地図
「ルナ、目を開けても大丈夫よ?」
優しいディアナの声を聞いて、私はおそるおそる目を開けた。
そして視界に飛び込んできたのは、ログハウスの天井を低くしたような室内。
壁も床も全て板だけど、ニスなんかを塗っているようには見えない。
むき出しの木材を丁寧に磨いただけみたいだった。
それに窓にはカーテンもなくて、床には絨毯もない。
小さな丸いテーブルに椅子が二脚、揺り椅子が一脚で暖炉には鍋が吊るしてある。
部屋の隅にはベッドが一台あり、その隣にドアが一つ。
反対側にもドアがあるけど、たぶんそれは玄関だと思う。
まるで子供の頃に見た絵本のみたいで、私はわくわくしていた。
「金目のものはないぞ」
アスラルさんの言葉で一気に興奮が冷める。
だけど、わくわくしている場合でないのは確かなので、私は何も答えなかった。
「ルナ、疲れたでしょう? とりあえずここに座って?」
「あ、でも……」
「俺は別にいいから気にするな」
二脚しかない椅子に私が座っては、ディアナかアスラルさんが座れない。
ためらう私の気持ちに気付いてか、アスラルさんは壁際のベッドに腰を下ろした。
厳しいのか優しいのかよくわからない。
ディアナはにっこり笑って台所のようなコーナーに向かった。
「お水しかないけどいい?」
「もちろんです! ありがとう!」
今の私にはお水でも何でも飲めるならいい。
ディアナはくすくす笑いながら、壺のようなものから柄杓でコップに――木製のカップに水を入れる。
水道はないのかな? と疑問には思ったけど口にはせず、私はカップを受け取るとすぐに口をつけた。
でも、お行儀が悪かったことに気付いて一度口を離す。
「あの、いただいてもいいですか?」
「ええ、もちろん。どうぞ」
「ありがとう」
ディアナに許可をもらった私は、ゆっくりカップを口につけて水を飲んだ。
本当は一気に飲みたかったけど、さすがにそれはやめておく。
その間、アスラルさんはじっと私を見ていて居心地が悪くなる。
「落ち着いた?」
「ええ、助かりました」
「じゃあ、傷の手当てをするね」
「え? あ、ありがとう」
カップを空にすると、ディアナがすり鉢に入った緑色の物体を持って私の足元に屈んだ。
消毒液みたいなものかな?
粘着性のある緑色のねちょねちょは傷口に塗ると、しみることはなくてひんやり。
それからディアナが傷口に手をかざすと、びっくりなことに傷が消えてしまった。
これって治癒能力がどうたらってやつ? 魔法?
私が唖然としていると、アスラルさんがカップに水を注ぎ足してくれる。
「お前には訊きたいことがたくさんあるからな。答えるのに喉が渇くだろう?」
「お兄ちゃん、そんな言い方をしないで、素直にお代わりどうぞって言えばいいのに」
私がアスラルさんの言葉にびくりとすると、ディアナが笑いながらフォローした。
何て言うか、すごくわかりにくい!
私の心の突っ込みにはかまわず(当然だけど)、アスラルさんは何か重いものが入っているらしい木箱をテーブルの傍まで押して、その上に座った。
するとラッキーなことに目線は少しだけアスラルさんのほうが低くなる。
威圧感低下だ。
「さてと、先にお前の質問に答えるぞ」
「――ありがとうございます」
知りたいことを先延ばしにされると落ち着かないから、これは助かった。
まあ、質問されても上の空で答えてしまうかもしれないしね。
「まずここはガーナント王国の東の果てにあるカンデの村だ。お前がいたというあの森はカンデの森で、反対側に出ていれば隣国のスマテア王国に入っていたことになる」
「ガーナント王国……。スマテア王国……」
今聞いた国名を繰り返してみたけど、さっぱり見当がつかない。
そんな私の反応をアスラルさんはまたじっと見ている。
「あの、日本からどれくらい離れていますか? アメリカや中国……イギリスやロシアは?」
「ニホン? アメリカやチウコクも知らないな。お前がいた街か?」
「い、いえ。そうじゃなくて……」
魔法と聞いたときからまさかとは思っていた。
それでも信じられなくて、もう少し悪あがきをする。
「オーストラリアかブラジルは知っていますか?」
「いや、聞いたことないな」
「そうですか……」
南半球の国も知らないとなると、やっぱりここは私のいた世界ではないのかもしれない。
そう考えててあることを思いついた。
「では、地図はありますか!? 世界地図か、せめてこの国の地図は!?」
興奮した私の問いかけに、アスラルさんとディアナは顔を見合わせた。
そんなに変なことを言ったかな?
でもアスラルさんはすぐに黙ったまま立ち上がって、座っていた木箱の蓋を開けた。
木箱の中には本がたくさん入っている。
アスラルさんはいくつかの本をよけて折り畳まれた画用紙のようなものを取り出した。
「これだ」
テーブルの上からカップを取り上げ、画用紙のようなものをアスラルさんが広げてくれる。
それはやっぱり地図らしきものではあったけど、私の知っているものとはまったく違って、お礼言うのも忘れて見入った。
「……何かわかったか?」
「え? あ……いえ。私の知っているものとは全然違いました」
「地図が?」
「いえ、地形がです」
「……」
静かに答えつつも心の中は絶望の嵐だった。
とても夢とは思えないこの世界に私は来てしまったらしい。
元々成功率の低い手術だったから、死ぬことは覚悟していたつもりだった。
死後の世界はどんなものかと考えてみたりもしていたけど、おそらく無であって何も感じないと思ったのに。
それなのにまさか、こんな魔法のあるような世界――違う世界に来てしまうなんて思ってもいなかった。
(ひょっとして私の体ごと来てしまったのなら、お葬式もすることができずにお父さんは困っているんじゃないかな? お母さんは私の死を受け入れられないんじゃないかな? まさか病院を訴えたりとかしてないかな?)
あれこれ考えてた私は目の前の二人のことをすっかり忘れていた。
アスラルさんは地図を折り畳むと木箱へと仕舞い、ディアナは私の両手からカップを取り上げテーブルに置く。
あ、私の手、震えてたんだ。
木箱に蓋をしたアスラルさんは再び座って、とんとんとテーブルを指で叩いて私の注意を引いた。
はっと顔を上げた私は、今までにないほど怖い顔をしたアスラルさんを見て身を縮めた。
「なあ、お前はいったい何者だ?」