第二話
2023.4/6 文章の見直しと、漢数字に直しました。
自身を『筆』と呼ぶようにと名乗った画家との出会いから数年が経ち、俺たちは友達のような関係になった。
”のようだ”、というのは何年もの付き合いだというのに、俺たちが会うのは彼に貸しているあの部屋だけだから。他の友人とするように外で遊んだり街に出掛けたりなんかは一度もない。それでも彼との会話が楽しくて俺はあの部屋を通った。
「……寝ているのか」
作業をしていれば筆をキャンバスに滑らせる音が聞こえるのだが、彼がいる筈の部屋の中は静かだった。
きっとまた遅くまで起きていたのだろう。彼曰く夜になると作業が進むらしい。
窪みなのか隈なのか判断しにくいが彼の目元は常に暗い青色。不規則なリズムで絵を描き続けている筆がこの部屋から出た所を俺は見たことが無かった。一応ご飯を食べる為に部屋を出たり、たまに街に出掛けたりしているらしいが、俺がこの部屋を訪ねる時、彼は必ずこの部屋に居て、大体毛布に包まって寝ていた。
簡易的なベッドがあるのに寝る時は床なんだよなあ。
俺が遊びに来るようになってから、この部屋も少しだけ物が増えた。俺が椅子に座って筆が床に座ることについてあまりにも居心地が悪かったから、同じデザインの椅子をもう一脚用意すれば、筆はそれに座るようになった。その時に彼は「これでお尻が冷えないですね」なんて言うものだから、そらみたことか、と心の中でぼやいたものだ。
他にも、話題になるかと思って面白い本を持って行くと、後日、本が汚れないように、と真っ白の布が敷かれた小さな机が用意されていた。そして、持って来た物はその机の上に置くようにと言われてしまった。
兎に角、彼は俺の物が汚れるのを嫌がった。
彼が決めたルールには面倒臭く思っても従った。
反対に俺が彼に強要していることは、この部屋の中では気を使わずにいる、それのみだった。俺は、自分が雇い主の息子だからといって、他者に横柄な態度を取ることは実に滑稽だと思っていた。
部屋の奥に歩みを進めればやはり彼はいた。
窓から射す太陽の光が筆の顔を照らし、彼は猫のように気持ち良さそうに眠っていた。
眩しくないのだろうか。直接光が当たっているのに良く眠れるな。なんて思いながら、すやすやと眠る彼の傍にしゃがんでその顔を眺める。
まじまじと見れば見る程、筆は中性的な顔をしていた。十代、二十代前半の男とも女ともいえる大人びた顔立ちは、寝ている間だけは幼く見えた。
「人の観察が趣味なんですか?」
「……起きていたのかよ」
「いま起きたんですよ」
筆はゆっくりと瞼を上げたが、こちらと目を合わせることもなく、むくりと体を起こした。
顔を覗いていたのは事実だから少しだけ気まずい。
筆は、そんな俺の心境をよく分かっている癖に突いてやろうと口を開く。
……ああ、いや、人の弱い所を突くなんてことを彼はしないか。
彼は率直にしか動かない人なのだから。
「私の顔を観察して何か分かりましたか?」
「悪かったって」
「いいえ、いいえ。別に嫌味を言っているのではなくて、純粋に聞いているんです」
必要に感じない会話は直ぐに切ってしまう癖に、筆が食いつく時は何を言っても引いてくれない。
厄介なことをしてしまったな、と数秒前の己の行動に反省しつつ、後ろ頭を軽く掻きながら筆の質問を考える。
なんて言えば正解なのか、どう答えたら彼が満足するのか、分からない。
彼の考えることは俺にとって未知数で、深い様にも聞こえるが何の意味も持たない言葉の様でもあり、一言で理解するのが難しい。だから、俺は素直に感じたことを伝えるように決めていた。
「分かったことって、君は気持ち良さそうに寝ていて」
筆に聞かれたことを話しているのに、彼は毛布を畳み始める。
彼はいつだってマイペースだ。
「寝ている間は幼い顔立ちになるんだなと思った」
人によっては嫌な気分になるだろうか。しかし筆はそんな些細なことは気にしないだろう。
「他には?」
「他には、君は中性的な顔をしているんだなと」
「良く言われます」
筆は畳んだ毛布をテーブルの上に置いて、二脚の椅子を持ってうんうんと頷きながらこちらに戻って来た。
……あれ位は自分で持って来たら良かったな。
「後は隈があるな……と」
俺は軽くお礼を言って持って来てくれた椅子に座る。もちろん筆も椅子に座った。
「そこから導かれる答えは?」
筆は寝起きが悪い方だが、この時には楽しそうに語尾をステップさせ、すっかりご機嫌になっていた。
きっと頭を捻る俺の様子が面白いのだろう。
「また夜遅くまで絵を描いていたんだな、と」
俺の答えは正解だったのか筆は満足そうに笑っていた。
「そうですね。十時間近く寝ているんですけど、不規則な睡眠を続けると、まるで寝不足の様な顔になってしまう。やはり日光に当たる事は大切なんだと分かりますね」
「……あぁ」
そうですね、と言っておきながら俺の答えだけでは足りなかったのか、補足されてしまった。
俺もまだまだだな。
「貴方はここら辺をまとめる領主の息子さんなのでしょう? 人の顔を見て六、七割ほど顔色や表情から相手の状況を読めるようになった方が有効的だと思いますよ」
腕を伸ばして体を捻れば、彼の体からポキポキと小さく音が弾けた。以前、絵を描いている時は同じ姿勢でいるから体が凝るのだと話していた。
「どうして六、七割なんだ」
「相手の全てを知ってしまうなんて、それは互いに残酷なことだと思いますから」
たまに、筆との距離が遠くなるような気にさせられた。俺には到底、知り得もしない影に潜むように、彼は酷く寂しげに言葉を零すことがあった。
今だってそうだ。
「誰にでも知られたくないことがあれば、知りたくないこともあるでしょう。相手の体調や機嫌を察することが出来るくらいが丁度良い。具合が悪そうにしている人がいるなら小さな声で、大丈夫ですか、お加減が優れませんか、とそう言ってあげるだけで良いのです。それだけのことで安心できる人はいますから」
優しさと偽善的な優しさの押し売り。その双方は瓜二つで、どちらもまるで味方であるような顔をしている。
後者は貴方を心配しているのですよ、と相手に自分の存在を知らしめることが得意で、その巧妙な物言いは時に本物の優しさよりも容易く人の心に入り込む。
この土地の人は優しい人ばかりいると思っているが、領主を任される家にはそれなりに諂う者がやって来る時があるし、逆に困った時に助けて貰えるようにと、こちらが顔色を窺う機会がだってある。このどちらも、結局は相手の受け取り方で印象が変わる。
勿論、俺たち家族が企みもなく機嫌を窺っても、嫌な受け取り方をする人はいるだろう。何をへりくだっているのか、と。
人付き合いとは小さなことから気を付けていた方が、どちらにせよ良いのかもしれない。
「放って置いて欲しい人だったらどうするんだ」
「その時は失礼いたしましたと身を引けば良いのです。しかし拒絶されたからといって助けを求めていないということにはなりませんよ。寂しい時に寂しいと、辛い時に辛いと言える人はあまりいないのです。その塩梅が難しいかもしれませんね」
俺は拗ねたように口を尖らせる。
「……寂しいのなら寂しいと言えば良いし、辛いのなら辛いと言えば良い。家族や友人がそう言うのであれば力になりたいのに、察してくれなんて、それは時に難しいよ」
……難しいことだから、彼はある程度察せるようになると良いと言っているのだろうけど。
人の心を思いやることすら、自然と身についてはくれないらしい。
彼の言葉を自分なりに咀嚼していれば、彼は目覚めのコーヒーを入れる為にお湯を沸かし始めた。彼の察しが良いタイミングには頭が上がらない。コーヒーの準備を始めたのなら、この話はここでお終い。後は彼の話を聞いてどう消化するかは俺次第だということだ。
彼の話には答えが用意されていない。それが彼なりの俺に対する思いやりだとこの頃には理解できるようになった。
ああ、そういうことか、と経験してやっと理解が出来ることがあり、人生に答えなんて殆どない。彼が導く先だって、それが答えだとは限らないし、答えがないからこそ、俺たちは考え続けなくてはいけないのだ。
「甘いコーヒー、飲みますか?」
「飲む」
俺の返答を聞いてクスクスと笑う筆はいつも楽しそうだ。
そんな彼を見る度にl俺は彼のペースに飲まれてしまうのも悪くないと思っていた。
「もう少しで絵が完成するのか」
「はい」
キャンバスに描かれている絵を眺める。
陽に晒された絵は油絵具特有の鈍い光を纏っていた。筆の跡によって多少盛り上がった絵の具の畦道に小さな光が乗っかり、絵はキラキラと細やかに輝く。
通いなれたこの頃になれば、画材の独特な臭いは気にならなくなっていた。
キャンバスの中で柔らかなワンピースを翻し愛らしく笑っているのは俺の三つ下の妹。
風になびく髪の毛は一本一本描かれ、まるで絵の中の妹は息をしているみたいであった。
「きっと父さんたちも喜ぶよ」
筆は口角を上げ、静々と瞼を伏せる。柔らかな鳥の羽根が乗っかってしまいそうな程長い睫毛によって彼の目元には影が出来ていた。
絵を褒められて照れているのだろうか。
「随分無邪気で、楽しそうに笑っているもんだよな」
喜んでくれるのなら、もっと感想を言おう、と俺はキャンバスに視線を戻す。
絵の中の妹は、沢山の花が咲く庭で穏やかな陽の下で笑っていた。
「本当、幸せそうでさ」
幸せそうな絵なのに、その絵を見ていると何だか胸の辺りがざわついた。
どうしたんだ。
俺は自分の心のチグハグさに少しだけ混乱し、組んだ指を先の方で落ち着きなく擦る。
筆は俺の話を黙って聞いていた。まるで音楽でも聴いているような、そんな穏やかな顔をして。その彼の僅かな沈黙に緊張して、断片的に言葉が出る。
ああ、そうか。俺は相槌をしてくれない筆に動揺しているのか。
「今にも笑い声が聞こえてきそうだよ」
きっと絵の中の妹はコロコロと可愛らしく笑い声をあげているに違いない。完成されていないこの絵が既に素晴らしいものだと伝え続ける。そうしていれば筆は漸く口を開いた。
「栗色の靴はお父様から、檸檬色のワンピースと同じ色のリボンが付いた大きなツバの帽子はお母様から。そして貴方からは小ぶりで可愛らしい花カゴを。……彼女はちゃんと貰い受けることでしょう」
絵を見上げる筆の顔は、川の流れに寄り添う小さな風のように穏やかだった。
「妹さんも喜びますよ」
彼の言う通り、妹は家族が誕生日に贈ったプレゼントを身に纏っていた。絵の中の妹は余程プレゼントを貰えたことが嬉しいのか、少しだけ興奮したように頬を赤らめている。チェリーに似たその赤は幼さを強調しているようだった。
「女性を描くのはとても楽しい」
「そうなのか?」
「えぇ。繊細な生地、こだわり抜かれたデザイン、そして愛らしい装飾が多いのです。描き応えがありますよ」
俺は絵を描くことが得意ではないから、難しい小物が増えることを喜んでいる彼に、よく面倒臭くならないな、と感心した。
彼は筆を持つ手付きで空をなぞる。
その先には妹が描かれたキャンバスがあった。
「女性の髪は艶やかで、柔らかであって、そして美しい。お化粧もその人その人の肌の色に合った色を選ぶのです。愛らしく天を仰いだ睫毛も、色のついた爪の先までが愛される為にあるのですよ」
彼が持つ筆が女性の髪や肌を描くのを想像して、俺は気まずく思った。
どうしてか、想像上のその光景が官能的に見えてしまったのだ。
「君はそういうのには疎いと思ったんだが、そうじゃないんだな」
「そりゃあ、人物画を描いている者ですから、詳しくもなりますよ」
本当にそれだけのことで、これ程の繊細な絵が描けるのだろうか。あの未知の落書きのような下描きから人が浮き出て来るなんて、凄いとしか言いようがない。
そもそも彼の年齢でこんなにも美しい絵が描けるというのに、どうしてその手の学校に通わないのか不思議だった。
彼は所謂、天才というもので、既に学ぶことがないのだろうか?
それもそうだ。彼は実際に絵を生業として生活出来ているではないか。しかし、彼がその年齢で流浪の画家になったのには、他に理由があるんじゃないかと、俺は勘繰ってしまう。
彼から、彼の家族に関する話を聞いたことは一度もない。
たまに見せる筆の視線が何か秘めているようなのだ。そう思わされるほど、キャンバスを見つめる彼の視線は寂しげで、誰かをそっと想うように慈愛に満ちていた。
俺は、彼のその視線を見ているだけで、小さく思える部分にさえ踏み入ることを躊躇してしまうのだ。
「そういうもんか」
「そういうものです」
彼はそこそこ長いこと、この屋敷にいる。
きっと妹と何度も会話をしたことだろう。俺よりも年上だが、気にするほどの年齢差でもない。妹と彼の年の差は全く問題にはならない。
それに、だ。俺だって彼なら妹を任せても良いと思える。
俺にとって、彼はそれほどに”出来た人”だった。
「な、なあ」
「はい?」
「画家っていうのは、描いている内にその人のことを好きになったりしないのか」
うーん、と顎に指を添えて考える素振りを見せる割に言葉は軽い。興味ないからといって話を流す人ではないが、この場合はあまり真剣に考えていないのだろう。
「好きになる人もいるんじゃないですか」
あっけらかんとした言葉は、自分のことを言われているとは気づいていないみたいだ。
「その、君も」
付け加えるように言葉を紡げば、彼の優しげだった瞳がパチリと瞬きをした後、輪郭を硬くした。
小さく傷ついたような、そんな顔だ。
不味いことを聞いてしまったのだろうか。初めて見る彼の表情に戸惑った俺は、先ほどの会話を誤魔化そうと口を開くがワンテンポ遅かった。
「私はないですよ」
いつもゆったりと話す筆にしてはハッキリとした口調だった。彼のその反応が意外で、俺はポカンと呆気に取られてしまう。
「私は地に足も付かない絵描き。その恋は実りません」
そうだろうか。
そうなんだろうか。
彼の言葉に酷く傷ついた気持ちにさせられた。
確かに、彼はそこら辺の画家とは雰囲気が違う。しかし、それも魅力だと思うのだ。
顔立ちは綺麗だし、いつだって物腰柔らかく話せて、人の小さな変化に気付いて優しい言葉を掛けられる人間だ。彼を好きになる人だって少なくない筈だ。大人になってゆくにつれて、多くの人は彼が素敵な人だと気が付くだろう。
俺はそんな彼が誇らして、そしていつしか憧れを抱いた。
それなのに、彼の言葉が彼自身を否定するのが悲しかった。「そんな事は無いよ」と言ってあげたいのに、バッドエンドの小説を読み終えた後のように、筆は寂しげに小さく息を漏らし、挙句に困ったように笑った。そんな彼を目の前にして、なんの重みもない俺の言葉は意味も成さないと思った。
どうしてだろうな。
優しい言葉を掛ければ、彼が泣いてしまうんじゃないかと思ったんだ。
「君は良い奴だよ」
筆が自分のことをどう思っているのかは分からないが、俺が彼のことを良い評価すると、必ず驚いた顔した。その反応だって、俺からしたら納得がいかないというのに。
彼は、自分に関することだけは疎かった。
「ありがとう」
違うんだよ。俺の言葉は在り来りな青春映画のセリフみたいだったじゃあないか。君のそのタコが出来た指を労うことも出来ずに、綺麗だ、幸せそうだなんて陳腐な感想しか出なかった。
君が泣いてしまうと思って、怖気付いたんだ。
だから、お礼なんて言わなくて良いんだよ。
そんな言葉の数々も音となることもなく、心の中で萎んでいった。
この話は終わりと言いたげに、筆はコーヒーを入れる為に席を立つ。
その後ろ姿が寂しげに見えたが、掛ける言葉が見つからなかった。