その4
「10年ぶり、いや、それ以上になるんだな」
すすけた低い天井を見上げて、良平が呟いた。
額に汗がふつふつ沸いて、首筋までびっしょりである。
生田の家の中は、山陰だというのにひどく暑かった。
すり切れた畳の上に、生暖かい冬用のカーペットが敷ききりになっていて、家全体がムッと汗臭く、湿っぽかった。
網戸のない木枠の窓は開け放されており、眼で見ても気になるくらいたくさんの薮蚊が飛び交っていた。
角の丸くなった卓袱台に俊幸が持って来てくれたのは、既にぬるくなった缶コーヒーだった。
「こんなものしかないんだ。 悪いな」
照れたように言う俊幸の体からも、きつい汗の臭いがしていた。
亜紀子が、ついはっきりと眉をひそめて体を固くしたのがわかった。
「人が住んでいるように見えなかったから、お前はよそへ移ったのかと思ったよ。
もうちょっとなんとかしろよ、この家も」
良平の無遠慮な言葉にも、俊幸は曖昧にうなずいただけだった。 良平もこの時はそれを不自然と思わなかった。
「この様子じゃ、嫁さんはまだだな。 仕事はどうしてるんだ?」
「先月の終わりにやめたばかりなんだ、いろいろあって」
「次の当てはあるのか」
「いや」
「それじゃ困るだろう。 お袋さんはどうしてるんだ?」
「入院したよ」
「悪いのか」
「病気の方は相変わらずさ。 ただ、家では食事をしないんで、体に悪いと思って病院に入れたんだよ」
「食事をしない?」
「正確には、ここの水を飲もうとしないんで、食べても消化しないんだ。
親父がここの湧き水を馬鹿に気に入っててね。 帰って来ると飲みたがるんで、そのへんの反動もあるんだろうな。 お袋は絶対にここの水を飲まないんだ」
亜紀子がちらりと良平に目配せをした。
ここの湧き水と言えば、あの土蛙の井戸水だ。 缶コーヒーでよかったね、とでも言ったつもりだろう。
俊幸は感動のない表情で、ぬるい缶を口に運んでいる。
「じゃあ、ずっとここはお前一人なのか」
「ああ」
父親はよく戻ってくるのか、と聞くところを、亜紀子の手前遠慮してすり替えた質問だった。
それを受け流してしまわれると、良平にはもう話の種がなかった。
相手がこちらの様子を少しも尋ねないので、話す意欲を失ったせいもあった。
そう言えば、俊彦は亜紀子のことを全く無視している。 缶コーヒーを出さなかったら、見えていないのかと思っただろう。
忘れてしまったならそれなりに、例えば「お前の彼女か」などというフレーズがあっても良さそうなものだ。
亜紀子の方も、居心地悪そうにもぞもぞしていたが、やがてヒョイと立ち上がった。
「すみません、お手洗い借りられます?」
「ああ、どうぞ」
亜紀子はさっさと廊下に出て行った。
兄にくっついて何度も来ている家なので、迷う気遣いはない。 残された良平の方が、気詰まりで不安を覚えた。
「あいつ、何気取ってんだろうね」
場つなぎに言って無理に笑ったが、俊幸の反応はない。
家に上がりこんだこと自体、迷惑だったのかもしれない。 亜紀子が帰って来たら、早めに退散しようと思った。
「それにしても、仕事が無いんじゃ困るだろう。 どこか当たってみてやろうか?」
「いや、いいんだ」
俊幸が静かに言った。
「家に金があると心配なんで辞めたんだ。 金はあるだけ頭痛の種さ」
「止せよ、無いで済むもんじゃないだろう」
良平は顔をしかめた。
「そうか、親父さんが持ってっちまうのか。 相変わらずあの調子か?」
「いい大人になってから変わらなかったのに、頑固爺いになってから変わるわけはないだろ」
「だけど、親父さんだってもういい歳だろうに」
「それを言うなら、俺だってでかくなったんだからな。 本気でやりあえば、親父をのしちまうこともできるさ。
ただ、帰って来るたびに、金寄越せイヤだと言い争ってるのにもうんざりしてね。
さすがに退職金が入った時は、親父に取られるのがイヤで、お袋とふたりで庭に埋めちまったよ」
「入院費は足りてるのか」
「国から援助金が出る。 お袋が家のことを馬鹿に気にするから、失業保険が出る間は家にいてやろうと思うんだ」
奇妙な思いで、良平は黙り込んだ。
年月の流れがこの家にはない。
良平の方は結婚して子供ができ、小学校の頃の生活からすると全く違った暮らしをしている。
ところがこの生田家では、息子が成人したにもかかわらず、昔と同じに国の保障に頼って父親は好き勝手をやり、俊幸ひとりが家を守ってただ不安がっている。
家庭が整わないということは、時間が流れないということなのか。
夕べの電話で聞いた多佳子の不機嫌な声が、ふと蘇って来た。
明日あたり、子供の顔を見に行ってやろうかと思う。 何も出来ないが、食事の足しになる差し入れでも持って行って、子守の真似事でもしておこうかという気になって来たのだった。
そんなことを考えていると、廊下の向こうに亜紀子が現れて、無言でそっと兄を手招いた。
「なんだ? どうしたんだ?」
亜紀子は答えず、今来た方向を指差してしきりに手招きしてみせる。
顔色がひどく悪いのが気になった。
「悪いがちょっと失礼。 財布でも落としたんだろう」
俊幸にそう言い置いて、良平は廊下に出た。
「何やってるんだよ」
「いいから、ちょっと来て」
亜紀子は低い声で囁いて、良平の手をぐいぐい引いた。
家は古い構造だ。 短い廊下を突っ切って濡れ縁に出ると、家屋の外側に張り出した形で、右に便所、左に風呂場がある。
そこまで来ると突然、猛烈な臭気に包まれ、良平は立ちすくんだ。
生ものが腐るような、膿のような、ドブ泥のような、そのどれもが当てはまるほどのムッとする悪臭だった。
開け放しの濡れ縁の上だと言うのに、それは濃厚にわだかまって空気を濁らせていた。
「なんなんだ、この臭いは」
鼻を手のひらで覆った良平を、亜紀子が後ろから強引に押し、左の風呂場に向かわせた。 その亜紀子も、ハンカチでしっかりと鼻と口を押さえている。
風呂場の木戸を恐る恐る開くと、悪臭が数十倍の濃度でどっと押し寄せてきた。
狭い脱衣場に、さっき俊幸が持っていた泥まみれのバケツが転がしてある。
足でそれをどけ、浴室の引き戸を開く。
瞬間、良平の目を射たのは、こちらをにらむ目玉だった。
それらはバスタブの中から、鈍く光りながら良平を見ていた。
蛙だ。
数十匹、数百匹の土蛙が、バスタブの濁り水の中にぎっしりと鼻先を並べて動かずにいる。
いつか井戸の中にいた、異様に体の大きいイボガエルであった。 彼らは無表情に、まばたきのできない眼をじっと凝らしている。
バスタブの中の水は、見ただけで半分腐っていることがわかる色だった。
蛙の粘液と沼の泥がホーローの白い淵にこびりついて乾いている。
水の中には、白い腹を見せて浮いている蛙も数匹いて、悪臭の元は主にそれらの死体であるようだった。
排水口近くのタイルの上に、赤い洗面器が置いてあった。
その中に山盛りに入っているものを見て、良平は危うく吐きそうになった。
切り取った蛙の手足が、山になって入っていたのである。
下の方の手足はもう腐っているのだろう、溶けて液体を生じ、そこからも凄まじい腐臭が昇っていた。
それらを切り取る時に使ったのであろうカミソリが、同じ洗面器の中に投げてあった。
「この辺の蛙は、奇形が多いんだ」
不意に、背後から俊幸の声がした。
彼はいつの間にか脱衣場の入口に立って、良平たちの様子を見ていたのだった。
その顔はさっきと同じように無表情で、どこか投げやりだった。
「奇形と言っても、大したことじゃない。 手や足が1本や2本、多く生えてるだけだ。
切り落としてやれば、普通の蛙と変わらなくなるんだ」
良平は遠い昔に釣り上げた、5本足の蛙を思い出していた。
「最初にこれに気付いたのはお袋さ。
ある日、どこかの悪童が井戸の蓋を外して逃げたもんでね。
中を覗いたお袋は、手足の多い蛙がうようよいるのを発見して、自分では絶対に水を飲まなくなったんだ。 呪われた水だと言ってね。
もちろん僕にも飲まそうとしなかった。 もっとも、あの井戸を見た後じゃ、飲もうって気にもならなかったけどね」
亜紀子がいきなりウッとうめいて、両手で口を覆うと外へ飛び出して行った。
良平もさっきから、こみ上げる吐き気を抑えるのに必死だった。
次話で最終となります。ラストまでどうぞよろしく。




