転生
夕暮れ、駅前の雑踏をローヒールで走る。腕時計を確認し、歩を緩めて息を整える。
これから電車に乗って30分、降りたら駅前のスーパーで特売のカレールーと鶏肉を買い+5分、自宅の冷蔵庫に入れ+10分、自転車に乗って幼稚園に+3分、保育園に迎えに――よし、間に合う。
ピッと改札に入り、普段よりも多い人々の緩やかな波に乗って歩く。時刻を確認した電光掲示板に表示されていたのは、運行再開。
ホームは久々に見る混雑具合。今到着した電車に押し込んだ人数からしてあと2本は先になるだろう。駅前のスーパーに寄る時間はなくなった。どうしよう、遅刻の電話を一応入れて、2人を拾った後あっちのスーパーか。ああ、ネットニュースで見た高級カレールー買ってやる。
走り着いたアパートの駐輪場で、シティサイクルの籠にバッグを入れて跨ると、その並びに黄緑色のクロスバイクを見つけた。
「なんでいるの!?」
「おかえりー」
リビング兼ダイニングルームで夫と長男長女に迎えられ「ただいま」と返す。
「え、しかも何か作ってるの」
「炒飯! ちょうどご飯炊けてたし、もう腹減ったからさ。冷蔵庫の中、卵と野菜だけだったから。何か買ってきた?」
「いや………………ありがとう」
連絡してほしかった。え? 私今日はどうしてもカレーの気分だったんだけど、この気持ちはどうすればいいの? ていうか炊きたてご飯で炒飯? まあ食材的には炒飯かオムライスくらいのレパートリーだろうけど……、えええええ、相談してよ――――!
「ごちそうさま。私ちょっと買い物行ってきてもいい?」
「はいよー」
胃袋が膨れても満たされない。諦めきれないカレー欲。スーパーでカレールーを買って、今から作るのはちょっとあれだから、惣菜コーナーで値引きになってるといいんだけど。
自転車に跨り夜の道を走り出す。
「……!?」
気付いたら松明を持った数人に見下されていた。
「よかった。生きてたか」
驚いて周りを見回すと、木、木、木。手には草と土の感触。
「大丈夫か? 怪我ねえか?」
「どうしたこんなところで。悪党にでも捨てて行かれたか」
え、なにこれ。どこここ。全く状況がわからない。
「ああ、よほど大変な目にあったんだろう。無理しなくていい」
「俺たちシルポダに向かってる隊商なんだ。今日はここで野宿だが、明日には街に行けるよ」
何も話せずにいると、彼らは「ついて来なよ」と松明を揺らす。知らない男達についていくことに抵抗を感じたが、街灯のひとつもない真っ暗闇に取り残される恐怖がすぐに襲ってきた。
案内された場所はたき火をしているキャンプだった。大きな木製の荷車には沢山の麻袋のようなものが積んである。
「ちょうどスープを作ってたんだ。食いな」
差し出された椀を受け取る。彼らはにっこりと笑って食前の祈りをした。お腹は空いていなかったけれど、両手に伝わる温かさと、煮えた野菜の匂いが、混乱しきった私に安心をくれた。
「ありがと……ございます。いただきます」
湯気が立ち上るそれにふうふう息をかけ、少しすする。――美味しくない。味が薄いし土臭い。何だろうこの野菜。じゃがいもと、人参と玉葱? ああ、あの鍋にあれを入れたらきっと美味しいのに……。
――ボチャンッ
「うわっ、何か降ってきた」
「鍋の中に入ったぞ! 俺まだ食ってねえってのに、毒虫じゃないだろうな」
一人が鍋の中を覗き込んで探り混ぜる。
「うわ、茶色くなってきた。泥かよ。仕方ねえ、川で洗ってくるか」
「何だ、この匂い?」
鼻孔をくすぐるスパイシーな香り。それは今まさに求めていたものだ。
「待って、捨てないで!」
「え? ……ってお嬢ちゃん、これ食う気かい!?」
「やめとけって! よく見ろ。ドロドロだし、変な臭いもするじゃねえか!」
制止を振り払ってお玉を握り、迷わず自分の椀に注いだ。
「あーああ……もったいねえ」
半透明だったスープを、茶色い濁りが侵す。スプーンで混ぜて一口。
「!!!!」
鼻を抜ける香りとトロリとした舌触り。濃厚な旨味がまとわりついた野菜は先程の何倍も美味しく、飲み込んだ後の舌や喉には程よい刺激が残る。
熱と共に溜め息をこぼせば、注視していた商人達と目があった。
「大丈夫かい……?」
「はい、とても美味しいです。多分そのままだと濃いので、水で少し薄めて召し上がってください」
鍋を持った男は、眉を寄せたまま鍋の中と私の顔を見比べる。
「さっきのは泥じゃないのか? 君はこの匂いの正体を知ってるのか?」
「はい、これは……カレーです」
「カレー?」
「はい」
彼らは顔を見合わせる。
「君の国ではよく食べるものなのか?」
「大人から子供まで大好きですよ。少し辛いですが」
椀の中から残さず飲み干し、一息つく。他人の分まで奪ってしまって申し訳ないけれど、捨てるくらいなら全て欲しい。はしたなくもそう伝えると、再度彼らは顔を見合わせ、鍋を持った男が濃いスープを一杯くれた。
私が礼を言って美味しく口に運ぶ様を、皆じっと見つめていた。椀を膝に置くまでを見終わった彼らは一様に、鍋を持ったままの男に視線を移す。彼は仲間達からの視線を受け、鍋を置いた。
「俺は各国の料理を食べ歩いてきたんだ。これが異国の料理というなら興味深い」
どしりと座って、椀に装った男は、スプーンで掬った一口分を見つめ、決心したように口に入れた。途端、眉間に皺を寄せて止まったかと思えば、もごもご口を動かす。
「……これは……濃いし、塩っぽいな。ああ、水で薄めるんだったか。確かに辛い。肉を入れてないのに、脂が入ってるな。降ってきたのは、塩と香辛料を脂で固めた物か? しかし何故こんな森の中で……? 動物がどこかの隊から盗んだものか?」
冷静に分析した男は、上を見上げて首を傾げる。
「とりあえず川で水を汲んでくる。お前らも食ってみろ」
その後薄めた鍋を囲んだ彼らは、美味い美味いと完食した。口に合ってよかった。自分が好きなものを美味しいと言ってもらえるのは嬉しい。
「ふー、暖まったな。ところでお嬢さん名前は?」
お嬢さんなんて歳でもないのだけれど、彼からすれば娘くらいの歳頃なのだろう。自己紹介しようとして、ドクンと心臓が跳ね出す。
「名前……は確か、サ……、ササ? いや、……ミホ……だと思います……」
これは、記憶喪失というやつ……? 何か他に思い出せることはないかと探るが、昨日の食事も思い出せない。
来た国や年齢、いつから記憶がないか等、彼らからもいくつか質問をされたが、何もわからなかった。
その後、名前については「ミーホー?」「ミオ?」というくだりを数人として、「ミオでいいです」と落ち着いた。
翌朝、隊商は土の道を歩き始めた。
「なあ、ミオは何か魔法使えるか?」
「え? 使えません……けど」
記憶はないが確信的にそう答えた。
「そうか……シルポダでは職は見つからないかもな」
「オメーハラドとかペロクテスとか、もっと大きい街まで行かないとなあ。せめてシルポダの先のクライルシアまで行く馬車でもありゃいいが」
「ないだろうな。俺達と行けりゃいいが、さすがにこの先、山越えもあるし、女子供が歩ける道じゃあなあ……」
どこかの街に着いて終わりではない。今後の身の振りを決めなくては。職が見つかりそうだと言う街まで、このままこの人達と共に行ければいいのだが、既に足は痛く、体力に自信がない私では迷惑を掛けてしまうことは明らかだった。
不安と痛みを抱えながら、夕方シルポダに到着する。隊商の方々に村長の家に案内される。訳を説明すると一晩泊めてもらえることになった。明日の朝、村長が一緒に住み込みで働ける家を探してくれるそうで、ありがたい。
村長の家の中では、その孫娘ユッテが夕食の支度をしている所だった。
「手伝えることはありますか?」
「じゃあこれお願い」
皮を剥いたり切ったりは指示を仰ぎながらできたが、料理には苦手意識がある。記憶がないからなのか、元々なのか。
「大変だったわね。異国の方なんでしょう? お口に合えばいいのだけど」
そう言って彼女はその日の夕食を説明してくれた。焼いた川魚と、茹でた青菜に何か調味料をかけた物、根菜のスープと蒸かした芋。
村長とユッテは食前の祈りを捧げ、私は組んだ手を真似て聞いていた。
「さあ召し上がれ」
「いただきます」
薄味だけれど素材が良いのか、ホッとする味だった。私はこういう繊細な料理はできない。困った時はいつもあれ頼りだった。
コトン、とテーブルの上に音が立つ。
「あら? 何これ、やだ汚いわよね。何で土の塊がこんなところに」
固形のままでも香り出す見慣れたそれは、唯一の得意料理の材料。
片付けようとするユッテに待ったをかける。
「それはカレールーと言って、私の故郷のスープの素です」
「これが?」
使い方を説明する。
「へえ。ありがとう。試してみるわ。でもあなた、これだけ持ち歩いてたの?」
「いえ……今ここに出てきて…………?」
自分でもよくわからなくなった。確かにどこから出てきたのだろう。昨日も木の上から降ってきたし、と天井を見て、雨を確認するように手の平も向けると――ポトッ。
「わっ!?」
思わず降ってきた物を下に落として、椅子から立ち上がった私に対し、二人はさして驚いていなかった。
「あなた魔法は使えないはずじゃ……」
ユッテはハッと深刻な顔つきで村長に振り返った。
「おじいちゃん! 今って、ちょうど転生の時期だわ!? 今年ってもしかして、異世界と繋がる年なんじゃ……?」
村長も同じく重々しい表情になり、
「今ちょうど、勇者様御一行が宿屋にいらっしゃるんじゃ。聖女様に見てもらおう」と頷いた。