第五話
2023.4/7 文章の見直しと、漢数字に直しました。
2022.12/20 記号による表現を修正いたしました。
台風の日以来、私は部屋に籠って絵を描き続けた。
勿論、家の掃除やお手伝いはしていたが一日の殆どの時間はずっと、ずっと部屋に籠った。
あまりにも部屋から出てこない私を心配に思ったのか度々カロルさんが部屋の様子を見に来たが、私が彼を部屋に入れることはなかった。
ある日の夜、ノックがされて、無視をする気はない私は顔を覗かせるように扉を開ける。
そこには困ったような顔をした彼が立っていた。奥からは僅かにリンゴの甘い香りがする。
「紅茶を淹れたんだが、下で少し話をしないか」
話がしたい、なんて言われて断る訳にもいかず、私は頷く。
一階に降りてリビングに行けば「座ってろ」と言ってカロルさんは台所に行ってしまった。言う通りにしてソファーに座ると、直ぐに彼は二つのカップを持ってこちらにやって来た。
「ありがとうございます」
テーブルに置かれたカップからふわふわと出ている湯気を見つめる。やはり、紅茶にはスライスされたリンゴが入っていた。
「煮詰めて描く程のものなのか」
彼は自分の太ももの上にカップを置いて、それを見つめていた。
「煮詰めて描く程のものです」
オウム返しをする私の言葉にピクリと眉を動かし、カロルさんは少しムッとしたように口を曲げた。その表情と雰囲気は”あんな”絵を描いて何になるんだ、と言いたげだった。しかし彼は直ぐにそんな顔は止めて少しだけ項垂れるように背もたれに沈んだ。
「ふとした時にな」
晴れやかで穏やかな午後。
チチチと庭で小鳥がお喋りをして、のんびりとした太陽の光がリビングで昼寝をしていた。
「チサが死んでしまったことが分からなくなる時があるんだ」
今日もテーブルの上に置かれている薔薇の育て方が載っている本は、再び持ち主がページを捲ることを待っている様だった。
「可笑しなことを言っていると思うだろう。でも、チサがいないことが可笑しいとしか思えない時があるんだよ。足がすくむっていうのかな。……買い物に出かけた時、テレビを見ている時、何か小さな発見をした時、いつもチサに話をしていたから。話し相手がいなくなって、いないのは可笑しいって心が思ってしまうんだな」
私に泣いている姿を見られたからか、彼は抵抗なく心の内を話した。
「どうして、君はあんな絵を描くんだ」
もうやめてくれ、って言われているようだった。これ以上、チサさんの面影を追う様な絵を描くのは、止めてくれって。
思わず手を伸ばしかけて、伸ばした後その手をどうしたいのか分からなくて指の先を丸めて拳を握る。
「私が絵を描くようになった話を聞いてくれますか」
カロルさんに視線を向ければ、僅かに椅子に沈んでいた体を整え、彼は頷いた。
「……私は、無名の画家に絵を習いました」
絵の具が落ち切らず汚れた掌を見つめる。
「画家の名前はテオと言います。その人は風景や動物など色々な絵を描いていましたが、その中でも珍しかったのは、遺族が望む姿をした故人の絵でした」
テーブルの上に置かれた紅茶の湯気が少しずつ、少しずつ、時間を掛けて小さくなっていく。
「ステーキが好きだったお婆さんがいましてね。その方、亡くなる頃の一年間くらいは殆ど食べられなくなっていたんですって。……そういうのって、本人が一番辛いだろうけど、見ている家族も凄く辛いんですよね」
赤い紅茶の湯に浸かる様にスライスされたリンゴがぷかりと浮かぶ。
そう、あれは紅葉が散る秋の日のことだった。
石畳の上に赤と黄色の葉がヒラヒラと舞い落ちて積もっていた。
「ある日、テオが路上で絵を描いていると喪服を着た男性に声を掛けられたんです。この人がステーキを食べている絵を描いてくれないかって、お婆さんの写真を見せられてね。その男性は酷く疲れているような顔をしていました。それで、描いてあげたんですよ。そうしたら次の日に男性が家族を連れてやって来て、アイスクリームも描いてくれ、シャンパンも描いてくれって色々お願いされて、テオは嫌がることもなく昨日描いた絵に言われるままに加筆をしていきました。そうして、お婆さんの目の前にあるテーブルは溢れんばかりの食べ物や飲み物が描かれたんです」
どんどん加筆されていくキャンバスを見て、家族の表情が少しずつ明るくなっていったのを今でも覚えている。
沢山泣いたことが分かる程に目元を赤くしているのに、お婆さんの好物の話をしている内にどんどん、どんどん笑顔が浮かんできたのだ。
嗚呼、この家族はずっと我慢をしていたのだと分かった。弱っていく家族の姿を見て、気丈に、明るくいようと努めていたのだろうと想像が出来た。家族がさせてやりたかったことはもう、本人がどうしたって受け取ることが出来ず、そのどうしようもない寂しさがプカプカと浮かんでいたのかもしれない。
その願いが彼の手によって叶えられているのだと、私はそう解釈した。
一度完成させた絵だったのに、面倒臭がることもなく、嫌そうな顔をすることもなく言われた食べ物を描き足していくテオの手が、彼が握る筆が、魔法使いと魔法使いが使う杖のように見えた。
「もう描けるスペースがなくなって、漸く絵は完成しました。美味しそうに、幸せそうにご飯を食べるお婆さんの絵を見て、家族は、おばあちゃんやっと好きな物が食べられるね、って笑ったんですよ。それでね、私、人って、死んでしまった人の幸せも願わずにはいられないんだなって思ったんです」
テーブルに置かれたカップを両手で包み込むように持ち上げて膝に置けば、じわりとその部分が温かくなった。
「しかし……」
カロルさんが気まずげに口ごもる。
「死んでしまってからでは遅い、ですか?」
紅茶から視線を上げて彼を見ればなんとも微妙な顔をしていた。それはそうだ。だって彼は出会った時に、こんな着せたこともない服を着せて親孝行をした気になっているのか、って言っていたのだから。
「死んだ人の安らかな眠りは、私達が祈り続けたとして、では、残された人の悲しみは誰が慰めてくれるのでしょうか。皆が皆、悲しんでいる人に正しい言葉を伝えられる訳じゃない。皆が皆、誰かの慰めを真っ直ぐな気持ちで受け取れる訳じゃない。時には、言葉なんて意味がないって突っぱねて、私たちは上手に寄り添いあうことが出来ない」
この気持ち、分からないだろうか。
寂しい時に寂しいと言える人はどれくらいいるのだろうか。
悲しい時は頼って欲しいと言える人はどれくらいいるのだろうか。
悲しくて仕方ない時、私達は勇気を出して言った言葉さえ陳腐なものに聞こえる時があるのだ。
「私は、テオがお婆さんの息子さんにその絵を手渡した時、キラキラとした眩しい光景を見ました。あれは、幸せと慰めの絵なのだと、そう思ったんです」
これが私が彼に絵を教えて貰うきっかっけになった話。
言葉では伝えきれない励ましを、あの絵に感じたのだ。
「なら、君が描く絵もそうだと言うのか」
「どうでしょうか……。ただ、私は残された人の為に絵を描きたい。だって絵の中なら、何処までも自由を得られます」
カロルさんは力が抜けた様に首を横に振る。
「それで子供たちの悲しみは軽くなるんだろうか」
あんな絵なんて見たくない。しかし、彼は正真正銘の父親だった。どうして子供たちが死んだ母親の絵を描いて欲しいなんて依頼をしたのかは想像することが出来ないが、その理由を知らないままにしておくことは出来ないのだろう。
親とは、上手く言葉を紡げない幼子の言葉を根気強く聞ける忍耐力がある。それは普通のことなんかじゃなくて、沢山苦労して、悩んで、子供に向き合おうとしてきた親だから出来ることで、彼も自分の子供が大人になろうが心髄に向き合わなければいけないと、未だに思わずにはいられないのだろう。
数日、この家で過ごして分かったことがある。この人が率なく家事が出来るのは、家族の一員としてやるべきことを理解し、それをちゃんと身に着けたからだ。
ただの頑固おやじなんだったら、子供に強い言葉を使ったことに対して傷ついた顔をしただろうか。
「少しでも、ほんの少しでも、そうであって欲しいと思っています」
顔を上げた彼は口をへの字にして、溜息を吐く様にゆっくりと鼻から息を吐き出すカロルさんは納得がいかないような顔をしていた。
彼の言うことをすべて否定するつもりはない。
もうこの世にいない人を描いた絵は全ての人を救う訳ではない。絵は”たかが”絵でしかない。しかし自己満足の様なそんな絵を必要としている人だっているのだ。
手を差し出すか、差し出された手を取るか、そんなものに答えなんてない。
「慰めてくれる絵だなんて、まるで、絵の中の人が生きているみたいなことを言うんだな」
「……そうですね」
絵は動かない。絵は喋らない。絵は温かくない。
だけど、今この時にも傍にいるような絵は描ける。夢を見せる、とでもいえば分かりやすいのだろうか。
その夢が悲しくて辛い夢なのか、懐かしくて幸せな夢なのかは見た人の気持ち次第だ。
悲しい夢を見て後悔を思い出すのか、幸せな夢を見て、きっと今頃は、なんて想像をするのか。
「私は、息子さん達三人が話し合って母親の絵を描いて欲しいと導き出した答えは決して無駄なことではないと思います」
彼らが母親の話をしている時の顔を思い出す。
私には絵を理由にして昔話をしたがっているように見えた。
この胸に抱えているには、悲しみは大きすぎると言いたげだったのだ。
すっかり湯気が引っ込んだ紅茶に口を付ける。
紅茶は、冷えてしまっても甘くて美味しかった。
「おはよー」
玄関のチャイムと同時に明るい声が家の中に入って来た。
勝手に入って来る感じがなんとも実家らしい。
最後に家に着いたのは妹さんだった。
長男さんと次男さんは既に家に着いていて、ソワソワとした様子でリビングのソファーに座っていた。
カロルさんは二人の傍に座るでもなく、複雑そうな顔をしてダイニングチェアーに座っている。
数日が経って、遂に絵が完成した。
だから三人をこの家に呼んだのだ。
カロルさんの三人の子供が家に到着して、案内をするように私が借りている部屋の扉の前にやって来た。
どんな絵が待ち構えているのか分からないからか、彼らの顔には不安が滲んでいた。
「見てくれるだけで良いんです。気に入らないならまた床に叩きつけてもいい。そうしたら私はまた絵を描きます」
少し嫌味だったかなと思うが、彼と過ごした日々は、絵を叩きつけたことに罪悪感を膨らませるには充分だったようだ。
私はただの絵描き。
絵を受け取って貰えないのなら意味がない。
「ただ、一目見て欲しいんです」
どう受け取るかは、もう、貴方達次第だと一人一人の顔を見つめれば、四人は覚悟が出来たと言わんばかりにゆっくりと頷いた。
部屋に入り、絵を見て、先頭にいた長男さんが息を飲むようにして片手で口を押さえた。
「嗚呼……」
「……頼んでいたのと、違うけど」
「母さん、だな」
妹さんと次男さんが長男さんのすぐ後ろで絵を見ながら立ち尽くし、カロルさんは一歩、一歩と絵に近づいた。
彼が絵に手を伸ばすのを少し離れた場所から見守る。
優しく、穏やかに目を細めた彼が絵を投げ捨てるなんてことはないと確信した。
「母さん」
カロルさんがチサさんの目元を優しく撫でる。
チサ、ではなくて、母さん。彼は今、"父親"なんだ。
「兄ちゃん」
「……お兄ちゃん」
カロルさんの行動を見ていた長男さんが床に膝を付き、手で目元を押さえる。その行動に妹さんと次男さんは驚いていたが、直ぐ彼の傍に寄り添い、肩や背中に手を添えた。
「お兄ちゃんは、母さんとピアノを弾いたんだよな」
父親の言葉に妹さんと次男さんは顔を上げ、絵を見上げる父親の背中を見つめる。
「でも、父さんの頑張りが足りなくてピアノを売っちゃったんだ。……代わりに買った赤いおもちゃのピアノは未だに捨てられず、クローゼットにしまっているよ」
ピアノなんてないと言っていた下の子供二人は驚く。
「知ってる」
鼻を啜りながら長男さんは声を絞り出し、床に膝を付いたまま父親と絵を見上げる。
「……家の事情は理解していたよ」
絵を見つめていたカロルさんが彼らを振り返る。
その表情は驚いているようだった。
「今の父さんはそれこそ母さんがいなくても困らないくらい家事が出来るけど、俺が幼い頃の父さんは全く家事が出来なくて、本当に頼りなかった。仕事だって忙しそうだったしさ。でも、少しずつ家事を覚えて、母さんと二人で一生懸命に俺たちを育ててくれたんだよね。……俺、小さい頃のことだって、覚えているんだよ。だから、父さんも母さんも、二人とも大好きなまま育ったんだ」
悲しげに笑う長男さんは少しだけ困っているようだった。大人になって、小さい頃の記憶の話をしたことがなかったのかもしれない。だからカロルさんは驚いた。覚えていないだろうけど、って思っていたことを息子は彼が想像していた以上に覚えていたのだ。
「だから、あの家に独りでいる父さんが心配で仕方ないんだ。何度も一緒に住もうと言っても聞いてくれやしないけど」
彼は家を出る選択を出来ない。一冊の本ですらテーブルの上から動かすことが出来ないのだから。
この家には家族の思い出が詰まっているんだものね。
それに、この家に自分達が住む選択が出来ないのは息子さんだってこの家を子供の頃に過ごした家のままにしていたかったからじゃないのか。だからあの家に新しい家族を迎い入れる事が出来ず、この家の近くに自分達の家を建てたんじゃないだろうか。
カロルさんは再び振り返り、絵を見つめる。
「母さんな、菫が好きなんだよ」
何処となく気まずげな空気が振り払われる。
僅かな沈黙を破った彼の言葉は、知っていたか? とでも言いたげな物言いだった。
「でも、父さんがプロポーズの時に贈った薔薇を一番に大切にしてくれていたんだ」
絵の中の薔薇のアーチにそっと触れる。
「娘が出来た時は余程嬉しかったのか、暫くはしゃいでいたんだぞ」
妹さんが誕生した時を思い出しているのか、彼は小さく笑った。
「女の子にはピンクが似合うよねって、うちの子は何歳になってもピンクが似合うって、そんな理由でずっとお前にピンクの物を身に付けさせていたんだよ」
「……知らなかった」
妹さんの声は震えていた。
何も言えないように、次男さんが鼻を啜る音が聞こえる。
失ってから教えられる母の愛は、どんなに抱き締めたくても、空を切るだろう。
「菫のこと、知っていたよ」
長男さんはスッキリしたような顔をしていた。もう気を使って黙っているのは止めたようだ。
愛しげに目元を細めた顔は、やはり父親にそっくりだった。庭を眺めながら話をしている時、カロルさんも同じように優しい顔をしていた。
「小さい頃、母さんが言ってたんだよ。今は父さんに貰った薔薇が一番好きだけどって、薔薇の手入れをしているとお前が手伝ってくれるから、それが嬉しいんだって」
”お前”と言うのは、次男さんに向けられていた。
「ピンクだって、好きな色を選ばせてやればいいのに、って言ってみたことがあったけど、可愛い子には可愛い色をって言ってた。母さんは、本当にお前が可愛くて、可愛くって、仕方なかったんだろうなあ。上の俺達が男だから、女の子にしてやりたいことが沢山あったんだろう」
こっちの”お前”は妹さんのこと。
「父さんは、育児のことは沢山勉強をしたから、だから俺達のことは殆ど出来るようになったんだって。家族を大切にしてくれる人なんだって、大人になったら、お父さんみたいな人になってねって。母さん、言っていたよ」
長男だから母親と過ごした時間は少しだけ長い。
母親を独り占めしていた時期があるのは兄弟の中では長男さんだけ。だから、下の兄弟の思い出話が事実と違っていても黙って聞いていたのだろう。
そして、彼は父親のことも心配だった。本当なら長男の自分が一緒に住んだ方が良いと思っていたのだろうが、カロルさんがこの家を大切にしていることを知っていたから、だから強くは言えなかった。
「なあ、父さん。一緒に暮らすって話はまだいいからさ。せめて、もう少し孫の顔を見に来てくれよ」
長男さんの瞳から零れた涙がポタポタと床に落ちる。
「……そうよ」
「ご飯も食べに行こうぜ」
距離を置いていたのは父親だったのか、それとも踏み込めなかった子供達なのか。
家の中心で花のように笑っていた母親を失って、彼らの間には見えない壁が出来てしまっていたのかもしれない。……いや、壁というより、鏡だろうか。悲しんでいる家族の姿は、まるで自分を見ているようだったのかも。
「たとえ、絵の中でも嫌だったんですよね」
四人が私を振り向く。
良い雰囲気にまとまりそうなところ悪いが、彼はまだ話すことがあるはず。得体の知れない他人である私に話せたのだ。それなら、こんなにも大事にしてきた子供にそれを伝えないなんて、私は見過ごせない。
きっと、彼が心の内を話せるのはこのタイミングしかないと思った。今を逃せば、彼らは上手に話すことも出来ず、上手に話を聞き出すことも出来ないだろう。
だって、皆して不器用そうな家族なんだもの。
「私の手ではなくて、カロルさんが奥様に素敵な服を着せてあげたかったんですよね。だから始めに描いた絵を見て、それが出来なかったことへの後悔が押し寄せた」
どうしてあの絵を見るのが嫌だったのか。
どうしてあんなにも怒っていたのか。
『どうして』の中に耐え忍んでいる感情があるはずだ。
「貴方は、あの絵を見て自分が不甲斐なくなったんだ」
カロルさんがゆっくりと奥歯を噛んだのが分かった。
私たちの出会いは最悪で、貴方にとって私は厄介者だっただろう。
私が"変な他人"だから自分と家族のことを話せたのかもしれないが、ひとつの季節さえ越さぬ程度しか共に過ごしていない私に話せて家族に家族について話せないなんて、それは苦しいし寂しいことだ。
だから、私はこの話を、絵に描いた彼女のことを、不完全なまま温かく終わらせようなんて見過ごせない。
余計なことを、と思ったかもしれないけど。
「あぁ……、そうだよ」
少しだけ睨み合った末、彼は、もう黙っているのは止めた、意地を張るのは諦めたよ、と言いたげに溜息を吐いて目を伏せた後、控えめに子供たちの方を振り向いた。
私が頑固なことはよく分かっていることだろう。
「言っただろう。親孝行をした気になったのかって。あの絵は、俺にとっては今更でしかなかった」
孤独と戦い続ける人を、寂しそうに笑う人を見て、誰が不甲斐ない奴と言えるのだろうか。
「……お父さんたちの苦労は知っているから、だから、あの絵を頼もうって、決めたのよ。遅いって、分かっていたけど、そうしたかったのよ」
妹さんはとうとう耐えられなくなったのか嗚咽交じりに泣き始める。
「俺はな、母さんに着飾られる娘を見るのが好きだった。母さんと庭の手入れをする息子を見るのが好きだったんだ」
カロルさんは妹さん、次男さんを順番に見る。
傾いた太陽の光が、庭に差し込む光のように絵を照らす。
彼は最後に長男さんを見つめ、笑って頷いた。彼らの主張や願いを聞き入れる様に、静かに。
「お前と母さんの弾くピアノは、俺にとって幸せの音そのものだった」
彼が紡ぐ言葉が、あの日、テオが描いた絵を家族に手渡す時に見た光のようにキラキラと輝いた。
その幸せの音を聴いたことがないのに、母と子が弾くピアノの音が太陽の祝福を受けるように彼の言葉が穏やかな午後の光景を生み出し、キラキラと輝いたのだ。
「俺が母さんのピアノを売ってしまったんだ。大切にしていたのに、我慢させたんだ」
次第に眉間に皴が寄り、カロルさんは苦しげに息を飲み込んだ。
「それなのに、死んだ後に、他人の力を借りて綺麗な服を着せてやるなんて、皮肉も良い所だろう」
握りしめた拳は凍えるように震えていた。
先立つ人はそんなつもりがないのに、どうして残された人の心には後悔がこびり付いてしまうのだろうか。
「お前達から母さんがどんな風に見えていたか、どんな風に俺が見えていたかなんて、こんなことを聞けるとは思っていなかったし、俺がお前達に昔話をしてやれる日が来るなんて、正直、この先ないと思っていた」
彼の目にじわり、と涙が溜まり、そして堪えようとしたが、やがて溢れた。
「……母さんの話は、辛すぎて、出来る気がしなかったんだ」
ボロボロと涙を零す父親の姿を目の辺りにして、堪らない様子で妹さんが座り込んでいた腰を上げ、駆け出す様に父親に抱き着く。
「……俺は、お前達の気持ちを考えもしなかったんだな」
どうして始めに描いた絵を彼が受け入れられなかったのか。これこそが、彼が子供と距離を置いていた理由だった。
子供に弱った姿を見せないようにしていたのかもしれないが、それで奥さんの存在を自分ひとりの中で納得させようだなんて、それは少し酷すぎる。
苦労を掛けて、贅沢をさせてやれなかったのは”俺”が悪い、だなんて。
妹さん達がお母さんに贈りたかった物は夫である彼だって贈りたかった物でもあっただろう。でも、この家族が心から望んでいたものは、昔から変わらない妻の、母親の、木漏れ日の下で笑っている姿だった。
豪華な物を贈りたい訳でもなく、仕方なく手放したものを搔き集めるのでもなく、家族が力を合わせて作り上げてきた”今”がある絵だったんだ。
私は、チサさんの絵は妹さんが生まれた頃の年齢で描こうか迷っていた。
自分の人生を振り返った時に、愛した人と家族になれた日と子供に出会えた日は、いつまでも経っても忘れられない、幸福な瞬間だった。きっと、彼女にとっても結婚をすると決めた日と子供が生まれた日が一番の幸せな日だったんじゃないかと、思ったんだ。
でも、彼女の刻んだ顔の皴や手の傷は家族と過ごした時間そのもので、これこそが幸せの証なのだろう、と考え直した。
そして、立派に蔓を伸ばし、見事に咲く薔薇に囲まれて幸せそうに笑っている彼女の姿こそが、家族の幸せの象徴だったのだとリビングから見える庭を見て、そう思ったのだ。
「母さんがいないと駄目だなあ」
「そんなことないよ」
「駄目なんかじゃない、家庭を持った私達に遠慮をしていたんでしょう? そんなの、いらないんだよ? だって、お父さんは、ずっとずっと、この先だって、私達のお父さんに変わりないんだから!」
鼻を啜る音を聞きながら私は自身が描いた絵を見つめる。
家族に向かって幸せそうに笑う女性を描いた筈なのに、彼女の姿はなんだか寂しそうに見えた。
私は、まるで人々が絵の中で生きているような、そんな絵を求めて来た。
もうこの世にはいない彼女の心情を想うあまり、切なげな顔に見えるなんて、まだまだ技術が足りないようだ。
何十年と絵を描き続けてもテオにはまだまだ及ばない、か。
でも、
でもね。
私が描いた絵を見ながら家族の話す機会が増えてくれたならいいな、なんて思うんだよ。
ホームからの見送りは”家族全員”だった為、大人数になった。
「カロルさんに台無しにされた絵、仕返しに完成させて部屋に置いてきましたから」と嫌味たらしく笑えば、彼は驚いた顔をした後「参ったな」と言って笑った。
あの絵を見たって彼ならもう大丈夫だろう。
長男さんと、彼のお嫁さんがまるで気遣うようにカロルさんの隣に並んで立っているのを見て、無責任にも確信した。
「君の絵もキラキラと輝いていたよ」
差し出された手を握れば力強く握り返された。
絵も言葉も、大切に、丁寧に生み出そうとすれば、星々の煌めきを見るように輝くことが出来る。
月の光には負けてしまうかもしれないけど、月は星がいるから、私達は夜が寂しくはないんだよ。
「また来てねー!」
発車する汽車に向かって元気な声で叫ぶ妹さんに思わず笑みが零れる。
さようなら
家族の皆さまお元気で。
汽車の座席に着いて、街で買った絵葉書に字を綴る。
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息子さんへ
早速手紙をありがとうございます。
返事が遅いからって怒ってはいないですよね?
ところで、私は家々に薔薇が咲き誇る美しい街にいました。そこでの仕事も終え、汽車の中で手紙を書いています。
貴方は良く分かっていると思いますが、親孝行は日頃からしてくださいね。
P.S
私は好きな時に寝ますのでいらぬ心配はしないように。
あと! 手紙をくれるのは嬉しいですけど、堅苦しい文章を書いてスペースを埋めないでくださいね。
筆より
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よし。こんなものでいいか。
綺麗に便箋を折って封筒に入れて、封をした後に鞄にしまう。
少しだけ開いている窓から入りこんだ風に誘われるように、ガタンゴトンと揺れる汽車の窓から外を眺める。
カロルさんってば、最後まで私のことを男だと思っていたよな。
しっかりしているようで鈍感というか。
しかしまあ、プロポーズの時に苗を渡すなんて、チサさんはそういうところが可愛いと思ったのかな。
ずっと、ずーっと大切にその薔薇を育てていたんだよなあ。
数える程しかなかった蕾がアーチ伝うほど成長して、沢山の花を咲かせるなんてさ。
まるで家族が、一人、また一人と増えていくみたいだよね。
これで第3章は終わりになります。
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