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その3

 生田俊幸の父親は、道楽者だった。

 仕事をしないばかりか、家に戻るたびに根こそぎ有り金をさらって行き、そのまま何ヶ月も行方をくらました。

 一人息子の俊幸が、新聞配達で稼いだ金を自宅に置きたがらず、学校の机の裏側にテープで貼り付けていたのを、良平は知っている。


 母親は若く美人だが、分裂症気味の女だった。

 妻がおかしくなったので夫が家に寄り付かないのか、夫がつれないので妻がおかしくなったのか、それとも相互の影響はなく起こったことか。

 正確なことは知る由もなかったが、生田夫人の奇妙な行動を、近所で知らないものはいなかった。


 夜中にスリップ一枚で畑をぶらついていた。

 他人の庭に入り込んで、丁寧に穴を掘って何かを植えていた。

 朝、路上で座り込んでいたから注意したら、逆に怒鳴りつけられた。

 浴衣の下にゴム長靴を履いて、盆踊りに現れた‥‥。

 噂が人の口に上るたび、息子の俊幸が級友たちの非難を浴びた。

 教室の隅や、下校途中の道端で、10人近くの子供が一人の子供を囲んで何か言い募っているのを見かけると、中央にいるのは大抵俊幸だった。

 彼はいつも一言も反発せず、相手の目から視線を外し、静かに嵐が過ぎるのを待っていた。

 大人びた印象のある、ものの解った生真面目な少年だった。

 朝夕の新聞配達で日焼けした顔は、母親によく似て小作りに整っていた。

 それだけに、捨てられた猫のような視線を地面に落として黙り込む姿が、級友たちのいらだちを誘ったのかも知れない。


 良平にとって、俊幸との想い出は沈黙の記憶だった。

 家に遊びに行っても、他の友達とするような、無邪気すぎる馬鹿騒ぎはしなかった。

 宿題をいっしょにやったり、家の屋根裏を探索したりしても、俊幸は静かだった。


 この友人は夕方になると、隣家から大人用の大きすぎる自転車を借り、新聞の配達に出かける。

 良平も何度か一緒に行き、配るのを手伝った。

 その仕事が生田家の、生活保護以外の唯一の収入と気付いたのは、小学校も高学年になってからである。

 

 俊幸にとっての最大の脅威は、父親の帰宅であった。

 「金が入ったら、ありったけ使って、魚肉ソーセージを買うんだ」

 良平にそう語ったことがあった。

 図工の材料費が払えなくて学校を休んだ俊幸に、良平が休給食のパンを届けた日のことだった。

 「魚肉ソーセージなら、電気が止まっても腐らないんだ。

  ガスも水道もなくても食えるんだ。

  現金を置いとくと父ちゃんが持ち出してしまうから、もらったその日に使ってしまうんだよ」

 「お前、たいへんだな」

 良平は心から言った。実際、友人の大変さが本当に理解できたのは、この時が始めてであったろう。

 

 彼はこれから毎日、来る日も来る日も魚肉ソーセージばかりを食べて暮らすのか。

 そう思うと、夕方には当たり前のように食卓に料理が並ぶ家庭に住む自分が、ひどく甘えた人間になったような気がした。

 同情する気持ちさえ、贅沢な欺瞞に思えた。


 ふたりはよく、魚肉ソーセージの赤セロファンを眼に当てて遊んだ。

 そうして見る景色は、赤く染まって薄暗く、まるでまだ行ったことのない異世界の風景のように思えた。

 アフリカのサバンナに沈む夕日を見た。

 宇宙の彼方、年老いた惑星に広がる空を見た。

 優しい地面。くすんだ古い写真のような互いの顔。

 思い思いの空想にふけりながら、黙りこくってセロファンを眼に当てていたものだった。


 俊幸が泣いたのを、一度だけ見た。

 古い木造校舎の教室の中だった。

 ひんやりと日の差さない薄暗い教室で、36人の生徒が全員、おのおのの机の上で正座させられていた。

 誰もが眼を閉じて首を垂れ、身動きさえ自制して冷たい汗を流していた。

 小学校5年生の時の事だ。

 さび付いた歯車のように、時間はきしみながら流れていた。

 自分の息の音が耳障りで、良平は何度もそっと息を止めてみた。


 「言わなきゃ解らん歳じゃないはずだ」

 担任の教師が、重く静かに言った。

 「自分がどうすればよかったか、言われなくても解るだろう。  

  生田をからかった者。

  それを見て見ぬフリをした者。 

  一緒に笑った者。

  クラス全員が、あれほど醜い顔をしているのを、先生は始めて見た。

  自分がどんな顔であの場にいたのか、今思い出してみろ」


 良平はこの教師が好きだった。

 落着きがなく、よく指示を聞き逃す良平を、『耳ザルほーいち!』と呼んで明るくたしなめる、陽気な教師だった。


 その日の朝、俊幸は給食費が払えなくて、その教師に立て替えて貰ったのだ。

 それを知った数人の級友が、俊幸の貧乏をテーマにした替え歌を歌いながら、金属バケツを位置鳴らして廊下を練り歩いた。

 俊幸はいつもするように、机に向かったまま背中でそれを聞いていた。


 教師は正座した一同に、生田の生活の大変さと彼の新聞配達について話した。

 そのあと、替え歌を歌った悪童達の名前を次々と呼んだ。

 「お前たち、生田に何か言う事はないのか」

 悪童達は唇を噛み、しばらく言いよどんだのち、口々に謝罪した。

 「笑って見ていた他のみんなはどうだ」

 他の生徒の名を一人ずつ呼ぶと、それぞれの口から謝罪の言葉があふれ出た。

 名を呼ばれない者も、ひとりまたひとりと自分から同調した。


 突然、生田俊幸が大声で泣き出した。

 教室に響き渡るような悲痛な声だった。

 彼が泣くのを見たものは、それまでにいなかっただろう。全員が眼を開けて振り返った。

 俊幸は机を抱えて泣いていた。

 謝って貰えて嬉しいのだ、とは誰も思わなかった。

 先生の優しさに感動したのだとも、とても思えなかった。


 その日、一番深く俊幸を傷つけたのは、この教師ではなかったかと、今も良平は思っている。


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