第一話
2023.4/7 文章の見直しと、漢数字に直しました。
2022.6/9【第三章1~5】ルビ等の見直しをしました。
今回訪れた街は、何処の住宅の庭を見ても美しい薔薇が咲いていた。
心なしか空気も瑞々しく香っているように感じる。この街もまた美しかった。
依頼主は兄が二人、妹が一人の三人兄弟で、描いて欲しいのは母親の絵。
皆さんは既に成人されていて、実家を出て自分の家族を持っていた。
この時すでに私はこの数日間は代表者である長男さんの家にお邪魔していた。
そして絵は完成を迎え、依頼主である三人に見せる日がやって来た。
汚れていない手で一枚の写真を眺める。
写真にはエプロン姿で化粧気のない素朴な雰囲気の女性が写っていた。話を聞くところ彼らの家は中の下、貧乏ではないが裕福でもない家庭で、お母さんはいつだって家のことを一番に考えてくれていた。しかし、自分たちはそんな母親にお洒落らしいお洒落をさせてあげられなかったのだと。
母を失ったあと、もう親孝行をしてあげられないんだ、と三兄弟は酷く後悔したらしい。
母親が亡くなって一年が経ったある日、たまたま長男さんが風の噂で何でも依頼主が望む故人の絵を描く画家がいると聞いて私に連絡を寄越したのだと。
はて、その風の噂っていうのはどうやって回っていくのだろうか。
依頼主達はお母様の話を沢山聞かせてくれた。
お母様は頑張り屋で、穏やかで、優しくて。怒ると少し怖くて、それでやっぱり、優しかったのだと。
好きな色は薄桃色。それを言ったのは妹さんだった。いつまでも自分にピンク色の服や小物を勧めていたのだと。
好きな花は薔薇。実家の庭には立派な薔薇のアーチがあるのだそうだ。その花をいつも手入れしていて、とても大切にしていたのだと。これは弟さんが言っていた。
お母様はピアノを弾くのが上手だと言ったのは一番上のお兄さんだった。
場面はくるりと変わり、母親を語る為に机を挟んで私を中心に置いて三兄弟は語る。
沢山のことを思い出そうと、いや、そうしようとしなくても言葉は溢れるのだろう。三人は沢山を私に話してくれた。
「ピアノって、何処にあったのよ」
「さあ……」
下の兄弟が怪訝そうな顔をして首を傾げる。
「それ本当なのか?」
「もしかして、あの赤いおもちゃのピアノのことを言っているの?」
二人に捲し立てられ、長男さんは少しだけたじろぐ。
「ピアノを描きますか?」
「いえ、ピアノなんて家になかったし」
妹さんが間髪入れずに首を振り、次男さんは賛同するように頷いた。
「描かなくて大丈夫です。……ただ、思い出しただけで」
困ったように笑う長男さんに下の二人はやはり納得いかないようで小さく反論を始める。それを「分かった分かった」と彼は往なした。これはこれ、なんとも姦しい弟と妹だ。
彼の雰囲気が何処となく寂しげで、どうも気になったが、話はとんとん拍子に進んで行き、――|遂に絵は完成してしまったのだ《・・・・・・・・・・・・・・》。
彼の反応に引っ掛かったが描いて欲しい絵が細かい部分まで決まっていたから、そのままその通りに描いたのだが、正直にいうと今回はあまり描き応えがなかった。
私は雇われだから、依頼主が満足するならそれで良いけど、と納得するしかない。しかし、どうにも腑に落ちなかった。
「……! …………!!」
今日は絵をお披露目する日。
長男さんの家の、借りている一室で下の二人が家に来るのを待っていると、一階が騒がしくなった。慌てたようなお長男さんの声と、人を責めるような、大きな声を出す男性のやり取りが徐々にこちらに近づいてくる。
なんだ、なんだ。
こっちに来ないでくれよ。
私の願いも虚しくバン! と音を立てて開かれたのは私が借りている部屋の扉だった。急な出来事に驚いて体が固まる。目をパチクリとさせる私を無視してズカズカと入って来た中年の男性はイーゼルに立てられている絵を睨む。どちらさまで? と男性の後ろに立っている長男さんに視線を向ければ、彼は男性を止める訳でもなく呆然として絵を見ていた。長男さんと私が描いた絵が初めて対面した瞬間であった。
彼の反応を見て、はやり手ごたえがないものを描いてしまったな、と失敗をした気持ちで静々と彼を見つめる。だって、その表情は嬉しそうなんかじゃなくて寂しげだったのだ。
「こんな絵なんか……!」
「え!?」
長男さんに視線を向けていれば自体は急変する。部屋に荒々しく乱入して来た男性は苛々した様に大きな声を上げ、誰かが止める暇もなくキャンバスを掴んで床に叩きつけた。
私は心の中でため息を吐く。叩きつけられた絵を見ても私の心の中で怒りは湧かなかった。それがどうしようもないことに思えたのだ。
ふと、グチグチと文句を言い続けている男性の後ろに立っている長男さんを見れば少し安堵したような顔をしていて、やっぱりが彼が望んでいた絵を描くことは出来ていなかったか、と自分が描いた絵の価値というものが確信に変わった。
家族の悲しみに差などないだろうが下の二人とは違った雰囲気を長男さんからは感じた。それはなんだろうか。描きながら沢山の”何が違うのか”を考えても結局分からないまま。彼はまだ話したりなさそうなのに肯定するばかり。長男さんの言葉があまりにも小さくて聞こえてこないのだ。
このドタバタとしている中で新たなことが読み取れないかと長男さんを見つめていれば、私の視線に気が付いたのか彼は慌てて中年男性の肩を掴み宥め始める。嗚呼、迷惑そうな顔をしているように思われてしまっただろうか。
私は収まりそうもない言い争いに向かって控えめに片手を上げて口を挟むことにした。
「えーと、この方は誰なんですか?」
なんて、あまりにも白々しかっただろうか。とはいうのも、実は家族写真にこの人も写っていたのだ。でも絵を台無しにされたのでしらばっくれてみた。例え描いた私が価値を付加しなかったとしても時間を掛けて描いた絵を台無しにした代償は償って貰わねばならない。少しの素っ気なさと悪戯心は許して欲しい。
「俺の父です」
うん。そうだろうね。知っていましたとも。なんて、こんな生意気な言葉も心に留めておく。
「こんな絵なんか依頼しやがって。余計なことをするな!」
「俺達が頼みたかったんだ。それに、父さんには関係ないだろ」
ああ、それはまずいんじゃないかな。関係ない話では、ないんじゃ……。
父親は彼の言葉にワナワナと震え出す。おいおい、これ以上暴れないでくれよ。私はさりげなく画材を自分の元に寄せる。道具を駄目にされることだけは耐え難く、避けなければいけない。
嗚呼、ほら。最悪なことにパレットだけはキャンバスの下敷きになってしまったから、絵は倒れた姿を見た時よりも台無しになっていることは分かった。油絵具だから乾いた後に直すことも可能だけど、あの絵なら、まあいいのだろう。……本当に?
「不愉快なんだ!」
ぼんやりと、うつ伏せに横たわる可哀そうなキャンバスを見つめていると彼らの父親は再び大きな声を出す。心底だぞ、とでも言いたげなビリビリと肌が痺れるような怒気だった。何をそんなに怒ることがあるのだろうか。
言い争いを始める親子を諦観していれば、扉の向こうに長男さんの奥さんがオロオロとして立っていた。その背中には赤ちゃんが背負われている。あぁ、あぁ、よく今ので泣かなかったねぇ。お母さんを困らせなかった、偉い子だね。
「これは俺たち人が望んだことなんだよ」
「それで、母さんにこんな、着せたこともない様な服を着せて、親孝行をした気になっているのか!」
嗚呼、もう……、どうしたものか。身を挺して喧嘩を止めるなんて私には出来ないぞ。しかし事態は意外な方向に動く。親子の間で言葉が鋭さを持って飛び交おうしたが傷ついたような顔をした息子に父親は一瞬怯み、更には彼の後ろにいる奥さんに気が付くと気まずそうに首を背けた。
これは、どういうことだろうか? ……まあ、それはこれから知れば良いことだろう。私は心の中でほくそ笑む。酷く重たい空気になってしまったがこれは好都合かもしれない。小さなお子さんがいる家に何日も続けて知らない者を置くことは奥さんにとって大きなストレスになるだろうなと思っていたのだ。妹さんの嫁ぎ先は隣町らしいし、お兄さんと弟さん、どちらかの家を貸すならお兄さんになる訳だったのだが。
「お父様の家が皆さんのご実家なんですよね?」
「え、えぇ」
「それなら、私、お父様の家で絵を描きます」
沈黙を破って間に入り、良い案だといわんばかりに頷く。
「ふざけたことを言うな!」
あぁー……、もう少し声の音量を下げて欲しい。そんな近くで怒鳴られたら耳がキーンってなる。
またワァワァ言い始めた父親に向かって私は分かりやすく怒った表情を作り、ずい、と近づいて控えめに彼を指さす。失礼な行動だと分かってはいるが、一瞬でも煩い口を閉じさせるためには致し方ない。
私も私で身を引くんじゃない。私からしたらこんな”子供の癇癪”。慣れたもんだ。いいかい? 大きな声を出して、話を被らせず、よぉく話を聞くんだ。
「私、怒っているんですよ。絵を台無しにされてご立腹です。赤ちゃんもいるのにそんな大きな声を出して。何に怒っているのかは分かりませんが非常識なのはどちらでして?」
多少は自分の行動をやり過ぎていると自覚しているのか父親は「うぐ」と声を詰まらせ、ちょっぴり申し訳なさそうに奥さんを見た。全く、そうやって気遣えるなら落ち着いて抗議しておくれ。
「それに」
すっかり静かになった父親から視線を長男さんに移し、不安げなその目をしっかり見つめる。僅かに揺れる瞳が戸惑いを表しているようだった。
「大切な人を描くのなら、もう少し納得がいく絵ではないといけませんから」
見透かされたと言いたげに、彼は少し驚いたように目を大きくする。分かりやすい癖に隠せると思っているのなら、彼は今まで随分と有意義な時間を過ごして来ていたのだろう。
「見ていて辛くなる絵なんて、いらないんです」
二人から離れて、奥さんに背負われている赤ん坊を覗き込めばキラキラの目を開いて口をもにょもにょと動かしていた。起きていたんだね。うん、肝が据わっている子だ。いい子、偉い子、可愛い子。
「さて、それじゃあ支度するのでお父様は待っていてくださいね」
二人を振り返り、ニッコリ顔を作る。
「ふ、筆さん」
「その……」
今の今まで怒鳴る父親とそれを止めるのにらしくもなく止めようとする一番上の兄のやり取りに驚き固まっていた下の兄弟二人が口を開く。
「あ、私を置いて行ってもお兄さんに連れて行って貰いますし、家に入れてくれないなら、私、玄関で絵を描きますからね。ご近所さんの好奇に晒されますよ」
げ、と嫌そうな顔をした父親に釘を差す。私以外の者が驚きと珍妙な顔をして私を見ていた。そりゃそうだろう。これまでの私は”穏やかな人”でいたのだから。
「……なんなんだこの人は」
私が言ったことを本当にやりそうな雰囲気を感じたのかさっきまでの勢いは萎み、父親がポツリと呟く。
「ただの画家です」
自分勝手なことを言っているのは百も承知。親子は同じ顔をして困惑していた。
そっくりな顔。ね。そう奥さんに同意を求めたくなったが、流石に怒られそうだから止めておく。
「……言っておくがアンタの世話なんかしないからな」
これは勝手にしろ、と受け取って良いのかな。此処で漸く可哀そうにも突っ伏しているキャンバスを起こしてイーゼルの足に立ててやる。
「では、そういうことで。奥さん、幼いお子さんがいるのに色々として頂いてありがとうございました。それと、気を使わせてしまい申し訳ありませんでした」
「……いいえ、お気になさらないでください」
心配そうな顔をしていた夫婦は、彼の父親がこれ以上拒否して来ないのを見て曖昧に頷く。
父親の方をもう一度見れば、チラリと奥さんを見て諦めた様に溜息を吐いていた。そっちにいるよりは良いか、と思っているような表情だ。怒鳴りこみに来た彼らの父親は奥さんと赤ん坊に気を使っている様子だった。
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