第十二話 奈落の炎 風名side
朝からカーテンの閉めきられた部屋は、明かりが点いているにも関わらず、日中とは思えないほど薄暗かった。
……取り乱すな。ここは滑り台の下じゃない。
風名は両腕の拳を握りしめる。震えが止まらない。
夢と現実。記憶と幻。境界が曖昧になる。
ここに殺人鬼はいない。友達もいない。握っていたはずの小さな手も、当然……そこにはない。
全て過去に起きたことなのだ。それでも、あの日の出来事をもう二度と夢や幻にすることは出来ない。逃げたくても逃げられない。泣いても喚いても今更だ。
まるで生き地獄。奈落の炎は風名の中で、これから永遠に蠢き続ける。
涙はいつのまにか引っ込んでいた。泣いたせいか、潤いが欲しくなる。風名は洗面台に行き、汚れた顔を冷水で洗った。
ダイニングのテーブルで温くなっていた差し入れのミネラルウォーターを見つけると、それを掴み、一気に飲み干す。
たちまち空になったペットボトルを、片手で勢いよく握りつぶした。
「俺、風名君のこと、年齢のわりにやけに落ち着いてるっていうか、大人びた奴だなあって思っていたけど、今見るとやっぱ年相応に見えるよ」
ダイニングに置かれた二つの座布団と楕円形のテーブル。相賀さんは、どこか感慨深そうにそう語る。
「そうですか?」
それは良い意味か悪い意味か、気になるところだ。
これからどうするか、迷った風名は隣人宅を訪れていた。相賀さんは驚いていたが、特に理由も聞かず、中に招き入れてくれた。「いつでも頼ってくれ」の言葉は、社交辞令ではなかったらしい。
遠慮なく上がり込んだ風名に、お茶とお菓子が出される。ティーセットと小皿で用意されたハーブティーとクッキー。……意外にもなかなか気の利く人のようだ。
部屋は散らかっているという程でもないが、雑多な生活感にあふれていた。あちらこちらで書類や本が平積みになっていている。部屋の隅のポールハンガーには、未だに冬物のコートが吊るされていた。
同じ間取りなのに、風名の部屋とは全てがまるで違って見える。
風名はふと、テーブルの上の原稿に目が留まった。
『3月14日はホワイトデー&円周率の日! 真っ白で永遠の誓いをしよう!』
その日付が今日だったため、思わず読み上げてしまう。
「今日は円周率の日……なんですか?」
「そ、それは先々月に書いた没案だよ!」
相賀さんは慌てて原稿を掴み取り、後ろに隠した。
「女性誌の記事は苦手なんだ……。女心を掴むセンスってやつが皆無でね。酒と女にだけ気をつけりゃ、人生上手くやれるって、どっちにも目がない俺の親父がよく言っているけど、どっちにも縁の無い俺が何故か上手くやれていない。俺も風名君のようだったら、もっと人生違ったんだろうけど……」
何故か引き合いに出されたが、風名だって全く同じ立場だ。勝手に原稿を読んだことを反省しながら、風名ははぐらかすようにお茶を飲む。
「……美味しいですね」
出されたハーブティーはカモミールだった。風名はお世辞でなくそう言う。
すると、相賀さんはニヤリと笑った。
「だろ? それに落ち着くんだ。俺は夜寝る前に必ず飲んでる。酒を飲んで寝るよりよほどいい。前にも言ったけど、こう見えて繊細なんだよ」
それは……良い趣味をしている。微笑ましいギャップに、風名は自然と笑顔を返す。
先ほどの福田さんの言葉が、頭をよぎった。
――風名君はまだ中学生なんだから、向き合えないことや抱えきれないことがあっても、恥ずかしいことではないんだから。
その通りだ。今の風名には、誰かの力が必要だった。
「相賀さん。俺は……十年前ここで起きた『木漏れ日荘事件』について、詳しく知りたいんです」
相賀さんは風名に少し待つように言い、別の部屋から一冊のファイルを持ってきた。
テーブルの狭いスペースにドサリと置かれる。かなり分厚く、年季の入った汚れ方をしていた。背表紙に書かれたファイル名と日付を見て、風名は驚く。
「これって……事件の記事ですか?」
相賀さんが、照れるように頭を掻いた。
「……俺がこの仕事に就きたいと思ったきっかけなんだ」
どうやら、長年切り抜いて集めてきたスクラップ帳らしい。別に聞いたわけでもないのに、相賀さんはそのいきさつを話し始める。
相賀さんが「木漏れ日荘事件」を知ったのは、高三に上がる前の春。ちょうど進路に迷っていた時期だ。
衝撃的なニュースに強い興味を引かれながら、世間というものや司法というものに、言葉にならないような激しい嫌悪感と不審感を持ったらしい。それから、これまで読まなかった新聞や雑誌に目を通すようになり、切り抜きを始めるようになった。
そのうちに報道の在り方とは何か、社会の在り方とは何か、と深く考えるようになり、やがて報道に携わる仕事をしたいと、高い志を持つようになったのだ。
風名はそんな話を、クッキーとカモミールを味わいながら、失礼のないよう小まめに相づちを打ちつつ、聞き入る。仕事上詳しいだろうと、わずかな期待を寄せて来たのだが、思わぬ収穫だ。
相賀さんはしばらく熱弁をふるい、ようやく本題に入れたのは、風名が入室して、およそ十五分後のことだった。
「どうして……この人は逮捕されたんですか?」
風名が最初に確認しておきたかったこと。それはお兄さんが逮捕された理由だ。
ファイルの中の新聞の切れ端、そこに書かれた名前、日野上清人。お兄さんの本名を、まさかこんな形で知ることになるとは思わなかった。
「子供が複数犠牲になったら、まず、そこで浮かび上がる犯人像があるんだ。真犯人が犯人像から遠ざかれば遠ざかるほど、捜査は難航する。“子供狙い”の“猟奇的な”犯行。事件をそう見せかけることが真犯人の狙いだったからさ」
「……どういうことです?」
相賀さんの説明は非常に遠回しに聞こえた。そのまどろっこしさに、風名は眉を寄せる。
「犯人は予想していたんだ。公園で複数の幼児の遺体が発見されれば、疑いの目が真っ先に日野上清人に向くことを。公園で子供達と遊んでいるところを何度か目にしていたんだろうな。その上で、容疑が完全になるよう偽装工作した」
つまり、いつも優しかったお兄さんは、卑劣な人間の罠にかけられた。
風名は相賀さんに思いを悟られないよう、両手の拳を握りしめ、静かに歯を食いしばる。
「……偽装工作って、犯人は何をしたんですか?」
相賀さんはスクラップ帳をめくりながら、懇切丁寧に答えてくれた。
「犯人は幼児殺害のあと、日野上清人の自宅に侵入し、あらかじめ盗んでおいた口紅と香水、手編みのニット帽、殺害した幼児の履いていた靴下を忍ばせたんだ。翌日、家宅捜査した警察は、まんまと工作に嵌まり、日野上清人を逮捕した」
口紅、香水、手編みのニット帽……おそらく、口紅と香水はそらちゃんとれみちゃん、手編みのニット帽はよう君がかつて使用していたものだろう。
そして、風名の記憶によれば、それらは確実に、当日の三人が持っているはずのないものだ。
だけど、犯人は一体どうやって三人のことを知り、それを盗み出し、お兄さんの部屋に忍び込ませたのか。
「……そんなこと、可能なんですか?」
相賀さんの鋭い眼孔が、そこで開かれる。
「可能な人物が一人だけいるのさ。それを裏付ける証拠として、日野上の自宅にて採取された毛髪の中に、真犯人だと思われる人物とDNAが一致するものが見つかっている。その人物が……」
風名は緊張に身を強張らせながら、その名を聞く。呼吸を忘れそうになる。
菅地舜馬、木漏れ日荘近くに住む、塗装アルバイトの男。
「木漏れ日荘事件」のもう一人の被疑者。
菅地舜馬が新しい被疑者として浮かび上がった経緯は驚くべきものだった。そして、彼の存在の浮上により、日野上清人犯人説一色で染まっていた世間は、瞬く間に手のひらを返したらしい。
「四月上旬の深夜、不幸にも日野上清人が警察病院で亡くなって間もなく、紙折市のアパートで煙が上がっているという通報があった。消防士が駆けつけ、火はすぐに消し止められたが、そこで菅地舜馬の焼死体が発見された」
「焼死体?」
風名は驚いて声を上げた。
「ああ。警察の調べによると、菅地は自宅で練炭自殺を図ったところ、室内にあった仕事道具の塗料が引火し、横たわっていた菅地に燃え移った。室内で抵抗した痕跡はあったようだが、一酸化炭素中毒により菅地は意識を失い、そのまま焼け死んだらしい」
「つまり……自殺と事故の両方ですか?」
「そういうことだね。現場からは練炭の燃えかすが発見され、前日に近所のホームセンターで菅地自身が購入するのを目撃されている。アルバイト仲間の証言によると、一月程前から、眠れないとこぼしていたり、精神的に追い詰められた様子が見られたらしい」
あっけない幕切れだと思った。風名があの悪夢の日から逃れることができないように、その人も逃れることができなかった。
彼は身も心も、奈落の炎に焼かれてしまったのだ。
「本当に……その人は自殺しようとしていて、本当に火災は事故だったのでしょうか?」
「そのようだよ。あえて不審な点をあげるとすれば、遺書は燃えてしまったのか、元から無かったのか見つからなかった。室内の施錠はしっかりとされていたが、密閉空間としては不十分で、練炭自殺を選ぶ場所として適切とはいえない。実際、隙間から煙が上がっていたわけだしね。あと、これは関係あるのか分からないけど……」
部屋の温度が少しずつ冷えていく。日暮れが近づいているようだ。
「通報した近隣住民が、“青い炎の鳥を見た”という証言をしたらしい。おそらく、炎色反応による青い火がそう見えたんだろう。現場にあった市販の塗料は銅の成分が強く、日野上の体外にも付着していたらしい」
――青い炎の鳥。
ヒヤリと冷気が肌を撫でる。テーブルのカモミールはいつのまにか冷めていた。
「……風名君? また顔色悪いけど、大丈夫?」
これまで話すことに夢中だった相賀さんが、風名の顔を覗きこみ、気遣ってくる。
「大丈夫です。……続けて下さい」
風名は話の続きを促した。これ以上、事実から目を背けるわけにはいかない。
「でも……」
「続けて下さい」
思わず語気が荒くなる。相賀さんの頬が少し引きつった。
「そ、そうかい? それじゃ……警察による、火災の原因を探るための家宅捜査で発見されたのが、これまで菅地が業者を装い、木漏れ日荘に不法に侵入していたという犯罪の痕跡、証拠の山だった」
風名の記憶の中の犯人。見知らぬ大人の男が着ていた作業着と帽子。
あれが……菅地舜馬。そしてあの服装は業者を装い、団地内に侵入するためのものだったのか。
「木漏れ日荘に出入りする不審な人物の目撃情報は、事件前や事件当日にもいくつかあったらしい。その人物の特徴にばらつきがあり、事件とは関連がないと判断された。数多くのアルバイトを転々としてきた菅地の部屋には、これまで変装に使ったとみられる、あらゆる業種のユニフォームが保管されていた。それと共に、使いこまれたピッキングツールも発見された」
「……ピッキングツール?」
「鍵屋の道具だよ。それがあれば鍵が無くても錠前を解錠できるんだよ。菅地にとって監視カメラもなく、人目のつかない立地で、鍵も古いシリンダータイプの木漏れ荘は格好の獲物だった。常習的に侵入するのにね。それをいいことに奴は毎日のように木漏れ日荘に忍び込み、窃盗、盗聴、盗撮を行った」
「一体……何が目的で……」
風名の肩が震える。
――あの事件が起こるまで、家族と平和に暮らしていた。そう思っていたのは、ただの思い込みに過ぎなかった。
平和に見えた日常は、すでに見知らぬ侵入者によって、刻一刻と脅かされ続けていたのだ。
相賀さんは、威勢よく答えた。
「団地妻狙いだよ。木漏れ日荘に住む人妻達をターゲットに、隠れてストーカー行為を行っていたんだ」
風名は絶句する。――だが、これで全ての事象に合点がいった。
「口紅や香水、手編みのニット帽は、別の目的であらかじめ盗まれていたというわけさ。子供の所有物ではなく、母親の所有物として……」
そこで日差しが弱まり、室内の温度は急激に落ちていった。
たびたび訪れる静寂が、部屋のアナログ時計の秒針の音を際立たせる。まるで、忘れそうな息継ぎを促すメトロノームのようだ。
「風名君は……どうして十年前の事件に興味を持ったんだい?」
風名の神経はもはや疲弊しきっていた。気を抜けば意識がどこかに飛びそうだ。それでも言葉は自然と出ていた。
「俺が、そのとき公園にいた、子供の一人だからです」
冨永さんはしばらく口をあんぐり開けていたが、やがて真面目な顔になった。
「風名君……確認してもいいかい?」
「はい」
「君はもしかして……奥森循君?」
「そうです。風名は母方の姓です」
「そうか……君が……」
相賀さんは狐につままれたような顔で、風名を仰ぎ見た。
「君のことは非公開だったけど……聞き込みによって、だいたいのことは知っていたよ。近所で有名な子供だったってね。確かに君は……見た目の特徴と年齢が、奥森循君と一致している……」
相賀さんの息が次第に荒くなり、一瞬テーブルから身を乗り出そうとしたが、自ら留まり、呼吸と腰を落ち着けた。
「……当時のことは、覚えている?」
「覚えている……というか、思い出しました」
「これまでは、思い出せなかった……ということかな?」
「これまで……というか今もですけど、幼少時の記憶がところどころ抜け落ちているんです。だけど、ここに引っ越してきてから、過去のことを夢に見るようになって、記憶が戻ってきました。実はまだ……どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、整理できていないんです」
「それを整理するために……ここに来たのかい?」
「そんなところです」
「当時のことを、僕から質問しても大丈夫? ……無理はしなくていいけど」
相賀さんはどこか申し訳なさそうに、そう言った。
「はい。あくまで答えられる範囲で良いのなら……」
「充分だよ。それじゃあ……君はその日、いつものように、みんなと公園で遊んでいたの?」
「いいえ。その日は公園で遊ばず、一人で街を出歩いていました。帰る前に友達に会おうと思って、公園には夕方頃に立ち寄りました。もうすぐ鐘が鳴るって急いでいたのを覚えてますので、時間帯は十七時少し前だと思います」
「となると……その後、通報されるまでの間、風名君が現場にいたのは、およそ二十分ということだね。……公園はどんな状態だった?」
「みんな殺されてました。犯人はまだそこにいて、そらちゃ……双子の女の子の一人をシーソーに引きずっていました……まるで物を扱うみたいに。俺は何が起きているのかよく分からないまま、ただ恐ろしくて、滑り台の下に隠れました」
「犯人は……君に気がついた?」
「分かりません。もう一人の双子の女の子を引きずって、滑り台まで向かってきたところまでは見ています。そのあとは……ずっと膝を抱えてうずくまっていました」
「犯人の顔は見た?」
「見ました。菅地だと思います。若い男の人で、帽子を被って、宅配業者の格好をしていました」
「君の他に、見た人はいる?」
「……いません」
風名は嘘をついた。つぐむのことだけは、誰にも話したくなかった。
誰がその存在を証明するだろう? つぐむとの思い出を語り合える友達は……もう誰も……この世にはいないのに。
「今日のところはここまでにしよう……」と、そこで相賀さんは切り換えるように、立ち上がった。
「あ……え? いいんですか?」
風名は拍子抜けして、顔を上げる。
「ああ。今回は取材じゃない。少し、話をしただけだ。あまり長居させてしまっては悪いからね」
そこで風名は、自分の視界が滲んでいることに気がついた。
風名は指でさっと拭い、相賀さんはそれについて何も触れなかった。ただ労るように背中を押され、玄関に送り出される。
「今日はゆっくり休んでくれよ。良かったら、また話そう。ハーブティーとクッキーならいつでも用意するから」
「今度はうちに来て下さい。紅茶とスコーンを用意します」
冗談めかした相賀さんの言葉に、風名が真面目にそう答えると、冨永さんは緊張のほぐれた顔で、声を立てて笑った。
「あ……風名君、ちょっと待ってくれる?」
ドアを開け、立ち去ろうとすると、相賀さんが呼び止める。重い体で、ドシドシと足音をたてながら奥まで走って行ったかと思うと、小さな包みを持って戻ってきた。
「これ……御守り。親父のような生臭坊主がやってる寺だから、ご利益ないかもだけど……。気休めにはなるだろうから、持っててくれよ」
「酒と女に目がないっていう、相賀さんのお父さん……和尚さんだったんですか?」
「ああ。世も末だろ? 実家の寺は真面目な弟が継いでくれるもんだから、俺も不摂生が祟ってこの体型さ」
寺息子だと聞けば、相賀さんの霊感にも不思議と説得力が増してくる。御守りは、銀色の繊細な鎖に小振りの鈴のついたブレスレットのような形をしていた。
「珍しいデザインですね」
「ああ。鎖は絆や強い結び付きを意味し、鈴の音は人の心を落ちつかせてくれる。この御守りを身に付けた人は、仏様をより近くに感じられて、あらゆる邪気から身を守ってもらえるらしいよ」
風名はお礼を言うと、相賀さんのお宅をあとにした。




