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【完結】絵の中の人々  作者: 遥々岬
第二章 紅碧色の町と人魚
12/63

第六話

2023.4/7 文章の見直しと、漢数字に直しました。

2022.12/20 記号に表現を見直しました。


 

「少し散歩をしてきます」


 お昼ご飯にナポリタンとスープを頂いたあと、奥様に一言残して家を出てきた。


 郵便局にいる風の妖精にお礼を渡しに行く為に急な坂を降りる。用事は此処で終わり、カランカランとあまり響かない扉のベルを鳴らして外に出れば空の青さが目を射す。あまりの光の強さに手で目を守る為の屋根を作った。

 このまま帰るのは勿体ないし、籠りっぱなしの体をもう少し太陽に晒さないと健康にも悪い。……少し散歩をしてから帰ろうかな。


 ――みゅーう、みゅーう


 ふと、カモメの鳴き声が耳に入って来た。

 中央街まで来ると海をグッと近くに感じて、爪先は坂道に自然と背を向ける。


 こうして私はまるで海に誘われるように浜辺にやって来た。

 靴と靴下を脱いで程よい熱さの砂を裸足で踏みしめ、ぶらり、ぶらりと靴を指の先で揺らしながら海水浴を楽しんでいる人たちを通り過ぎていく。

 ふと、足を止めて水平線を眺めた。

 沖には船が出ていて、風に乗って届く喋りなカモメの声は近づいた。


 ザザ、ン……ザザ


 (しばら)く歩いていると人の数が減ってゆき、それを良いことに膝を抱えるようにして砂浜にお尻を付けた。

 お昼のデザートに食べて、と渡された包みに入ったアップルパイを取り出し、大きく齧り付く。

 砂浜の上ならサクサクのパイが落ちるのを気にせずに食べられるなあ。……へへ。

 パイを噛む音は耳の骨に響き、波の音を少しだけ妨げた。


「なあ、あんたが画家?」


 ぼんやりと海を眺めていれば、突然後ろから声を掛けられて思わず驚いた。

 声がする方に顔を向けると、キャスケット帽を被った、未だ頬がリンゴのように赤い癖毛の小さな男の子が私と然程変わらない目線の高さでこちらを見つめていた。


「なあってば。聞こえてる? そのアップルパイ、リーリア姉ちゃんのおばさんのだろ?」


 意外な名前の登場に無言で頷く。


「パイの包み方が独特なんだよね」


 そう言って私が手に持っているアップルパイを指す。

 確かに、彼の言う通りかもしれない。

 奥様が作るアップルパイは、円の半分をクッキーの型か何かでくり抜いて、そのくり抜いた方をそのまま上に重ね、縁を谷折りするように摘まんでリンゴを閉じ込めていた。この包み方を始めて見た時は感心した。

 皿に置いて食べるのは勿論、こうして手に持って食べるにも適した形だった。


「それにタケおじちゃんが母さんに言っていたんだ。おばさんの所にいる人は絵が出来れば出て行くだろうよって。絵を描く職業なんて画家しかいない」


 口を挟まずに男の子の推理めいた話を黙って聞く。

 声変わりもしていない無邪気な声は、カモメの声にも、波の音にも飲まれることなく私の耳に真っ直ぐと届いた。


「あのさ、リーリア姉ちゃんの絵を描くのをやめてくれないかな」


 その理由を催促するようにキラキラの幼い目を見つめる。私の視線の意味に気づいたのか彼は続ける。


「リーリア姉ちゃんはさ、みんなに好かれていたんだよ。僕の家の隣にある青果店にお手伝い来ていてさ、明るいし、優しかったんだ」


 うん、と頷くと男の子は漸く反応を見せた私に安心した顔を見せたのも束の間、彼は眉毛を思い切り下げて悲しそうな顔をした。


「でもさ、本当に急だったから」


 男の子は俯きながらズボンの太もも辺りをギュッと握りしめ、言葉を詰まらせた。

 どうしたのか、そう聞こうと口を開こうとしたが、男の子はふるふると少し震えたあと顔を上げた。その大きな目に涙を浮かべて。


「姉ちゃんが人魚の姿をした絵を頼まれてるんだろ? あのさ、それさ、描くの止めてくれないかな」


 鼻を膨らませて涙を堪える男の子の勢いに、手に持っていたアップルパイを胸に寄せる。


「おばさん、笑ってるけどさ、笑ってるんだけどさ。人魚の姉ちゃんなんて見ちゃったら、会いに行っちゃうんじゃないかって、怖いんだよ」


 ついに涙は耐えることが出来ずにボロリと零れ落ちた。その雫が砂に落ちることなく、彼の胸元の服に染みを一点作った。


「この町の人は死んだら海に還るんだ。おばさん、海に向かって行っちゃったらって、怖いんだ」


 ボロリ、ボロリと零れる涙を必死に手の甲で拭う男の子の姿に心がキシリと軋む。


 今日も空は快晴。少し離れた浜辺からは楽しげな声が、沖の向こうからはカモメの鳴き声が聞こえる。


 世界は何も失っていないような顔をしていた。

 此処から見えるのは、私たちを置き去りにする生き生きとした風景。

 空の青はあまりにも眩しくて、影を作る。


 私の傍に立って泣く男の子の顔にも影が出来ていた。

 わざわざ暗闇を探さなくても、いつだって影はすぐ近くに生まれる。


「そんな絵は描かない」

「……え?」


 手に持っていたアップルパイを軽く包み直し、それを鞄に入れて男の子の未だ柔らかなその手を掴んで目元を拭うのを止めさせた。


「私が描きたいのは、生きる希望になる絵だから」


 すん、すん、と鼻を啜り、手を掴まれたことに多少驚いたのか流れ続ける涙をそのままに彼は目を丸めた。


「生きることを諦めた人が、未だにこのアップルパイを作り続けると思う? 何もかもがどうでも良いなら画家(わたし)なんて呼ばないよ。悲しみに飲まれたら何をするにも気力が出なくなるんだ。何も出来なくなるの。でも、あの人は精一杯毎日を乗り超えてる。そんな人が、諦めてしまうなんて」


 感情が込み上がった様子の子供を見て、勢いよく出た言葉をブレーキを掛けるように止める。

 彼の手を握っていない方の手で鞄をギュッと抱きしめ、少し見上げるように男の子の目を見つめた。


「私に絵を頼んだ理由は……」


 まだ確証は得られていない。だけど、服の裾を掴むような引っ掛かりがあるのだ。


「……姉ちゃん?」


 勢いを(しぼ)ませて黙る私を不思議そうな顔が見ていた。私はその視線に応えようと言葉を選ぶ。


「確かめたいことが、あるんじゃないかと、思うの」


 両手で彼の手を包んで下ろさせる。赤くした目元が痛々しい。

 肌を傷つけないように指の腹で涙の筋を拭いてやった。


「確かめたいことって?」

「それは分からない。分からないから簡単なことじゃないの」


 男の子は分からないよ、と言いたげに首を傾げる。彼の涙を拭った手を薄い肩に乗せる。


「みんなは、奥様も、リーリアさんも大好きなんだね」

「……うん!」


 元気よく頷いた彼を見て、今度は自分の目が熱くなる。

 何もかもが眩しすぎるのだ。



 ――小さい頃から知っている子でね、いつもお疲れ様ですって笑顔で手紙を受取ってくれていたから、いないと寂しいよ。

 それは用事を済ませに寄った郵便局。


 ――これ! 奥さんに持って行ってあげて! リーリアちゃんが好きだった果物なのよ。

 それは通り過ぎようとした青果店。


 ――貴女、リーリアちゃんの所で雇われる画家さんでしょう? これ、珊瑚のブローチあげる。

 ――話は奥さんから聞いているよ。…これを見て、どうか優しい絵を奥さんに描いてあげてよ。

 それは奥様が足を止めて見ていた工芸店。


 何処へ行っても、誰もが奥様を気遣っていた。

 

「奥様は気に掛ける人を放って置いていなくなるような人じゃないと思うの」


 あの人が娘の元に行きたいと思っているのかどうかなんて私には分からない。だけど、どうも違う気がしてならないのだ。娘さんの殆どを語らない彼女は人魚を見て自分の心の中にある突起が何なのか、ただ、確認したいだけなのだと感じた。


「大丈夫、怖いことは起こらない」

「……ほんとう?」


 安心させるようにニコリと笑って見せる。


「私はその為に来たの」


 彼女の壊れてしまいそうな心を励ます為に私は此処にやって来た。


 すっかり涙を引っ込めた男の子に、隣の砂を叩いて座る様に促す。彼は少しだけ私と間を取って素直に座り、泣いていたことが今更ずかしくなったのかキャスケット帽のツバをくい、と下げた。

 私はさっき鞄に仕舞ったアップルパイを取り出して半分に割り、彼に半分を渡す。


「いいの?」

「美味しい物は共有するともっと美味しくなるんだよ」


 食べなさい、と弧を描いた視線で促せば小さく一口齧りついた。それを見届けて水平線に再び視線を戻し、自分の分のアップルパイをサクっと音を立てて一口(かじ)った。

 辺りの音は、さく、さく、とパイを齧る音と、波の音、カモメのお喋りだけになる。 

 

「おいしいね」と言えば「おいしい」と返事が返ってきた。


 知らない人に声を掛けることは、勇気が必要だっただろう。

 私は少年のその勇気と、そして町の人々の優しさと労わる気持ちを決して無下にはしない。




 家に帰ると絵を描く為に作業部屋に(こも)った。途中、夕飯に呼ばれて作業を中断したが、その後挨拶もそこそこに私は再び部屋に戻り、絵を描き続けた。

 

 うんと優しい絵を描こう。リビングに飾られた写真の中の娘さんの笑顔が証明する愛。シナモンが効いたリンゴとパイの甘い香り。娘が大好物だったそのデザートを作り続ける母親。

 

 瞼の裏には、霞むような紅碧色の海が瞬きをする度に現れた。

 ポケットに入れていた珊瑚のブローチを徐に取り出して見つめる。柔らかな紫色の珊瑚をどうやって描いたら人魚の温かさに触れることが出来るのだろうか。

 私達の体温は人魚にとっては熱すぎやしないだろうか。


 ぽろ、と涙が零れる。

 ありがとう、だいすき、あいしてる。絵の中で笑う人は額の外にいる私たちに愛を伝えているのに、絵を見る者の心の隅には暗がりが出来た。絵の中で笑う人を見て、こんなにも早くにいくなんて、悔しかっただろう、と。その暗がりに、どうか蝋燭(ろうそく)の灯り程度でいいから温かな光が届いて欲しい。

 貴方と過ごせた時間は、とても愛おしいのだと知って欲しい。


 再びブローチをポケットに突っ込んで窓の外を見上げる。

 一際大きなお月様は白銀に輝いていて、その光は暗い夜の部屋を明るく照らした。

 月の周りには黄金色の星。手に握る筆の先についた絵の具は星々の光を浴びて、煌めきを授かる。


「漸く、描ける」


 その夜は、星が瞬く度にマレットで鉄琴を叩く音が聴こえてくるようだった。




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