その2
「あれはほんとに怖かったわよ。
あれ以来、山姥の昔話を聞く度に、生田のおばさんの顔が浮かんでね。
家の前を通るのも、おっかなびっくりで」
「俺はゴジラとウルトラマンだな。
怪獣に追われて逃げ回る人が映るじゃないか。
ああ、あのときの俺も、あんな顔して走ったかなって」
答えて笑いながら、良平はふと心の中で首をかしげた。
ごく最近、同じ話を誰かにしたような気がする。
誰だったろう?
当たり前に出てきそうな記憶が出て来ない。
奇妙な感覚だった。
蝉時雨に耳を傾けていた亜紀子が、不意に口調を変えて言った。
「知ってる?生田のおばさんがああなったのは、産後に無理をして高熱を出したからじゃないかって」
良平は驚いて、妹の顔を見た。
「誰が言ったんだ?」
「うちの母さん。 あそこは一人っ子だから、お兄ちゃんの同級生の俊幸君が生まれた時の話でしょうね。
退院してすぐ、ほら、あのおじさんだから、待てなかったみたいなのよね。
家のこととかさ。それからあの、夜のほうも」
「退院してすぐ?」
「ですって」
「無茶苦茶だな。ホントだったらの話だけど」
そこまで内輪の話がまことしやかに外部に流れること自体、眉唾臭いと良平は思うが、亜紀子はどうやら信じているようだ。
「お兄ちゃんとこに赤ちゃんできたって聞いた時に、母さんがそんな話を出して来たのよ。
だから産後は大事にしなきゃならないのよって。
実家に帰してあげるのは当たり前よって。
文句言ったり、恩に着せたりするのは見苦しいって」
「それ、俺のこと言ってんのか?
誰もそんな文句言ってやしないじゃないか」
「言ってたわよ、ぶうぶう言ってた。
実家が遠いからって、生まれる前に帰るのは水増しだとか、俺のが近いんだから、そっちを頼るべきだとか」
「それそれで違う話だろ」
「どうだかねえ。
ホントはお兄ちゃんも、我慢できないクチなんじゃないの?」
生意気に唇を尖らした亜紀子の頭を軽くはたいて、良平ははっとした。
思い出した。 多佳子だ。
妊娠八ヶ月を数える頃、妻に蛙釣りの話をしたことがあった。
棍棒で追われたことも、その時話したのだ。
失敗だった。
「指を数える夢ばかり見るのよ」
朝の食卓で、妻の多佳子は寝不足の理由をそう説明した。
良平は生返事をしながら、妻が無意識に撫でさすっている大きな腹の辺りを見ていた。
細面の顔の下で膨れ上がった丸い腹は、首から砂袋を下げた案山子のようで、毎日見ているのに違和感が消えない。
「生まれましたよって、枕元に抱かれて来た赤ちゃんを見る夢よ。
抱き上げてよく見ると、指がね。 手の指が一本多いような気がするの。
ドキッとして確かめようとするんだけど、掌をぎゅっと握っててよく見えないの」
「ふうん」
「無理にこじ開けようとすると泣き出して、看護婦さんが怒ったような顔で連れてってしまうのよね」
なんとか確かめなくては、と思いながら目が覚めると、気分が悪くて眠れなくなるのだと、多佳子は溜め息をついた。
新聞を片目で読む良平の頭の隅で、その時、例の生田夫人の記憶が再生されていた。
一本多い、という言葉と、多佳子の丸い腹が、白く太った5本足のカエルを連想させたのかも知れなかった。
「ただでさえ、お腹が重くて眠れないのよ。
何か寝つきをよくする方法ないかしら。
ねえ、聞いてるの?」
「うん? うーん。
カエルなら大歓迎だったんだがねえ。
我が子となると、一本多いのはちょっと困るな」
良平はとんちんかんな返事をした。
いつものことで、妻の話は彼のBGMである。
妻ももう慣れっこになっていて、話が噛みあわない時は舌打ち一つで諦めるのだが、この朝は違った。
「なんなの、それは」
「うん‥‥」
「カエルって何のことなのよ、ねえ」
多佳子が新聞を引っ張ったので、良平はしぶしぶ顔を上げた。
新聞の陰から現れた妻の顔は、明らかに不機嫌で怒気さえ含んでいるように見えた。
「カエルって何のことなのよ」
妻は詰め寄って来た。
「いや悪い。 カエルと子供を一緒にしちゃいけなかったな。
ただちょっと、思い出して言っちゃったんだよ」
「何を思い出したのよ」
「だから‥‥5本足のカエルさ。 小学生の時に見つけたんだ。
カエル釣りって、知ってるか?」
多佳子の腹立ちをなんとか逸らそうと、良平は努めて詳細に、ため池のほとりでの出来事を語ったのだ。
妻は無表情に聞いていたが、話が終ると、わざとらしく大きなため息をついた。
「それで?」
低い声で聞いて来る。
「それでって、ま、それだけだ。
ただなんとなく思い出して言っただけなんだよ」
良平は弁解がましく言った。妻がもう一度ため息をついた。
「あなた、私が怒ってるのは、カエルと我が子を比べたせいだと思ってるのね」
「違うのか」
「違うわよ。 あなた、さっきなんて言った?
カエルはいいけど、子供の一本多いのは困るって言ったじゃない。
言ったわよね、『困る』って!」
「だって、本当に困るだろう?」
良平には、妻の言うことがわからない。
「困るわよ、当たり前じゃない。 誰が一番不安だと思ってるの?
あなた、わたしが何故、毎晩あんな夢を見ると思ってるのよ」
ヒステリックに言い放った妻に、良平は返す言葉を失っていた。
「買ってきた品物を大事にするように子供を可愛がればいいと、あなたは思ってる。
私一人にまかせっきりで、自分が父親になる努力はしないつもりなんだわ」
震えながら、多佳子は悔し涙を浮かべた。
5ヶ月に入った頃だろうか。
子供の胎動を感じ始めた妻と、良平との会話が、少しずつ食い違ってきた。
良平にとっては不本意な展開ばかりが続いた。
思いがけないことで、突然妻の怒りを招いてしまう。
妻は一人でずんずん母親に進化してしまい、夫の歩みが遅いことを、振り返ってはなじるのだ。
(子供、子供と、今から目の色変えやがって)
良平は思う。まずかったと気付くのは、いつも妻が怒って口をきかなくなった後である。
(仕方ないじゃないか。俺が生むわけにはいかないんだ)
日増しに大きく膨れ上がる多佳子の腹が、どう見ても不気味に見える。
その中の命を今から愛せと言われても、どうしていいのかわからない。
妻のいらだちが、良平にはうっとおしかった。
昨晩、妻の実家に電話をかけたときも、ベルの音で子供が泣き出したと言って、多佳子は不機嫌だった。
「首が据わるまでは忙しいのよ」
「産後一ヶ月は安静にしなきゃ」
ふたつの言葉が織り成す矛盾の中に、夫婦ふたりの生活は切り捨てられて行く。
「しょうがないじゃん。 母親が子供をかばうのは本能的なものよ。
動物だって産後は父親であるオスを拒むし、オスが近づいたら警戒して噛み付くメスもいるわ。
女子供は結託するように出来てるの。
お兄ちゃんもさ、あんまり我がままばっか言ってると、バッサリ切り捨てられちゃうわよ」
亜紀子に言われるまでもなく、良平は自分が生田の父親と同族であることに気付いている。
取り残された思いがつらくて、実家に転げ込んでしまうところは、気弱な分だけ生田家よりも情けない。
赤土臭い風が、髪を巻き上げた。
シダの草むらが重くざわめく。
「わあっ、涼しい!」
亜紀子が気持ち良さそうに、風の中で首を振った。
その時、ため池の対岸を、ひょいと人影が過ぎった気がした。
思わず背伸びして、雑草の隙間からのぞき見る。
ぼさぼさの髪をして、薄汚れたTシャツを着込んだ若い男だった。
片手に青いポリバケツを下げている。
「生田! おい、生田だろう!?」
良平の声に、無精ひげの顔が振り返った。




