プロローグ
「ルナ! お前、今日もサボっただろう!?」
「サボってなんてないわよ。後でしようと思ったの」
「お前なあ……。お前にはほんのわずかな時間で大したことない願い事でも、人間にとっては命に関わることだったり、もっと大切なことかもしれないんだぞ」
「えー、命より大切なことって何?」
「知るかよ! とにかく、ちゃんと祈聴してこい!」
「はーい」
双子の兄であるアーサーは口うるさい。
ルナは嫌々返事をすると、寝台からゆっくり体を起こした。
すると、腰まである絹糸のような黒髪がさらりと揺れて煌めく。
その姿を目にした側仕えの者たちはほうっと感嘆のため息を漏らした。
「お前たちがルナを甘やかすからだぞ! ちゃんと働くように促せよ!」
「嫌だわ、アーサー。この子たちを叱らないでよ」
「なら、お前がちゃんと働け!」
側仕えに苛立ちをぶつけるアーサーをルナが窘める。
しかし、原因であるルナのそんな態度にアーサーはますます腹を立てた。
生真面目な兄のアーサーと不真面目な妹のルナ。
この神界では有名な双子の神である二柱は、性格も正反対なら容姿も正反対であった。
光り輝く黄金の髪に澄んだ青空のような瞳のアーサーと、闇夜のような黒髪に夜空に浮かぶ満ちた月のような琥珀色の瞳のルナ。
全能神である父神お気に入りの二柱は、神の眷族や神に仕える者たちまで、皆に愛されている。
「神頼みなんて怠けていないで、ちゃんと努力するべきなのよ、人間は」
「人間だってお前には怠けているなんて言われたくないだろうよ」
やれやれといった様子でルナが呟くと、アーサーもまたやれやれといった様子でため息を吐いた。
そしてアーサーは諭すように続ける。
「それに、どんなに努力しても叶わないことは人間にはたくさんあるんだ。それでもどうにかしたいと強く願い、俺たちに祈るんだよ」
「えー、人間の願いなんてどうでもいいじゃない」
「俺たちにとってどうでもよくても、人間たちにはどうでもよくないことだってあるんだ。だから俺たちはその祈りを聞いて、叶えてやるべきかどうかを選別しなければならない。さあ、俺たちの神殿に必死にたどり着いた人間がいる。しかもその人間はお前をご指名だ。聴いてやれ。叶えてやるかどうかはお前が決めろ」
「わかったわよ。もう、アーサーは説教くさいんだから」
文句を言いながらもルナは祈聴所に向かった。
人間の祈りを聴くのは面倒だが、わざわざ二柱の神殿までやって来て祈りを捧げた人間に興味を持ったのだ。
通常、人間たちは街にある簡易神殿で神々へ祈りを捧げる。
なぜなら父神や他の神たちと違って、アーサーとルナの神殿はかなり険しい山の中にあるからだ。
それは遥か昔、人間たちが祈れるように己の神殿を建てるようにと父神から命じられ、面倒に思ったルナは人間が近寄れないように険しい山の頂上に神殿の場所を決めたのである。
だが自分で建てるのがまた面倒で、双子なのだから一緒でいいではないかと兄神を説得し、己はまったく手伝わなかったところがルナらしい。
この手抜きの失敗は、ルナへの祈りも兄に聞こえてしまうことだった。
自分だけの神殿なら、人間たちの祈りもずっと無視できていたのにと何度後悔したか。
しかし、光り輝く兄の華々しさに人間たちは惹かれるのか、ルナへの祈りは格段に少ないことが救いだった。
「さてさて、人間には困難な山を登ってまでアーサーじゃなくて私に祈るなんて、どんな奇特な人間かしら?」
ルナは祈聴所にある水盤の縁に立つと、細くなめらかな人差し指を入れて、くるくると聖水をかき混ぜた。
すると聖水は七色に輝き始め、やがて光が消えて下界を――いくつかある世界のうちの一つを映し出す。
ぼんやりとした影は次第にはっきりとした形になって、一人の男の姿になった。
「まあ、ずいぶんみすぼらしいわね」
フードを被ったその顔は見えないが、外套も靴も背嚢もボロボロで、供一人いない。
一人でここまでやって来たのかと驚いたルナは、祈りを捧げるためにフードを下ろした男の顔を目にして微笑んだ。
「あら、人間にしてはとても美しいわ」
今までに何人もの人間を見てきたが、これほどに美しい者を見たのは初めてだった。
これはぜひとも祈りを聴いてあげなくてはと、心惹かれたルナは神石を取り出した。
神石は力を操るための神器になり、皆は首輪にしたり武器に嵌めたりしている。
アーサーは腕輪にして常に携行しているが、ルナは神石の加工さえ面倒で、そのまま持っていた。
「さあ、何が欲しいの? 永遠の命? 老いない体? 世界中の富?」
わくわくしながらルナは待ったが、若者の口から出てきた願いは意外なことだった。
本気なのかと思い、さらにルナは若者の顔をもっとよく見ようと身を乗り出し……うっかり神石を手からすべらせてしまった。
「え? あっ、嘘!」
慌てて石を摑もうとして、ルナの体が水盤の縁を越える。
あっと思った時には遅かった。
ルナは水盤の中へと身を投じ、祈聴所からその姿を消す。
そして誰もいなくなった祈聴所に、様子を見にアーサーがやって来た。
「ルナ?」
静寂だけが残された祈聴所を見たアーサーは、呆れたようにため息を吐いた。
「また隠れたか」
ルナは気に入らないことがあると、すぐに姿を消す。
どうせまた友神のところにでも遊びに行ったのだろう。
いくら可愛い妹でも、帰ってきたら今度こそ強く叱ろうと決めて、アーサーは祈聴所から去った。