第十話 悪夢の日 風名side
まだ中学に上がったばかりの頃、風名は放課後に行くあてを探していた。
教室に残る気もなく、家に帰る気にもなれない。部活に入りたくもないし、寄りたい場所もない。
校舎を少しぶらついていたが、いつのまにか、そこから少し離れた旧校舎へと吸い込まれる足が向かった。
その旧校舎は老朽化がひどく、近々取り壊される予定だった。立ち入り禁止のため、当然も人の姿はない。
その環境は風名にとって、たまらなく魅力的に思えた。
中庭に入り、生い茂った大木の下にベンチがあるのを見つけると、そこに腰かけ……気がついたら眠っていた。
そして――どれくらい眠っていただろうか。
「起きてよ」
小鳥のさえずるような声がした。
風名はまどろみの中でうっすらと目を開け、声の主を探す。
辺りは静かで誰もいない。風に揺れる木々が、ささやくように音を鳴らすばかりだ。
空耳だったかと、また目を閉じた。すると、先程よりしっかりとした声が聞こえる。
「起きないと……毛虫を落とすよ」
「それは困る」
風名は起き上がった。そしてもう一度声の主を探した。
すると……見つけた。二メートル程斜め上空、太く曲がった枝の上に、誰かが座っている。
照りつける西日が邪魔をして、相手の顔は上手く確認出来ない。だが、その体格は小柄で、ここの男子生徒の制服を着ていることは分かった。
「……そんなところで、何をしているんだ?」
「…………」
「いつから、そこにいるんだ?」
「…………」
「どうして、そこにいるんだ?」
木の上の生徒は何も言わない。扱いに困った風名は一か八か提案してみた。
「えーと……せめて、枝を揺らすか何かして、意思表示だけでもしてもらえないか? ハイなら一回、イイエなら二回とか」
サワ……
一回だけ枝が揺らされ、葉擦れの音がした。
「今のは、ハイという意味?」
サワ……
また一回だけ枝が揺らされる。
「そこ危なくないか? 下りてこいよ」
サワサワ……
「ひょっとして……俺のこと嫌いか?」
サワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワサワ……
激しく枝が揺さぶられると同時に、まだ青い葉が、風名に向かってパラパラと落ちてきた。
え? え? ……どっちだ?
ほんの冗談で聞いたのに、過剰すぎる反応に呆然とする。
そのうち、木の葉に混じって何か黒いものまで、ぼとぼと落ちてきた。
見下ろして確認すると……毛虫だ。
「わ、分かった……。悪かった! 変な質問して!」
怒らせたのだと思い、慌てて謝ると、小枝揺らしはピタリと止まる。
風名は胸を撫で下ろすと、改めて頭上を見上げた。
あんなところまで……一体、どうやって登ったんだ?
木の幹は太く、そんなに容易く登れる木ではない。風名の身長でも、最初に足をかけられるような枝まで、かなりの高さがある。
おそらく、最初に踏み台を使って、それから枝から枝へと伝っていったのだろう。
周りに脚立らしきものはない。踏み台になりそうなものは、風名が今座っているベンチだけだ。
そうなると……。
風名がベンチに座っている限り、木の上の生徒は下りることが出来ない。
いや、違う。風名がベンチにいたせいで、下りることが出来なかった。つまり風名が寝ている間ずっと……。
風名はベンチから立ち上がり、叫んだ。
「これまで気がつかなくて、すまなかった!」
すると、生徒は小首を傾げたように見えた。
「今すぐ下りてきてくれ!」
「……本当にいいの?」
ためらうような、もったいぶるような、そんな声がする。
「いいに決まってるだろ!」
「……じゃ、遠慮なく」
生徒は枝の上から、まっすぐに姿勢を正したように見えた。
そして――次の瞬間には、風名の目の前にいた。
何が起こったのか、理解するのに数秒かかった。
冷静になれば単純なことだ。瞬間移動ではない。
落ちてくる重量をまるで感じさせず、両足で着地したのだ。
――背中に羽でも生えているのか?
相手は小柄だが、ベンチの上に立っているので、風名より目線が上になる。
人を見上げるという、新鮮な気持ちを味わいながら、風名はしばらく惚けたように見つめていた。
真新しいブカブカの制服が、いかにも新入生といった感じで眩しかった。
校舎から終業のチャイムが聞こえてくる。
それが青羽との出会いだった。
くしゃみが出た。
いつのまにか、うたた寝をしていたのだ。夢の中にあった光景が、さざ波のように消えていく。残るのは固くて冷たい、フローリングの感触だけだ。
「……青羽?」
試しに呼んでみた。
何もない部屋はガランと静まりかえり、まるで空っぽな自分を表しているようだ。
――どこを出歩いているのだろう? 人には寄り道するなと言っておいて。
押し寄せる疲労感と、絶望感。だけど、すぐに何もかもがどうでも良くなった。
心を占めるのは、果てのない虚無。
そこへまた、インターフォンが鳴った。今日は来客が多い日である。体が自動的に玄関まで動く。……人間、完全に無気力になることは、意外と難しいものだ。
「今日は。風名君」
来客は福田さんだった。手に提げたバスケットには、大量のから揚げ。引っ越してきたとき、貰った量の倍はある。
「すごい量でしょ?」
福田さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「私ね、昔から作りすぎてしまう癖が抜けないの。夫を亡くして、娘も嫁いで、一人暮らしになっても変わらずにねえ。だからそのたびに、こうやってお裾分けにまわっているの」
福田さんはそこで、わずかに表情を硬くする。
「今日、一階の内海さんのお宅に行って少しお話したんだけど……。内海さん、風名君に申し訳ないことをしたって、そう言っていたわ」
「申し訳ないなんて……とんでもないです」
昨日の捜査で、駒木さんは自殺と断定され、内海さんは死体損壊の罪に問われた。通報した風名は調書だけ取られ、すぐに解放された。
風名が疑われず、捜査が長引かなかったのは、内海さんが自らの不利な事実も隠さず、証言してくれたからだ。風名は内海さんの勇気に感謝していた。
近所の人に余計な心配をかけないよう、福田さんにその説明をするが、風名の声はところどころで震え、何度もつっかえてしまう。昨日の衝撃から立ち直れていないことは、一目瞭然だった。
どんな経緯があれ、人ひとりが死ぬ不条理を、そう簡単に受け入れられない。あんなこと、起きなければ良かったのだ。
「風名君……」
うつむいた風名の頭に、温かい手のひらが当たる。風名は自分の頭が撫でられたことに気がついた。
思わぬ子供扱いに驚く。身長が無駄に伸びたばっかりに、こういう経験は滅多にない。
そういえば、アオバは人差し指で首を撫でられるのが好きだったな。とか、どうでもいいことを思い出してしまう。
「……無理をしなくていいのよ。風名君はまだ中学生なんだから。向き合えないことや抱えきれないことがあったとしても、全然恥ずかしいことではないの」
福田さんの声は、どこまでも優しい。うっかり泣いてしまいそうになる。
「……大丈夫です。無理なんてしていません」
これは嘘だ。本当はずっと、無理をしていたのだと思う。
一人で生きられないくせに、一人で生きようとしていた。
早く自立して大人になりたかった。何の趣味もなく、つまらない自分が嫌いだった。楽しくて自由な生活に憧れていた。
そんな風名にとって、青羽はどこまでも都合の良い存在だったのだと思う。
福田さんは少し困ったように、目尻を下げる。
「私ね……風名君がどうして、ここで一人暮らしすることになったのか、事情は何も知らないんだけど……」
福田さんはそこで、ためらうように口ごもった。だが、すぐにニッコリ笑って話を続ける。
「また会えて嬉しかったの。あんな事件があって、そのあとも、つらいことは沢山あったでしょうに……。なのに、こんなに大きく育って、元気そうで……すごくいい子なんだもの。きっとお母さんやご家族に、すごく愛されて、大切にされて、ここまで育ってきたのね」
「……えっ?」
風名は驚いて、福田さんを見入った。
「……福田さん、もしかして、俺のこと、知っていたん……ですか?」
「あらやだ! ……当然よ」
福田さんはおどけるように、口元を押さえた。
「めぐる君は小さかったし、もう十年も経ってるんだものね。私のこと、覚えてなくても仕方ないかしら……?」
からかうようなことを言いながら、福田さんの声も表情も相変わらず優しい。この穏やかな人が叱るのを、どこかで聞いた気がした。
『ダメよ、いたずらばかりしちゃ』
「からあげ……なつかしい味だと思ってたんです。……ひょっとして」
福田さんは目を見開き、そして、目尻をしわくちゃに細めて笑った。その笑顔はとても若々しく、十年前の福田さんを思い起こさせた。
――この笑顔を知っている。きっとあの頃から、風名はこの人の温かさに救われていた。
「唐揚げの味、覚えてくれていたのね」
福田さんにバスケットを差し出され、風名は受け取る。出来立ての香りがした。
「昔、木漏れ日荘に住んでいたときにもね、めぐる君のお宅によくお裾分けに伺ったの。めぐる君は私の作る唐揚げが大好きだって言ってくれて、いつも喜んでくれて、私はそれが嬉しくて……。今でもね、あのときのめぐる君の顔が浮かんでは、ついつい作りすぎてしまうのよ」
福田さんは自分の秘密を打ち明けるように、照れくさそうにそう告げた。
福田さんが去ったあと、風名は唐揚げを一つ、手でつかみ、食べる。
温かい、柔らかい、香ばしい、優しい。そして……懐かしい。
昔、ここに住んでいた。
皮揚げをもう一個食べる。
友達がいた。
三個、四個。 公園で遊んでいた。
夕方の鐘がなるまで、毎日のように。
視界がぼやける。嗚咽があがる。ぽたり、ぽたりと滴がこぼれる。
五個、六個。せっかくの唐揚げが塩辛い。
魔剣探しをして、毒薬作りをして、魔術書探しをした。全部、風名が考えた遊びだった。
視界も口の中も頭の中もみんなぐちゃぐちゃだ。それでも手を止めない。
よう君と、ふうかちゃんと、そらちゃんと、れみちゃんと、お兄さん。そして……。
貪るように、唐揚げを口に入れる。
思いだせ。思いだせ。思いだせ。
『どこにも連れていかないで!』
子供の声が聞こえた。
振り返れば、バルコニーの前に小さな子供が膝を抱えて震えていた。
あそこは……。
青羽がクッションと共にくつろいでいた場所。そういえば、引っ越し初日、駆け込んできた青羽がピタリと足を止めていたのもこのあたりだ。
そうか……ここが……この場所が……。
あの滑り台のあった場所。
風名はそこに立つと、祈るような気持ちで目を閉じた。
恐怖と向き合え。
悲しみと向き合え。
自分と向き合え。
あふれ出てくる。こぼれ落ちていく。とめどなく、とりとめもなく。バラバラになったパズルのピースのように。頭の中から記憶が。腹の底から感情が。
風名は小学校に上がるまで、幼稚園にも保育園にも通っていなかった。
風名の世代は通年より子供の数が多く、どこの託児施設も満員だったからだ。なので、木漏れ日荘にはどこにも通っていない、同い年の子供が風名を含めて五人いた。五人はいつも集まって遊んでいたが、その人数はいつからか、気がついたら六人になっていた。
活発なよう君と、しっかり者のふうかちゃんと、双子のそらちゃんとれみちゃん。そして、一番仲が良かった、つぐむ。
つぐむは小さくて大人しくて、遊ぶときは必ず風名の後ろについてまわった。友達とはよく話したが、それ以外の親しくない相手が近づけば、その背中に隠れ、一言も話さない。風名はそんなつぐむを弟のように大事に思っていた。
六人は団地内やその周辺になわばりのような意識を持ち、いつも集まっては風名を中心に、イタズラばかりして遊んでいた。団地の壁や床にラクガキしたり、用もないのにインターフォンを押したり、郵便受けにカエルやトカゲを入れたり。
毎日、大人達には怒られてばかりで、とうとう、風名達は団地内で遊ぶことを禁止された。団地の裏にある小さな公園と、近くにある小さな図書館で、「いい子」にしているように言われた。
そこで時計の鐘が鳴るまで、「いい子」にして遊んでいれば、誰にも怒られることはなかった。
小さな図書館は、風名のおばあさんの父親、つまり、風名のひいおじいさんが建てたものだった。おばあさんはよく、自分の実家の先祖が呪術師であることを話してくれた。
呪術師と魔術師の区別もつかなかった、幼い自分。ゲームやアニメに出てくる魔術師を空想しては、それらしい遊びやルールを考え、みんなと遊んでいた。
公園には、同じ木漏れ日荘に住む、美大生のお兄さんが時々スケッチに来ていた。
そのお兄さんはある日、つぐむを絵に描きたいと声をかけてきた。
そこにすかさず、そらちゃんとれみちゃんが、自分達もモデルをしたいと立候補した。困ったお兄さんは、みんなを絵に描いてくれると約束してくれた。
それから、お兄さんと仲良くなり、一緒に遊ぶことが増えていった。
お兄さんは痩せていて、よく咳をしていた。風名が飛びつくと、胸からぎゅうぎゅうと苦しそうな呼吸が聞こえた。それでもお兄さんは嫌な顔もせず、いつも優しかった。
しかられたことも沢山あった。
例えば、お兄さんにもっと遊んでもらいたくて、こっそり絵の具を盗み出し、ベンチにラクガキをしたとき。
すごくしかられたけど、ベンチを綺麗にしたあと、また遊んでくれた。
双子のそらちゃんとれみちゃんは、やがて、そんな大人のお兄さんに憧れを抱くようになった。
姉妹は競い合うように、お兄さんにアピールし始めた。お母さんの化粧品や香水を勝手に持ち出しては、おめかしをするようになった。
しかし、お兄さんの「そらちゃんとれみちゃんは、そのままで可愛いよ」と、鶴の一声で、二人はあっさりと大人の女性ぶるのをやめてしまった。
よう君がはある日、お母さんの手作りの帽子をかぶってきた。クマの耳付きで「かわいい」と女の子達がほめると、よう君は怒ってしまい、それっきり被ってこなくなった。
そして、またあるとき。ふうかちゃんのお母さんが、夕方から働きに出ることになった。お母さんが戸締まりをして家を出るために、これまでのように夕方まで遊べないらしい。
「これからは、早く帰って、ひとりでお留守番なんだよ」と、ふうかちゃんは何だか得意気にそう言った。
――そして、またある日。
「もうすぐ小学生になるんだぞ。男と女がいっしょに遊んでる。変なのー」
いつものように六人で公園で遊んでいたら、同じ団地の幼稚園通いの子達に、からかわれた。
風名にはよく分からなかった。
小学生になったら、みんなと遊ぶのがおかしくなるのだろうか?
それから、六人の空気はおかしくなってしまった。みんなランドセルを買ってもらい、もうすぐ入る小学校を楽しみにしていたのだ。よう君と双子たちの仲がしだいにギクシャクし、とうとうけんかになってしまった。
――そして、悪夢の日は訪れた。
風名はつぐむと共に、よう君の家に誘いに行った。しかし、「今日は遊ばない」と断られてしまった。拗ねているのだろうと思った。
つぐむは「ふうかちゃんたちを誘いに行こう」と言っていたが、風名は何となくそうする気になれなかった。「今日は、二人で遊ぼう」そう言って、つぐむの手を引き、公園に行かず街を出た。
二人で出掛けた街はとても楽しかった。
だけど、そろそろ帰ろうかとつぐむに聞くと、つぐむの大きな目なら突然、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「みんなと別れるのは、嫌だ……」
つぐむはそう言った。
「みんな学校にいったら、みんなと遊べなくなる……そんなの嫌だ」
風名はそれで決心し、つぐむの手を強く握った。
「公園に行こう。つぐむ」
公園に行けばきっと誰かいる。仲直りしよう。そしてまた明日、みんなで遊ぼう。
つぐむは泣きながら、うなずいた。風名の手を強く握り返す。
もうすぐ五時。早くしないと鐘が鳴る。
――血は濡れた鉄棒の臭いがする。真っ赤に染まった公園で、あのとき二人はそれを知った。
二人で隠れた滑り台の下、握りしめたつぐむの手は冷たくて、今にも消えそうで、まるで雪のようだった。
作業着姿で目深に帽子を被った男が、腹部を赤く染めて横たわる、れみちゃんの体を引きづりながら、滑り台まで向かってくる。
何が起きているのか分からなかった。それでも、何かとてつもなく恐ろしいことが起きているのは分かった。
きっと、自分が悪いことばかりしてきたから、悪いことになったのだ。風名は幼な心にそう思った。
いたずらばかりしていたから。お母さんの言うことを聞かなかったから。お兄さんの邪魔ばかりしていたから。男の子なのに女の子と遊んでいたから。自分が生まれてきてしまったから。
――だけど、つぐむは何も悪くない。神様……つぐむだけはどこにも連れて行かないで!
ズル……ズル……と音が近づいてくる。
「僕がいるせいだ……」
つぐむが震えながら、真っ青な顔で呟いた。
「僕が……□□□□だから」
そして、翌日。大好きだったお兄さんは逮捕された。




