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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第二章 紅碧色の町と人魚
13/63

第七話

2023.4/7 文章の見直しと、漢数字に直しました。

2022.12/20 記号による表現を修正いたしました。



 足を捨て、鱗を得た精霊は紅碧色の町を愛する。


 海底に潜む珊瑚の群生を祝福するは金縁の(あぶく)

 太陽が海と繋がる朝と夜に海へ還りし魂は町を見上げる。


 精霊の祝福は延々と人々の繁栄を約束するだろう。




「奥様」


 いつもと変わらない港町の午後。

 台所に行くと、奥様は丁度リンゴを煮詰めていて、私が声を掛けると「どうしたの?」とこちらを見た。


「絵が出来たのです」


 奥様から笑みが消える。強張ったように上がっていた口角が下がった。


「見ていただけますか」


 絵を見て貰うこの瞬間は何度経験しても慣れることがない。でも、それでよい、慣れて良いことではない、と自分に言い聞かせる。人に絵を見せる時、緊張をしなくなったら、その時が絵を描けなくなった時だ。


 近くにあるダイニングチェアーを引けば、奥様はゆっくりと座り、恐る恐ると手を差し出した。その震える両手に出来上がった絵を手渡す。


 絵を見た彼女は僅かに眉間を寄せた。


 朝と夜は紅碧(べにいろ)色に染まり、金に縁取られた(あぶく)はハープの音を奏でるように海底から生まれる。

 泡は海面に辿り着くと小さく弾け、海の向こうにある異国から旅をしてきた風に乗って町を飛び回るだろう。

 

 坂を登る風の音はフルートに似た音で、夜は人々の眠りを守った。

 この町の海の中は、精霊と人魚たちの美しい歌声が響いている事だろう。

 珊瑚(リーリア)が呼吸を繰り返すのをやめない限り、ずっと。


「あの子は、この町の海にいると思いますか」


 奥様は絵を呆然と見ていたが声を震わせ、とつり、とつりと話始める。

 彼女の心に触れることが出来たのかは、これから分かるだろう。


「死んだ娘を人魚にしてくれなんて、酷い母親だと思いませんでしたか」


 か細く不安げな声をしていた。

 奥様は震える指先でキャンバスの表面を、優しく、優しく撫でる。


「私の主人は大工でしたの」


 煮詰めたリンゴの甘い香りが充満する部屋の空気は酷く重たかった。


「彼は娘が生まれて、もっと稼ぎの良い仕事に就くことにしました。……それが海の仕事でした」


 陸から、海の仕事に変わったのか。

 大工の仕事だって技術が必要とされ、危険であるが故に家族三人で暮らすには十分な稼ぎが貰えるだろう。しかし、漁師の方が稼ぎが良いということは、それだけ危険が大きいって訳か。


「この地域の漁は遠くの沖まで行くの。珊瑚を傷つけない為の町の決まりでね。何日も帰ってこない日もあったわ。……勿論、私達は漁がとても危険なことだって分かっていました」


 私はあまり泳ぎが得意では無いから、漁師とは凄い職業だと思う。海に落ちてしまえば最悪溺れてしまうのに、――船に揺られる人々は勇敢だ。


「彼は、娘がパパと呼ぶ前に仕事中の事故で死んでしまった」


 ぽたり、ぽたりと涙が軽い音を立ててキャンバスに落ちる。幸い、私が使った画材は乾くと水気を弾いてくれた。


「遺体が私の元に帰って来る頃には、彼の体は水を吸い、膨らんで、見るに堪えない姿をしていました」


 奥様は左の人差し指に付けつけている二つの指輪を右の指でギュッと握る。


「主人だと分かったのはソレ(・・)がしていた指輪のおかげ」


 奥様からは一度も、ご主人の話を聞いたことがなかった。リビングには写真すら飾っていないのだ。

 この人はリーリアさんの話をすることを躊躇(ためら)い、口に出せずにいた。話せないということは二人(・・)が死んだ事実を受け入れられていない、ということなのかもしれない。


「それで、それで私。少しだけ娘を憎んでしまった。この子の為に仕事を変えていなければ、あの人は生きていたかもしれないと、そう、思ったのよ」


 キャンバスを撫でていた手を止め、大きく震える手で絵を握り締める姿は、まるでそこに娘がいるかのようだった。


「酷いでしょう。私達夫婦が望んだ子なのに。酷い母親だと分かっているのに、あの子が死んでしまって悲しいはずなのに、人魚の姿にして欲しいだなんて、私は……」


 私は、駄目な母親。とでも言い掛けたのだろうか。

 キャンバスに落ちる涙は画面を滑り落ちて奥様の膝を濡らしていた。


「あの子に夫のことを聞かれるのが嫌で、あの人が映っている写真を全て仕舞いました。あの子に、あの人の話を聞かれて、わたし、何て言ってしまうのか分からなかったから。私ね、ちゃんと父親の話してあげなかったのよ。あの人はリーリアを沢山愛していたのに、それを伝えて来ないまま、あの子も死んでしまった」


 この人は娘の死だけではなく、それよりも前から大切な人の死を乗り越えられないまま、今までやって来てしまっていたのか。


「人魚って、海に出た男を溺れさせてしまうと聞いたことがあるの。……私、やっぱり、あの子を心から愛してあげられていなかったのかしら」


 駄目な母親だった、と口に出せないのは、惜しむことなく愛情を注いできた自負があるからではないだろうか。

 誰かを失った時、私たちはもっと優しくしてやれば良かった、もっと色々なことを話せば良かったと後悔をすることが沢山ある。

 しかし、一心に掛けてきた愛情は容易(たやす)く否定できる物ではない。それだけは否定してはいけない。


「私の母は近所の子供の好物を私の好物だと間違えて覚え、ずっと作り続けてくれました」


 全然違う話を始める私に奥様は少しだけ顔を上げる。


「幼少期は、私に興味がないからだと思うことばかり」


 口を尖らせて、ひょうきんに肩をすくめて見せる。

 私は、子供の気持ちも、母親の気持ちも理解をすることが出来た。


「でも、例え勘違いだったとしても、"私の好物"を作ってくれていたのだと思い出すと、ふと、大人になってから嬉しく思う時があるんです。子供の頃……、思春期に入ると母は必要以上に私に興味を持っているように思えなかったりもしたかもしれない。でも、そうじゃなかったなって。年月が経って思えば、極々普通の母親でした」


 潮の匂いが風に乗って部屋に辿り着く。この家はいつだって潮の香りと、それとリンゴの甘い香りが漂っていた。


「飾られたどの写真の中で笑っているお嬢さんは幸せそうです」


 若くして旦那を失ってからの、一人きりの子育てはさぞ大変で不安だっただろう。子供が大きくなるにつれて出来ることが増え、奥様とリーリアさんは母と娘の二人で力を合わせて暮らしていたに違いない。だって、飾られている写真はどれも楽しげに笑っているんだもの。


「今だって、お嬢さんにアップルパイを作ってあげているんですよね? 貴女のその姿を見て、誰が母親失格だと否定することが出来るというのでしょうか」 


 肩を震わせる奥さんの背中を優しく、優しく、撫でる。


「奥様は描かれたお嬢さんを見て、どう思いましたか」

「……、わ……、私は、あの子が、しあわせそうで、よかった、と……」


 奥様はたどたどしくも気持ちを伝えてくれようとして、言い終わる前に自分の言葉に心の中で(わだかま)っていた気持ちに気づかされたように驚いた顔をして私を見上げ、顔をクシャリと歪める。


「でも、私、あの子が病に伏せる前にされたお願いをいつものことだと()なしたり、全ての言葉を真面目に聞いたりしてやらなかった。こんな早い別れが来るなら、全部、ちゃんと聞いてあげれば良かったのに」


 吐き出される言葉は、後悔、後悔、後悔。自分の行動を厳しく責める言葉だった。

 目を反らしていたのは娘の死ではなくて、我が子に向けた愛情。旦那の死を受け止められず、我が子を大切に育てながらも拭いきれなかったのは、旦那の死を娘の所為にしている自分がいるのではないか、という疑念。

 ずっと、誰にもこんな話は出来ずにいたのだろう。


「アップルパイだって、あの子が毎日食べたいと言った時に作ってあげていれば良かった。もっと、もっと、してやれることを往なさずにしてやれば良かった」


 キャンバスを抱きしめ、嗚咽(おえつ)を上げる奥様の肩を撫でる。背中を撫でた時も思ったが、そのあまりの細さに悲しい気持ちになった。


「食べられなくなってから作ってあげたって、遅いのよ……」


 後悔をしても、過去の自分の言動には理由がある。

 誰かが簡単に出来ることでも自分には出来ないことがある。体調面でも、子供の教育であっても、その全ての行動には理由があるはずなのだ。だから、この人が後悔している行動は誰かにとっては正しくて、誰かにとっては仕方ない事と片付けられてしまうだろう。それらの言葉が全て形にもなれず、無意味に地面に落ちていく。


「最期の辛い姿ばかりが頭に焦げ付いて、毎日眠れなくなるのですよね」


 キラリと、奥様の人差し指にはめられた指輪が光る。


「でも、お嬢さんはその苦しみからは解かれたのです」


 二度と手に入らない幸福を想って泣く人に向ける励ましの言葉は未だ見つからない。

 それでも、辛い思いをして亡くなった人はもう、その苦しみからは解かれたのだと伝えたい。重たく、痛む体を抜けて、身軽になった魂は暫く旅に出て、沢山の景色を見て回り、そして心の故郷に帰るのだと、私は信じている。

 

 この町の人は紅碧色の海に還って来るのだそうだ。

 水色、黄緑、黄色の光が降り注ぐ、うつくしい紫色の海に。

 忘れられない愛情はその胸に。無意味なことなど一つもなかったのだ。

 

 人魚が楽しげに口ずさむのは母親が台所に立って歌っているあの歌。

 この世でたった一人だけが歌える優しくて特別なメロディー。子供は毎晩、親の愛を耳で聞いて笑うのだろう。


「この町の人魚は町の人を見守っているのですよね? 誰かの物語に出てくる怖い人魚はこの町の人魚とは違うのですよね?」


 苦しむ娘さんはもういないのだ。苦痛から逃げ出せずにいる娘さんは、いない。

 せめてそのことに救いを見出してはくれないだろうか。どうか、この絵を見て、幸せに笑って過ごした家族との時間を思い出してはくれないだろうか。


「故人が過ごしたこの世をなぞり、そして魂の幸福を願いましょう。思い出こそ最大の形見なのですから。今は辛くても、思い出はいつか貴女を思いやってくれます」


 悲しい思いだけではなく、楽しかったことをまるっと全て、抱きしめて生きて欲しい。


「リーリアの呼吸は金縁の(あぶく)。泡が目指すは紅碧色の海面。紅碧色は人魚が愛した色。――人魚が歌うは、母親の子守唄です」


 きっとタケさんや町の人は「娘は貴女を想っているよ」と励ましただろうが、肯定するだけでは奥様の後悔は拭えなかった。しかし、奥さまは語ることを止めてはいけない。奥さま自身が家族を愛していることと、己が愛されていたことを思い出し、何度も何度も、そうやって言い聞かせないといけないのだ。


「……この絵は、奥様にはどう見えますか」


 後悔が大きいからといって、いなくなってしまった人との思い出を心の奥に仕舞いこんではいけない。悲しみとは、笑顔の奥に隠し続けられるものじゃないのだから。

 奥様の元に生まれた娘さんは幸せだったのだと本人が認めない限り、悪夢からは目覚められない。否定の言葉を復唱してばかりいると、心が暗がりに飲まれてしまう。

 一年に一度でも良い。誰かと一緒に家族との楽しかった時間を思い出して欲しい。ふとした時に名前を出すだけでも良い。だって、大切な人は心の中でずっと生き続けているのだから。

 この時、こうしていれば良かった、と暗いリビングで後悔ばかりしているのではなくて、明るい光が灯す場所で尊い時間を思い出して欲しいのだ。

 奥様には、家族の話を一緒に出来る人は沢山いるのだから。


「とても、楽しそうに笑っているわ」


 奥様は力強く絵を抱きしめて、溢れる涙をそのままに眉を下げて笑った。


「幸せそうに笑ってる。可愛い顔で、笑っているわ」


 必要なのは作り上げた自責の念ではなく、旦那さんと娘さん、それぞれと過ごした愛しい日々の思い出。

 凪に揺れる海には天使の梯子が下りてくれるだろうか。


「かわいい、かわいい、リーリア。私たちの愛娘」


 たまに寂しくて泣いたっていい。だって悲しいんだから仕方ないじゃないか。

 

 ただ、お願いだから、貴女の愛情だけは否定しないで。




「本当にもう行ってしまうの?」


 奥様からの依頼は無事終了した。


「なんなら観光にでも連れて行ってやったのに」


 見送りに来てくれたタケさんも奥様と同じく残念そうな顔をしている。情に訴えるような形で引き留められそうになっていて、それを苦笑いで誤魔化す。


「いいえいいえ。私は次に行く場所がありますから」


 これは本当のこと。既に日程を組んでしまっているのだ。一日も此処に残ることは出来ない。

 奥様は納得したように頷く。


「そうね。貴女を必要としている人がいるのよね」


 す、と求められた手を両手でしっかりと掴む。別れの握手だ。

 この細い手がもう少し元気を取り戻せますように、と願わずにはいられなかった。


「それと、これ」


 奥様は私の下ろしている髪の毛を柔らかな手つきで後ろに払い、両手を首の後ろに回した。体が離れた後、首元に手をやれば冷たくて細い鎖があった。鎖骨の間には、小さな石の様なものが付いている。


「珊瑚のペンダント、受け取って頂戴」

「これは、受取れません」


 慌てて取ろうとする私を奥さまは手を握って制する。


 だって、これは娘さんの(・・・・)ペンダントじゃないか。


 私は写真の中の彼女が付けているのを見ていた。


「貰ってちょうだい」

「でも……」


 奥様の後ろにいるタケさんは心配そうな顔をして私達を見守っていた。このペンダントを知っているのだろう。


「リーリアには永久に、って繁栄の意味があると話しましたよね」


 奥様は指の先を温めるように私の手を優しく撫でる。その指の先が温かくて、少しだけ安堵する。


「他にね、もうひとつ意味が。――長寿の意味があるのよ」

「あ……」


 弾かれるようにして奥様の顔を見れば、絵の中の情景に劣らず、海より優しい光が彼女を照らしていた。

 

 本当は絵なんかなくても、彼女の名前が親の愛を示していたのだ。

 子供の健康を願わない親はいない。子供の幸せを願わない親はいない。


 

 リーリア


 

 この名前が全てを示していた。

 父親の愛も、母親の愛も、彼女の名前に全て込められていた。

 

 後ろで汽車が出発の合図に汽笛を鳴らす。私のカバンをタケさんが持って汽車の出入り口に立つのを見て、後ろ髪を引かれるように汽車に乗り込む。握られていた手はリボンが解けるようにするりと簡単に離れた。


「甥がおまえさんに宜しくと言っていたよ。まったく、何処で会ったんだ?」


 二つの鞄を受取り、私も渡すものがあったのだと思い出す。


「奥様、これ!」


 慌てる私の元にやって来た奥様に小さな紙を渡す。


「これは」

「海から見た、この町の風景か?」


 奥様の手元を覗き込んだタケさんは「上手いもんだな」と顎を(さす)った。


「人魚から見た奥様の家ですよ」


 私の言葉に奥様はハッとし、絵から視線を外して私を見つめる。


「あの家は海から良く見えますから」


 この町にはいつだって美しい海が寄り添っていた。

 リーリアの海はいつも寄り添っているのだ。

 

 娘さんはいつだって貴女の傍にいる。そう伝えたくて絵を描いた。私は詩人ではないから上手に言葉を探すことが出来ないし、何より言葉にしてしまうと違う気がしたのだ。

 

 何日も絵と向き合い、やっと辿り着いた私の答えが、この絵と、娘さんの絵だった。

 

 小さな絵を胸に抱きしめ、奥様はもう一つの手で私の顔に掛かった髪の毛を払い退ける。それはまるで子供の頭を撫でるような手つきだった。


「また、この町に来ることがあれば家に寄って頂戴ね」

「はい」


 お別れの合図に一歩下がれば、奥様も一歩下がった。私達が離れてすぐに扉は閉まり、汽車はゆっくり走り始める。

 私は車内に移動して誰も座っていない椅子の窓を開け、身を乗り出す。

 ホームでは二人が手を振っていた。


「ペンダント、大切にします……!」



 悪戯げに鼻の下を通り過ぎる風は潮の香りがした。


「お前の言っていた意味、なんとなく、分かったぞー!」


 開けた窓からタケさんの声が届く。


「……なんとなくでも、じゅーぶん」


 カーブを曲がり続ける汽車はあっと言う間に二人がいるホームを隠した。

 私はそのまま椅子にどっかりと座り、窓の外を眺める。ホームを抜けると紫がかった海が視界いっぱいに広がった。

 円を描く様に海岸を添って走り続ける汽車から見える町がどんどん遠ざかっていく。


「こういうことには、答えなんてないんだから」


 胸元にある小さな珊瑚の欠片をそっと握りしめる。



 「ララフ、ララフ――」



 こうして、私は海の精霊と愛らしい人魚が住む美しい町を後にした。




第2章はこれで完結です。

次回は第3章に続きます。


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