第十一話 深淵のオフィーリア 渡波side
――ギャラリーカフェ「マラカイト」
それは紙折駅から少し歩き、昔ながらの商店街を抜け、河川敷へとつながる狭い通りに建っていた。
木製の小さなテーブルに、ステンドグラスのシェードランプ。外観はこじんまりとしているが、店内はカントリー風で垢抜けた雰囲気がある。
個人経営の店でスペースは広くないが、希望すれば、自作の絵や写真、置物などを無料で展示することが出来るらしい。カウンター付近には手作りの小物、アクセサリーが販売されていた。
このカフェの存在を、渡波は昨日知ったばかりだ。
参加したボランティアの最中、多趣味で活動的な主婦達に押し付けられるように渡されたビラやチラシ。その内容はバザーだとか絵本の読み聞かせだとか、手芸教室だとかチャリティーだとか。
その中にまぎれていた「マラカイト」の小冊子。渡波は思わず興味を引かれ、足を運んだ。
渡波が興味の引かれた対象――それは店内の奥、中央の壁にあった。
一目見た途端、渡波は圧倒された。
徹夜明け、充分に睡眠をとった後の午後のコーヒーブレーク。
カップを片手に、渡波はスマートフォンで「木漏れ日荘事件」の記事を読み返す。
『二◯◯◯年、三月十三日。紙折市。午後五時二十分頃。
夕方の五時を過ぎても、家に帰ってこない我が子を迎えに行こうと、市営団地「木漏れ日荘」に住む主婦が、団地の裏 にある公園で、我が子を含む四人の幼児の遺体を発見。騒然となっているところを、近所の住人が駆けつけ、通報した。
死亡推定時刻は発見からおよそ二時間以内、午後三時から午後五時の間。四人とも他殺とみられる。殺害された四人を含む、六人の幼児がこの公園で遊んでいたことは、家族を含め、近隣に住む人々の周知であったが、当日の目撃情報はなかった』
「木漏れ日荘事件」には未だ多くの謎が残されている。その一つが真犯人。被疑者は二人。どちらも、もうこの世にはいない。
一人は、被害者である幼児達と同じ、「木漏れ日荘」に住んでいた美大生、日野上清人。
彼は事件直後からしばらく、凶悪な犯罪者のように扱われていたが、現在は冤罪という見方が定着している。
日野上清人は事件の半年程前から、六人の幼児達と公園で遊ぶ姿を、同じ団地や周辺に住む人々に数多く目撃されていた。
その目撃証言により、容疑の目を向けられるようになった。
日野上は事件当日、大学を休んでおり、任意同行の際には、その日は体調が悪く、家で寝ていたと供述。一人暮らしの下宿だったため、アリバイを証明出来る者もいなかった。
そして、具体的な「動機」が浮かび上がらないまま、注目されたのが、日野上の異常なまでの「オフィーリア」への傾倒だった。
「オフィーリア」は、シェークスピアの戯曲、ハムレットの登場人物。悲しみに正気を失った彼女は川に落ち、歌いながら溺れ死んだ。日野上は彼女を描いた名画に心を打たれ、画家を志したという。
彼の部屋からは、事件現場であるうらぶれた公園の風景画と、子供達のスケッチ、そして、大量の書きかけの「オフィーリア」の絵が発見された。
どれも、若く美しい女性が水面や水底で息絶えている絵だった。
「死体愛好家」による、猟奇的殺人。
そのような見出しで、マスコミは偏狭的にこの事件を報道し、世間を震撼させた。
日野上は逮捕されてすぐに、警察病院で亡くなった。元々、症状の重い喘息を患っており、三月は季節の変わり目なのもあって、状態が良くなかった。極度のストレスも原因したと思われる。
このカフェは、そんな日野上清人の描いた未発表の作品の数々を、変則的に展示している。今、コーヒーを味わう渡波の目の先にある絵画が、その一枚だ。来週になれば、また違う絵に変わるらしい。
「深淵のオフィーリア」と題されたその絵は、油彩で淡く鮮やかに描かれている。
豊かな栗色の髪が水の流れに任せてたゆたい、乙女を取り囲む水飛沫は虹色のガラス玉のよう。水を吸い込んで膨らむ白いドレスは、今にも浮き沈みしそうなほど立体的だ。
乙女は眠るように目を閉じ、その表情はどこか満ち足りて微笑んでいるように見える。
その背景はただひたすらに青と緑のコントラストだ。吸い込まれそうに深いのに、近づきがたいほどに神聖な水の中。川の底にはとても見えない。
物語を写実的に表現したものでないのなら、この絵は何をテーマに描かれているのだろう?
渡波はコーヒーを飲み干し、一息つく。しばらく絵ばかり眺めていたせいで、首が痛い。
他の場所に目を向けると、テーブル近くに本棚があった。『木漏れ日荘事件の真実』という単行本が目に入り、引き寄せられるように手に取る。
なんだか著者の名前に見覚えがあるような気がした。表紙を開き、著者紹介の顔写真を見て合点がいく。やつれた頬に細長く鋭い目。前に堀井のタブレットで見せてもらった『心霊ジャーナリスト』だ。
「その本、数年前にベストセラーになってましたよね」
カウンターから店主が声をかけてきた。
「そうなんですか?」
「ええ。おかげで一時期このカフェも凄かったんですよ。悲劇の天才画家、日野上清人の絵を一目見ようと、全国からお客さんがひっきりなしにやってくるんです。今はぼちぼち……と言ったところでしょうかね」
店主が渡波のテーブルまでやってきて、「サービスです」と、空になったカップにコーヒーを注いでくれる。
注がれたコーヒーは淹れたてなのだろう。カップから沸き上がる香りは芳醇で、渡波のもつれた思考をほぐしてくれた。
「あの……この絵には何かテーマとか、メッセージがあるんでしょうか?」
渡波は店主に聞いてみる。
「実際のところは描いた日野上しか分かりませんが、解釈は様々ですね。例えば、『閉鎖的な世界からの脱却』とか『自由な世界への憧憬』、『苦しみからの解放』、あとは……『死への安らぎ』」
「どれも、しっくりくるような気がします」
渡波は分かったようにうなずいた。
「お客さんは、学生さんです?」
「そうですけど?」
店主は三十代くらいの、短髪で日に焼けた肌の男性だった。店内には今、店主と渡波の二人しかいない。話しかけられるのも無理はなかった。
「うちはよく美大の学生さんとかが、この作品を見に来られるんですよ。お客さんも洋画やってるんですか?」
「あ、いえ、この店のことはたまたま知りまして……。俺、美術とかやらないし、詳しくないんです」
店主は少し、意外そうな顔をした。
「そうでしたか。すいません。あまりにも熱心に御覧になっていたもので、てっきり絵をやってる後輩でも来たのかと」
「全然、そんなんじゃないです。なんというか……綺麗な色だと思って」
渡波の陳腐な感想に、店主は健康的に引き締まった頬を綻ばせる。
「はい。僕も絵をやっていて、色に対するこだわりは強い方でしたが、日野上の色使いは理想そのものでした。一体どうやってこんな色出してるんだ? って、今でもヤキモキさせられますよ」
「日野上さんとは親しかったんですか?」
「日野上とは高校と大学が同じで、僕が一方的にライバルだと思っていました。コンクールでは一度も勝てたことがなく、狙っていた美大の推薦枠も、彼に取られてしまいました。レベルの差は歴然としていたのに、まだ青かった僕は、張り付いてでもその技術、奪ってやろうと粋がってましたね」
何故か、地元の同級生達の顔が浮かんだ。そして大学で会った仲間達の顔も。
肩を並べて笑っていられた去年までは良かった。だけど今年で、すっかり置いていかれてしまうだろう。沸き上がる湿っぽい気持ちに引き摺られそうになる。
渡波はわざとらしく、明るい声を出した。
「店主さんの絵も、ここに置いてありますか? 俺、見てみたいです」
すると、店主は困ったように笑った。
「いやいや……僕なんかの絵じゃ、コーヒーが不味くなりますよ」
「まーたまたご謙遜を……。店主さん、なんか常人にない芸術家オーラ出てますよー」
「そんなにおだてていいんですか? 浮かれて僕、展覧会開いちゃいますよ? 招待するのはお客さん一人ですが」
「それはまずいですね。ここの常連さんが嫉妬するじゃないですか」
「ははっ」
店主は声を上げて笑ったが、その笑顔はたちまち消える。
「……お客さん、日野上とは全く違いますね」
「……はい?」
「似てると思ったんです。だから懐かしさに負けて、つい話したくなってしまいました。……すいません。こんなこと言ったら困らせてしまいますね」
「あ、いえ……どんな人だったんですか? 日野上さんって」
「物静かで大人しいのに、絵に対しては情熱的で、そのギャップが印象的でした。昔から病弱で外で遊べない分、家の中で絵ばかり描いていたそうです。いつも顔や服を絵の具だらけにしていました。絵の具で汚れたら悪いから、自分の部屋には誰にも入れられないとも言っていましたね。そんな変わったヤツだから、近しい相手は僕くらいのものでした」
「日野上さんは、本当に絵が好きだったんですね」
「ええ。特に大学に入って一人暮らしを始めたら、脇目も振らずに描くようになりました。飲まず食わず、連日徹夜で描き続けては、救急車で運ばれたりして……。心配で僕は、何度も彼の団地へ様子を見に行ったものです。そんな彼は、そのうち“天才”として名を馳せるようになって、どんどん僕から遠い存在になっていきました」
「天才がそんなに頑張ったら、そりゃ誰も敵いませんよ」
もし彼が生きていたならば、今頃、渡波が知るほどの著名人になっていただろうか。
「はい。だけど、脚光を浴びれば浴びるほど、そんな日野上の在り方を、否定する人も増えていきました。芸術のため、悪魔に魂の契約でもしているのかと揶揄されたり……。でも、それは違います。日野上の魂は、悪魔が持っているのではなく、今も絵の中にあるんです。俺はそれを俺のエゴで引き取り、こんな店に飾ってしまいました」
その言葉に、渡波は心を打たれた。日野上清人の運命は悲劇的だったかもしれないが、いい友人に恵まれた。
「……良かったじゃないですか。このカフェがなければ、日野上さんの絵を見ることが出来なかった人が大勢いたんです」
「ありがとうございます。今は落ちついていますが、反発もあったんです。飲食店で死体の絵を飾るなとか、悲劇を客寄せに使っているとか、そういった苦情も来たりして」
「それは……大変でしたね」
「覚悟の上で、選んだ道ですから。だけど実は……とても公には飾れない、秘蔵の絵もここにはあるんです」
そこで、店主の目があやしく光った。
「何です? その絵って」
渡波はごくりと唾を呑む。
「見たいですか? 僕の絵じゃないですけど、お客さんだけになら特別に、見せてもいいですよ」
店主は片目をつぶり、誘いかける。
ただの冗談で接客テクニックだ。そう思った。本当に何かまずいものがあるのなら、今日初めて来店した渡波なんかを誘うはずがない。
だが、人は何かを語りたいとき、その目は言葉以上に雄弁になる。
店主の目はとても冗談を言っているようには見えなかった。
渡波は答える。
「お願いします」
店主がテーブルに持ってきたのは、スケッチブックだった。
店内には相変わらず静かで、他の客が入店してくる様子がない。
「大丈夫ですよ。扉には準備中の札がかかってますから」
店主が人差し指を自らの口に当て、そう告げた。
「あのこれって……」
「日野上のスケッチブックです。幸い、警察にも押収されず、彼が死の間際まで手離さなかったものですよ」
秘蔵とはそういうことか。
渡波はテーブルの上、震える手でスケッチブックを開く。
そこには数多くのスケッチやデッサンが残されていた。めくっていると、やがて公園の風景と、そこで遊ぶ子供達が現れる。
一度現れると、子供達の姿は消えない。めくってもめくっても続いていく。
男の子が三人、女の子が三人。どの子も生き生きとして、今にも動き出しそうだ。
そこに知っている顔があった。時を止めた幼い姿で。
風名。
一目で分かった。面影が残っている。だが実物を知らなかったら、空想の天使だと思ったかもしれない。
「日野上はずっと木炭派だったんです」
店主は呟くように言った。
「なのに、ある日突然、鉛筆に変わりました。どうしたんだ? って、僕が尋ねたらあいつ、何て答えたと思います? 近所の公園に子供達がいて、その子達の頭を炭で汚れた手で撫でたくないんだって。……笑ってしまいましたよ」
そこから先は、ほとんど聞き取れなかった。
「あんな……なければ……」
あんな事件さえなければ……だろうか。
そこで、渡波は事件の記事を思い出す。
犠牲になった子供は四人。男の子が一人、女の子が三人。そして、現場に取り残された子供が一人。
あれ?
渡波はふと、スケッチブックに描かれた子供達の数を数えた。
一、二、三、四、五……六人。
そのとき、傾けたスケッチブックからパラリとテーブルに落ちた。何か挟まっていたらしい。
「あ、すいません!」
それはB5判ほどの薄い紙束だった。テープでまとめて、本に見立てている。
「こちらこそ、伝えてなくてすいません。はさんであったものを当時のままにしていたんです」
渡波はスケッチブックをひとまず店員に返し、紙束の方に目を向けた。明らかに日野上清人の作品ではない。
表紙はぐちゃぐちゃとクレヨンで黒に塗りつぶされ、上の部分は赤い字でタイトルらしき文字が踊っている。
『まじゅつしょ』
「あの、これって……」
「公園の子供達が描いたものでしょうね」
ページをめくり、渡波は驚いた。
間違いなく、それは子供のラクガキ帳だった。全て色鉛筆かクレヨンで描かれている。
だが、問題はその内容だ。
まず一ページ目。描かれているのは人間の形と、その首元に向かう手首から先のない、二つの手。
その隣に、それを説明するような文字があった。
『くびりて』
『みずからのりょうてをせつだんし のろいをかけ にくいあいてをくびりころす』
渡波はまたページをめくった。地面に埋まっている描かれた無数の人のようなもの。その中央に描かれているのもおそらく、両手を上げた人間だろう。
『ひきじごく』
『じごくのもうじゃが じめんからはいでて のろいをかけたあいてを じごくにひきずりおとす』
「子供って残酷で怖いものが好きですよね。絵本にもそういうのありますし」
店主が呑気にそう言う。――そんなものだろうか? 渡波にはよく分からない。
「一応元ネタを探してみたんですよ。だけど、全然見つかりませんでした。見つかったのは最後のページだけですね」
それを聞いて、渡波は最後のページまでめくった。 そこには燃え盛る炎の赤と黒の人型のシルエット。肩だと思われる位置に翼を広げた青い鳥のようなものが乗っている。
そして、こう書かれていた。
『まがおうさま』
『わるいやつをやきつくす まがどりをしたがえる』
『まがどり』
『さいやくをもたらす きょうちょう』
「まがどり……」
「その鳥、青く燃えてるように見えませんか? 関係あるかは分かりませんが……」
店主はスケッチブックをめくり、渡波に差し出す。
「日野上が病床で最期に描いたもの。それが炎の鳥……おそらく不死鳥です」
その鉛筆画を目にした渡波は、声を上げそうになった。
当然ながら、子供のクレヨンの絵とは訳が違う。黒い線が幾重にも白い画面を覆いつくし、燃えるような羽を広げ、威嚇する鳥の形で浮かび上がってくる。
若い絵描きの命が燃え尽きる瞬間。その壮絶な最期を想像させるような、禍々しい迫力がその線にあふれていた。
「日野上はこの鳥に、どんな色を付けるのでしょうか
? 僕はその色を見たかった……」




