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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十章 人成らざる者達
46/63

第五話

2023.4/13 文章の見直しと、漢数字に直しました。



 この世界は美しいもので溢れていた。




 細くて長い銀色の川のクラックビー玉の様な輝き

 

 ショーケースに飾られた宝石のように艶やかな甘いアップルパイ


 はためくレースカーテンに透ける美しい薔薇のアーチ




 この世界は、誰かの思いやりと覚悟の上で成り立っていた。




 森の奥で、静々と命を繋ぐ守り人


 己を失っても、家族だけは覚えていたトランプのジョーカー


 互いを尊重し合い、天地で生きる道を違えた恋人たち




 美しいものは、時に視力を奪った。

 輝きに満ち足りたこの世界で、どれか一つを手放すことなど容易ではない。

 しかし、それは全ての人の為の一つではない。だから、特別にしてはいけないのだと。

 泣いている誰かを笑わせたいと願うことも、大きなこと。

 私たちの心は、なんて欲深いのだろうか。




 賢者と話し終え、私は宿に戻った。

 ベットに座り、いつも内ポケットに隠しているボロボロの手帳を取り出す。

 

 窓から見える空はオレンジ色に染まり、船を漕ぐように路上で蛇腹を開閉するアコーディオン奏者は一日の終わりを惜しむように短調のワルツを奏でていた。

 

 私は、そのボロボロの手帳をゆっくりと捲る。


「人の心はサボテンみたいね」


 手帳に描いた人々はみんな笑顔だった。

 別れ際の人々は目尻に皴を寄せて、楽しげに笑っていた。

 私はその笑顔を見て満足していたのだろう。


「丸っこくて可愛い花を咲かせるのに、棘が痛くて触ることは躊躇われてしまうんだもの」


 柔らかな葉を持っていれば、穏やかな陽を共に喜び、その葉を優しく指の裏で撫でただろう。

 サボテンは無遠慮に触ろうとする者の手を良くは思わず、刺さった棘は無礼を戒めるためか簡単には取れない。

 家に招いたサボテンが元気に育つには、太陽が良く当たる場所を与え、土が乾いたらたっぷり水を与えなくてはいけない。水を与え過ぎれば枯れてしまう気難しさも持ち合わせているその植物は、距離を置くことを求めながらも、正しい愛情を受ければ愛らしい花を咲かせて見せてくれる。


 人の心はサボテンみたいだ。


 サボテンは構い過ぎてはいけないし、放り過ぎてもいけない。

 窓際に置かれたサボテンであっても、一身に太陽を求め、正しい愛情を求める。

 しかし、棘を持ったサボテンは、どんなに愛情を貰っても棘が抜け落ちることはない。

 それがサボテンという植物の生き方だ。誰が、サボテンが棘を落とさぬことを責めようか。


 手帳に掛かれた人々は私が出会った人たち。そして、その隣には私が描いた人が寄り添うように描かれている。

 どうか絵の中ではいつも一緒にいられますように、なんて想いで描いた絵だ。

 いつも背負っている鞄の中には食料と衣服、そして画材の他に沢山の手帳やノートが入っていた。

 手帳やノートは、あっと言う間に埋まった。依頼のみならず、私は旅の途中でさまざまな人々と出会った。そして、描いた。


 すっかり柔らかくなってしまった紙を捲り続けていると、真ん中のページに辿り着いた。

 万が一、落としてしまっても汚れることがないように。

 万が一、雨に当たってしまってもふやけてしまわないように。

 真ん中のページを選んで描いた、私の家族。


 祖父母、両親、兄弟、子供を順番に指の先でなぞる。

 そして、ある男性のところで手が止まる。


「何百年経とうが、人とは一途、か」


 薔薇を守る男性に零した言葉が、自分に返って来た。

 はたして、彼に伝えた言葉は彼に向けた言葉なのか、それとも自分に言い聞かせた言葉だったのか。

 今になっては、分からなくなってしまった。


「私より先に逝ってしまうなんて、薄情な人……なんてね。貴方の傍に行けなさそうな私が言えたことじゃないわね」


 指の先で微笑んでいる人は、私の夫である。


 夫となった人とは幼い頃からの付き合いで、愛想もなく寡黙な彼は、誰よりも可愛くて優しい人だった。

 彼の姿を見て、私は昔のことを思い出した。

 

 ようやく雪が解けて、春が訪れる季節。

 彼は家の手伝いの合間を縫って、私の家を訪ねて来て「辛夷が咲いた」と教えてくれた。

 優しい人だから、見せるために枝を折ることはしない。「辛夷が咲いた」それは花を見に行こうという誘いなのだ。


 夫婦となり、子供が生まれた時も、私たちは辛夷を見に行った。


 ――辛夷の花は子供の拳のように小さくて愛らしいことから、その名を付けられたらしい。


 花を見に行く誘い文句もそうだが、彼は案外ロマンチックな人でもあった。

 色々な話を聞かせてくれるものだから、私はありとあらゆる景色に彼の影を見ることになった。


 ――本当だ。この子の手、可愛らしい花のようね。


 子供にも見せてやりたいと思って花見をする両親なんて気にせず、健やかに眠る我が子の小さすぎる手を人差し指で撫でれば、一生懸命に開く手の小さすぎる指が私の指の先を掴んだ。

 その柔らかさと温かさが愛おしくて、白い花を背景に幸せそうな顔をして私たちを見つめている彼の姿が愛おしくて、幸せで胸がいっぱいになった。


 一年の殆どは不香(ふきょう)の花が舞い、雪解けに幼子の手が春を手招く。

 人々は春の到来を喜び、花が咲かるを祝う。

 美しい、私が愛した白の故郷。


 私は、顎を伝って落ちようとする雫を手の甲で拾う。

 故郷はいつだって心に在った。

 私が生まれ育ち、愛を一心に受け、慎ましやかに愛を育み、そして命を終えた場所なのだから。

 忘れられるはずがなかった。


 「うっ……うぅぅ」


 開いたページに涙が落ちないように、ゆっくり手帳を閉じる。

 祈るように額を当てると、閉じた瞼から涙が溢れ出た。


 賢者は、私を水たまりの様だと言った。

 私は、その言葉を否定するように手帳を強く握り締める。


「私は水たまりなんかじゃない」


 誰か一人の為に在れるならば幸せだ思った。それに偽りはない。しかし、干上がることもなく延々と誰かに踏まれ、かき混ぜられるなんて嫌だ。

 私は水たまりなんかじゃない。

 それに、水たまりの方が幸せだ。

 どんな形をしていて、どれくらいの深さがあって、何処にあったかなんて誰にも覚えられていなくても気にしていない筈ですもの。

 時間が経てば大概の命は同じ道を辿る。

 水たまりのその在り方は、至って普通のことなのよ。

 でも、私は普通ではなくなってしまった。

 その異変を、良しとすることはできない。


「水たまりなんかじゃ、ないよ……」


 一途であるが故に、人々を遠ざけるのか。

 一途であるが故に、愛を拒絶するのか。

 一途であるが故に、別の生き方を受け入れられないのだろうか。


「僕がいるんだ。独りで泣こうとするんじゃない」


 転がる鈴の音と共に聞こえたのは、旅の仲間となった風の妖精の声。

 髪を撫でるように優しい風が吹いた。


 顔を上げることができないままでいる私に、風の妖精は優しく問いかける。


「何を想って泣いているの?」

「……寂しくて」

「僕では、貴女の傍にいる意味は得られないのだろうか」

「違う。ただ、寂しいの」

「その寂しさはどうしたら埋まるの?」


 まるで子供を優しく諭すような言い方だった。

 そうだ、私には彼が傍にいた。

 誰もいない部屋だと思い込んでうっかり泣いたが、彼の登場に恥ずかしさや情けなさが勝り、ぶっきらぼうな言い方をしてしまった。


「死んでしまえたら本望なの?」


 心臓が跳ねる。

 彼の確信を突いた言葉に、ギュッと閉じていた瞼をゆっくりと開く。

 瞼の蓋を失い、涙がボタボタと零れ落ちてゆく。

 私は、なんて情けないのだろうか。


「僕は貴女が自分の終わりを見つけられたなら、良かったと思えるよ。死に逝くとき、良かったねと声を掛けてあげる」


 鼻の頭を伝い落ちてゆく雫が鼻水なのか涙なのか分からなくて、汚してしまわないように額に当てていた手帳を胸にやって抱きしめる。

 そよそよと、風は髪を撫で続けていた。

 春の陽気のような柔らかさに、私は悲しくなる。


「でも、貴女を失うことは悲しい」


 思いがけない妖精の言葉に、私は前のめりになっていた体を少しずつ正し、顔を上げる。

 そこにあったのは、風の妖精の悲しげな表情だった。

 体の力が抜ける感覚がした。何故、彼が悲しんでいるのか。私には分からなかった。


「貴女は僕が人でいる為の指標。貴女さえいれば、絶え間なく舞う銀花に霞む月を忘れずにいられる。赤い月が僕の全てを蝕んでも、貴女が傍にいてくれる限りは、六枚羽のままでいられる」


 その表情が、声が、まるで私を引き留めている様だった。

 お留守番を言い付けられた子供は、「行かないで」と親の服の裾を掴む癖に、困らせたくないからといってお利口に手を離してしまう。まるで、彼の表情と行動はチグハグに見えた。

 彼は、私が泣く理由を知っている。だから、理解しているような言葉をくれる。

 でも、私は彼のどんなことを理解してあげられているのだろうか。


 今、私はたった一つの感情を取りこぼそうとしているのかもしれない。

 ずっと一緒にいてくれた、大切な友の心を。


「もし、六枚羽の妖精ではなくなったら、貴方はどうなるの?」


 この世界は在るがままにあるだけだと言うのならば、私たちは誰に祈りを捧げることができるのだろうか。

 精霊さまは世界の為に在り、人々は誰かの為に在りたいと願う。

 では、私の願いは何処に辿り着くのでしょうか。


 少年が投げる赤い実を拾うことを躊躇ったように。

 真夜中にリビングで泣く母親に、声を掛けることもできないまま部屋に戻ったように。

 子供に本心を隠していたかった父親の気持ちを無理やり引き出してしまったように。


 無力な私が、誰かの為にいられた時はあったのでしょうか。


「指標を失えば、僕は羽を捨てて完璧な妖精になる。野ざらしに体を冷やす野の獣の寒さも、日照りに枯れ行く花の渇きも、ぽっかりと心に穴をあけた人々の痛みも、充分に理解できなくなってしまうだろう」


 人の心とは繊細だった。

 相手の痛みを想像して、一緒に悲しむことができる。


 ”ただ在る”ことを受け入れるならば、失われてゆくことも必要だったと思える時がくるのでしょうか。

 目の前の彼は、それを拒みたがっているように見えるのに。


「そうなったら、貴方は貴方じゃなくなってしまうの?」

とうとう(・・・・)、全の為に存在することができるようになるだけさ」


 私が何百年も自分を失わずにいられた理由。

 それは、たった一人の痛みにも寄り添えなくなることが怖かったから。

 大勢の為であれば一人の犠牲に目もくれず、世界の平和を願う。

 それは、酷く恐ろしいことだった。


 たった一人を救えず、世界の何を救えるというのか。

 私は常に考えていた。

 世界の平和を願ったところで、その大きな幸せの中では、小さき者の苦難は淘汰されるだけ。

 誰にも気づかれず終える命の多さは、何も争いの中だけに留まらない。

 

「私が、貴方の為に生きることを選んだって言ったら、いつかそれが重荷になることはないの?」

「ないよ」


 言い切る妖精に戸惑い、抱きしめている手帳を握る手の力を強める。


「どうして、そんなことが言い切れるの……。こんな想い、重荷にしかならないじゃない」

「ならない。言っただろう? 貴女は僕の指標」


 新緑に沈む水色は、僅かに森に差し込む輝きを反射して光り、風の色をした髪から懐かしい風の香りがした。


「シズリ、どうか僕を傍に置いておくれ」


 精霊や妖精は世界の為に在り、全の為にある。

 でも、この小さき妖精は私に自身の為に在って欲しいと願った。


 彼を悲しませるような事ばかり言っている、この私の傍に置いて欲しいと。


「貴女は僕にとっての白銀の故郷。貴女のその涙を掬える程の大きな手を持っていないけど、暖かな風を持って来ることはできるよ。貴女が僕をその心に置いてくれると言うのなら、僕は心の棘など全て落としてしまうから。恨みや悲しみで、貴方を傷付けないと誓うよ。だから、どうか人々の為に在るその手で、僕を愛でておくれ」


 彼が望む私との関係は、自分が自分で在りたいが為の共依存でしかないだろう。

 しかし、世界の為に在ろうとしない人々は、誰かに依存しているからこそ、特別な一つの為に在れるのかもしれない。

 かつての私が、そうであったように。


 私たちが失った者にできることはない。

 私が絵を描く理由は、これからを生きていく人の為にあった。

 忘れたくない者が沢山いる。

 失いたくないものが沢山ある。

 それは私にも該当することで、私は自分の為に人々の絵を手帳に描き続けた。

 私が寂しくないように、未来の自分が忘れたことを想って絶望しない為に。


 体を手放して死に逝くことは恐ろしい。

 やっと、その意味を理解することができた。

 だから、アスターの様な精霊はこの世界に生まれたのだろう。光が世界に還る時、道を教えてくれる者がいてくれたら、きっと安心することができる。

 最期まで、傍にいてくれる者がいることは心強い。

 だって、私たちは死に方を知らずに死んでいかなければいけないのだから。


「……僕の名前はラバル。雪の下に芽吹く草花を意味する。春を待つ者の名だよ」


 春を誘うように、辛夷は咲いた。

 小さな手は、温かな春の風を迎え入れてくれるだろう。目一杯に花弁を広げ、空を見上げながら。

 嗚呼、思い出せない。

 花が見上げる春の空は、何色をしていただろうか。

 あの日に見た、彼らの顔は……。


「どうか僕が人で在ったことを覚えていて。貴女がその名を持っていてくれるなら、僕は羽を捨てずに持っていられるから」


 どうして、私たちは忘れゆくことを恐れるのだろうか。

 どうして、誰かの為に在りたいと願ってしまうのだろうか。


 風の妖精は、名前をくれた。

 尽きぬ生に疲弊しつつも、慰め合うように、大切なその名前を。


「僕は、故郷を愛している」


 どうして、人々は故郷を無条件に愛しく思えるのだろうか。

 白の朧げな景色の中で、空に昇る一本の煙は人々の営み。

 温かな冬の景色だ。


「……私が”筆”で在る意味を見つけられないなら、生死の天平は傾いたまま」

「それなら、世界の隅々を見に行こう」


 今はまだ、自分の終わりを願ってしまう。でも、私はラバルとの別れを惜しむ気持ちが膨らんでいくのを感じた。

 このまま別れを惜しむ気持ちが萎むこともなく膨らみ続けたら、私は心置きなく世界の為に存在したいと思えるのだろうか。


「春、夏、秋、冬。世界の全ての景色を見て回る。僕は貴女と甘くて美味しい物を食べるよ。そして、貴女は相変わらず絵を描き続けるんだ」


 ラバルが語るは、存在しなかった私の生き方だった。

 彼の話の中の私は、今よりも生きやすいのだろうか。


「……気が遠くなる程の時間が必要だね」

「僕らには幾らでも時間があるから、問題はないよ」


 誰かの為に在りたいと思っている私が、どうして小さき妖精一人だけ除け者にすることができるというのだろうか。

 彼だって、寂しさを抱える一人なのに。


 ラバルは気遣うように近づくと、私が胸に抱いたままの手帳にそっと触れる。


「どんなに素晴らしい額に収まる華美な絵であろうが、どんなに上質な木の枠に収まる品の高い絵であろうが、この手帳に描かれた絵は一等、美しいよ」


 彼の言った美しい言葉。それは、これまでの私の人生を言っている様に聞こえた。

 まるで、私が出会った人々のことを言っているように聞こえたのだ。


 私と絵の中の人々の出会いを言っているのだと、そう思いたかった。



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