第四話
2023.4/7 文章を見直しました。
独りきりの部屋に、ザッザッザと鉛筆が擦れる音が響いて聞こえる。
美しい絵を描こうとするんじゃない。
自分に言い聞かせるように、ただ只管に手を動かす。
これまでだって美しいものを描こうと思って絵を描いたのではない。描いたものが美しかっただけなのだ。
私が知る人魚伝説は二つ。
一つは、賢くて優しい人魚。
一つは、漁師を海に引きずり溺らせてしまう恐ろしい人魚。
この町の人魚は、与えられた愛には自らも愛を持って人々に恩恵を返してきた。
姿は見せずとも、遥か昔から人魚も、人々もそうしてきたのだ。
だから、信頼を置いて人魚に、……いいや、鱗を持った精霊に先立つ魂を託す。
この美しい町の姿こそが、双方の真実の愛を証明しているのではないだろうか。
それは奥様も例外ではないはず。
では何故私は未だに絵が描けないのだろうか。
それは、奥様が何を想って泣いているのか、分からないからだ。
悲しくて泣いているのだろうと言われてしまえば、それも事実だろう。では、どんな絵を描けば彼女を励ますことが出来るのだろうか。
ただの絵ではいけない。記念品では無いのだから。
私は、この魚の細い骨が喉に刺さっているような違和感を取り除かなければいけない。
作業部屋は日中、ご馳走になったアップルパイの甘い香りが未だ漂っていた。
きっと娘さんの部屋にも甘い香りが住み着いているのだろう。
眠る時だけ借りているその部屋。きっとベッドの中は甘い香りがして寝心地が良いことだろう。
冷たい風が首の裏を通り過ぎ、思わず体を震わせる。海が近い町はどの季節になっても夜が寒い。
そう分かっているのに、精霊の歌声を聴きたくて窓を開け放っていた。
外からは風の音がフルートを奏でるように坂を登ってやって来る。それはまるで、寝静まる赤ん坊を起こしてしまわないように、そっと、そっと、蝋燭を消す程度の小さな風の音。人々の安寧を願う子守唄。
「ララフ、ララフ」
カチャ、と音を立ててカーテンフックが控えめにレースを引き留める。
穏やかな風が、僅かに残った林檎の香りと潮の香りを攫うように、レースカーテンを揺らしていた。
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