき。

 夏が去り、胸の切なさを抱えながら、冬の到来まで大地は金色の波に身を委ねる。


 秋のすすき。

 旅路で幾度も見た、美しき一日の終わり。


 私はその黄金を目の前にして、誰かの心を分かったつもりになるな、と自分を戒める。


「お父さんもお母さんも筆の絵を見て嬉しそうにしてた。俺は、筆の仕事を尊敬しているよ」


 彼は好きな類の人だった。

 優しくて、賢くて、子供らしい子供だった。


 無垢な黄金。

 いつの日か見た画家の魔法の杖の輝きのように、少年の言葉は光を纏う。


 救われているのはどっちだ。


 赤い実を川に投げる彼を窓から見下ろしているだけだったのに、秋の柔らかな光が傾き、暗がりの廊下を明るくした。


 私は彼の悲しみを引っ張り出すことが、辛い。心を守る為に行き付いた姿が今の彼の姿ならば、それでいいじゃないかとすら思えた。

 しかし、それではダメなのだと筆を名乗る私がせっつく。


「……貴方は蝋燭が溶けて、火が消えるまで見届けたことがありますか?」

「ろうそく?」


 突飛もなく変えられた話題に少年は首を傾げる。

 少し考えたのち、ゆるりと首を横に振って答えを求めるように視線をこちらに向けた。


「火が灯る芯が液に浸かるまで見続けたことは?」


 少年は再び首を横に振る。


「その蝋燭は二度と灯らないのです。同じ火を見ることは、叶わない」


 私は彼の過去を引っ張り出すことが辛い。


「だから、最期まで見届けたいと思うのが人の心というものではないでしょうか」


 辛いことだが、私は誘われるようにしてこの屋敷にやってきた。

 ”姉”に、とある家族の絵を描いてやって欲しいとお願いをされてやって来たのだ。


 私はやらなくてはいけないことがある。

 例えこの少年を傷つけることになっても、彼の未来の為に在れるならば役割を全うしよう。


「貴方は真新しく灯されたばかりの火が消えるのを見てしまった。……それを見るのは、早過ぎた」

「筆」

「いつでも火が付きそうなのに、二度と、灯りを付けられないのです。……祈る思いでマッチの火をつけようとしても、二度と火は灯らない」


 彼は驚いたように目を見開き、手に持っていたコップをテーブルに置いて戸惑うように私に手を伸ばす。


「どうして泣いてるの? 俺、何か悪いことを言っちゃったかな」


 不安がる少年の言葉に、今度は私が首を横に振る。そうではない。そうではないのだ。

 貴方にとって悪いことを言っているのは私なの。


 こちらに伸ばされた手を避けるように顔を僅かに背ければ、夕日のオレンジを映す一粒の雫が惨めに床に落ちた。


「その指の先を濡らすことすら、心苦しい」


 嗚呼

 どうせ失い続けるのならば、いい加減涙なんて枯れてしまえばいいのに。




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