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第二話   新生活   風名side

 小さな子供が滑り台の下、膝を抱えながら月に向かって手を伸ばす。


 夜の公園には誰もいない。朧気な月はたちまち、雲に隠れて見えなくなった。


 お願い……。 どこにも連れていかないで……。







 ピンポーン…… ピンポーン…… ピンポーン…… ピンポーン……


 鳴り響く音に、夢の中から引き摺り出される。


 風名は枕元のデジタル時計を手で探った。表示は三月十三日、五時二十五分。アラームをセットした時間まで、あと三十分以上もある。


 意識がはっきりしてくると、風名は鳴っているのが目覚ましではなく、インターフォンの音であることに気がついた。


「あいつめ……」


 引っ越して早々、こんな時間にピンポン連打される心当たりといったら一人しかいない。


 風名は組み立てたばかりのベッドから起き上がると、洋室からダイニングへと移動する。


 通話ボタンを押すと、元気のいい声がスピーカーから流れ込んできた。


「お早う! 風名! 早く中に入れて! 色々頑張ってはいるんだけど、どういうわけかこれ以上先には進めないみたいだ」


 どういうわけもこういうわけもない。ここはオートロックのマンションだ。鍵が無いなら、エントランスより先には入れない。


「……どちら様でしょうか?」


 風名は欠伸まじりに聞いてやった。起き抜けで喉がカラカラだ。早く水を飲みたい。


「よくぞ聞いてくれたね! 僕は風名のこの世でたった一人の友達で、今日からの同居人だよ!」


「……そんな人、俺にはいません」


 風名はブチッとマイクを切った。冷蔵庫を開け、グラス一杯の水を飲み干す。水分が体内に染み渡っていくほど、重い頭がすっきりとしてきた。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピポピポピポピポ……


 連打が激しくなっていく。さすがに共同スペースで、これ以上の悪ふざけはまずい。風名は再び通話ボタンを押し、相手をなだめにかかった。


「分かった。分かったから、もうやめろ」


「……れて……ださ……」


「ん? どうした?」


 先ほどとは打って変わって、声が小さい。風名はスピーカーに耳を近づけて聞いてやった。


「……入れて下さい。お願いします」


 風名は堪えきれずに吹き出すと、解錠ボタンを押す。


「ようこそ……サンシャワーメゾン二○二号室へ」


 風名は同居人を迎え入れた。ここが今日から、二人の家になるのだ。







 同居人がパタパタと音をたて、ダイニングに飛び込んできた。


「早かったな。青羽あおば


「意地悪だね。風名は」


 窓から差し込む光が、青羽の黒目がちの大きな目をキラキラと輝かせている。膨れっ面な表情が憎めないほど愛くるしい。


「お前こそ、来る時間を考えろよ」


「風名はいつ着いたの?」


「昨日の夜遅く。そのあとすぐ寝た。手続きとかは昨日のうちに親父がやってくれたみたいだし、今日は荷物をほどくだけだ」


「へー。お父さんが来てたんだ?」


 青羽はどこか嬉しそうだ。


「これから会う予定は?」


「……ある訳ないだろ。たまたまこの辺りに住んでいるって聞いたから、昨日は荷物の受け入れを頼んだだけだ」


「なーんだ……」


 青羽は少しがっかりした様子で、しばらくダイニングをうろつきまわったが、風名の隣、バルコニーの前でピタリと足を止めた。


 外の公園から、けたたましく鳥のさえずる声がする。


「ここ……長居する場所じゃない」


「え?」


 風名は一瞬聞き違えたかと思い、頭一つ分小さな青羽を見下ろす。青羽は「スキあり!」と、風名の脇腹に拳を突き出してきた。


「甘い」


 風名は生っ白く小さな拳を受け止める。軽く捻り上げると、そのまま無防備な脇をくすぐった。


「ひゃはっ」


 青羽は笑い出し、風名の腕の隙間から抜け出すと、パタパタと逃げ去っていく。


「張り合いのない……」


 同居人というより、保護者になった気分だ。追いかけて躾るのもいいが、今は荷ほどきである。風名はさっそく作業に取りかかった。







 作業は無事、午前中に終わった。


 ダイニングに出ると、バルコニーの前で青羽がフカフカのクッションの上に寝そべり、羽を伸ばしている。


 クッションは風名がいつだったか、商店街の福引きで当てたものだ。使い道が分からず、とりあえずその辺に転がしていたのだが、青羽は気に入ったらしい。長年の相棒のように一体化していた。


 目が合うと、はにかんだ笑顔を向けてくる。風名は頬がゆるむのを抑えられなかった。


「暇そうだな」


「暇じゃないよ。今、風名を見るのに忙しい」


「俺なんか見てもつまらないだろ」


「風名は見てて飽きないよ。話はちょっとつまらないけど」


「悪かったな」


「褒めているんだよ」


「けなしてもいるだろ」


「うん」


 青羽とは中学に入学してから三年の付き合いだが、一緒にいるとふわふわと雲を掴むような時間が流れる。


 風名が家を出たのは、誰にも頼らず、一人で生きられるようになるためだ。しかし、遠方の高校に行くことを青羽に告げると「何それ本気? 僕も行く! 一緒に住む!」と押し切られ、気がつけばそういうことになっていた。


「やることないなら、テレビでも見てろよ」


「そんなのあったっけ?」


「そういえば……なかったな」


「ねえ、二人で何する?」


 バサッ。


 激しい羽ばたきが聞こえ、窓の外を見ると、低空を飛びずさるハトが窓ガラスすれすれで旋回した。


 舞い散る羽を見つめながら、風名は考える。


 これまで、生活のことはみんな母が決めていた。

 

 食事の量、勉強時間、睡眠時間、交遊関係、言葉遣い、着る服、観るテレビ、読む本――

 

 だけど、これからは違う。何もかも自分で決めて、行動していいのだ。


「とりあえず、挨拶まわりだな」






 マンションは三階建て、各階に三部屋、合計九部屋。


 右隣の二○一号室は空き室のため、まず最初に左隣の二○三号室を訪問するが、応答がなかった。


「留守なのかな」


「平日の日中だしな」


 ちょうど二階にエレベーターが止まっていたので、せっかくだから二人で乗り込む。


「そういえばね、今朝公園を散歩してたら、きれいなお姉さんを見たんだ!」


「そうか。良かったな」


 大ニュースと言わんばかりに報告してくる青羽を受け流し、風名は一階のボタンを押す。


「ここに住んでる人だよ。バルコニーに立ってたんだ。髪の長い人。あの部屋は確か……」


 エレベーターが一階に到着した。


「三○三号室だね」







 一◯一号室。「藤堂」と表札のある家の前で、小さな女の子がもたれるように立っていた。


 ピンク色のニットとフリルのスカート、ツーサイドをさくらんぼのヘアゴムで結んでいる。腕の中に、白黒で尾ひれのあるイルカ型のぬいぐるみを抱えている。


「こんにちは」


 風名が声をかけると、女の子はビクリと肩を震わせた。今にも泣きそうな顔で、ぬいぐるみを潰れそうなくらいぎゅっと抱きしめる。


 まずい……。


 絶対絶命の危機を感じた。女の子が肩から下げたカバンには、防犯ブザーらしきものがぶら下がっている。ここで騒ぎになったらおしまいだ。ご町内の事案になりかねない。


 すかさず、青羽が耳打ちしてきた。


「目線を低くした方がいいよ」


 言われた通り、風名は片ひざをつく。そして精一杯、友好的に話しかけた。


「驚かせてごめん……。そのイルカさん、可愛いね」


「シャチさんなの」


「そ、そう。シャチさんなんだ……」


 思わぬ引っ掛け問題に焦ったが、女の子は気を悪くした様子もなく、興味津々な眼差しを向けてきた。


「お兄ちゃん、シャチさんみたい」


「え? そうかな……」


「お兄ちゃん、だれ?」


「風名。上の階に引っ越してきたんだ。……君は?」


「あやみ」


「そう。あやみちゃんは、東堂さんのおうちの子?」


 あやみちゃんはこくりと頷く。


「お父さんか、お母さんか家にいる?」


 あやみちゃんはこくりこくりと頷く。


「みんなでこれから、シャチさん見に行くの」


「海に?」


「水族館だよ、きっと」


 青羽が再び、耳打ちしてきた。


 ――なるほど。家族で水族館か。


 これまで行ったことが無いので、風名には思い至らなかった。


「お父さんとお母さんにご挨拶したいんだ。それで……」


「ママー」


 あやみちゃんは風名の言葉を待たず、ガチャリとドアを開け、家の中に入ってしまった。


 仕方なく、風名はインターフォンを押す。


「はーい」と応答があり、すぐさまドアが開かれた。あやみちゃんが取り次いでくれたらしく、若い夫婦が快く応対してくれる。


 外出前に申し訳ないと思ったが、数分ほど立ち話した。東堂さん一家は三人暮らしで、来月には新築のマイホームに引っ越すそうだ。あやみちゃんは現在四歳で冷泉の幼等部らしい。


 風名と東堂さん夫婦が話している間、あやみちゃんはつまらなそうに玄関を歩きまわり、風名の腕にじゃれつこうとした。そこで持っていたぬいぐるみを、ポトリと下に落とす。


「はい」


 青羽がぬいぐるみを拾い、差し出すと、あやみちゃんは目をまん丸にして、それを受け取った。






 一○二号室。表札には「福田」と書かれている。インターフォンを押すと応答があり、エプロン姿のふっくらとした年配の女性が顔を出した。四十、五十代くらいだろうか。


 福田さんは風名を見上げ、一瞬目を見張った。身長百八十センチを越える体格だ。驚くのも無理はない。


「今日から二○二号室に住む風名です」


「青羽です」


「お世話になります。これ、つまらないものですが……」


「どうぞ」


「あらまあ、ありがとう」


 福田さんは柔和な笑顔を浮かべ、受け取ってくれた。


「大きいのねぇ……いくつになるの?」


「今月十五になります。四月から、そこの冷泉れいせん高校に通います」


 冷泉高校は駅近くにある私立高校だ。ここから歩いて数分もかからない。


「あら、冷泉高に? あそこ入るの難しいんでしょ? 頭がいいのねぇ」


「風名はそんなに頭良くないです。まぐれです」


 風名は福田さんから見えないよう、青羽の頭を後ろ手で小突いた。


「あ、ちょっと待ってて!」


 福田さんは部屋の奥へと駆けていく。食欲をそそる香りと共に福田さんが持ってきた大きめのタッパーには、唐揚げがぎっしりと詰め込まれていた。


「お昼に作りすぎてしまったの。お隣の東堂さんと内海さんに半分ずつ持っていこうと思ってたんだけど、風名君なら大きいし、育ち盛りだもの。これくらい食べられるんじゃないかしら? よかったらどうぞ」


 受け取った瞬間、笑みがこぼれた。出来立ての温かさが手のひらから伝わっていく。食べ物が増えてくれることに悪い気はしない。何より唐揚げは大好物だ。


「親御さんから離れて大変でしょ? 困ったときはいつでも声かけてね」


「ありがとうございます。……それではお邪魔しました」


「お邪魔しましたー」


 風名と青羽はそろって頭を下げ、福田さんのお宅をあとにした。







 一○三号室の「内海さん」宅へ行く前に、風名はタッパーを置くため青羽を連れて、一旦部屋に戻った。


 だが、ホカホカの唐揚げを前に、風名の胃袋は易々と降参を告げる。時間もちょうどいいので、ここで昼食にすることにした。


 手軽に炒飯か焼きそばで済ませようと思ったが、新品の調理器具を前に、我慢が出来なくなる。切って炒めるだけでは物足りない。もっとじっくり焼きたい。煮込みたい。


「育ち盛りにもほどがあるよ……」


 出来上がった料理を見て、青羽が呟く。一人暮らし用の小さなテーブルの上に、唐揚げを含めた大量のおかず。


「夕飯の分も兼ねているんだ。あと……タッパーは洗って返すより、お裾分けで返した方がいいだろ?」


 言い訳するように、風名は福田さんのタッパーへと煮物を詰めていく。


 だが、夕飯の分は残らなかった。唐揚げを一つ口にした途端、風名は夢中になって全部平らげてしまう。懐かしい味がした。


 遠い昔、家族三人で食卓を囲んだ、温かな記憶がよぎっては消える。


 父も母も自分も、みんな笑っていた。そんな頃が確かにあったはずなのに、今となっては誰の笑顔も思い出せない。父の顔も母の顔も、どちらものっぺらぼうだ。


「……風名」


 食器を片付けるため立ち上がろうとすると、青羽が背中にもたれかかってきた。


「俺を背もたれにするなよ」


「いいじゃん。友達なんだから」


 咎めても、青羽はどこ吹く風だ。


「僕が風名だったら……もっと人生を楽しむのに。修学旅行で女子部屋に突入したり、花火大会で浴衣姿の子に声かけたり、バスケ部に入って、マネージャーの子と仲良くなったり……」


「……お前は高校生活に、そんな不純な期待を抱くのか?」


「僕が風名だったらの話だよ。風名も明日はホワイトデーなんだし、お返しどうするかなとか、そんなことに悩んでいればいいのに」


「馬鹿かお前は……。まず相手がいない」


「嘘つき」


「嘘じゃない」


 風名は長く伸びた前髪をかきあげ、わざとらしく溜め息をついてやる。


「卒業式は昨日だったろ? もう誰とも会う予定がないし、同じ高校に上がる奴もいない」


「会う予定なんて、作ればいいよ。春休みなんだから」


「無意味だ。そんなの」


「また、そんなこと言う……」


 青羽は風名から離れると、バルコニーの前のクッションへと体を沈めた。


 背中が少し寂しい。クッションの必要性を風名はそこで初めて理解した。


 風名は食器を片付ける。青羽は丸くなったまま、動かなくなった。


「青羽?」


「んー……」


「あーおーばー?」


「すぅ……」


 寝息が聞こえた。


 いたずら描きでもしてやろうかと、風名はマジックかペンを探す。残念ながら、引っ越し一日目のダイニングは片付いていて、何も見当たらない。


 そこで目に留まったのが、テーブルの上のデジタルカメラだ。朝、引っ越しの荷物と共に置かれてあった、父親からの誕生日プレゼントである。


 ちょっとした悪戯心で、青羽にレンズを向けた。数回シャッターを押す。


 青羽の瞼がピクリと動き、睫毛が揺れた。目を開けると思って身構えると、開かれたのは口だった。


「大丈夫……僕はどこにも……連れていかれない……」


 ドキリとしてカメラを置く。嫌な予感がした。まるで、誰にも触れられないよう固く閉じた蓋に手をかけるような――そんな感覚。


 ――そうだ。お返しに行かないと。


 風名は、煮物を詰めたタッパーだけ手に取ると、逃げ出すように部屋を出た。





 

 福田さんから、今度は伊予柑を貰ってしまった。愛媛に嫁いだ娘さんが里帰りの際に持ってきたらしい。ビニール袋をぶら下げながら自宅の前まで戻ると、隣の二○三号室のドアが開き、中から男性が出てきた。


「あの……」


 声をかけると。男性は立ち止まり、風名を一瞥いちべつする。


 モシャモシャの頭にずんぐりとした体型、くたびれたTシャツとハーフズボンという出で立ちは、この季節からすると、かなり薄着である。両目が開ききっていないところから見て、寝起きなのだろう。


 ――冬眠から覚めた熊みたいだな。


 そんな印象を持ちながら、風名は頭を下げた。


「これからお世話になります。昨日、隣に引っ越してきた風名です」


「青羽です」


「……どうも」


 刺々しい口調だった。機嫌の悪さを隠そうともしていない。


「……で、何?」


 男性は風名を睨み付けてくる。


 青羽を置いてきて良かったと思った。だが、連れてきていたら、また何か助け船をくれたかもしれない。


 仕方なくここは謝罪し、早々と退散することにした。


「突然すいませんでした。お出かけするところ、引き留めてしまって……」


 深々と頭を下げ、きびすを返そうとする。


「あ、待って」


 そこで、慌てたように呼び止められた。


「いいんだよ、君が悪いことはないし。俺、これからコンビニに行くだけだし」


 男性は分厚い手をヒラヒラと振り、仏頂面を少しだけ和らげる。


「昨日の夜、上の階がうるさかったんだ。そのせいでまったく寝付けなくてさ……。こう見えてデリケートに出来てるもんで」


「それは大変でしたね……」


 この建物は新しく頑丈で、防音もしっかりしている。それでもうるさかったということは、よほど騒いだり、暴れたりした人がいたのだろう。


 男性は獣のように大きくあくびをした。そして風名に向き直り、取り繕うように頭を掻く。


「ま、隣だから何ってわけじゃないけど、一応よろしく。俺は相賀おうがだよ。風名君は……大学生?」


「今年から高校生です」


 眠たそうな細長い目が、そこで初めて見開かれた。


「ほんとかよ、見えねーな……」


「よく言われます」






 部屋に入るため、風名はドアノブを捻る。その冷たい感触にゾッとした。外の日差しは暖かそうだが、その外気がマンションの中にまで届いていないのだ。


 ガチャ――バタン。


 ドアの音がやけに大きく響く。何もない玄関を上がれば、室内に明かり一つなく、奥に進むほど薄暗い。マンション内とはいえ、青羽に何も言わずに外出したのは良くなかった。不安に思いながら風名は中に呼びかける。


「青羽?」


「おかえり」


 声はすぐ背後からした。


「うわっ!」


 伊予柑が二つ三つ、袋から転がり落ちる。心臓が飛び出るくらいに驚いた。振り返ると、そこには青羽が何食わぬ顔で立っている。


「お前……いつからそこにいた?」


 玄関から数歩、狭い廊下の一本道だ。風名がドアを開けたとき、一緒に外から入ってきたとしか思えない。


「ついさっきだよ。迷子のハトがいたから、道案内でもしようと思って」


「何だそれ? ……いたなら声かけろよ」


「そうしたかったんだけど……。風名がこわいお隣さんと話してたから、タイミング逃しちゃって」


「相賀さんか……。見た目はともかく、そんなに悪い人でもないと思うぞ?」


「風名が言うと、説得力あるね」


「どういう意味だ?」


「風名も普段あんな感じ。小さい子供とお年寄りと動物には優しいけど」


「う……」


 それは遺憾だ。直ちに善処しなければならない。


「あと……さっき階段でね、朝のお姉さんが三階に上がるのを見たよ。花柄のワンピースで着てた」


「ちゃんと挨拶したか?」


 すると青羽は真っ白な頬を膨らませる。まさに「まあるいほっぺ」と呼ぶに相応しい頬だ。


「なんか急いでたみたいで、僕に気がついてくれなかった」


「相変わらず、影が薄いんだな」


「風名みたいに、悪目立ちするよりマシだよ」


「うるさい」


 風名はしゃがみ込み、転がり落ちた伊予柑を拾い集めた。


 嫌な予感がする。だが――おそらく気のせいだ。


「とにかく……これから挨拶に行くぞ。三○三号室だな?」


「え? 今から?」


 キョトンとする青羽の手を引っ張り、二人で家を出た。三階にたどり着いたそのとき――






 ドスンッと鈍い音がした。


 何か大きなものが、落ちる音。


 そして、聞くだけで心臓をビリビリと痛ぶられるような、悲痛な泣き叫ぶ声がした。


 ホラー映画の大音量ではない。


 何か、尋常ではないことが起きている。


 そんな、ただならぬ空気を察した。


「……今の声、三号室からか?」 


「……多分」


 飛びつくようにインターフォンを押した。


 ……反応がない。


 直接ドアを叩いた。


 ドンドンと音を鳴らし、中に呼び掛ける。


「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」


 ……やはり反応はなかった。ドアに耳を押し当ててみるが、何も聞こえてはこない。


「……どうする?」


 風名は傍らの青羽に、助言を求めた。


「どうしよう?」


 青羽も困った表情で、風名を見上げてくる。


 試しにドアノブを捻ってみると、あっけなくドアは開いた。


「……鍵空いてる」


 中に入ろうとすると、青羽が服の袖を掴んだ。


「風名、誰か呼ぼう」


「……誰か?」


 風名は意図せず、自分の声が低くなるのを自覚した。


「誰を?」


 青羽は気にした様子もなく、答える。


「大人の男性」


 カッと、頭に血が上っていく。


 ここに頼れる大人の知り合いなんていない。青羽だって同じはずだ。それなのに、他の誰かを頼ろうとする発言は……気に入らない。


 もう十五歳になった。子供扱いはされたくなかった。


「……必要ない」


 わざと冷たく言い放った風名は、突き放すように青羽を振り切り、玄関に踏み込んだ。すると、靴の爪先に何かが当たる。


「うわっ!」


 思わず声があがった。


「どうかしたのっ?」


 青羽が飛び込んでくる。


 足元を見ると、女性物のパンプスがあった。どうやら、ドアよりに置かれてあったものにつまずいたらしい。段差の方には、男性物の革靴とスニーカーが、きっちりと揃えて置いてある。


「…………」


「…………」


 風名は誤魔化すように、奥に向かって呼び掛けた。


「すいません! どなたかいませんか?」


 部屋の電気は点いているが、返事がない。それどころか、物音ひとつしない。


「風名……あれ」


 青羽は脱衣場とトイレの扉が並ぶ廊下の向こう、ダイニングの方を指差す。


 スタンドランプが倒れている。


 そして、わずかながらに割れたマグカップの破片が見えた。


 迷うことなく、ダイニングに上がり込む。


「待って! 風名!」


 青羽も後ろから追ってくる。


 そこはひどく荒れていた。だが……誰もいない。


 玄関から見えたマグカップはペアだったらしく、色違いで二つとも床に散らばっていた。他にも皿、グラス、茶碗、お椀、湯飲み、急須など、食器全般が無惨な形で、転がっている。


「……空き巣か?」


「食器棚以外に、荒れた形跡はなさそうだよ?」


 青羽が開け放たれた空っぽの食器棚と、他の閉じられた引き出しや棚を交互に指差した。


 風名はさらに部屋を見渡す。


 必要な分だけ揃えられたようなカーテンやマット、家具類はどれも地味な色合いで、飾り気のない部屋だ。散乱した食器と開けっぱなしの棚を除けば埃もなく、掃除が行き届いている。


 部屋の数少ないアクセントであろう、観葉植物が風に揺れていた。ダイニングのバルコニーの窓は閉められている。どうやら隣の洋室から風が入り込んでいるようだ。


 導かれるように、風名はそちらへ向かった。


「風名! ……だめだよ!」


 青羽の咎める声が、後ろから聞こえてくる。


 だが、もはや遅く、風名は洋室に足を踏み込んだ途端、全身が凍りつくように動かなくなった。


 同時に、心臓が燃え上がるように激しく暴れる。


 そこは寝室だった。


 ごく普通のシングルベッド。ビジネスホテルのような真っ白なベッドカバー。


 風名の思考が止まっている。頭の中が真っ白で何も考えられない。


 白いシーツが真っ赤に染まっていた。


 真っ赤に染まったベッドに、人が横たわっている。


 うつ伏せで、長い黒髪がうねるように乱れている。


 ほっそりとした白い腕が、ベッドからはみ出すくらいに、無防備に投げ出されていた。


 白い花柄のワンピースがやけに華やかで――。


 風名の体に危険信号が走った。


 だめだ。


 息が出来ない。


 苦しい。


 吐きそう。


 クラクラする。


 ベッドの横には、小さなテーブルがあった。


 そこには一輪挿しと、白いチューリップの花。


 そして、その下に便箋。


 なめらかな細い自筆で、こう書かれていた。



『もう死にます』


『あなたのいない世界に 意味はない』


 どこかで風名を呼ぶ声がする。

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