その1
山かげに入ると、耳いっぱいの蝉時雨だった。
真夏の一番暑い時期だというのに、その辺りはひんやりしていて、赤土と、木のヤニと、湿った草の臭いがした。
蝉の鳴き声は頭をジンと痺れさせ、一瞬、呼吸も忘れたほどだった。
良平は、額の汗をぬぐった。
少し離れたところで妹の亜紀子が、チューリップハットを取って、団扇代わりに顔を扇いでいる。
山の終わりが急な崖になって、落ち込んだ形のその場所は、バス停から歩いて20分も坂を上がったところにある良平たちの家よりも、更に10分ばかり登った高台にある。
にもかかわらず、日当たりはひどく悪く、地面はぶよぶよして、原始を思わせるシダ類のあれこれが群生していた。
3キロばかり都心寄りに新しく出来た新興住宅の町並みが、ここからなら眺められると母が言うので、田んぼ道を歩いてきたのである。
亜紀子は大学の夏休み。
良平は会社を盆の休暇で休んだものの、妻が出産したばかりで福岡に里帰りしており、互いに暇を持て余していたのだった。
対面の山の斜面に、オモチャのようにかっちり並んだ小さな町並みは、白くて綺麗な外観はともかく、遠くから見ると、何もあんな所にまで、と思えて、少々みじめな代物であった。
「こうなると、店がないのってこの辺だけねえ」
豆粒ほどの家屋がばら撒かれた、周辺の山々を見渡して、亜紀子がしみじみと感想を述べた。
確かに、1キロ四方に雑貨屋さえ見当たらない、農家ばかりの地域はこの辺りだけだったし、道の舗装もない、トラックさえ入れないという地域も、この周辺だけのようだ。
良平たちの背後には、崖面に寄り添うような形で、小屋1軒分ほどの大きさのため池が、濁った水をたたえていた。
その向こうに一軒の、すすけた木造のたたずまいが見える。
ため池の淵に生い茂る丈の高い草に半分隠されたその家は、甲虫の死骸のように乾いて沈み込み、人の住んでいる印象は乏しかった。
生田という姓の、良平の同級生の家であった。
家が地区内なので、小学校時代は一緒に遊びもしたが、中学後半で生田が学校に来なくなり、それ以来、顔を合わせてもいない。
家庭環境が複雑なためもあって、友人の少ない少年だったから、仲間内で消息を聞くこともなかったのだった。
「ね。 おにいちゃん、ここ。
覚えてる?」
亜紀子が意味ありげに笑って尋ねて来た。
「カエル釣りだろ」
良平が答えた。
場所を言うだけで、なんのことかわかる話だった。
カエル釣り、というのは、黒い糸の先を玉結びにして、それをカエルの鼻先にぶら下げ、食いつかせて釣る遊びである。
虫と間違えて一旦咥え込んでしまうと、舌が絡んでいるせいかなかなか離さないので、いとも簡単にカエルを生け捕ることが出来た。
子供たちは、釣ったカエルにかけっこをさせたり、高飛びを競わせたりして遊ぶ。
主に男の子の遊びだが、お兄ちゃん子の亜紀子は、良平にくっついてよくこのカエル釣りに参加した。
夏の終わりだった。
麦わらをかぶって、日焼けした顔に玉の汗を並べ、小学生の良平と亜紀子は、あちこちの池や湿地を歩き回った。
良平の手には、先を結んだ黒い穴糸。
亜紀子はガサガサと音のする菓子箱を、両手で捧げ持っていた。
箱の上蓋に小豆色で印刷された、千鳥格子の模様まで、ふたりは鮮明に覚えている。
トノサマガエル、ガマガエルと、大型のカエルを求めてさまよい、最後にこの湿地にやって来た。
火照った体に、冷たく湿った草の風が心地よかった。
ため池の反対側に、やはり山肌にくっつくように、大人の頭くらいの大きさの、草で覆われた穴が開いていた。
そこに、澄んだ水がなみなみと湧いている。
水面には、馬鹿でかい土蛙が何十匹も、びっしり鼻面を並べていた。
土蛙は、肌にこげ茶色の醜いイボが並んでいるため、子供たちから“イボガエル”と呼ばれて気味悪がられていた。
普段なら捕まえようとは思わないのだが、そこのカエルのあまりの巨大さに、つい釣ってみたくなったのだった。
灰色のスチールパイプが、水の深みに見え隠れしているところから、この穴は井戸であり、近くの家屋に通じているだろうことは、子供にも想像がついた。
それにしては、おびただしい数のカエルで、この水を飲料にしている家があるとしたら、家人の誰もこの井戸を覗いた事がないに違いなかった。
糸を垂らすと、土蛙は面白いように釣れた。
釣った蛙を糸でぶら下げて、箱の蓋を開ける。
新しいカエルを入れた途端、箱の中にいたカエルが一斉に逃亡を開始する。
これを防ぐのが亜紀子の役目だったが、イボガエルに触れると手にイボができると言って、少女は仕事を放棄した。
やむなく良平が二役をやり、草の上を逃げ回るカエルを追って、どちらが両生類かわからない恰好で這いつくばった。
兄にののしられて半ベソをかきながら、亜紀子は笑った。
3匹めのカエルが、白い腹を見せて釣り上げられた時、ふたりはあっと声を上げた。
「手が3本ある!!」
それは、奇形のカエルだった。
左の前足の付け根から、ひしゃげたような短い足が、もう一本生えている。
合計5本の足を持つそのカエルは、体つきもどこかいびつで、そして異様に太っていた。
「すっごい」
「すっげーな」
興奮に息を弾ませて、5本足の土蛙を箱に収める。
今度ばかりは、亜紀子も文句なく手伝った。
「家で飼おうか」
「うん、飼おう」
「5本足だもんな」
顔を見合わせてうなずきあった。
その時である。
背後の草がザザッと鳴って、いきなり、太い棍棒を振りかざした女が、葦草の中から駆け出して来た。
生田夫人であった。
「それはうちの井戸だよ!
何を悪さするか、この悪たれぁ!!」
女は悲鳴のように叫んで、やにわに棒で打ちかかって来た。
ふたりの子供は飛び上がって逃げ出した。
亜紀子の両手から菓子箱が叩き落された。
蓋が開いて、いくつもの生き物が草の上に落ちる気配があった。
実際に眼で見る余裕は、無論ない。
良平はここで感心にも、妹を見捨てなかった。
すくみ上がる亜紀子の腕をつかみ、横っ飛びに引きずったのだ。
亜紀子は女の振り下ろす第2撃を逃れ、兄に手を引かれてあとも見ずに駆け出した。
逃げる兄妹を、女は本気で追ってきた。
棍棒を振り回し、大声で怒鳴りながらどこまでも追いかけて来た。
背後の草の上を、自分達より大股の下駄の音と、裂くような衣擦れの音、猛り狂う息遣いが追って来るのを、背中全体で感じた。
振り向く暇もなく、泣くのも叫ぶのも忘れて、ただ全力で走った。
女が、イタズラを止めることでなく、自分達を殴るのを目的に走っていることに気付くのに、さして時間はかからなかった。
何もかも忘れ果てて逃げた。
坂道を転がり、草地を横切る。
畑を踏み越える。あぜ道を飛び越える。
橋を渡り、川の堤を降り、もうダメだと思ってから、更に砂利道を走りきった。
そこでようやく、追跡者の足音は遠ざかった。
ふたりはがくがくと膝を鳴らして河原にへたり込み、不足した酸素を必死に吸い続けた。
見上げた空が、あっけらかんと青かった。
少し呼吸が落ち着くと、気の緩みから亜紀子が泣き始めた。
菓子箱を叩き落された時の衝撃で、今さらのように両手が痛んで来る。
本当に痛むのはもっと別の何かだったが、口ではとにかく「手が痛い」と言って泣いた。
「生田のくそばばあ、小便ばばあ。
イボガエルの小便飲むから、頭がイカれたに違いねえ。」
「頭の中にイボができたんだね!」
「そうだ、脳みそイボイボばばあだ」
悔し紛れに、ふたりは思い切り悪態をついた。




