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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第一章 画家の筆
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第三話

2023.4/5 文章の見直しと、漢数字に直しました。



 贈り物に身を包んだ妹の絵が、あの子の誕生日に完成した。

 陽だまりの下で、愛らしく笑うあの子の絵を見て父と母はとても喜んだ。


「何かお礼をしないとね」

「旦那様、私は衣食住を充分に受けています」


 筆は父の言葉に首を横に振る。


「それだけでは足りないわ」

「お小遣いだって頂いているのですよ」


 母も、彼にお礼に何かをあげたいと言っても、筆は首を横に振った。

 拒否を示す筆の様子を見て、両親が残念そうな顔を見せれば、筆は困ったように笑い「私はまだこの屋敷にいるのですから、本当に気にしないでください」と言った。

 しかし余程、絵の出来が良くて嬉しかったのか、父が「では、今日こそ一緒にご飯を食べよう」と筆を夕飯に誘ったが、彼は(かたく)なに首を横に振り「家族水入らず楽しんでください」と丁重に断った。


 夜、喉が渇いてキッチンへ向かえば、テーブルの上にケーキが一切れ余っているのを見つけた。

 そうだ、せめてこれだけでも食べてくれないかな。甘いものが好きと言っていたし、きっと喜んでくれるだろう。

 俺は、良いアイディアを思いついた、と水を飲むのも忘れて、その皿を持って筆の部屋へ向かった。



 部屋の前に辿り着き、ケーキを片手にノックをしようと上げた手を止める。

 部屋の中から寂しげな歌声が聴こえて来たのだ。それはまるで、詩でも詠うような綺麗な声だった。



  そより そよりと風が吹く


 わたげ はなうた 春日和



  さらり さらりと足撫でる


 あさなぎ なみうち 輝かしい



  きらり きらりと星が躍る


 きいろ みかづき 夜のしじま



  ひやり ひやりと冷たい肌


 色なし 音なし ひとりきり



  こつり こつりと靴の音


 夕焼け 影は ひとりぶん



 今、部屋を訪ねるのは()した方が良いだろうか。

 どうせなら、もう少しだけこの歌を聴いていたいけど……。

 しかし、それは彼に悪い気がした。

 

 ……いいや、夜は始まったばかりだ。何を挫けることがあるか。

 彼はきっと今日も朝まで起きているだろう。

 明日になればこのケーキのスポンジの(はし)は乾燥して硬くなってしまうだろう。

 それに、リラックスしているところで悪いと思うが、俺もあの絵に関して、改めてお礼を言いたかった。

 さあ、扉の前で悩んでいても仕方ないぞ。

 宙ぶらりんになっていた手で緊張気味にノックをする。

 ノックの音に歌は止み、続いていつもと変わらない穏やかな声が「どうぞ」と部屋の中から聞こえた。彼の了承を得て慣れた手つきでドアノブを下げ、通いなれた油臭い部屋に入る。


「こんな時間に来るなんて珍しいですね」

「折角だしケーキだけでも食べないかと思ってね」


 筆は椅子を窓際に置き、片足を乗せて座っていた。

 窓の外には白銀の大きな満月。開け放たれた窓から風が入りレースカーテンを揺らしていた。


「ケーキ」


 月の光が彼の黒髪を青く縁取り、アーモンド色の瞳は夜の灯りにだけ透き通ることなく漆黒であった。


「あぁ、食べないかい?」

「一つだけですか?」


 そうだが、と頷く。


「俺はさっき食べたからね」

「……そうですか」


 何故そんなことを聞くのかと疑問に思ったが、それは大した内容ではない気がして聞くのを止めた。


「ああ、部屋の電気はこのままにしておきましょうか」


 夜空の光だけが届く青み掛かった暗い部屋を歩き進む。

 薄暗い部屋の中で、足元に絵具が落ちていないか不安になり、足取りはいつもより慎重になった。床にぶちまけた絵具は悲惨だろうから。


「小さくなってしまうけど一緒に食べましょう。貴方はこの時間にコーヒーを飲んでも眠れる人ですか?」

「え、あ。あぁ」


 椅子の近くに置いてある小さなテーブルに持って来たケーキを置く。既にコーヒーを入れていたのか、筆は直ぐにコーヒーカップ二つを手に持って来て、慣れた手つきで皿に乗っていたフォークを使ってケーキを二つに分けた。


「さっき食べたなら苺は貰ってもよろしいですか?」


 先程の(おぼろ)げな雰囲気を僅かに引き摺りながらも、可愛らしい要求をしてくるものだから、俺は少しだけ拍子抜けする。


「あげるよ」

「ありがとうございます」


 こういうのを気にしない所がこの人と一緒にいて気が楽な部分だ。

 これまで、父の顔色を(うかが)いたいが為に息子である俺にも媚を売る画家が何度か訪れたが、あれは子供ながらも酷く疲れるものだった。

 名前すら憶えていない”有名”な画家と筆を心の中で比較するなんて、俺は性格が悪いな。


「フォークは貴方が使ってください」


 あぁ、ケーキは全部筆にあげる気で持ってきたからフォークが足りなかったか。


「いや、筆が使ってくれ」


 クッと眉間に皴を寄せる筆を見て、俺は”しまった”と思った。


「この部屋にフォークは無い。フォークをキッチンに取りに戻るのは面倒」


 そう言って俺の返事を待たずに苺をさらってゆき、そして次に自分のケーキを指で掴んで大きな一口でその半分を口の中に放り投げた。


「私は手で食べることには慣れているから気、にしないでください」


 なんとも豪快な食べっぷり。

 筆は好きな物をはじめに食べるタイプか。


「食器はないけどタオルならいくらでもあるので」


 機嫌を損ねて速射砲(そくしゃほう)(ごと)く言葉が返ってくるかと思ったが、ケーキが美味しかったのか、幾分(いくぶん)か筆の表情は和らいだ。

 俺は彼の言葉に甘えることにして、フォークを柔らかなケーキに沈め、一口食べる。

 チラリと見た筆のクリームのついた指をカップの持ち手に引っ掛けて優雅な雰囲気でコーヒーを飲む姿はなんだか面白った。

 

 優しげな月の光がティーカップの輪郭をなぞる。

 見慣れたはずの檸檬色の美しい白鳥が描かれた水色のティーカップが、俺はどうしてか気になった。

 暗い部屋で見ると目立つもんだな。

 ……それよりも気になる事があったな。

 

 俺は、彼が持つティーカップから視線を逸らす。


「さっき歌っていたのは、なんてタイトルなんだ?」

「聴いていたんですか?」

「聴こえたんだよ」

「人間観察の他に盗聴とは、なんともなんとも」

「勝手に歌っていたのはそっちだろ」


 いじけるように唇を尖らせて反論すれば、筆は楽しそうに笑った。彼を目の前にすると、可笑しそうに笑われてしまうと分かっているのに、俺の唇はツンと尖がってしまうのだ。

 しかしこの時、予想に反して彼は上がっていた口角の余韻を残してぼんやりとコーヒーの水面を見つめていた。


「あれは友人からの手紙に書いていたんです」


 今更、歌を聴かれていたことが恥ずかしくなったのか、筆はクっ、と眉を寄せて照れたような顔で笑った。

 カップに向けられたままの視線はその友人を思い出しているのか、それとも照れ隠しだろうか。珍しく恥ずかしげにする彼は月灯りしかない部屋ではよく見えなかった。

 きっとその反応を見るに、その詩が好きなのだろう。

 筆との夜のつまみ食いはしっとりしていて、静かだった。

 

「メロディーは私が適当につけたんですよ」

「……手紙」


 (ようや)くパっと顔を上げた筆は、今度は屈託なく笑っていた。

 誰から貰った手紙でそんなに嬉しそうな顔をしているのだろうか。


「見た目に似合わず、情緒に豊かな人なんですよ」


 彼はこの屋敷にやって来てから一度も此処を離れたことがない。たまに、街に出かけたりしているらしいが、近くにいる友人なら手紙なんて送らず直接会って話すだろう。

 そういえば、どうして筆は子供の頃から家族や友人と離れて此処にやって来たのだろうか。解消されないままの疑問が再び浮上する。

 そうだ。何故、父さんは筆に絵を頼んだのだろうか。どうやって、彼を知ったのだろうか。

 気になることばかりなのに、俺はそれを聞けない。


「誰かのお抱えにでもなればもう少し楽な生活が出来るだろうし、画家とは、私の様な流浪の生き方を嫌がる者が殆どでしょう」


 彼が雇われた理由が他にあるなら、それは何か、と気になったのに、どうしてか聞いてはいけない気がした。

 筆は珍しく身の上の話にならない程度の自分の話をしていた。

 自分語りを彼にとって、それはとても貴重だったんだ。


「私は好んで渡り鳥になりましたがね。こうして手紙を貰えるのはとても嬉しいです」


 結局、筆は喋りながら二口でケーキを平らげてしまった。


「息子さんは好きな物を最後に食べるタイプでしょ」


 そのまま話を続けていて良かったのに自分の話はどうでも良いのだ、と言いたげに話題が切り替わる。筆の話が終わってしまったことは残念であるが、俺はすっかり彼の変調に慣れてしまっていた。


「どうして分かるんだ」

「さっき私が始めに苺を食べた時に感心したような、意外そうな顔で見ていたから」

「……まあ、見てはいたかもな」


 筆は指についたクリームを舐めとるタイプかと思えば腰に引っ掛けていたタオルで丁寧に拭い、そのままカップの持ち手についたクリームもふき取る。彼は意外と綺麗好きだった。無意識に彼の指先を見つめてしまっていたのか筆は「ああ、これですか」と言った。


「絵具のチューブに髑髏(どくろ)が描いている物があるのはご存じで?」

「髑髏?」


 なんて物騒な。


「絵具の中には人体に害するものもありますから、例え手を洗っていても(しばら)くは手についた物だけは直接舐めとらないようにしているんです。お腹を壊して寝込むなんてイヤですからね。今、手は汚れていないので摘まむのはセーフです」


 絵の具の中にそんな危ないものが入っているなんて知らなかった。

 ずっとこの部屋にあるもので、必ず目にしていた物なのに。

 途端、その絵具が彼自身のことであるように思えた。すっかり彼を見慣れたが、俺は彼自身の殆どを知らないのだろう。


「それと私が好きな物を始めに食べるのが意外そうだって話ですけど」


 その話を続けるのか、とあからさまに表情に出ていたのか彼は「まあまあ」と言って話を続ける。

 もっと彼の話を聞けば、俺は彼のことを本当の意味で理解出来るのだろうか。

 ……いいや、それはどうだろう? これでも俺は筆と多くの話をして来たと思っていた。それなのに、その殆どが彼自身についてではない事に気が付いてしまったのだ。だからこの話を聞いても、対して彼について知ることは出来ないのだろう。


「好きな物は始めに食べた方が良いですよ」


 結局、俺を制してまで話したがったそれは彼に関することでは無かったようだった。これくらいは知っていた方が良い、といった類の話だ。予想していたこととはいえ、俺は落胆する。


「食事中に死んでしまった時に、嗚呼、先に好きな物を食べておけば良かった! と後悔しますから」

「食事中に死ぬだなんて」

「死ぬのが大げさなら、何か面倒ごと、……いいや、席を立たなくてはいけない用事が出来た時、冷めたご飯を見てやっぱり先に食べておけば良かったと思いますよ」


 そうだろうか。食事中に何か席を立たなければいけないことなんて滅多になかったから、そんなこと考えもしなかった。

 ピンと来ない筆の言葉に顎を擦る。

 俺は最近とうとう髭がうっすら生えるようになった。


「そんな急用は起こらないだろうって顔をしていますね」


 筆は俺の様子を見て的確に当てた。彼の方は俺のことを良く分かっているようだ。


「図星ですか?」

「図星だ」


 この人の話は聞いていて楽しいが、どうもネチっこい。

 どうせ「そんな事はない」と言っても、遠回りした後に同じ説明をされるのだから、素直に肯定しておくのは賢い振る舞いといえるだろう。


「少しだけ浅い夢のお話しをしましょうか」


 俺の早すぎる降参に対して楽しげに笑っていたのに、筆は再び憂い帯びた顔を見せた。

 月の光がそう見せるのか、静かに微笑む筆は酷く傷ついたような顔をしているように見えた。


「貴方はある日の食事で、先に好きな物を食べておけば良かったと思ったはずです。……ああ、いやそこまではっきりは思っていないか。ただ、」

「あの日って」


 話の前提として、あの日とはいつのことだ、と口を挟もうとしても彼は聞く耳を持たない。珍しく強引さを感じた。


「ただ、なんだか勿体ないな……と思ったのでは?」


 まるで俺がそんなことを思ったことがあると決めつけているような口ぶりだった。

 これはいつも通りの彼が好きな”ありもしない仮説”の話なはずだろう?

 しかし、俺はどうしてかその感情を知っている気がした。

 彼の言葉に体が緊張し始める。以前にも感じた感覚だ。

 そうだ。そんなことを思ってはいけないと分かっているのに、冷えてゆく好物を見て漠然とそう思ったことがあった、気がする。いつだったか。あの日とは、いつのことを言っているのだろうか。

 

 冷や汗がこめかみを伝い、くらりと視界が揺れて思わず片手で顔を抑える。

 動悸が酷い。

 テーブルの上に乱暴に置いた片手がフォークを乗せた皿とぶつかってカシャンと音を立てた。

 どうして俺は、こんなにも動揺をしているんだ?


「嗚呼、ごめんなさい。まだ早かったみたいですね」


 筆が俺の反応を見て、目をぎゅっと閉じた後に首を数回横に振り、俺の肩を支えるように撫でた。

 まだ早かった。それは何を指しているのだろうか。

 彼には聞きたいことが幾つかあるのに、今の俺には、小さなことすら受け入れることが出来ない気がした。


 筆は許可もなくミルクを俺のカップに注ぐ。何をするにしても断りを入れるのに珍しい。


「ミルクを多めに入れてあげますから、これを飲んで。怖いことはミルクに溶かして貰いましょう」


 ミルクとコーヒーは黄金比が大事なのだと言っていたのに、追加でミルクを入れたことによってその量をとっくに超えてしまった。

 彼はまるで俺を気遣うようにいつもの穏やかな声を、更に優しくして、空気に溶かす様に言葉は零す。


「覚めない夢はない、なんて誰が言ったのでしょうね」


 誰かが言った、良く聞く言葉。

 見える筈がない言葉が水滴を模した形になって、床に落ちて波紋を作った。筆の声はまるで怪我人か病人の傍に寄り添って語りかけるように検診的であった。


「眠りに就いている時に見るものだけが夢なんかじゃないのに。……ねえ」


 暗い部屋の中で月を眺めながら話をしていたから気持ちが沈んだのかもしれない。「私も今日はミルクを多く入れようかな」と言って筆は自分のカップにもミルクを注いだ。

 こだわりの強い彼のカップの中も、俺のカップの中と同じく、殆ど白に近くなってしまった。


「そうだ、今度一緒に庭のイチジクを食べましょう」


 彼は分かりやすく俺を気遣っていた。その様子に対して俺は、どうしたんだよ、と聞くことは出来なかった。だって、”あの”筆が、珍しく焦ったような顔を見せたものだから。


「庭のイチジクはもう終わり頃だよ」


 無難な言葉を見つけるには途方もなかった。


 擦り傷に蓋をするように貼った絆創膏の上から、早く良くなあれ、と祈るように置かれた手がより痛みを酷くした。

 相手の熱で傷口がジクジクと痛むとは、なんて悲しいことだろうか。



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