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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第一章 画家の筆
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第四話

2023.4/6 文章の見直しと、漢数字に直しました。



 あの日、あの日とはと考えても思い当たる日はなく、ぼんやりと出来る時は筆の言葉を考えた。ずっと考えて、それでも気づけない俺に、筆はいつまでも答えを教えてくれなかった。

 

 日々は飛花落葉(ひからくよう)のありさまで、また数年が過ぎた。

 あの日を考えることは川の流れに逆らうようなもので、腰まで水に浸かった足は前に進むことを拒んでいるようだった。

 彼の言い回しは兎に角まどろっこしい。それがまた面白いのだが、答えのない謎かけは時間が経つにつれてつまらなくなってしまうもので、彼の指すあの日を思い出す意欲が随分と薄れていくのを感じた。


 嗚呼、早く、あの日を見つけなければ。




「あっ」

「すまない! 痛めた所はないですか」


 考えごとをして歩いていると屋敷のお手伝いさんにぶつかってしまった。

 俺とぶつかった女性は「大丈夫です。申し訳ありません」と頭を下げる。彼女たちは殆どの月日の寝食を共にしている人たちだから、俺は親しみを込めて"お手伝いさん"と呼んでいる。両親も、彼女たちを使用人とは呼ばない。加えて言うなら普段は名前を呼んでいた。

 今しがたぶつかった女性はシンシアという。


「いや、私が前を見て歩いていなかったのが悪いんだ。だから謝らないでください」


 申し訳なさそうな顔をしていたシンシアさんは俺の返答を聞いて安堵したように表情を和らげ、心配をしている俺に改めて礼を言った。


「そうだ。シンシアさんは青年の画家を見たことがありますか」

「ええ勿論です。とてもユーモアがあって優しい方ですよね」

「話をしたことがあるんですね」

「はい」


 彼女の表情は筆を思い出しているのか、表情は明るく、楽しそうだ。


「お互い雇われ仲間だから仲良くしよう、と。私、外からやって来た雇用者に、そんなこと初めて言われましたわ」


 同じ雇われ仲間だろうが、お手伝いさんは筆をお客さまとして扱っていたのだろう。

 彼にとって、それは酷く落ち着かないものだったに違いない。

 口に手を当ててクスクスと笑うシンシアさんにつられて、彼とのエピソードを聞いて、なんとも筆らしいなと俺もつられて笑ってしまう。


「いつも食事を終えると美味しかったと言いに来てくれるんですよ」

「律義な奴だなあ」

「……坊っちゃんは良くお話されるのですか?」


 しまった。いつも通りの口調になってしまった。よくよく考えると、筆の筆の話を他の人と話す機会が無さ過ぎて油断してしまった。

 俺と筆はあの部屋の中でしか会う事がない。きっとこの屋敷の者は誰一人俺たちが話している所を見たことが無いだろう。

 シンシアは、俺と筆の付き合いに興味を持ってしまったようだ。

 

「話はしますね。彼との話は楽しい」

「えぇ、えぇ。なんだか想像できます」


 ふふ、と笑う彼女は一体どんな想像をしているのだろうか。


「もしかすると妹の方が良く会話をしているかもしれませんがね。絵のモデルですし」


 二人がどれくらい仲が良いかは知らないけど。そう言えば、シンシアは”それはそれは”なんて言うのだろう、と思ったのだが、彼女は俺の言葉に対して(わず)かに驚いたように目を見開き、そして辛そうに表情を変えた。

 さっきまで笑っていたというのに、どうしたんだ。


「お加減が優れませんか」

「ごめんなさい。大丈夫です」


 彼女は何処か痛ましそうに笑い、一度、頭を下げ「失礼いたしますわ」と仕事に戻ってしまった。

 それはあっと言う間のことで、俺はポツンと廊下の真ん中で立ち尽くす。

 何か彼女の気に(さわ)こと事を言ってしまっただろうか。

 少しは相手の様子を伺えるようになったと思っていたのだが、まだまだらしい。


 追いかけてまで尋ねることでもないだろう。

 元来、目指していた部屋に向けて俺も歩き出した。



 部屋の前に辿り着きコンコンとノックをしても今日は返事がない。これは寝ているか、絵に集中しているかのどちらかだ。中を覗いて絵を描いているのなら出直せば良いか、と部屋の主の許可を得ずに、俺は扉を開く。

 これは彼から承諾を得てしていることだった。ノックに気づかない時があるから、反応がないなら覗いて見てくれって。


 部屋の中にいた筆は起きていた。

 起きて絵を描いていた。


 明るい時間に彼が起きているのは珍しい。

 開け放たれた窓から迷い込んだ風がレースカーテンを揺らしていた。

 彼は手を止めることなく、絵を描きながら涙を流していた。

 ゆっくりと筆とイーゼルに近づき、覗き込んだ先に姿を現したのはドレス姿の妹。

 

 前に、寝起きの筆の目元が赤くなっていたことがあり、どうしたのか聞くと気持ちが乗ると泣けてしまうのだと、彼は言った。だから、涙を流して絵を描く彼は相当集中しているに違いない。

 出直すか、と部屋の出入り口まで戻り、音を立てずに閉めたドアのノブに手を掛ける。


「今、手が離せないから飲み物なら自分で用意してください」


 筆は、俺が部屋に入ったことに気が付いていたのか、俺に視線を向けもせずにそのまま声を掛けた。

 話には聞いていたが涙を流す彼を見るのはこの時が初めてで、正直いって、俺は困惑していた。

 俺がこの部屋に留まっては邪魔になるのではないだろうか、とも思うのだ。


「邪魔なんて思いませんよ」

「……心を読むな」


 ふっと小さく笑いはするも、筆はそのまま口を閉じて絵を描き続けた。

 ……もしかすると急にコーヒーが飲みたくなるかもしれないし入れておいてやるか。

 此処へ来る度にご馳走になっていたから、この部屋の水場の勝手は分かっていた。美味しいコーヒーの淹れ方も覚えた。

 この頃には、俺はすっかりココアよりもコーヒーの方が飲みやすくなっていた。


 筆先がキャンパスをなぞる音とカーテンが揺れる音、そして外から聞こえる鳥の鳴き声が耳当たり良い。

 筆は相変わらず涙を(ぬぐ)わないまま絵と向き合う。

 彼は地に足もつかぬ渡り鳥の絵描きの恋は実らないと言った。なら、どうして彼は妹を描きながら泣いているのか。

 なあ、筆。その涙が答えではないのか?

 人を観察することは大切だと教えたのは彼だった。

 しかし、俺はこれ迄でも筆の心内を少しでも覗き見ることは出来なかった。


 嗚呼、綺麗だよな。……って綺麗ってなんだよ。

 瞼の上に点在する小さな涙の雫が、彼が瞬きを繰り返す度にキラリと光るのを見て、無意識にそんなことを考えてしまった。

 綺麗って、なんだよ。友達なのに、それは、違う気がするのに。


「此処は誰の部屋だっただろうか」


 筆がポツリと零した言葉に、俺の停止しそうになった思考が再稼働した。

 この部屋?

 此処はずっと誰も使っていない部屋だった。そこに筆がやって来て、作業部屋にしたんじゃないか。


「私はもっと厚手生地の素朴な刺繍があしらわれたレースカーテンが好きなんですよ。……汚すのが怖いから殆どの家具は移動して貰いましたけど、せめてこれだけでもこの部屋に残しておくべきだと思いました。カーテンは部屋の印象付けるには十分な役割を果たしていますね」


 この部屋のレースカーテンは薄手で、美しい白鳥の刺繍があしらわれていた。父さんに言えば変えてくれただろうに、どうして言わなかったのか。

 他の家具は移動して貰ったのだろう? 君の作業部屋だと言い張っても良い位には、此処に来て随分と時が経ったではないか。

 筆の手は止まらない。

 相槌を挟もうとしても彼は独壇場で話し続ける。


「カップが少し小さいことに気付けない」


 カップとは、あの檸檬色の白鳥が描かれたティーカップのことを言っているのだろうか。

 気付けないとは誰のことを指しているんだ?

 それなら俺だって気付いていたさ。どうしてそんな小さなカップを使っているのかってね。

 

 窓のすぐ外にある木々の葉が重なり合い、まるで中身のない音を立てる。


「貴方は初対面の頃から面白い人でした。だって、この油臭い部屋に匿えと言うんだもの。この部屋ではケーキの味だって落ちてしまうだろうに、一緒に食べてくれた」


 まさか俺のことを話しているのか。

 筆の手が、腕が勢いを増してキャンパスをなぞる。


「悲しかったり、辛かったりしたなら教えて欲しいと、そう言ったのは貴方なのに」


 筆の声が震えていて、俺はなんだか、可哀そうに思った。

 しかし、俺は手を動かし続ける彼を止める術を知らない。止めてはいけないと思った。

 この話には意味がある。

 いつもの、”ないようでありそうな話”なのではない。


「良き友人になれたとさえ思えたのに、……私は」

「筆……?」


 彼のその先の言葉を聞くのが怖くて思わず名前を呼んだのに、彼はそんな俺をお構いなしに言葉を続ける。

 お願いだから、止まってくれ。

 

「私は、誰よりも君を傷つける人物になるのだろうね」


 それは一体、どういう意味なんだ。

 そう聞こうとした時、お湯が沸騰し始めた為、慌てて火を消す。

 君は何の話をしているのだ、と問おうとして再び彼に視線を戻せば、キャンバスに向いていた彼の目は俺を向いていた。

 アーモンド色のその瞳が、俺という存在を全て非難しているみたいで恐ろしかった。


「……少し休もうかな」


 嫌に緊張をした指先が冷たくなり始めたが、いつも通りの調子に戻った筆の声色に、早まっていた心臓が速度を緩め始める。


「息子さんが淹れてくれたコーヒー、楽しみだなあ」


 筆は大雑把に自身の腕で涙を拭って、情けない顔で笑った。

 拭った際に手についていた絵の具が綺麗な顔にこびり付いていたが、それを揶揄う気になれなかった。

 俺は、筆がこだわる量のミルクと角砂糖をコーヒーに入れて手渡す。


「ありがとうございます」


 ふうふうとコーヒーを息で冷ます様子を見つめると、目元と鼻の頭が赤くなっていた。

 まるでその姿が、凍える体を温めているように見えて、俺は心配になった。


「……うん、美味しい」


 筆はカップの三分の一くらいミルクを入れて角砂糖を二つ入れる。俺が自信を持って知り得る彼の情報はこれと、好きな物は一番始めに食べることだけ。

 俺はそれがとても悲しい。

 筆は、自分を渡り鳥だと言ったが、未だ彼はこの屋敷から飛び立たない。

 遠方からの依頼ですら、この屋敷で描きあげる。

 それはもう、この家の専属の画家と呼べるのではないだろうか?

 しかし彼は、俺がそう問いかけてみても首を横に振るだろう。

 なんとなく、そうだと思った。

 彼は、いずれこの屋敷を離れる人なんだ。

 彼を良く知らない俺が僅かに知ることが、こんなことばかりだなんて。

 なあ、筆。

 俺はさ、寂しいよ。

 

「息子さん。人は人の何処から忘れていくと思いますか?」

「……顔?」

「私は声からだと思うんです」


 絵を見上げる筆は困った顔をしていた。何を想いそんな表情をしているのか分からない。

 俺は君が分からないんだ。


「次は目の色、香り、手。どんどん思い出せなくなる。それなのに相手に対する愛だけは変わらない。……いいや、寧ろ大きくなるのかもしれない。愛は不滅だなんて調子良く聞こえるけど、まさにその通りだった」


 彼の絵に向ける視線は愛なのか。尊ぶような表情を浮かべるのは、妹に恋をしているからなのだろうか? だから君は、苦しげなのか。


「筆は妹が好きなのか」


 無意識に出た俺の言葉に、絵を見ていた筆は何処か寂しそうに目を伏せる。

 その仕草はまるで不正解と言われているようであった。



「息子さんや」


 大粒の涙が筆の目から零れ、湯気を上げるカップに落ちる。

 彼の頬を滑り落ちた涙が月の光を纏い、流れ星のようだった。


「貴方は私が妹さんと一緒にいる場面を、一目でも見たことがあるのでしょうか」


 妹と筆が共に居る所だって? そんなこと、そんな場面。


「それは……」


 あれ、可笑しいな。

 彼は、妹とはきっと沢山の話をしているのだろうと想像はしていたのに、実際その場面を見たことがなかったかもしれない。しかし、妹は絵のモデルだぞ。例えば描かなければならない人物が近くにいるのに、写真を見て描く画家なんているだろうか。

 加えて言うのならば、彼は雇い主の家に住み込み、描いている。

 妹と出会わない訳がない。


「全てをすっ飛ばして、私なんかが真実だけを言うだなんてことは出来ない。それは貴方が見つけるものです」


 カップを持つ指先が凍える。

 筆は何を言っている?


「しかし、そう、貴方にとって知りたい答えとは、本当はこの言葉だけで充分ではないのですか」


 筆と妹が一緒にいる所を見たことがない。それが答え?

 何故、絵のモデルである妹と接触していないのか。それは彼がこの部屋に閉じ籠っているからではないのか。

 いいや。

 しかし。

 いいや、いいや。


「この絵が完成したら私は飛び立ちます」

「は……?」

「約束の絵が完成した後、その場には留まらないと決めているのです」


 そんな、これまで仲良くやってきたのに、彼は俺を置いて羽ばたこうとするのか。

 約束の絵とは何か。

 彼は妹の絵を描き続けてきた。

 これからもそうして過ごすのではないのか?

 それで、俺はこの部屋に遊びに訪れて、君は浮ついたように不思議な話を聞かせてくれる。そんな日々が続くんじゃないのか?

 

 ロクに口を付けていないコーヒーを零してしまわないように、ソっとカップをテーブルに置く。

 筆は、暖かそうなカップを膝の上で大切に持っていた。


「息子さん。貴方は深い夢を見るべきだ。ちゃんと夜は眠らないといけない。浅い夢は見ている時間が長くなるほど貴方を深く傷つけ、そしてまた浅い夢に留めようとするでしょう。見たくない夢なのかもしれないが貴方の大切なものは何も変わらない。本当は自分の力で目を覚ますべきだったんだ。でも、臆病になった心は浅い場所で曖昧に漂い続ける。それでは体を壊してしまいます。完成した絵を見れば、どうして私が此処に来たのかを思い出すでしょう。私が見せてあげられる時間はもうないのです」


 夢の話? 夜はちゃんと寝ている。見た夢の話だってしたことがあるだろう。

 約束とは?

 彼の言葉を思い出そうとしても、体が、頭がそれを拒む。

 僅かに震える唇をそのままに、俺は口を開く。


「絵の完成は、いつなんだ」


 俺の縋りつく視線と彼のアーモンド色の瞳は交じり合うことはなかった。たったそれだけのことなのに、俺は酷く裏切られた気分にさせられた。


「明日です」


 彼にとって、俺は友にはなれなかったのだろうか。



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