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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第十章 人成らざる者達
45/63

第四話

2023.4/13 文章の見直しと、漢数字に直しました。



「とびきり甘いココアを頼むよ。ああ、あと生クリームも多めにお願い」

「かしこまりました」


 僕は、とある森と街の仕事を終えると小さなカフェで一休みすることにした。。壁に蔦が這う素敵なお店だ。


 はあ、移動が長いと疲れるね。

 心の中で軽く溜息を吐く。

 終えたばかりの責を思い出すと、うんざりとした気持ちになった。

 先程まで中立に立って聞いていた話になるのだが、森に踏み込みたい人間を精霊は拒んだ。たったそれだけの話だが、話は少々もつれてしまった。

 人間側は、再び森に交渉を持ちかけるだろう。それも、言葉巧みに人間側に得が回るようにだ。

 少しだけで良いから、と森の一部を与えてしまえば、いずれ人の手は森全体に及ぶだろう。

 少しずつなら気付かない。なんてことはないのに、実に浅ましいことだ。

 これまでも、同じようなやり取りを見聞きしてきた。

 きっと、僕はこの先もずっとこんな感じに過ごすんだろうなあ。

 後で、栗毛にもう一度ご馳走を持っていってやろう。あの子は大人しくてユーモラスな馬で僕と気が合う。

 そういう存在は大切にしてやらねばいけない。


「……うん?」


 これは、隣の席に座る中年の男性が食べているホットケーキの香りだろうか。

 香ばしいバターの香りが小腹を刺激した。

 ……どれどれ、このお店のホットケーキの厚さはどれくらいあるのかな。

 視線をそちらに向けた時、男性の奥に視線が持っていかれた。

 丁度、一人の女性がお店に入って来て店員と何やら話をしている。

 随分と大荷物を持っているなあ。


 この地域で黒髪は珍しい。

 僕は、アスターが話していた例の人間を思い出す。


「そこの人」

「え?」

「席が空いていないんだろう? こちらに座りなさいな」


 昼下がりの午後。

 喫茶店の中はゆっくりと時間を過ごしたい人でいっぱいだった。


()が気にならないというのなら、だけど」

「あ、えっと。では、ご一緒させてください」

「どうぞ」


 ”気にならないというのなら”。僕が自身の真っ白な髪と白濁した目を言っているのだと気づいたのか、女性は慌てた様子で此方にやって来た。そして、「失礼します」と軽く頭を下げると向かいの席に座った。

 

 心優しい人であればある程、異質な者ほど拒絶ができないものだね。


「話しかけても良いかな?」

「ええ、勿論です」

「単刀直入に聞くけど、君はアスターという男を知っているかい?」


 どんな話を振られるのか緊張した面持ちだった女性は、アスターの名前を聞くと露骨にその表情に警戒を滲ませた。

 まったく、一体どんな話をすればこんな顔をさせることになるのか。

 あの精霊は、少しばかり性格が歪んでいる。


「そう怯えなくても良い」


 カフェの中は程よいくらいの賑やかさで、僕らの声は隣に座る男性にすらあまり聞こえないだろう。

 実際、目の前の女性は僕の声を拾おうとして僅かに体が前のめりになっていた。


「お待たせいたしました。生クリームたっぷりのココアです」

「ありがとう」


 次に僕が発する言葉を待ちきれないと力んでいた彼女は、店員の登場に驚いたのか、少し落ち着きを取り戻した様子で椅子の背に寄り掛かった。

 甘いココアの香りはリラックさせてくれるからね。

 来たばかりのココアを口に含めむと、体中に甘い香りが広がった。


 コトリ、とマグを机に置くのを大人しく見つめている彼女に、何から話すべきか。

 アスターの話を切り出したとはいえ、まずは何を話してから彼の話をするべきか。


 そうだ。そうだったな。

 この者はアスターに怯えていたのだったか。


 まずは、あの言葉足らずの精霊の誤解を解いてやるとするか。


「アスターは望まれることしかしない精霊でね。もし、彼を人攫いの気狂いだと思っているのなら訂正してやろうと思っているのだが、君は彼の話を聞きたいかい? 嫌なら別の話をするけど」

「私は、彼を気狂いだとは思っていません」

「それはどうだろう? 彼の名前を聞いた時の君の目つきは、まるで罪人に向けるようなものだった」


 うっ、と言葉を詰まらせる様子を見せた彼女に、僕は目を丸める。

 その反応は、まるで図星を突かれたと彼女自身が言っているようなものだった。

 その分かりやすい反応を見て、これはアスターが気に留める筈だと納得した。随分と人らしいじゃないか。


 僕は少しだけ機嫌よく口角を上げる。


「存外、あの男は優しいものだよ。光が体をすり抜けたあと、不安に彷徨う魂が向かう場所を示してくれるのだからね。体がある時はいつまでも声が聞こえているそうだけど、体を失ったあとに寄り添える者は、彼の様な存在しかいない」


 この者は、僕と違って産まれ直しをすると聞いた。

 僕は最期を迎えた感覚が分からないが、彼女は心当たりがあるのか静々と頷いた。


「君は定期的にやっているニュースが気になっているのだろう? 彼が連れ出す子供は乙女の睫毛の先に建つ、この世界で最も大きな孤児院にいる子供たち。しかしね、彼だって誰振り構わず好みの子を攫っている訳ではないよ」

「そもそも何故、彼は子供を連れて行くのですか」


 なるほど。

 彼女の思考は至ってシンプル。

 ニュースで見聞きした情報とアスターの含みのある話。

 これだけで彼をすっかり怖い人だと認識した訳か。

 人攫いという言葉は、どうアレンジしたって良い意味を持たないものね。


「対象は老若男女を問わずなんだがね。子供は大人より状況を読むことが難しいから、安易に彼を呼んでしまうのかもしれないな。それに、子供は良くも悪くも純粋だ。どんな親だったとしても会いたがる傾向がある。どんなに酷い親でも、どんなに貧しい思いをさせた親でも、どんなに無関心な親でも。離れて暮らせば暮らす程ほど、子供が良い子で在ろうとすればするほど、今度こそ親が愛してくれるかもしれないって、そう思うらしい。……僕は子供たちの声を聞いたことがないから分からない。しかし、予想するに彼が聞く声は、親の元に帰りたい、若しくは故郷を見てみたい、といったものではないだろうか」


 ふわふわだった生クリームはすっかり熱に溶かされ、元気をなくした様子でコップの表面をたっぷりと白くしていた。


「故郷とは、どうしてこうも愛しく思えるのだろうね」


 どんなに時が経とうとも、僕は朝には朝の、昼には昼の、そして夜には夜の言葉を忘れずにはいられなかった。


「……でも、勝手に施設から連れ出すなんて」

「見ず知らずの者に子供を手渡す職員なんていないだろう。しかし、声の主の命は残り僅か。少々強引でも、儚い願いを叶えてやるには、それくらいやってのけないといけない」


 女性は納得ができない、という顔をして僕のココアを見つめる。

 僕は、ふと疑問が浮かぶと首を傾げた。


「君、何か頼んだのかい?」

「あぁ、そうですね」


 僕ばかりが話し、僕ばかりが美味しい物を飲んでいるのは気持ち良くない。

 すると、彼女はゆったりと歩いていた店員に「すみません、アイスコーヒーをひとつ」と声を掛けた。

 そこで、僕は納得したようにもう頷く。

 そうか、今日は暑いのか。


 開け放たれた出入り口から外を眺めれば、一羽の白い鳥がのんびりと飛んでいた。斑けもない真っ白な鳥だ。

 何故、白い鳥は薄汚れることがないのだろうね。


「そうだ、名乗り忘れていたね」


 空から視線を彼女に戻せば、また緊張したような顔をしてこちらを見ていた。

 まるで借りてきた"ばかり"の猫の様だ。


 外からはバイオリン奏者が演奏でもしているのか、軽快なメロディーが聴こえる。

 この場所は、こんなにも穏やかだというのに。


「僕は賢者のヒイラギ。人々と精霊の間に立つ者だ」

「けんじゃ」

「そう。覚えていないかい? 乙女の左頬ですれ違ったのだけど」


 乙女の左頬、と言った辺りで「ああ!」と彼女は思い出したように目を大きくした。

 良かった、覚えていてくれていたみたいだ。これで覚えていないと言われては、僕は突然話しかけてきた怪しい奴だ。


「アスターは心配をしているのだと思う。人成らざる者になってから時間は充分に過ぎたというのに、君は未だ人のままだと」


 僕は先程の話を続けた。

 触れて欲しくない話題だっただろうか。

 ピクリと動いた彼女の眉毛を見つめる。


「お待たせいたしました」


 またしても絶妙なタイミングで飲み物が運ばれてきた。

 それを飲んで少し落ち着いて、と意味を込めてアイスコーヒーと彼女を交互に見ると、その意図を汲んでくれたのか彼女はストローで一口飲んで、小さく溜息を吐いた。


「まあ、あの男の話は終わりにして、例え話をしようか。彼を知ることもまた、君が選択すれば良いことなのだから」


 もう充分だろう。アスターの話は終わり。

 僕は、彼の最悪な印象を充分に訂正してやったことだろう。


 僕の本題は、彼女の存在そのものにある。

 どうして人のままで在ろうとしているのか。そこが知りたい。


「雨とは、この世界の為にあるね」

「……? はい」


 僕は心の中でクツクツと笑う。

 彼女が突飛もない話でも、ちゃんと聞いてから考えようってタイプで良かった。

 僕らの話を一から説明をしようとすれば、時間は足りないだろうからね。


「雨は全の為に、しかし雨から生まれた水たまりは一でしかない。水たまりは息絶えそうな野の獣の喉を潤してくれるだろうが、干し上がれば水たまりがそこに在ったことを誰も覚えていやしない。一の為に在ろうとすることは、それに似たことなのではないだろうか。……全の為に在りたいなら、人らしさを持ちすぎていてはいけない。しかし、殆どの人らしさも手放さなくてはならない。気楽なようで、それは難しい。思考を失くしてしまったら賢者としてはいられないからね。……僕は不思議で仕方ないんだ。君は僕と同じアンティーク。では何故、そうして人らしくいられるのだろうか」


 一息で聞きたいことを言った。

 本当はじっくりと認識の確認をしながら話を進めたかったのだが、この店を出たら僕らはお別れ。

 日が暮れる前に話し終えたい。


 彼女は、僕の言葉をじっくり考えるように自分のアイスコーヒーを眺めていた。


「水たまりは、一回きりでも野の獣の喉を麗してくれたのなら、充分に役に立ったと思います」

「しかし、誰もその水たまりの形も深さも覚えていないんだよ?」

「誰かの為になれたのなら、自身の認識は必要ありません」


 パサリ、と隣の男性が新聞を捲る。

 賑やかなカフェの中で、僕と彼女の周りは異様であった。

 彼女の出した答えは、あまりにも人らしくあり、人らしくなかったのだ。だってそうだろう? 人の為に在りたいと願うのは人々であり、そこに自身の心が無くても良いなんて、断言できる者など彼女の他にいるだろうか。


 僕は理解した。

 彼女は、僕と違った意味で人らしくなかった。


「それはあまりにも献身的過ぎやしないかな」

「そうでしょうか……。雨に濡れると体を冷やします。時に、命を奪う存在になり得るかもしれません。しかし、どんな生き物でも喉は乾きます。誰かの飢えを潤すことができたなら、水たまりは生まれた甲斐があるのではないでしょうか」


 僕は、彼女の話を聞きながらアスターの出自を思い出した。

 ちっぽけな命の果てに、ちっぽけな命が生まれ、そしてちっぽけに死んだ。

 そこから全の為に在れる存在が生まれたのだ。

 ちっぽけという言葉は、小ささを示すための意味ばかりではないのかもしれない。


「賢者さん、私は誰か一人の為に在りたいのです。一人ぼっちの眠れない夜を泣いて過ごす人の、涙の受け皿にこの手を使いたいのです。その人の膝が濡れなくて済むのなら、誰も私の声を、色を、形を覚えていなくても良いのです」

「それは、寂しくないかい?」

「幸せの傍にいるのは”大切な人”です。私は、誰の傍にいることはできません。私が隣に座っていようとも、そこに私はいないのです」


 僕は、長く生きている内に誰かの為に生きることよりも、世界全体の幸せの為に生きたいと思った。

 世界の均衡が守られるのならば、個人の幸せも守られると思ったから。

 それに関しては彼女と同じ考えだ。

 僕らの大切な乙女。

 横たわる乙女の眠りを守る為に存在するも、そこに”僕”はいない。


 それで良いのだと、納得することが心の健康を保つ秘訣だと思うのだがね。

 それは心の全てを乙女に還した者が至る考えであって、彼女のような「人間」が至って良い考えではないだろう。


「でも、最近になって考え方が少しずつ変わりました。以前までの私は自身の名前を偽り、素性を隠そうとしました。しかし、自分らしくいたいと、これまで出会った人たちのおかげでそう思えるようになったのです。ちゃんと約束を果たそう、って」


 他者の言葉に救われた者は、自身も他者の為になりたいと考える。

 それこそ健全な考え方だ。

 だから、君はいつまでも君のままで、君の中の物を何一つ失わずにいられるというのか。

 僕は心の中で深い溜息を吐く。

 ……嗚呼、そうか。ならば仕方ない。

 そうした考えが、未だ彼女の中に生きているのなら、賢者になるのは無理な話だろう。

 賢者の生き方とは、植物の様だと例えれば分かりやすいだろうか。

 植物はこの世界に澄んだ空気を作ってくれる。しかし、植物は物言わぬ、動かぬ。ただ、静々と在り続けるだけ。そうした植物を野の獣は家にしたり、食べるなどした。

 その者たちは植物のおかげで家があり、腹を満たせるのだと理解していないだろう。そんな考えすら、思いつかないかもしれない。

 野の獣は賢いが、そうした理解が聊か甘い。

 それでも、植物は、枝は、葉は、花は、存在することを止めたりしない。

 ただ、雨風や日照りに耐え忍ぶ日を繰り返すのみだ。


「人は寂しさに勝てないと思っている」

「はい」

「僕は、早い内から寂しさに飲まれてしまった。親を亡くした子供は、ずっと寂しいものでね。乗り越える壁なんてものは、端から心にはないんだよね」

「ご両親のこと、ですか」

「忘れがたきがあるのは良いことさ。それに、それだけが僕の唯一と言えるだろうね。世界とはどのようにして在るのか、理解するためのきっかけになった出来事だ」


 僕が寂しさの中に溺れるには、大した時間はいらなかった。

 両親が家に帰って来なかった。それだけで、すんなりと理解することができた。

 全のためと一のため。

 あの時、僕を手に入れた代わりに、私は過去となってしまったのだ。


「君って、僕以外の賢者に会ったことがあるかい?」

「いえ」

「僕ってね、他の者より人らしさを手放せていないようなのだよ」


 しかし、まあ関心したよ。

 未だ、”人間”に教わることがあるなんて。驚いた。

 綺麗ごとの様なことを話す彼女の言葉には、実績がある。

 例え、それが直接的に命を救うことがなくとも、彼女は誰かの心を救おうと奮闘しているのだろう。

 アスターの言葉を借りるとするなら、知ろうとすれば、色々な方面から君のことは聞こえた。

 まさしく、”人間”のための行い。活動ともいえるだろうか? ちっぽけな事だが、嫌いじゃない。

 君は、数えるのも面倒に思う程の年月を生きても、その考えが衰えることはなかったらしいね。


「僕は、神秘の水を飲んだことで尽きぬ命を得てしまってね。そのまま見て見ぬふりをして捨て置くことができたはずなのに、全の為に在る精霊は一である僕を傍に置いてくれたんだよ」

「神秘の、水ですか」

「そう。星を射抜く精霊は僕の一番星。全の為にいなくてはいけないのに、どうやら僕も一の為に在りたいと願っていたらしい」


 少し視線を落とし、カフェのロゴが描かれたナプキンを指で撫でる。

 それは、きらりと光る一つの星の絵であった。


 これまでの僕は、精霊の役に立つことが全の為であると勘違いをしていた。

 星を射抜く精霊だからこそ、僕はその傍にいたくて、役に立ちたくて、精霊の考えを尊重したくて賢者になると決めたのだ。

 精霊は赤い星を射抜かぬ。

 温度は失せ、明かりを持たない星であるが、僕は西を示す星として精霊の小さな明かりでいたい。

 これこそが、一の為にありたい人の業。

 僕は、まだまだ人のようであるらしい。


「君の誰かの為に在りたいって気持ち。駄目なのに、分かってしまうよ」


 マグの取っ手に指を引っ掛け、軽く握る。

 先程よりも重たく感じた。


「君の為になる話でもできれば良かったんだが、僕の方が実りがあったようだ」


 すっかり温くなったココアを一口飲む。

 ココアは、温くなろうが甘さが衰えることはなかった。


 全く、見て見ぬふりをしてきたことを突きつけられた気分だよ。


「あの、……神秘の水ってなんですか」

「うん?」

「いえ。その、私は幾度も産まれ直しを繰り返しているのですが、その原因は美しい果実を食べたからと考えています。……貴方の神秘の水は、私が食べた果実と似た物なのではないでしょうか」

「……うーん」


 精霊の手が及ぶ物事には、口を出さないのが決まりではある。しかし、僕は彼女に何かお礼をしたくなった。

 僕が、どれだけ自分を失っているのか知ることができたのだ。

 これはただの雑談。

 そうだ、女子会ってものの世間話としよう。


 再びココアをテーブルに置くと、僕は少しだけ声を潜める。


「確かに、この世にある美しき物は生き物の体に何らかの変化を及ぼす。君のその体質は、その果実が原因と考えられるだろう」

「やっぱり……」


 彼女は僅かに目を輝かせたと同時に、リリンと鈴が自己主張するかのように鳴った。

 腰の辺りを抑える彼女の手はテーブルが邪魔して見えないが、乙女の左頬付近ですれ違った時に見た六枚羽の妖精が鈴の中にでも入っているのだろう。

 僕は目を眇め、その鈴を一瞥する。

 あの小さな妖精だって珍しいタイプだ。

 あれは確か風の妖精だったと記憶しているが、風のように自由である妖精が、よくもそんな狭い所に収まっているものだ。


「もう一度、その果実を食べたら治ると思いますか?」


 期待を膨らませる彼女を見て、これは少し悪いことをしてしまったかもしれない、と思った。

 そして、残念な気持ちにもなった。――そうか、この人は元の体に戻りたいのか。

 それならば、慈悲深い魂を導きし精霊が気に掛けるのも納得できる。あぁ、可哀そうに。


「治らない」

「……え? どうして、ですか」

「僕は神秘の水を二度も飲んだ。しかしこの通り、髪の色はすっかり抜け、瞳も白く混濁してしまった。皮膚は数多の信仰により膜を与えられ、地の代わりに星の砂が人形のそれと同じように詰められているだけ」

「……そんな」

「君のように何度も産まれ直す訳ではないから、体の繊細な部品は痛む一方なんだ。しかし、乙女が僕にこのような姿を求めてくださった」


 カラン、と彼女のアイスコーヒーの氷が空しく鳴った。

 そもそも、再び口にすれば治る可能性があるとしながらも、何故それを実行しないのだろうか。

 だってそうだろう? 彼女はその果実の場所を知っている筈だ。彼女は、その果実を探している、と言わずに「もう一つ食べれば治るのか」と尋ねたのだから。


 途端に、僕は気持ちが冷め始めた。

 同じようで、同じになれない者。

 一人に割くことができなくなった心では、彼女の私情に関心を持ち続けることは難しい。


「君、名前はなんて言うんだい?」

「あ、失礼しました。私は、ふ……」

「ふ?」

「……シズリと申します」


 シズリ、か。

 あまり使わない言葉だが、静かな冬の光景を思い描かせるものがあるな。


「シズリ、もし君が悪いことをしたのなら、ちゃんと謝らねばいけない」

「え?」

「例えば、その体に起きていることを”呪い”と呼ぶとして、呪いとは掛ける際に解呪方法を決めておくものなんだ」


 僕も、勝手に神秘の水を飲んでしまった身だ。

 あの時は体の変化を感じていなかった、しかし、もし星を射抜く精霊に拾われなければ、僕も彼女と同じ道を辿っていたかもしれない。

 何故なら、僕たちの精霊は姿を現してはくれない。

 これまで出会ったこともない摩訶不思議なことを、どうやって受け入れたら良いというのか。

 悲しいことに、僕は僕たちの精霊さまに許しを請うことはできない。なんせ、僕たちの精霊さまは、未だ姿を見せないのだから。


「神秘の物は精霊の物。君は、勝手にその果実を食べたんじゃないのかい?」


 結露によって作られた雫が落ちて、アイスコーヒを握るだけだった彼女の細い指の先を濡らした。

 どんなに店の中が賑わっていようが、どんなに今日が晴れやかであろうが、彼女の指の先は凍えていることだろう。

 

「悪いことをすれば、ごめんなさいと謝らないといけないよ。……君はそれをしていないのでは?」

「謝れば許してくれるのでしょうか……」

「どうだろう。君は足を踏み入れた土地の精霊を知っているの?」

「いいえ」

「では、その精霊を探すところから始めなくてならない。知っているのでしょう?」

「でも、許して貰えなかったら……、私はどうなるのでしょうか」


 すっかり悲しそうに目を伏せてしまったシズリの姿に、どうしたらそんな顔をさせずに済んだのか考える。

 しかし、どんなに言葉を選んでも僕が伝える内容は変わらない。

 結局、僕が彼女に神秘の水の話をしなければ良かった、ってことになるだろう。

 それでは、そもそも彼女と話したい内容も話せず、僕は実りもなく、彼女の問いに答えてやろうなんてことも考えなかった。

 未だ傷つく心を持っている彼女が悪い。そう考えるのは、流石に可哀そうなのかもしれない。


「そのままではいけないのかい?」

「え?」


 鈴が小さく鳴る。

 先程の抗議をするような音とは打って変わって、今度は慎ましい音だった。

 随分と過保護な妖精だ。


「今までの賢者が選んだのが全の為に在ることだっただけで、一の為に在ってはいけないと決まりがある訳ではない。生きっぱなしの僕らと違い、産まれ直しをする君。そろそろ新しい生き方を掲示する者がいても良いだろう」

「でも」

「僕は寂しいとかあまり感じないのだけど、死に関わってばかりの精霊の他に友人がいるのもいいなと思っているんだ。ほら、こういう、カフェで女子が二人でするさ」

「じょ、女子?」

「そう。女子会ってやつとか。今日、初めてやってみたけど、なかなか良いものじゃないか。自分だけの力では見ることができなかった景色を見させて貰ったよ」

「えっと……」

「ね。だから、一度きりなんて言わずにさ」


 呆けた顔で「女子……」と呟くシズリに、僕は元気に頷いて見せる。


「すっかり見た目では分からなくなったかもしれないが、僕は”元”女だったみたいでね。流行りのことも好きだし。折角、君が女のままであるのだからさ」


 初対面の相手に生き方についてとやかく言われたくはないだろう。

 しかし、彼女のような人は何個か案を掲示してやった方が良いのだ。これまでだって色々な人に、色々なことを言われてきた筈だ。例えば、煤の中にいる妖精とか。


「あの、さっきの話……」

「嗚呼。どうしても真実が知りたいと思うのなら、精霊に会いに行くしかないと思うよ。精霊は寛容だから怒っているとは思えないけど、摩訶不思議な果実にはその存在する意味があるはずだ。もし、その果実が君に関係のないものだったなら、諦めてしまえばいい」

「私、諦めたくないんです」

「時には辛いことから目を背けることは大事だよ。人の心は簡単には壊れない。君がそれを証明している。しかし、苦しくない筈がないよね? 本当の真実は精霊や賢者が知ることでもないのかもしれない」

「では、誰が知っていると言うんですか」

「果実さ」


「僕は西を示す赤い星。貴女は水たまりだ」


 僕は言ってやらねばならなかった。

 賢者にならなくても良いのだと。

 誰かと同じように生きなくても良いのだと。

 死ぬばかりが答えなのではないと。


 そして、誰もが精霊の力を過信するあまり、本質を見抜けないままでいるのだ。

 だって思い出して欲しい。

 この世界を統べる者である精霊は、何のためにいる存在なのか。


 僕らは、乙女の為にいるのだろう?


「水たまりなんて、干し上がってしまえば誰もその形も深さも覚えていない。何度も荷馬車のタイヤに泥と一緒にかき混ぜられても、子供に遊びで踏まれても、それで喉を潤すことができる者がいるのなら良い。貴女はそう言ったね。僕は、君のおかげで水たまりに対する考え方を改めたよ。……雨が降れば必ず水たまりはできる。無価値と決めつけるには浅はかだった」

「惨めな生き方は、私だってイヤです」

「そうかな? 弱った人の傍にいることは、相当な忍耐が必要だよ。君は、大きな苦労をしたとしても、自分はそこにいなくても良いと言ったんだ。僕からしたら、そんな生き方は惨めでしかない。……しかしね、少しだけ考えを改めることにした」


 全の為に在る精霊が一である人の子に手を差し伸べた所で、誰が精霊を責めただろうか。

 僕らの様な存在は全の為になくてはいけないと決めつけていたのは、僕自身だったようだ。


「世界にとって、君の様な人も必要だったんだ」


 面白い話を知ることができた。

 彼女は、実に面白い。

 だって、僕の言葉を全く理解できないとでも言いたげにか表情を暗くしているのだから。


 何故、永遠の命が与えられたかなんて。

 精霊だって知らないだろうよ。




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