第一話
2023.4/6 文章の見直しと、漢数字に直しました。
2022.6/8 作者は絵も描いておりまして、漸く小説家になろう様にて絵を載せる方法を調べたので各章のあとがき部分に挿絵と追記を追加して参ります。ぜひご覧ください。
2022.6/4 ルビの見直しをはじめました。徐々に進めていきます。
赤いナンテンの実を採って川に放り投げる。
小さな実が落ちる音は、清澄な川の流れによって聞こえなかった。
家の脇を通るこの細流は足首までしか深さがないが、随分と長いことで有名な川らしい。
異国を通って流れくる川の旅路とはどんなものだろう。
俺が放り投げた赤い実は、誰かの元に辿り着くのだろうか。
川面は陽に当たるクラックビー玉のようにキラキラと輝き、その光が睫毛の根元にくっついているような気がして目を瞬かせて剥す。
風を辿れば空には野ネズミでも探しているのか、トンビが円を描く様に飛んでいる。鳥の羽ばたきを見ていると肌寒さを思い出して頬が突っ張った。
嗚呼、このまま此処で一日を過ごせたら良かったのに。なんて、ボヤいてみるが、実はこんな事をしている場合ではない。
俺は今日の勉強をすっぽかす気でいた。
しかし残念なことに、此処は誰もが知っている場所。
いつまでも留まっている訳にはいかない。
子供には子供にしか分からない忙しさがあるし、忙しくなくても気分が乗らない時があるもので、一時間くらい、一日くらい勉強をしなくても誰かが困ることはない……なんて開き直っているのだから、自分にはほとほと呆れる。そうとはいえ、やらねばならないことから逃げるなんて一度だってしたことがなかった。
家庭教師の先生は好きだし、勉強が必要な事だって分かっている。
でも、今日はどうしてもやる気が起きないんだ。
最後にもう一度だけナンテンの実を採って川に放り投げたが、水が跳ねる音はやはり聞こえなかった。
さて、どこに行けば誰にも見つからずに時間を潰せるかな。
川に背を向けて歩き出せば今度は少し大きな葉が足に引っかかった。これは庭にあるイチジクの葉だろう。縋り付くように引っ付くそれを少しだけ鬱陶しく思いながら足蹴にすれば、葉はいとも簡単に足を離れて風に乗って飛んでいった。
家に戻り、俺は誰にも見つからない隠れ場所を探した。
自分の家なのに隠れられる場所の一つや二つも思いつかないなんて、これまで随分と真面目にやっていたものだよ。
焦る気持ちを誤魔化す様に、自分に呆れながらも褒めてみたが、こういう時の自分の呼吸音は嫌味なほど耳に入って来た。悪い事をしようとすると途端に感覚が研ぎ澄まされるもので、太陽の光が満遍なく射し込む廊下はいつもより静かだった。
そうだ。西の廊下の突き当りにある部屋はどうだろうか。
俺は早速、思い付いた場所に爪先の向きを翻す。
隠れ場所をウロウロと探し回っている内に誰かに見つかってしまいそうだった。この時の心臓は初めての悪事に酷く緊張していた。
部屋のドアは何処か重たげで、握ると冷たかった。その扉が与える全ての感度が無意識にドアノブを回す事を躊躇させた。
だからこそ、この部屋には誰も来ない。
先生が帰る時間まで、この身を隠れ通す為にはこの扉の向こうに行くしかないんだ、なんて。近寄り難い部屋に入る為に根拠のない自信をつけてみる。握ったドアノブを恐る恐る捻って扉を開ければ、キィとドアの丁番が鳴いた。その不気味な音を聞いて誰かが来てしまうんじゃないかと、いよいよ生きた心地がしなかった。
サッと部屋の中に入り、音が立たないよう慎重に扉を閉める。中に入ってしまえばもうバレないだろう。
俺は漸く安堵のため息を吐いた。
部屋の中は油のような臭いが漂っていて、普段嗅ぎ慣れないその匂いに眉を顰める。腕で鼻を覆い辺りを見渡せば部屋には描きかけのキャンバスがイーゼルに置かれていて、周りには絵を描く為の道具が置いてあった。
この時になって俺はこの部屋が何に使われているか思い出した。
此処は父が画家に貸している部屋だ。他人の仕事道具を無遠慮に触ることは戸惑われ、ましてや絵の具のチューブのような小さな物を踏んでしまわないように、慎重な足取りで歩く。
窓から射す太陽の光に埃が透けてキラキラと飛び回っていて、その光と作業の為に出しっぱなしにされた画材がよく似合っていた。
「……だれ」
床に丸めて置いてあった毛布の塊からモゾりと起き上がる物体を見て思わずギョッとする。静かすぎて人がいるとは思わなかった。
「貴方は……、この屋敷の”息子さん”じゃないですか。こんな場所にいてはお召し物が汚れますよ」
突然の来訪者に起こされ不機嫌そうだった部屋の主は俺の姿を視界に入れると声を和らげた。
彼が父に雇われた画家だ。
そういえば彼がこの家にやって来た時に軽い挨拶をしたきりで、その後は彼の姿を見かけなかったな。と言うのも俺がこの部屋に近寄らなかったのだから当然だろうか。それと自分のことではあるが、俺はどうやら彼という存在をちゃんと認識していなかったようだ。
「勝手に入ったことは謝る、ごめん」
あたふたとする俺を少年はじっと見つめた。まん丸の目が俺を不審に思っている気がして余計に焦る。
「えっと、少しで良いからこの部屋に匿ってくれないかな。その……、邪魔はしないから」
尻すぼみになってしまった事がなんだか恥ずかしくて、床に座っている少年を上目遣いで見るように顔が自信なさげに下がる。思案するように少年の猫目が一回だけ天井を見やり、ゆっくりと瞬きを一つした後、再び俺と視線が合った。
「私は仕事があるので部屋から出ることはできませんよ」
「うん、君を追い出そうなんて思っていない。ただ少し此処に留めてくれるだけで良いんだ」
少年は腕に通していたゴムを使って寝起きでボサボサの髪を乱雑に結び始める。断られてしまうだろうか、とその間の僅かな沈黙に緊張した。集中しないといけない仕事だろうし、幾ら俺がこの家の子供だといっても追い出されるかもしれない。
どうしよう。そうなれば最終手段として、先生に腹痛でも訴えてみようか。……でも、嘘をつくのはなあ。
まあ、サボりなんてどっこいどっこいか。
「いいですよ」
望む返事が直ぐには得られず、出て行かなくてはいけないか、と思ったが、意外にも彼は俺をこの部屋に置いてくれる気になったらしい。
どうして、なんて聞くのは野暮だろう。
「ありがとう」
お礼を言えば画家はフッと小さく鼻から息を漏らし、口角を上げる。それは俺を小馬鹿にしているとかじゃなくて、ふいに笑ってしまったような、そんな反応。小生意気に見えるのは彼が子供だからだろうか。なんて、彼よりも年下な癖にこんなことを考えている俺の方が生意気な子供なのだろう。
「そもそもこの部屋だって、貴方の家のもので、私は借りているだけ。お礼なんて言わなくて良いんですよ」
それを言ってしまえば”多少の失礼”さえもこの家の中であれば許されてしまうのはないだろうか。
そんな曖昧なことをしてはいけない。
他人に適当なことをすれば相手も自分を適当に扱う、と教えてくれたのは母だ。
「それでも今は君の部屋なんだ。例え父さんであっても勝手にしてはいけないんだよ」
「お父様に似て真面目なんですね」
同じ子供なのに偉いねって褒めているような彼の言動に、俺は少しだけ口を尖らせる。少年はそんな俺の様子を面白そうに薄ら笑いを浮かべたまま、律義に先程まで包まっていた毛布を畳んだ。そしてそれを部屋の奥に置くと「コーヒーでも飲みますか?」とこちらを振り向いた。一応でも俺をもてなそうとしていることに驚く。
なんというか、そういうことは気にしないタイプなんだろうな、とこの時の俺は彼を自由奔放な人だと印象付けていた。無意識に彼の人となりを決めつけていたことを恥じた。身勝手に、彼に対して失礼な印象を持とうとしていたのかもしれない。
しかし仕方ないとは思わないだろうか。だって、彼は毛布に包まって道具の真ん中、それに加えて直で床に寝ていたのだから。
「いる」
少年についてあれこれ考えたが、それは一瞬だったと思う。
俺の返答に満足そうに彼は頷いた。
なあんだ、大人びて見えたけどやっぱこの人も俺と変わらない子供なんだ。だってまるで遊びに誘った友人が快諾してくれたような顔をしていたんだから。
「ミルクは多めで良いですか?」
「……君はミルクを入れるのかい?」
「いれますよ。お砂糖も」
彼の返答に眉を顰める。そして無意識に指先を擦り合わせた。
「子供っぽいって笑われないの」
「笑われませんよ」
既に挽いてあるコーヒーの粉をスプーンで測って入れる彼の目は些か真剣だ。
「絵を描くには頭を使いますから甘いものが必要なんです、と言えば余計なことを言ってくる者はいない。そもそも大人はストレートを飲むという考えの方が子供なのでは? と、いうより貴方も、私も、充分に子供じゃないですか」
ここまで一息だった。
大して俺の話を聞いていないんじゃないかと疑ったが、とりこし苦労だったようだ。
「それとも誰かが貴方を笑うんですか?」
片方の頬がヒクリと動く。
彼のその物言いは、今度こそ相手を小馬鹿にしていた。その相手に、俺を指していないことは分かっていたが、くだらないことで人を笑う奴を彼は小馬鹿にしているようだった。その少々強気な態度に、この人は自分の周りにいるようなタイプではないな、と確信した。加えて「で、入れるんですか、入れないんですか」と相手の返答を少しも待てないようなせっかち。このようにせっかちな人も、あまりいない。
「……砂糖もミルクも君のお勧めの量でいいよ」
ちなみに俺を揶揄った奴もストレートのコーヒーは苦手である。
どうしてか俺たちは格好をつけたくなる時があった。まあ、父さんに子供の内からコーヒーを飲みすぎると背が伸びなくなるぞ、なんて言われていたから殆どそのままのコーヒーを飲んだことがないんだけどね。似た色のものならココアの方が断然美味しい。
「承知いたしました」
目の前の少年が周りの大人たちと似た雰囲気で喋るものだから、相手が同じ子供だということに少しだけ違和感を覚えた。
「お湯が沸くまで少しお話しをしましょうか」
部屋の隅に置かれていた椅子を手に持って来た彼に「どうぞ」と座るように催促され、俺はその椅子に座る。
部屋が埃っぽいと気づいているのか少年は窓を少し開けた。風に揺れる薄いレースカーテンが太陽の陽ざしを柔らかく遮る。気味が悪いと思っていた部屋は、存外に他の部屋と変わらず居心地が良いのかもしれない。
油の臭いはコーヒーの匂いが強くなるにつれて気にならなくなっていった。
「気を使わなくていいと言っただろ。この部屋には俺と君の二人だけしかいないんだし。子供同士なんだから上下を見せ付けないでくれよ」
俺を椅子に座らせて少年は床に座るものだから一度掛けた腰を上げる。
そういう気遣いはあまり好きじゃない。
「そちらも気にしないで」
少年は俺の行動をひらりと手の平を振って止めた。
「それに私も言いましたよ。お召し物が汚れるって。絵の具なんて付けたら何処で付けたのかバレてしまいますよ?」
あ、これはまずい。分かりやすく顔を顰めた俺の表情に気づいている筈なのに目の前の少年は続けた。
「そうしたら此処はもう秘密基地にはなりませんね。もしくは誰に絵具を付けられたのかって犯人探しが始まるかも。まあ、そうなれば私に疑いが向けられるのは当たり前の流れですかね」
「分かった、分かったから」
俺の一の行動を見て十以上の言葉を返して来る彼に対して余計なことは言わないようにしようと決意する。
俺が座り直すのをじっと見つめる彼の視線が突き刺さり、俺は降参して再度椅子に座り直した。やっぱりというか、予想通り少年は分かりやすく満足げに笑った。
どうも調子が狂う。変わっているけど、俺といくつも変わらない年齢だっていうのに、既に働いていることは純粋に凄いと思う。親に着いて歩いて手伝いをしているのではなくて、彼はたった一人で仕事をしにこの屋敷にやって来たのだ。
床に座っている彼はキャンバスを見上げた。
彼の視線を辿るようにして俺もキャンバスを見上げる。未だ完成の表情を見せないそれは普段絵を描かない俺には未知の落書きに見えた。
「その、俺が言うのもなんだけど」
「なんです?」
「お湯が沸くまでの間も絵が描きたいんじゃないの」
今更だが、描きかけの絵を見て彼の作業の邪魔をしていることにバツが悪くなった。
俺と違って彼は仕事をしているのに、って。
「いいえ? お湯なんてあっという間に沸いてしまうでしょう? それなのに作業を再開したらまた直ぐに中断しないといけないじゃないですか」
彼は動く気がないのか胡坐を掻いてパタパタと足を動かして見せ、そしてまるで筆を持っているような手つきをして、自分のその手を見つめた。
「一度持った筆は長く手に持っていたいんです」
一度切れた集中力をもう一度取り戻すことは難しい。それに何度も作業を中断すると疲れてしまうものだ。その感覚は俺でも分かる気がした。
「息子さんだって、今日はお勉強に集中できないと思ったから部屋を抜け出して来たのでしょう?」
俺が勉強から逃れる為に隠れ場所を探していたことはバレていたらしい。
「この時間はお勉強されていますよね?」
大体は決められた時間の流れで生きているのだから、俺が此処に来た理由に辿り着くのは、よくよく考えれば簡単なことだったのかもしれない。これは油断ならない相手だな、と思った。しかし、逃げて来たのだと分かっていても追い出されなかったことには心の中で感謝した。
それで、さっきから何なんだ。
その呼び名は。
「その、息子さんって止めてくれないか。俺の名前は、」
「貴方の名前は知っていますよ」
息子さんと呼ばれることに違和感を抱き、改めて名乗ろうとすれば間髪を入れずに遮られた。どうして最後まで言わせてくれないのかと首を傾げ、彼の言葉を待つようにその顔を見つめる。
少年の僅かに伏せた目元に睫毛の影が伸びた。元々癖がついているのか、その長い睫毛の先がツンと上を向いて、陽の光にあてられて透明に輝いていた。
「雇い主の息子さんですもの。でも、名前を使わない関係があっても良いじゃないですか。個の付き合いじゃなくて、関係上の名前で呼ぶのも面白いですよ」
何が面白いのだろうか。
彼の要求はまるで、役を演じていよう、と言っているみたいだ。
芸術職に就く人は感性が豊かで変わっている人が多いのだろうか。……いいや、俺のこの考えは愚かな偏見であり、初対面の彼を決めつける事はあまりにも幼稚なことだ。さっきも同じことを思ったじゃないか。
「それなら俺は君を画家、とでも呼べばいいのかな」
再び視線が交わる。
「私のことは”筆”と呼んでください」
まるで「どうぞよしなに」なんて、流暢に彼は仮の名前を名乗った。
彼の優しげな物言い、小さな仕草、そして油臭い部屋に舞う光り輝く埃が『彼』という存在を不確かに見せる。
「本来の画家はもっと身なりが良くて愛想も良いのですよ。接客業ですから。まして子供が画家なんて、笑われてしまいます」
「自覚はあるんだな」
「そりゃあ……」
アーモンド色の瞳が無垢に輝く。
「筆は画期的です。字を書けるし絵も描ける。筆がこの世に無ければ私たち人類は今も指を使っていたかもしれない。そうなれば指の先の皮はあっという間に剥けて石のように固くなっていたでしょうね。あぁ、枝を使うという手もありますけど、まあそれも不便でしょう。道端のあちらこちらの地面には誰かのメモが残っているのかな。精密な絵は描けないだろうなあ」
あれやこれやと話は独りでに飛躍してゆく。
彼の話はそうかもそれないけど、って気持ちにさせられた。
キャンバスの上では、画家が握る筆が全ての権利を持っていることだろう。その筆を名乗る彼はまさに会話の主導権を握っており、俺は無抵抗に絵の具を塗りたくられる真っ白なキャンバスのように為す術なく、彼の言葉を受け入れるしかできない。
しかし彼は実に優しい人だ。俺のどんなに小さな疑問であろうが適当に流さず、水面に浮かぶナンテンの実を掬い取るように丁寧に相手をしてくれていたのだから。
「ありもしない仮説を立てるのが好きなんです」
ただ、その悪戯げに笑う彼を見て、たまに感じる面倒臭さは確信的だと納得した。
最後までお読みいただきありがとうございます。
私たちは悲しんでいる人になんて言って寄り添う事が出来るのでしょうか。
そっとして置く事が良いのか、「がんばれ」と励ます事が良いのか。悲しみから目を背ける事で自衛する相手に「目を反らすな」と現実を知らしめる事が良いのでしょうか。
そのどれもが正しい筈なのに、どんな形の優しさや思いやりがその人に染み込んでいくのかが分からない。だから寄り添うというのは難しいのだと思います。
言葉選びを間違えれば相手を更に傷つけてしまうかもしれない。だから寄り添いたくても一線引いてしまう。悲しみは当事者だけではなく、まわりにも戸惑いと共に感染していくのかなと思います。
私たちは悲しみと共に生きて、そして悲しむ人に寄り添い続けます。
「辛かったらいつでも言ってね」「頼ってね」なんて伝えられたとしても、実際に「つらい」と言える人がどれ程いるのでしょうか。
私自身、辛い時にその言葉を零したとして「じゃあ(自分は)どうして欲しいんだよ」って、相手を困らせてしまうと思うのです。
しかし、勇気を出して悲しい出来事を伝えた時に泣いてくれた事や「大丈夫?」と何度も声を掛けてくれた事はいつまでも覚えています。
悲しい時、指先が凍えるように心は寒い。余裕がない人は「当事者にしか悲しさなんて分からないでしょ」って思うかもしれません。でも、泣いてくれた人は話してくれた人の気持ちを想って涙したのだと思うのです。それに気づけた時、思い出す度に胸が温かくなります。これが「貴方(の言葉)に救われた」というものなのかな、と。
この連載小説は、寄り添いたくでも上手に出来ず、「つらい」と零したくても頼れなかった人々の気持ちを主人公の”筆”と共に掬う旅のお話です。
私が作る世界のお話ですから都合が良い事があると思いますが、少しでも胸に抱える重たいものを下ろせる言葉と出会っていただけたら幸いに存じます。