第6話 来訪者
真っ暗な闇。少しずつ意識が戻り始めているけれど、身体は動かず、目も開けられない。身体の感覚もほとんどなくて、ほんの少しの恐怖がある。
何かが動く気配をすぐ近くに感じた。
ずるずると何かをすする音。荒い吐息。咀嚼音。
最悪の可能性を考えて心臓がどくどくと脈を早めた。目蓋に意識を集中させて恐る恐る目を開けて音のする方を見やる。
「ふぅ、ふぅ…………おっ、起きたのか。ヒナ」
今まさに麺を食らおうと口元まで運んだ箸を止めて、フューリーさんは明るく笑った。
「なんで……らーめん……」
ガラガラに擦れた声で、かろうじて搾り出した言葉がこれとは。ぼくの頭は混乱しっぱなしだ。
ぼわんと膜がかかったように音がくぐもって聞こえる。早口で何か言われるといまいち聞き取れない。いつもの笑顔で何かを告げた後、フューリーさんは急いで部屋を出て行った。
少しずつ身体が覚醒してきた。目も慣れて室内を見渡すと、部屋は見たこともないもので溢れ返っていた。棚には謎の置物と本がぎっしり。壁にはどこかの地図と資料がかなりの枚数貼り付けられている。何かを書きなぐったときにでもはみ出したのだろう文字。かつては壁の中心に飾られていただろう絵画は隅のほうに追いやられている。他にも様々な鉱石や植物、武器や防具までもが所狭しと並んでおり、部屋はひどく雑然としていた。
机の上にも書きかけの書類が散乱しており、それを無理やりどけて作った空間に、でんと先ほどまでフューリーさんが持っていたどんぶりが置かれている。
一度も入ったことがなかったけれど、フューリーさんの部屋のようだ。隅に置かれたバッグには見覚えがある。部屋の広さは違うけれど、ぼくたちの部屋と大体の間取りは同じようだった。
(食べてる途中だったのに、なんか悪いことしちゃったな……)
湯気を立てているどんぶりを見ながら、まだどこかぼんやりとした頭でそんなことを考えていた。
すぐにフューリーさんは部屋に帰ってきた。けほけほと咳き込んだぼくを見て水を持ってきてくれた。冷たすぎない水がじんわりと乾いた喉を潤していく。
ゆっくりと飲み終える頃には頭も感覚もすっきりしていた。耳の不調も治ったようで、フューリーさんの明るい声がよく聞こえる。
「いまギルドにお前が起きたこと伝えてきたからな。もうちょっとしたら誰か迎えに寄こすからギルドに顔出せってよ」
もう一杯水を注いできてくれたフューリーさんはテーブルに腰を下ろすと、食べかけだった麺を再びすすり始めた。
「すみません、ここフューリーさんの部屋……ですよね」
「ん、そうだぞ。片付いてなくてすまんなぁ」
フューリーさんはちゅるるっと麺を吸い込み、そのままごくごくとスープを飲み干した。ぷはぁ~と満足そうに息を吐いてどんぶりをテーブルに置いた。
「さすがに部屋の主がいないのに勝手に部屋に出入りするのもどうかと思ってさ。ヒナの意識も戻らんし、ギルドのほうもいっぱいみたいだったし。だから間をとって俺の部屋に連れてきたってわけだ」
「ギルドが……いっぱい?」
ずきりと頭が痛んだ。
そうだ、ダンジョンで事故があって……助けに行ったはずの先輩たちも戻ってこなくて……ぼくもダンジョンに……。
「――あのっ、先輩は……先輩や他の人たちは……?!」
朦朧とした頭で最後に見た先輩。
服にじわりと赤が広がっていって。苦しいだろうに。痛いはずなのに。それでもいつものように強気に笑って。
「……あぁ、それであちこちのギルドは大忙しだよ。怪我人が大量に運び込まれてベッドも人手も足りないってな。……それでクラさんなんだが――」
ほんの少し影を落としたフューリーさん。次の言葉を聞く前にノックの音が響いた。
「あ~~、ヒナちゃん! 気づいたみたいで何よりだわ~!」
少しやつれた顔でシャルさんがやってきた。声は明るいが目の下にはクマができている。よく見ると髪もいつもよりボサボサだ。
ものすごい臭いのする薬の差し入れは一息に飲み干した。まだ口の中が苦いような辛いような感じがする。
「シャルさん、すみません……ぼく、」
「まったくよ! 一人でダンジョンに入るんなんて、軽率にもほどがあるわ。ヒナちゃんだって死んじゃってたかも知れないのよ?」
「……すみません」
居た堪れなくて顔を下げると、優しく頭を撫でられた。
「今回は無事に帰ってきてくれたからいいけど。もっと自分を大事にしなさいよ。ダンジョンはそう甘くないし、『マナ酔い』だけで済んで本当に運がよかったんだから」
「マナ酔い……?」
「そ。まぁ詳しくは行きながら話すわ。ギルドに行くわよヒナちゃん。もう起き上がれるでしょ」
言われたとおり身体はだいぶ回復していた。起き上がっても問題ないようで、ぼく自身が一番ほっとしている。
「フューリーさん、ありがとうございました。お礼はあとでちゃんとしますので!」
「おう。とりあえず元気なのが一番だ。まずは頑張って叱られて来いよ!」
フューリーさんの部屋を後にしてシャルさんと二人ギルドへと向かう。
「あの、やっぱりぼく怒られるんでしょうか」
「そりゃ怒られるでしょうね。先輩の命令を無視してダンジョンに行った上に、怪我までして2日も寝込んでればまぁ当然だと思うわよ」
「2日?」
「そう。ヒナちゃんは2日間眠ったままだったの。ま、マナ酔いの影響もあるんだろうけど」
ダンジョンで事故があって、ぼくがダンジョンに潜った夜から2日も経っている?
その間ギルドの皆はずっと怪我人の治療にあたっていたんだろう。皆が必死に治療をしている中で、ぼくは何もできずに……。いや、それどころか足を引っ張ってさえいたんだ。
「……さっきの話。マナ酔いってのはね、身体のマナが活性化しすぎしちゃうの。活性化しすぎて身体のほうが耐えられなくなるわけ。アレルギーや中毒症状みたいなものね。人が蓄えられるマナ量にはある程度限りがあって、回復薬でもマナが有り余ってるときに必要以上に摂取するとなることがあるんだけど。ヒナちゃんの場合は何らかの外的要因でマナの過剰摂取を引き起こして発症したってわけ。たぶん『ダンジョンとの相性』が良すぎたのね」
ダンジョンに相性ってあるんだろうか。
「そうだ、ダンジョン内で精霊を見たり、魔物に直接触ったりしなかった?」
「いえ……ダンジョン内にいたでかいトカゲみたいなのと遭遇はしたんですが、先輩が助けてくれて……」
「……そう。あの馬鹿も結構ヒナちゃんのこと、気に入ってたのね」
消え入りそうな声でぽつりと呟くシャルさん。
先を歩くシャルさんの表情は見えないが、どことなく落ち込んでいるような気がした。
「それじゃ、ちゃんと怒られてらっしゃい。私は少し休んだら仕事に戻るから」
フューリーさんが言っていたように、ギルドには多くの人が治療のために残っていた。ギルドのメンバーだけでなく、外部のヒーラーも協力してくれているようで、あちこち忙しく行き来している。治療用のベッドも全て埋まっているようだった。
ギルド長の部屋の前で深呼吸する。緊張や不安を呼吸と一緒に吐き出して、ぼくは扉をノックした。
ギルド長の部屋はシンプルだ。
塵一つなく磨かれた床。無駄なものはなく、デスクと本棚、少しの植物が置いてあるのみだ。ガラス棚には本や資料が分類されきっちりと揃えられている。デスクの上にも余計なものは何もない。シンプルというよりも、少し無機質な感じでもある。
「ヒナくん。あなたにはしばらく、ギルドの仕事を休んでもらいます」
「――――え……」
シン、と静寂が緊張を増加させる。あまり感情の読めないギルド長にじっと見つめられるのは少し苦手だ。
「ど、どうしてですか?! ぼくはもう見てのとおりだいぶ回復しました! ギルドの他の皆だって忙しそうにしてるし、ぼくだけ休んでなんて――」
「ヒナくん」
表情に変化はない。口調も決して強いものではないのに、黙らせてしまう力がギルド長の言葉にはある。
「ヒナくん。もう聞いたかもしれませんが、あなたは『マナ酔い』と呼ばれる症状がでています。そんな状態のあなたを今働かせることはできないのです」
「…………それは、どういうことですか?」
マナ酔いの説明は来る途中で受けた。過剰摂取だというのなら、むしろ放出したほうがいいはずだ。だというのに、それと働けないことになんの関係があるのだろう。
ギルド長は少し何かを考えたように下を向いて、それからぼくを見た。
「ギルド内にいる負傷者の方を見ましたか?」
「……かなりの人数がいますよね。ギルド内も人手不足のようですし、ぼくにもできることがあると思うんです」
「――――ヒナくん、思い上がってはいけません」
少しトーンを落とした声で、ギルド長はぼくを鋭く射抜く。背筋に抜ける寒気に身体がぶるりと震える。
「あなたは病人で、私たちは治療者です。病人のあなたに病人の相手をさせるわけにはいきません」
「……っ、すみません!」
冷たい言葉にぼくは俯いて謝ることしかできなかった。
ふぅ、と吐息を漏らしてギルド長は続ける。
「今回ヒナくんのしたことは決して褒められるものではありません」
「……すみません」
「……ですが、今回はヒナくんのおかげで助かった命もあります。その分を差し引いて、しっかり静養して完治するまでギルドでの仕事は禁止とします。それにマナ酔いの影響もありますのでマナを使うことも禁止です」
「……………………それだけ、ですか?」
「あとはヒナくんのマナの状況を確認するために、一日一度ギルドに顔を出してください」
「それだけですか?」
「? それだけですが」
今回の責任を取ってギルドを辞めさせられるのではないかと正直少し考えていた。ギルドの主要メンバーでもある先輩は、ぼくのせいで負傷してしまったことだし。
「そうだ……あの、先輩は、先輩はどうなったんですか?!」
「……クライヴさんはこっちよ」
連れて行かれたのはギルドの奥。ギルド長の部屋の更に奥にあるのだが、普段は誰も使わないし寄り付かない。部屋はひんやりとしていて、ベッドがぽつんと置いてあった。
「何ですこの部屋……先輩は……」
鳥肌が立ちそうなほど寒い部屋にいるのに、じとりと嫌な汗が背中を伝う。
「大丈夫。ちゃんと生きてる」
「そう、ですか」
引っかかっていた嫌な不安がまた一つ消えて心の底から安堵していた。
「彼の傷はほとんど治療を終えているの。あとはマナが回復すれば目も覚めると思うのだけれど……魔物の攻撃でマナが暴走していてね。この部屋、冷えているでしょう?」
部屋を見渡してみてもこれほど部屋が冷えそうなものなどどこにもない。地下でもなければ窓もある。それなのにこの部屋だけが不自然に冷えているのだ。窓ガラスは結露で濡れていた。
「あなたのマナ酔いは過剰にマナが増えたから起こったものだけど、彼は違う。もともと持っているマナが、魔物の影響で暴走してしまったの。まだ暴走するかもしれないから……ここにいてもらっている」
この部屋の不自然な寒さはどうやら先輩が無意識で魔法を使っているらしいということだ。暴走したマナを鎮めようと、本能的に微量のマナを放出させているのかもしれない。先輩は回復の他に、氷系の魔法もよく使っているのを思い出す。
「クライヴさんは安定するのに時間がかかる。あなたは、過剰分を自然放出させるのに時間がかかる。二人とも時間がかかるのは同じだから、ゆっくり休んでちゃんと身体を治しなさい」
「あの、過剰分の放出って、魔法を使ったらいけないのでしょうか……?」
「決して魔法を使ってはダメ」
「……理由を聞いても?」
「あなたが過剰摂取でも軽度で済んだのは、『魔法を使用していなかった』から。もし魔法を使ってマナが活性化していたら、彼と同じようにあなたのマナも暴走していたかもしれない……だから、魔法は厳禁」
ぼくが何もできなかったことが、結果的に自分を助けることになるとは思いもしなかった。歯がゆい思いに、拳を痛いほど握り締める。
ベッドの上で青白い顔をしている先輩。部屋が冷えるせいもあって、一段と肌が白く見えた。
「――何もできないのが嫌なら、シャルを手伝ってあげて。あっちはあっちで忙しいみたいだから」
ぼくの気持ちを察してかギルド長がそう言ってくれた。
ただし無理はしないように、と何度も念を押して。
何でかぼくの周りは不器用な人ばかりがいるような気がする。
もちろん、ぼくも含めて。
部屋に戻ると、1人きりの部屋の広さと静けさに、ほんの少しだけ寂しくなった。
それから5日ほど経って、先輩は目を覚ました。
「なんだよお前、シけてんな。見舞いにくるならもっといいもん持って来いよ! 高級菓子とか、お高いフルーツとかさあ!」
「毎日来てるんですよ。馬鹿言ってないで大人しく休んでてください。それにまだ固形物食べられる状況じゃないでしょう」
「いやさぁ、昨日夕飯のときにフューリーが来たんだけどよう、あいつ『俺も一緒に食う』とか言い出して横で美味そうに麺食ってやがんの! わざわざキッチンで作ってきて! 俺は粥なのにさぁ! あいつちょっと天然じゃん? 悪気ないのは分かりきってるんだけど、俺もう悔しくて悔しくて……」
本気で悔しがってる先輩を見るのはなかなかにレアな光景なのでちょっと面白い。
意識が戻ったとはいえ、まだマナを安定させるのに時間がかかりそうなため、あと一週間くらいはギルドでの生活になるそうだ。酒が飲めないとぼやく先輩だったが、仕事を休んで――といっても職場に泊まってる状態なので休んだ気はしないだろうが――そこそこ規則正しい生活を余儀なくされた先輩は、日に日に健康になっているようにも見えた。
先輩の見舞いの後はシャルさんの手伝いだ。
今日は薬局のメンバー数人と森に薬草を取りに来ている。
薬の調合に使う薬草のストックがなくなりそうだからと急遽決まったのだった。
薬草となる植物が多く生息している場所に到着し、採取スタートだ。
ぼくはあまり自信がなかったのだけど、「持ち帰ってからきちんと選別をするので大丈夫」と言われ見本の薬草を渡された。
薬局で薬の材料を間違うことはないだろうと思うけれど、手間を考えるとできるだけ間違ったものは採らないようにしたい。自然のためにも。
ぼくは見本と薬草をじっくり比べながら薬草を採取していった。
かごにそこそこ薬草が溜まった頃、ごうっと強い風が吹いた。
ローブの裾がバタバタとはためく。飛ばされないようにとかごを抱えたが、抱えた腕の隙間から薬草が数本、ふわりと風に乗って飛ばされた。
「あ、こら待て!」
薬草が飛ばされた方向へ走るぼく。どこかに導かれるように奥へ、また奥へと飛ばされた薬草を拾い上げていく。そうして最後の薬草がふわりと流れ落ちた先に。
「――――え?」
小さな花園の中で眠る、女の子がいた。