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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十一章 秋のすすき
48/63

第一話

2023.4/30 漢数字に変更、一部文章を修正しました。

2022.12/20 一部修正いたしました。


 

 ”姉”の紹介で訪れた大きな屋敷。

 手入れが行き届いた慎ましい佇まいの中庭には、大きなイチジクの木が植えられていた。

 風によって足に引っ付いたのは、その他の葉よりも大きめの葉。それを拾ってクルりと回してみる。

 なんてことはない。それは面白味もない、ただの葉だった。

 庭師は余分な葉を切り落として、地面を綺麗に掃いたのだろう。しかし、私が手に持つ葉はうまく逃れたのだろう。


 

 私がとある屋敷にやって来たのは夏のこと。

 素敵な屋敷だが、子供がいる筈なのに笑い声も聞こえない。

 此処は、賑やかな町と比べて酷く静かであった。


 屋敷の周りを散歩しながら『幼くして亡くなった少女の思い出』を辿れる何かはないか探す。

 しかし、この辺りには収穫がなさそうだ。

 場所を変えようと思い、手に持っていたイチジクの葉を手放せば、葉はヒラリと足元で舞った。


 私の手を離れたイチジクの葉が地面に落ちるのを見届けていると、その随分と先に男の子が屋敷の後ろに向かってある行くのを見掛ける。


「あれは……」

 

 あの子は、依頼主の息子さんだったか。

 真夏の太陽の光が耐えがたくて、瞼の上に手で屋根を作り彼の小さな背中を見つめる。


 ついて行ってみようかな。


 何か分かることがあるかもしれない。

 私は彼についていことにした。


 気づかれないように、一定の距離を保って後をついて歩く。


 ――ピーヒョロロロ

 おもちゃの笛の様な音が聞こえて、ふと見上げる。空にはトンビが円を描く様に飛んでいた。

 野ネズミでもいるのだろうか。それとも別の何かを狙っているのか。

 あんなにも高くを飛んでいるということは、数日、空は晴れやかであろう。


 トンビから視線を戻し、再び少年を見る。彼はトンビに目もくれずに歩き続けていた。

 面白い鳴き声をしていると思うんだけどなあ。

 もしかして、聞き慣れているのかな。

 昔は、あの鳴き声に似た笛のおもちゃでよく遊んだものだ。

 ……はて、今の子供はどんなことをして遊ぶのだろう?


 話し掛けることもなく、ただただついて行くだけの私は、心の中であれやこれやと考え事をした。

 依頼主のご夫婦は優しそうで物腰が柔らかな人だった。

 そういう人の元で働いているからか、お手伝いの方々も穏やかであった。

 だから、屋敷の裏も、この通り道も、綺麗に整備されているのだろう。




 少年が辿り着いたのは、幅のない川だった。

 しかし、子供とは予想もしない場所で危険な目に合う。その川の深さが彼のふくらはぎほどしかなくても、転びでもしたら軽すぎる彼は簡単に川に攫われてしまうだろう。


 私は心配をするような気持ちで彼で見張る。

 誰かに見られていることなんて知らない少年は、靴と靴下を脱ぎ捨て小さな素足を川のせせらぎに沈めた。

 そして、水を蹴るわけでもなく、手で川の流れを掴もうとするわけでもなく、ただただ足元を見つめていた。


 俯いている少年は、何を思っているのだろうか。

 陽が反射してキラキラと光る川の水面を眺めているのか、自分の足を見つめているのか、俯いているだけなのか。

 この時の私に、少年の視線が何を映しているかなど分からなかった。


 


 季節は秋。

 少年があの川に行くのを見掛けては、その小さな背中を追って見守った。

 川が良く見える場所を屋敷の中で見つけた私は、彼をひっそりと見下ろす。


「……子供が一人、川の近くにいるなんて危ないだろう」


 低くて落ち着いた声が背後から聞こえた。私は声がした方を振り向く。

 そこには絵の依頼主、少年の父親が立っていた。

 なんて返事をしようかと考えたが、依頼主はまだ話の続きがある様子だった。

 だから、私は何も返さず、ただ頷いた。


「あの子は、怒られた時にあの場所に行くんだ」


 依頼主は、窓際に立つ私の横にやって来て息子の姿を確認するように窓の外を見下ろした。


「悲しい時や寂しい時も、あの場所に行くのだと知ったのは最近になってから。これまで、あの子が耐えられない程の悲しみや寂しさを感じる様なことなどないように、そうやって見守って来たつもりだったのだがね。今回ばかりは、未熟な心を守ってやれなかった」


 どんな災厄からも、子供を守れる親などいない。

 子供は痛みを得て、少しずつ自分の中でその痛みとの向き合い方を学ぶ。

 しかし、彼にとってその痛みはあまりにも強く、向き合えるものではなかった。

 彼は、全てを忘れてしまったようで、小さなことだって忘れることができないでいるのだと思う。

 初めて妹と出会った時の甘い香り。温かくて柔らかな手。元気に泣いて濡らした睫毛。赤らんだ頬。

 忘れる筈がないことばかりなはずなのだ。

 しかし、彼の口からは、妹の話を聞くことはなくなった。

 柔らかくて成熟しきらない心では、妹の死を受け止めらる程の力が、まるきり備わっていなかったのだ。


 依頼主は、娘を失くしたあの日に留まる息子に、どのような言葉を掛ければ良いのか分からなくなってしまったのだと。


「私も、妻も、娘の姿を家の至る場所で見かける。その度に悲しみを共有して、励まし合う。大人は慰め合う方法が分かるんだ。しかし……息子の心を癒してやる方法が分からない。事実を突き続けることは、あの子の為になるのだろうかね」


 泣いている人をそっと胸に抱き寄せて、柔らかな髪を撫でてあげたとしよう。でも、悲しむ人は独りぼっちだ。

 静かで心地よい励ましの言葉を小さな耳に囁いても、風の音を聞くように、言葉は心に留まっていてはくれない。

 どんなことが彼の傷ついた心を刺激するかは、分からない。

 どんな言葉が、彼の傷を抉ってしまうのか分からない。

 自分の心の声を言葉にすることが難しい子供は、大人以上に繊細だ。


 私は、依頼主が見つめる視線の先を辿る。

 視線の先にいる小さな彼は、川の近くに実っていたナンテンの赤い実を千切って川に投げていた。

 夏の頃にもしていたように、足を川にさらすことは流石にしていないようで安心する。


 私はやるせなくなった。

 奥様と励まし合う……? それだって、十分にできないくせに。

 家族というのは、時に近すぎるのだ。

 亡くなった子供の思い出を語りあうには生々しすぎて、苦しくなるはず。

 私は、その苦しみを知っている。息もできぬほどの地獄が胸や喉を燃やし、渇きを与え続けるのだ。

 しかし、私は敢えて指摘しない。

 それこそ目の前に立つ彼は、そんなこと理解してる筈なのだから。

 依頼主にとって、私は少年の為だけに呼んだ存在なのだ。


「赤いナンテンの実は、ロウソクの灯りのように暗い道を照らす。……私たちは、その細やかな光をホーリィと呼ぶんだ」


 その実を千切って川に投げる息子、か。

 父親には、その姿がどのように映っているのだろうか。


「今は、思い出を振り返られる段階ではないのでしょう」


 千切られる赤い実を見ていると、胸が痛んだ。

 その行動には、どんな意味が込められているのだろうか。

 もう、忘れてしまいたい?

 それとも、苦しみから解き放たれたくて無意識にやっているのか。


 この屋敷には、家族の笑顔が溢れる、幸せな写真が沢山飾られていた。

 私には、彼が悪意を持って妹の名の由来を持つナンテンの実を千切っているとは、どうしたって思えなかった。


「大人は慰め方を知っているとおっしゃっていましたが、どんな長寿でも悲しみに慣れることはないと思います。自分が死ぬその瞬間まで、悲しみは癒えません。語ることに慣れるだけです。人の悲しみは、失ったものが取り戻されるその時まで、癒えないんですよ。だから、大切な人がいなくなったら、私たちは傷ついたままなんです。塞がったあとも、傷があった痕跡は消えないんです。それを否定することは、強さなんかじゃありません」

「では、息子の心は癒えないということかな」

「それとは少し訳が違います。今の彼は、悲しい時に悲しいと言えず、寂しい時に寂しいと言える言葉を知らないだけです。ただ、それだけのこと」

「寂しいという言葉を知っているのに、その言葉を知らないというのは、どういう意味なのだろうか」


 どうやら、依頼主は私を試すことにしたらしい。

 子供相手だから子供を宛がうことが良いとは限らない。

 私が息子さんにどんな作用を及ぼすのか見極めたいのだろう。


「口に出すことは、その言葉を真実にしてしまう行いです。悲しいと口に出した時、彼は自分の感情に気が付くことになるでしょう。……その時、忘れていたことの事実に傷つくかもしれませんが、焦ってはいけません。優しく、丁寧に、私たちは彼の心に向き合わねば。……私としては、まずは冷えた体を温めることをお勧めします」


 仲良さげに笑う兄妹の写真を思い出す。

 手放しに可愛がっている様子の彼が、その妹を忘れてしまうなど。

 私たちが考え及ばないくらいに、彼は傷ついてしまっている。


 だから、私は此処に呼ばれた。

 妹との思い出が消えてしまう前に、一つの尊い兄妹がなかったものとされてしまう前に。


「きっと、悲しさを思い出したとき、彼は今の妹と再会できるのだと思います」

「死んでしまったのに、今があるというのかい?」

「あります。私は、そうやって信じて生きてきました。……忘れてしまうことは、本当に恐ろしいことなんです。何も思い出せなくなる前に、手を差し伸べるのが人間というものではないですか? 私たちは、傷ついている人の手を温める為に手指が器用なのです。そして、柔らかな皮膚に触れるために、鋭い爪を持たないんです。」

「手を差し伸べるのが人間、か。……君は、息子とあまり変わらない年齢なのに、随分と落ち着いているね」


 視線を感じて顔を上げれば、彼と同じ琥珀色の優しい瞳が私を見つめていた。

 そして、子供にするように僅かに首を傾げて見せた。


「……そう見えるだけで、私は少しも彼の気持ちを分かってやれていません。なんの為に此処にいるのか、自分自身に問い続ける必要があります」

「いや、充分だよ」


 窓越しにも聞こえるは、トンビの声。

 クルクルと回るあの鳥の姿と鳴き声は好きだ。

 静かな場所で聞くあの音は景色を一層美しく見せてくれる。

 しかし、今ばかりは、その鳥の音は愁傷を際立たせるようだった。


 依頼主は、目に焼き付けるように再び息子を見つめた後、私に小さく笑い掛けてその場を後にした。

 私は去っていく背中を見つめる。

 その背中が、川を目指す小さな背中と重なって見えた。


 身近な人がいなくなることは大人だって耐え難い。

 相手が子供だろうが、人の心に寄り添うことだって難しい。

 依頼主は聡明な人だ。

 だからこそ、子供が一人で川の近くにいても、それが危ないことだと分かっているのに遠くで見守るしかできないでいる。


 私は、再び窓の外にいる少年に目を向ける。

 父親譲りの琥珀色の髪が、そよそよと揺れていた。

 陽に照らされて輝く彼の髪を見ていると、私の心の中で夕暮れの秋の(すすき)のように黄金が輝いた。


「……ひやり、ひやりと冷たい肌」


 鳥は何を探して鳴いているのか。


「色なし、音なし、ひとりきり」


 失ったものを知らない少年は泣くこともできない。



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