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ちっちゃいよ、でも本気。

作者: クロウ

 ☆♪#♭◇♪#♭♪#♭△♪#♭☆



 中町先生へ


 とつぜんのお手紙でごめんなさい。

 わたしは今、どうしても中町先生にお伝えしたいことがあります。


 わたしは、中町先生のことが好きです。


 はじめて先生と会ったとき、優しい人だってすぐにわかりました。

 他の先生たちと違ってゆっくりで分かりやすいし、どんな質問にもていねいに答えていましたよね。

 イジワルな男子たちにからかわれても笑顔のままで、すごいなって思いました。


 先生のことを好きになったのもすぐでした。

 塾のみんなで肝だめし大会をやったとき、先生といっしょに回ることができたのは今でも大切な思い出です。

 本当は怖かったけど、先生がずっとお話してくれたおかげで泣かずにすみました。

 その日の夜は、先生のことばかり考えていて眠れませんでした。


 先生はわたしみたいなネクラな子にも笑顔で話しかけてくれます。

 それなのに、いつもちゃんと返事をできなくてごめんなさい。

 だって恥ずかしくて、先生の顔をまともに見ることができないから……。

 そのくらい先生のこと大好きなんです。


 先生はわたしのこと、どう思っていますか?

 教えてくれるとうれしいです。


                  小森結衣子



 ☆♪#♭◇♪#♭♪#♭△♪#♭☆




 正午過ぎ。

 講義を終えた学生たちが次々と教室を出ていく中、僕と深雪ミユキの二人は席に着いたままだった。

 原因は、深雪が手にしている一通の封書――

 誰がどう見てもそれと分かる可愛らしい封筒の中には、やはりラブレターが入っていた。

「あの……深雪?」

 重い沈黙に耐えかねた僕は、恐る恐る声を掛けた。

「お腹も空いてきたし、とりあえずお昼にしない? 午後からも講義があるわけだし……」

蓮太レンタくん」

「は、はいっ」

 僕ははじかれたように背筋を伸ばした。

 深雪は相変わらず無表情である。だが機嫌が悪いのは明らかだった。

 その証拠に、さっきから彼女のハイヒールが僕のつま先をぐりぐりしている。

「私ね……さっきの授業中、この手紙を何度も読み返してみたの。でもよく意味が分からなくて、やっぱりこういうのは声に出してみないと分からないと思うんだ。だから私、音読するね」

「……はい?」

 言葉の意味を理解する間もなく、深雪は宣言通りラブレターを音読し始めた。

「ワタシハ、中町先生ノコトガ好キデス」

 ぐりぐり、ぐりぐり。

 なんという棒読みだろう。しかもつま先が痛い。

「先生ノコトバカリ考エテイテ眠レマセンデシタ」

 ぐりぐり、ぐりぐり、ぐりっ!

 人間はここまで感情を殺せるのか。ていうか今のめっちゃ痛いんだけど。

「恥ズカシクテ、先生ノ顔ヲマトモニ見ルコトガデキナイカラ」

 ぐりっ! ぐりっ! ぐりっ!

 あぁ、初めて読んだ時のドキドキが……。ていうか、

「痛っ!」

「あっ、ごめん」

 やり過ぎたと思ったのか、深雪は少しだけハイヒールの底を浮かせた。

 その隙にすばやく両足を後退させる。深雪はすぐに気づいたらしく、手紙の両端をぐしゃりと握り締めた。俯いているので表情は分からない。嫌な静けさが教室中に充満する。

 間もなく彼女はおもむろに立ち上がり、ビビッた僕の体を数ミリほど浮き上がらせた。

「なに?」

「い、いや……。どこに行くの?」

「ヨド○シカメラ」

「なぜ?」

「シュレッダーを買いに」

「わざわざ!?」

「安心して、一番高性能なやつを買うから。絶対に復元できないように」

 どうやら深雪は、僕の知る限り過去最高に怒っているらしい。

 とはいえラブレターを処分するわけにはいかないので、必死で宥めることでどうにか彼女を思いとどまらせた。

 不満そうな彼女は、再び手紙の内容へと話を戻す。

「それで、この小森結衣子って子は何年生なの?」

「えっと……」

「……」

「……5年生」

「は?」

「いや、だから小学5年生」

 深雪はおもむろにスマートフォンを取り出した。見覚えのあるアプリの起動画面が見える。

 その瞬間、僕は彼女の腕をがっしりと掴んだ。

「痛いよ」

「ごめん。でも、どこに電話を?」

「警察に決まってるじゃない。幼女からの手紙に興奮してる犯罪者予備軍の一員がここにいますよーって教えてあげないと」

「5年生は幼女じゃないだろ……じゃなくて。犯罪者予備軍ってなんだよ、僕が何をしたっていうんだ」

「幼女のパンツに興奮した」

「パンツはどこから出てきた。手紙の話をしてるんだろ」

「やっぱり手紙には興奮したんだ。そういうの、語るに落ちるって言うの知ってる?」

「そんな強引な当て嵌め方があるか。いい加減信用してくれよ」

「無理。近づかないでよ変態がうつる」

 深雪は大げさに自らを抱き、僕の繊細な心は少しばかり傷ついた。

 これ以上ひどいことを言われる前に、念のため確認しておこう。

「……あのさ」

「なに?」

「いちおう聞くけど、僕って君の彼氏だよね?」

 そう、僕と深雪は、驚くべきことに恋人同士なのである。



 幼馴染だった深雪と再会したのは、大学に通い始めてすぐの頃だった。

 小学校の途中からなんとなく疎遠になり、やがて別々の中学校に進学することになって、彼女との接点はなくなった。元々家が近かったわけでもないから、偶然会うこともなかった。

 だから大学で再会した時、僕は深雪が誰なのか分からなかった。

 彼女はすぐ僕に気付いたらしい。いきなり声を掛けられて戸惑ったが、「大道寺深雪です」という自己紹介を聞いて、ようやく記憶がよみがえった。

 それから深雪はよく会いに来てくれた。彼女は『ミス○○』なんて騒がれるくらい美人だったから、僕たち二人のことは学内で噂になった。そのうち仲のいい友達が「付き合っちゃえよ」とはやし立ててきた。僕にはまだその気持ちはなかったけど、それ以来だんだん意識するようになって、深雪の誕生日に合わせて告白した。

 深雪はすごく喜んでくれた。僕も幸せな気分になり、これからはバラ色の大学生活が待っているんだろうと本気で思った。

 それなのに――


「どうしてこうなった」

 小声で呟いてみるが、状況は何も変わらなかった。

 深雪は相変わらず手元のラブレターに視線を落としている。

 一体どれだけ気にするんだ。あまりにも嫉妬深い彼女の行動に、僕はいい加減うんざりしていた。

 それとも、本当は僕に恨みでもあるのだろうか。

「つかぬこと聞くけどさ」

「なに」

「深雪って僕のことが好きなんだよね?」

「当たり前だよ、付き合っているんだから」

 即答だった。

 疑わしいけど、今はそれを確かめる術もない。

「まぁいっか。蓮太くんがこのユイコって子にちゃんとお断りをすれば、それで終わりなんだし」

 深雪はラブレターを折り畳み、自分のバッグにしまい込んだ。どうやら没収するつもりらしい。

「返事は?」

「……う、うん」

「約束よ。破ったらひどいんだから」

 深雪は小指を差し出してきた。僕もそれにならい、お互いに絡め合う。

 ぐいぐい締め付けられるかと思ったが、込められた力は意外にも弱々しかった。そのままどちらともなく指を離す。

「……てるから、ね」

 その呟きは、静かな教室の中でもうまく聞き取ることができなかった。



「やば、遅刻する……!」

 腕時計を確認すると、19時まであと数分だった。

 僕は飛ぶようにして階段を降り、廊下の突き当たりにある教室を目指す。

 ――告白、ちゃんと断ってよね。

 いったい何度念を押したら気が済むのか。深雪のおかげで、大学を出る時間が1時間以上遅れてしまった。食事をしている暇もなければ、予習をしている時間もない。

「こ、こんばんはー!」

 僕は文字通り教室に滑り込んだ。席はすでに9割5分埋まっている。このクラスは中学受験を目指す子が多いため、遅刻するような問題児はほとんどいなかった。授業前なので、私語もほとんどなくなっている。

 僕は教材を広げながら、件の小森さんの様子をうかがった。

 相変わらず教室の一番奥に座っている。体はちんまりとしていて、同年代の女の子と比べても一回りは小さかった。厚ぼったい前髪が表情を隠し、いまいち感情が読み取りづらい。

 正直に言って、ほとんど印象に残っていない生徒だった。

 こんな子があのラブレターを書いただなんて、未だに本当かどうか疑わしくなる。

「それじゃ、授業を始めます。今日はテキスト34ページから……」

 ひとまず仕事に集中しようと思った時、ポケットから着信音が鳴り響いた。急いでいたせいで電源を切るのを忘れていたらしい。

 着信は、やはり深雪からだった。

「センセー、もしかして彼女さんから?」

 前列の女の子がからかってくる。当てずっぽうだったのだろうが、こっちからすれば図星だった。それを悟られないよう、とにかく笑ってごまかすことにする。

「ごめん、授業を中断しちゃって。すぐに再開するから」

 再びテキストを手に持つ。ちらりと奥に視線を向けると、小森さんがじっとこちらを見ていた。前髪の下から大きな瞳が覗いている。意外と可愛いな、と思ったのも一瞬、彼女はすぐに顔を背けてしまった。

「先生、早く始めてよぅ」

 今度は別の女の子に注意されてしまった。

 さすがに反省した僕は、今度こそ授業に集中するべく黒板を向いた。



 授業が終わると、生徒たちはあっという間に教室を出ていった。

 僕は扉の傍に立つと、1人1人に「さようなら」と声を掛ける。

 何人かに電話のことをからかわれたが、曖昧に否定することで何とか誤魔化した。

「ふう」

 帰宅ラッシュが終わり、僕は自分の教材を片づけ始めた。

 教室にはまだ数人の生徒がいた。みんな親の迎えを待っているんだろう、しきりにスマートフォンを気にしている。

 その中に、小森さんの姿があった。

 彼女はいつも帰るのが遅かった。以前に「迎えを待ってるの?」と尋ねたことがあるが、その時は返答ナシ。僕は苦笑いを浮かべながら、まぁいいかと思った記憶がある。

 ただ、今はもっと別の可能性に思い至っていた。

 もしかして、僕と会話するチャンスを伺っていたのではないか――と。

 僕はゆっくりと小森さんに近づいた。

 警戒心の高そうな彼女は、すぐにピクリと肩を震わせる。

 そして――

「えっ?」

 間抜けな声を出す僕をよそに、小森さんは慌てた様子で教室の外へと駆け出した。

「あ、待って!」

 逃げ出す彼女の背中を、僕も慌てて追いかけた。



 小森さんは塾を飛び出すと、左に折れて真っ直ぐ走っていった。

 その小さな背中を全力で追いかけていくが、中々距離が縮まらない。

「はぁ……はぁ……」

 自慢ではないが、僕は走るのが苦手だった。早くも荒くなり始めた息を必死で整える。 やがて小森さんは近くの公園に入っていった。その先には住宅街があり、夜は街灯も少なく危ない地域である。

 僕はヘロヘロの足を強引に踏ん張らせた。一瞬だけ大きな加速を得る。そのまま小森さんの前に回り込み、両手を広げて通せんぼした。

「はぁ……はぁ……あの……」

 息が切れすぎて、まともに言葉を口にすることができない。

 幸いにも、小森さんは再び逃げようとはしなかった。立ち止まったまま、きらきら光る瞳をちら、ちらと向けてくる。猫のような仕草がちょっと可愛いなと思った。別にロリコンではないけどね。

「少し、話せないかな」

 どうにか息を整え、僕は提案した。小森さんから返事は聞こえなかったが、嫌がっている様子もない。僕は手近にあったベンチに彼女を手招きした。

 二人並んでベンチへと腰を下ろす。

 僕はなかなか話を切り出せなかった。

 小森さんが逃げ出した理由を考えると、どうしても躊躇してしまうのだ。僕が同じ立場なら、きっと同じことをするだろうと思うから。

 そうしているうち、逆に小森さんの方が行動を起こした。

「えっ……?」

 目の前に小さな手が差し出される。そこには一枚の紙片が握られていた。受け取ってすぐに内容を確認する。

『電話番号を教えてください』

 ラブレター同様、とてもストレートな一文だった。

 一瞬迷ったものの、その要求を呑むことにした。紙片にさらさらとペンを走らせ、小森さんに渡してあげる。

 彼女は教えてもらえたのが意外だったのか、少し驚いた様子だった。それからスマートフォンに素早い指使いで番号を入力していく。最近の小学生は皆こうなのだろうか。

 間もなくピンポーンという着信音が聞こえてきた。某SNSアプリの特徴的なやつだ。


 ゆいこ【こんばんは、小森結衣子です。これからよろしくお願いします♪】


 スマホの画面を確認すると、小森さんからのメッセージが届いていた。

 どう反応するべきか戸惑っているうちに、次のメッセージが表示される。


 ゆいこ【さっきは逃げ出したりしてごめんなさい。先生、きっとお手紙の返事をしてくれるんだと思ったから……】


 やはりそうだったか。僕は自分の考えが間違っていなかったことにホッとした。

「こっちの方こそごめん。いきなりすぎたよね」

 直接謝ると、再びスマホに着信があった。


 ゆいこ【そんなことない。でも、返事はまだいいんです。先生にもっとわたしのことを知ってほしいなって思ってるから】


「そ、そうなんだ……」

 どうやら小森さんは直接話をするつもりはないらしい。というより、恥ずかしくてできないのだろう。SNSにメッセージを書き込むときですら、こちらから顔を遠ざけていたから。

 僕はその姿が素直に可愛いと思った。恥ずかしがり屋の女の子って感じだし、どこか小動物めいた愛嬌もある。もしこんな子が妹にいたなら、僕は何でも買い与えて甘やかしていたかもしれない。

 だが、僕には深雪というれっきとした彼女がいる。

 例え小森さんを傷つけることになろうとも、はっきり気持ちを伝えなくてはいけないと思った。

「小森さん、その、聞いてくれるかな」

 彼女はスマホから顔を上げ、上目遣いでこちらの表情を窺ってきた。

 僕は動揺しながらも言葉を続ける。

「君からの手紙は、すごくうれしかった。今どきちゃんと気持ちを伝えられる人ってなかなかいないと思う。だけどね、その、僕は大学生で君は小学生で、あまりにも年が離れすぎてるっていうかさ。それに……僕には、ね」

 小森さんの瞳はいつしか涙の膜で覆われていた。急に言葉を続けづらくなる。だがこの機を逃せば、結論はずっと先延ばしになるような予感がした。いや、僕のことだからきっと間違いなくそうなる。

「僕には、その、かのじ――」

 そこまで叫んだとき、小森さんは急に立ち上がった。


「ほ、本気だからっ!」


 公園中を突き抜けるような、驚くほど大きな声だった。あっけにとられるとはこういうことを言うのだろう。僕は何も言い返せないまま、ベンチの上から動けずにいた。

 やがて小森さんが逃げるように立ち去ってから、ひとりつぶやいた。

「本気、か」

 小学生相手では、まるで考えるまでもない――

 そんな僕の心を見透かされたような言葉だと思った。



 翌日の夜。

 僕は大学での講義を終えると、深雪の住むマンションを訪れていた。

 駅からほど近くセキュリティ面は万全。高い家賃は名家である大道寺家の主、つまり深雪の父親が払っているという。贅沢な話だが、恩恵を受けている僕がとやかく言う話ではないので、一度も口出ししたことはなかった。

 今日は、玄関のドアを開けるなり香ばしい匂いが漂ってきた。引き寄せられるようにして居間へと直行する。ちょうど深雪が料理をテーブルへ運ぶところだったから、それを手伝い、すぐに席へとついた。

 今日のメインはポークソテー。ほどよく脂がついた肉厚のやつだ。

「ん、うまい」

「よかった。おかわりもあるから」

 深雪がふんわりとした笑顔を見せる。時には攻撃的な態度を見せることもあるが、基本的に彼女はお嬢様だった。口を開けて大笑いしたりしないし、固い床の上であっても決してあぐらをかかない。食事の作法も完璧にこなしているように見える。

 そんな彼女が僕を選んだことについては、未だに不思議だった。自分がさえない男だと自虐するつもりはないが、深雪ならばいくらでも選びようがあったはずだ。

「ねぇ、深雪」

「なに?」

「……いや、なんでも。それより今日は泊まっていってもいい?」

「えっち」

「そういう意味じゃないって。だいたい、来たときはいつも泊まっていくだろ」

「そうだね。でも、だったら今日はどうして聞いたりしたの?」

「……別に。意味はないよ」

「ヘンな蓮太くん」

 クスクスと笑う深雪。

 本当は、自分のことが好きかどうか確認するつもりだった。でも昨日みたいに本当かわからない『好き』を貰うのが怖くて、つい話をそらしてしまったんだと思う。

 ――いっそ今夜、深雪を抱いてしまえばいいんじゃないか。

 僕は週に1、2回の頻度でこの部屋にやってくる。深雪の手料理を美味しく頂き、広々とした風呂につかった後、深雪と一緒の布団で眠る。だが一度として体を重ねたことはなかった。キスですら1回しか経験していない。もっともそのせいで、僕は彼女を抱くことができないんだろうけど。

 深雪との行為を想像してみる。好きな女の子が相手なのだ、当然興奮するはずだと思った。

 だが――

 ピンポーンという着信音によって空想はかき消されてしまった。

 嫌な予感を抱きながら、慌ててスマホの画面を確認する。


 ゆいこ【今日は先生が塾に来なくて寂しいです。今は何をしてるんですか?】


 ビンゴだった。

 僕は素早くスマホを隠そうとしたが、遅かった。いつの間にか隣に座っていた深雪が、ちょうど横から画面を覗くところだった。

「誰から? えーっと……」

 ゆいこ、と表示された箇所を確認したのだろう。深雪は無言でその場に座り直した。

「これ、小森結衣子ちゃんよね? あなたの教え子の」

「……うん」

「お断りしてって言ったよね。それなのにどうして連絡先を交換してるの?」

「それは、その」

 何も言い返せなかった。深雪はその反応に落胆したのか、しばらく俯いた後、おもむろに僕のスマホを取り上げた。

「み、深雪?」

「ふーん、先生が何をしているのか知りたいのね。それじゃあ『今は、彼女の家で手料理を御馳走になっています。この後はお風呂に入って……』」

「ちょっ」

 そんな内容を送信したら、小森さんは絶対に傷つく。顔を歪ませながら涙を流す彼女の姿を想像し、気付くと強引にスマホを奪い返していた。深雪が口にしたメッセージは送信されていないようでホッとする。

 深雪はあっけにとられた様子でこちらを見つめていた。僕はようやく自分のしでかしたことの重さに気付いたが、遅かった。

「ごめん」

「どうして謝るの?」

「いや、それは」

「それよりもさ。蓮太くんって、私のことが好き?」

 それは昨日、僕が深雪にした質問だった。自分が本当に欲しかった答えを思い浮かべる。

「好きだよ。だから付き合ってるんだ」

 心からの答えのつもりだった。だが自分で口にした瞬間、何かが違うと思った。本心じゃないと、誰かが叫んでいるような気がした。

「僕は、深雪のことが好きだ」

 自信がないなら、何度も口にするしかない。事実、僕は深雪のことが好きなのだから。深雪が好きだ。深雪が好きだ。深雪が好きだ……。

「私も、蓮太くんのことが好き」

 深雪が両手を広げて飛び込んでくる。僕は優しく抱き留め、腕の中におさまった彼女の美しい顔を見つめた。薄桃色の唇がつやつやと輝いている。不意に、後頭部がぐいと引き寄せられた。予想外の出来事に目を閉じるのも忘れてしまう。

「んっ……く」

 そのキスは、まるで唇同士がぶつかり合うだけの、ひどく硬質なものだった。

 それでもなお必死に口付けてくる深雪の体を、できるだけ優しく引きはがす。

 彼女は心底不思議そうな、それでいて深く傷ついている様子だった。

「どうして……」

 美しい頬を涙が伝う。僕は掛けるべき言葉を知らなかった。

「わからない。私、蓮太くんのこと大好きなのに……わからない……」

 ポケットからハンカチを取り出し、深雪に渡す。ハンカチはあっという間に色を濃くしていった。時折洟をすする姿は、見ていてどうにかしてあげたいと思う。

 だが今の僕にそんな余裕はなかった。お互いに好きあっているはずなのに、どうして想いが伝わらないのか。深雪と同じかそれ以上に混乱している自覚があった。

 結局その日、僕は深雪の部屋に泊まらずに自宅へと戻った。



 ***トーク画面***



 ○月曜日


 ゆいこ【先生、こんばんは♪ 今日の授業もすごく分かりやすかったです!】

 蓮太【ありがとう。でも、僕なんてまだまだだよ。大学の友達には「丁寧なんじゃなくてノロマなだけ」って言われてるし】

 ゆいこ【ひどーい! ノロマだなんて、わたしは思ったことないですよ】

 蓮太【またまたありがとう。小森さんは優しいね】

 ゆいこ【そんなことありません。今日だって、またクラスの子に冷たいこと言っちゃったし……】

 蓮太【そうやって反省できるだけでも、小森さんは十分優しいよ】

 ゆいこ【先生……。ありがとうございます】

 蓮太【もっと自分に自信を持って。そしたら、友達なんてあっという間にできるから】

 ゆいこ【わたし、頑張ってみますね!】



 ○火曜日


 ゆいこ【昨日冷たいこと言っちゃったクラスの子と、仲良くお話しできました。先生のおかげです!】

 蓮太【僕は何もしてないよ。小森さんが頑張ったからさ】

 ゆいこ【そんなこと……】

 蓮太【その調子で、男子とも仲良くできるといいね】

 ゆいこ【うう……やっぱり、そうしないといけないんでしょうか】

 蓮太【義務とかじゃないよ。ただ、みんなと仲良くした方が楽しいと思わない?】

 ゆいこ【それはもちろん思います。けど、男子って意地悪だし、乱暴だし……。同じ男でも、先生とは全然違うんです】

 蓮太【僕だって、昔はやんちゃだったと思うけどなぁ。今も立派だとは思わないし】

 ゆいこ【先生はすごく立派です! 優しいし、頼りになるし、かっこいいし……】

 蓮太【あはは。小森さんの話を聞いてると、なんだか僕が別の誰かみたいだね】

 ゆいこ【そんなことありません。先生こそ、もっと自分に自信を持つべきですよ】

 蓮太【そうだね。お互いに頑張ろうか】

 ゆいこ【はい!】



 ○水曜日


 ゆいこ【先生、こんばんはです♪】 

 ゆいこ【突然ですが、今週の土曜日か日曜日に予定はありますか?】

 蓮太【日曜日なら空いてるけど、どうかした?】

 ゆいこ【よかったぁ……。実はお父さんから映画のチケットもらって、けど公開が日曜日までなんです】

 ゆいこ【もしよかったら、一緒に行きませんか?】

 蓮太【えーっと、それはデートってことだよね】

 ゆいこ【はい】

 ゆいこ【だめ……ですか?】

 蓮太【駄目じゃないよ。ただ、少しだけ待ってもらえるかな。本当に予定がないかどうか確認するから】

 ゆいこ【分かりました。お返事待ってます♪】



 ○金曜日


 蓮太【返事が遅くなってごめん。映画、一緒に行こうか】

 ゆいこ【本当ですか! やったぁ……】

 ゆいこ【でも、本当に予定はないんですか? 先生優しいから、無理してるんじゃ】

 蓮太【そんなことないよ。気にしないで】

 ゆいこ【先生がそう言うなら、わかりました】

 ゆいこ【日曜日、13時から上映があるので、その時間に観ませんか?】

 蓮太【おっけー。それじゃ12時30分に映画館の前で待ち合わせようか。それとも、駅の方がいいかな?】

 ゆいこ【映画館で大丈夫です。お母さんと何度も行ったことありますから】

 蓮太【そっか。じゃあ映画館で待ち合わせね】

 ゆいこ【はい! 楽しみにしてます】

 蓮太【僕もだよ。それじゃ、もう遅いし寝るかな】

 ゆいこ【おやすみなさい、先生♪】

 蓮太【おやすみ、小森さん】



 ***トーク画面終了***



 日曜日。

 すっきりとした青空の下、僕は汗を拭いながらキョロキョロと周囲を見回していた。

 街はすっかり人で溢れていて、それは大通りに面した映画館の前も同じで。

 連絡しようかとポケットに手を入れた時、ちょうど着信音が鳴った。


 ゆいこ【先生、うしろです♪】


 振り返ると、そこには恥ずかしそうに目を逸らした小森さんがいた。大きなつば付きの帽子に真っ白なワンピースをまとっている。普段の彼女とはがらりと変わった印象に、僕はしばし見惚れてしまった。

「あ、あの」

 小森さんはもじもじと手を合わせる。彼女の困った様子を見て、ようやく我に返った。

「ご、ごめん。行こうか」

 気恥ずかしさを隠すようにさっさと歩き始める。

 小森さんがついて来ているのを確認し、映画館へと足を踏み入れた。

「うわぁ……」

 館内は更に人でごった返していた。冷房がきいて涼しいはずなのに、何となく暑いように感じてしまう。僕は上映時間を表示している大きな電光掲示板を眺めながら、そういえば、と小森さんの肩を叩いた。小さな体がぴくりと反応する。

「あのさ、どの映画を観るんだっけ?」

 来る前に聞いとけよと自分でも思ったが、小森さんは気を悪くした様子もなく、手元にあったチケットをこちらに差し出してきた。受け取って内容を確認する。

 チケットの上半分に印刷された写真、そこには恐怖に顔をゆがませる女性の姿が写っていた。

「ホ、ホラー映画?」

 小森さんはコクリと頷く。

 タイトルには見覚えがあった。とあるシーンが話題を呼んで公開延長を繰り返し、テレビで何度も特集されていた作品だ。大学の友人が「小便ちびったわ」と冗談交じりに言っていたのを思い出す。

 もしかすると、僕は冗談では済まなくなるかもしれない。

 そんな考えが顔に出ていたのか、気付くと小森さんが心配そうな表情を浮かべていた。以前に塾で肝試しをやったときもすごく怖がっていたから、今回の映画は相当勇気を振り絞ったんだろう。それに、僕のような年上と一緒なら何とかなると思っているのかもしれない。その期待を裏切るわけにはいかないと思った。

「ポ、ポップコーンでも買いに行こうか。お腹空いちゃったし」

 余裕に見えるよう、できる限りの笑顔を浮かべて歩き出す。

 しかしその間も、チケットの写真が目に焼き付いて離れなかった。


 ***


 そして。

 僕はどうにか年上の威厳を保ったまま映画館を抜け出すことに成功した。

 今すぐベンチで一休みしたいところだったが、そういうわけにもいかない。僕が辛そうにしていれば小森さんが幻滅してしまう。ならば最後まで強がってみせようと思い、僕は得意げな表情を浮かべた。

「ま、まぁまぁだったね。僕としてはもう少し刺激的な方が……って、小森さん?」

 りんごの皮、という比喩が大げさでないくらい、小森さんの顔は真っ赤に染まっていた。

 いったい何事かと思って彼女の顔を覗き込もうとすると、ふと左手がいつもより重いことに気付く。

「んっ? ……って、うわぁ!」

 僕の左手は、小森さんのちんまりした右手をしっかりと握りしめていた。慌てて手を離したものの、乱暴になってしまったんじゃないかとかえって申し訳ない気持ちになる。

「ご、ごめんね。痛くなかった?」

 返事はないかと思ったが、意外にも小森さんはしっかりと首を振った。赤りんご状態でもちゃんと意識はあるらしい。ひとまず安心した僕は、気まずさを押し切って口を開いた。

「つ、次、どこ行こうか?」

 今度もちゃんと耳に届いたらしく、小森さんはスマホを取り出すと恐るべき速さで文字を入力した。わずか数秒で着信音が鳴りだす。


 ゆいこ【行きたい場所があります。ついてきてもらえませんか】



 映画館のある場所から歩くこと10分。

 僕たちは中心街から少し離れた、大きな公園を訪れていた。公園の真ん中にこれまた大きな池があり、そのほとりを歩くコースが若いカップルに人気らしい。

 僕もまた、深雪と一緒に何度か訪れたことのある場所だった。

 その場所を小森さんが選んだことは、単なる偶然だと信じたい。

「か、風が気持ちいいね」

 緊張を紛らわそうと、僕はどうでもいいことを呟いた。小森さんは隣で小さく頷いてくれる。純白のワンピースがふわりと舞い、幼いながらも女性らしい脚が大胆にのぞいた。僕は慌てて目を逸らすが、彼女の方に気にするそぶりはない。

 ――意外と、大人なのかもしれないな。

 体はこんなにも小さいのに、僕のことを本気で好きだと言う。それを伝えるために必要な努力もしている。対して僕の方は、自分の彼女が何を考えているのかすら理解できていないままだ。

 ――わからない。私、蓮太くんのこと大好きなのに。

 あの日以来、深雪はずっとおかしかった。大学の廊下で話しかけてもそっけないし、昼食も「忙しいから」と断られる。あれだけ僕につきまとっていたのが嘘のようだった。

 木曜日になって、僕は深雪のマンションを訪れた。小森さんからデートの誘いがあったことを報告し、その上でちゃんと断ることを約束するつもりだった。そうすれば、彼女の機嫌も少しは回復すると信じていた。

 だが深雪は、僕を部屋に上げることを拒んだ。「これから用事があるから」というのはあからさまな嘘だと思ったけど、根拠もなく恋人を疑う訳にはいかない。そこでしょうがなく、ドア越しに小森さんからデートの誘いがあったことを報告した。

 それを聞いたはずの彼女は、およそ信じられない言葉を口にした。

「そんなことはどうでもいいの」

 意味が分からなかった。

 あれだけ嫉妬深い反応を見せていた人間が、わずか1週間もたたずに「どうでもいい」。

 本当の深雪はどこにいるのだろう。果たして僕は出会うことができるのか。

 漠然とした不安は、僕の内心を徐々に混乱させていった。

「深雪……」

 自分の呟きを聞いて、僕は我に返った。隣に小森さんの姿はない。どのくらい呆けていたのだろう。彼女は怒って帰ってしまったのだろうか――そう、考えた時だった。

「なかまちせんせい!」

 自分を呼ぶ聞き慣れない声。振り返ると、後方に小森さんの姿があった。

 頬は上気し、必死な様子でこちらを見つめている。

 僕は急いで彼女の元へ駆け寄った。

「ど、どうしたの? 具合でも悪い?」

 小森さんはきっぱりと首を振った。

 そして小さな声で、はっきりと叫んだ。


「わ、わたし……せんせいのことが、すき、ですっ」


 2度目の告白だった。

 申し訳ないことに、僕はしばらく反応することができなかった。タイミングを想定していなかったのもあるが、それ以上に、その勇気に対して驚いていた。普通の人間は告白した後、返事がくるまでじっと待つ。僕が深雪に対してそうだったように。

 でも、小森さんは違った。

 普段はまともに話すことさえできないのに。直に会った時ですら、SNSを介したやりとりに逃げ込んでばかりなのに。

 目の前の小学生は、立派な恋する女の子だった。

「小森さん、ありがとう。すごくうれしいよ」

 僕は心からの気持ちを伝える。実際、小森さんの告白は強く胸に響いた。

「でも、どうして急に? 返事は待ってくれるって聞いたけど、やっぱり早い方がいいかな?」

 できるだけ優しい声で問いかける。

 小森さんは何やら逡巡していたようだが、やがてシンプルな答えを口にした。

「すきだから」

 俯いていた顔が、再びぎこちなく持ち上がる。その瞳は熱っぽく潤んでいた。

「すきだから……。はずかしい、けど、なんかいも、いいたいの……」

 胸をきゅっとつままれるような感覚を、僕は初めて味わった。そのまま抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。でも、それはできない。小森さんはまだ小学生だし、僕には彼女がいるのだから。

 小森さんを受け入れることはできない。

 僕は迷いを断ち切るように、ぎゅっと奥歯を噛みしめた。

 彼女はいつものように顔を背けず、こちらをじっと見つめている。

「先生、わたしのこと――きゃっ」

 その風は、僕にとって救いだと思った。小森さんの帽子は風に乗ってふわりと舞い、遥か後方へと着地する。僕はすぐに追いかけた。気持ちに応えてあげられない彼女の為に、何か少しでもしてあげたいという思いが強かった。

 だが、帽子の着地先には、思わぬ人物が立っていた。

「み、深雪……」

 僕は目を疑った。このタイミングで深雪と出会うなんて、あまりにも出来過ぎている。だが深雪を他人と見間違えるなど、もっと有り得なかった。こんな美人はそうそういないし、それに――

 その滑らかな頬を、幾筋もの涙が伝っているのが見えたから。

 僕はほとんど何も考えないまま、深雪の元へと近づいた。考えるべきことが多すぎて、逆に何も考えられなかった。深雪は動かない。でも、その目はずっとこちらを見ている。そして――

 素早く後ろを振り返ると、そのまま背中を向けて駆け出した。

「待って!」

 反射的に叫ぶ。それでも深雪は怯むそぶりすら見せない。当然だと思った。僕はあまりにも彼女を傷つけすぎている。

 僕にはもう、深雪と会う資格はないのかもしれない。

 ――わからない。私、蓮太くんのこと大好きなのに。

 ふと、彼女の切実な声が頭の中によみがえった。

 彼女は僕のことを好きだと言ってくれた。事なかれ主義のヘタレで、他の女の子からの告白も満足に断ることができない僕のことを。それなのに僕は、彼女に何を返してあげられただろうか? 好きだって気持ちを、本当にちゃんと伝えたことがあっただろうか?

 例えばそう、目の前にいる小さな女の子のように。

「ごめん、小森さん」

 僕はすぐに頭を下げた。今は一秒でも時間が惜しい。

「あとで全部説明するから。僕を行かせてくれないか」

 ひどいことを言っていると自覚していた。でも僕に、もう迷いは残っていなかった。

 小森さんは胸の前で両のこぶしを握り締める。

「いってください」

 その声には、小森さんの決意がこもっているような気がした。



「はぁ……はぁ……」

 深雪のスタートから出遅れること数分。

 僕は少しでも距離を縮めようと、必死で両足を動かしていた。このまま見逃してしまえばそれこそ一巻の終わりだ。幸い一本道なので方向を間違えている可能性は低かったが、脆弱な体力は早くも悲鳴を上げていた。粘度の高い唾液が喉にからみ、呼吸するのも辛くなってくる。

 相変わらず深雪の姿は見えない。

「はあっ……ふっ……はっ……」

 まさか、すでに公園の外へ出てしまったのか。

 だとすると打つ手はないに等しい。このビルが密集する都心の中で一人の人間を探すなど、ほぼ不可能としか思えなかった。

 不安な気持ちが増幅し、足取りは更に重くなっていく。

 それでも諦めるわけにはいかないと、懸命に前へ進もうとしていた時だった。

 前方の草が生い茂った場所に、一人の女性が倒れているのが見えた。

「深雪!」

 ほとんど決めつけて僕は叫んだ。近づいていくにつれ、それが少しずつ確信に変わっていく。深雪はうつ伏せに倒れ込んだまま、全く動いていないようだった。怪我をしているのかもしれない。

 息を切らせていたことも忘れ、僕は深雪のすぐそばに膝をついた。

「深雪、大丈夫か? 怪我は?」

 華奢な体がわずかに動きを見せた。どうやら意識はあるらしい。だが、深雪はこちらを見ようとはしなかった。僕と話したくないのか、それとも体を動かせないほどにどこかを痛めているのか。

 僕は再び彼女を横たえさせ、怪我の箇所を調べた。腕や足の表面を観察し、関節を曲げ伸ばしした時に異常がないかどうか確認する。幸いにも、怪我はかすり傷だけで済んだようだった。

 ただ一つ、明らかな問題が生じていた。

「これは……折れてるな」

 石にでもけつまづいたのだろう、深雪のヒールは根元からぽっきりと折れていた。近くにリペアショップがあったはずだが、そこまで一人で向かうのは難しい。

 僕は周囲を見回し、遠くのベンチが空いているのに気付いた。

 深雪の前にしゃがみ込み、自分の背中をポンポンと叩く。

「ひとまず向こうのベンチに移動しよう。ほら、おぶさって」

 深雪は返事をしなかった。きっと、僕に優しくされるのが嫌なんだろう。深雪にとって僕は、黙って別の女の子とデートをしていた裏切り者なのだから。

 それでも、簡単に引き下がるつもりはなかった。このまま深雪一人で家に帰ることは不可能だろうし、ならばいずれは根を上げてくれるはず。そんなズルい考えがあったから、たとえ日が暮れても待ち続ける覚悟があった。

 そしてやはり、先に折れたのは深雪だった。

 躊躇うようにゆっくりと、僕の背中に温かな重みが加わる。

 僕は深雪を落とさないようにゆっくりと立ち上がり、そのままベンチに向けて歩き出した。

 深雪は相変わらず無言のまま。僕からも何も言わない。けど、嫌な沈黙じゃなかった。恋人同士なんだから当たり前、といえばそうなのかもしれないけど。

「なんだか懐かしいね……」

 その呟きを聞いた時、僕はその声自体が懐かしく感じた。

 こんなに穏やかな深雪の声を聞くのは、一体いつ以来だろうか。

「懐かしいって、何が?」

「えっとね。昔、こうして蓮太くんに背負われること、よくあったでしょ?」

「そう……だっけかな」

「そうだよ」

 深雪がぴったりと身を寄せてくる。僕はドキドキしながら、彼女の言う『昔』を思い出してみる。

 それはきっと、僕らがまだ小学校低学年の頃。

 僕の実家は、それなりに有名な酒造だった。名家である大道寺家はそのすぐ傍にあり、僕は父親の手伝いとして酒を運び込む仕事をしていた。

 ある時、大道寺家の一人娘だという少女に出会った。その子の名前は深雪といった。

 深雪は大人しい娘で、早くに母親を亡くしたことがかなりショックだったらしいと父親から聞いた。元気づけてやりたいと思ったんだろう。僕は機会をうかがって、無理やり彼女を遊びに誘った。公園の遊具で競争したり、近くの山に野イチゴを取りに行ったり。

 深雪は遊びなれていないのか鈍臭く、よく転んでけがをした。僕は泣き出す彼女を宥め、おんぶをして家に帰った。父親にこっぴどく叱られ、一度は連れ出すのをやめようと思った。でも、深雪に「また遊ぼうね」と言われ、僕は子供ながらに考えていたと思う。

 自分がこの子を守らなくてはいけない――と。

 そしてその子は今、僕の背中に身を預けてくれている。

 今更だろうと笑われるかもしれない。でも、絶対に失いたくないと思った。

「あの頃から、なんだよね……」

 その呟きはあまりにも小さく、僕の耳に届くことはなかった。



 ベンチに到着すると、僕はすぐに深雪を座らせた。

 改めて怪我がないかどうか確認してみる。

「よいしょ……っと。どう?」

「うん、大丈夫みたい」

「そっか。よかった」

 少し強めに関節を動かしてみるが、どこも痛まないようだった。僕はひとまずホッとし、折れてしまったヒールに目をやった。こっちの方は明らかに重症である。帰りも僕が手を貸す必要があるだろう。

「ありがとう、蓮太くん」

 深雪の声は優しかった。でも、僕には感謝してもらう資格はない。こうなった原因を作ったのは、他ならぬ僕なのだから。

 深雪の隣に腰を下ろし、静かに頭を下げる。

「ごめん」

「……えっ?」

「小森さんからの告白、断るって言ったのに……。先延ばしにして、今日は二人でデートまでして。本当に、ごめん」

 無視されても仕方がないと思った。

 それでも深雪は、あくまで僕に優しかった。

「いいの……。悪いのは、私だから」

「何言ってるんだよ、深雪は何も悪くない」

「ううん、悪いのは私」

「僕だって」

 深雪は緩やかに首を振る。

 僕は意味が分からなかった。小森さんからのラブレターを知って以来、僕に冷たく当たったことを気にしているのだろうか。確かに多少は過剰なところがあったかもしれない。でもそれは、僕が不甲斐ないのが原因のはずだ。

 それなのに――

「私、蓮太くんが好き」

「……えっ?」

 耳を疑った。あまりにも流れにそぐわない告白に、僕は戸惑いを隠せなかった。

 彼女は澄み切った青空を見上げながら、ゆっくりとした調子で話し始める。

「大学で再会した時のこと、覚えてるかな? あのとき、私はあなたが蓮太くんだってすぐに分かった。背はずっと高くなっていたし、顔も少し変わっていたけど、ちゃんと面影があったから。それに気付いたら、昔の気持ちがわーってよみがえってきて、私は思ったの。これ、恋なんだって」

 深雪は楽しそうに笑う。それだけで、僕に抱いたという気持ちが本当なんだということがわかった。

「付き合い始めてからも、私はいつもドキドキしてた。二人で一緒にいればいるほど、あなたのことを好きになったから。肩を並べて講義を受けたり、休みの日に軽くデートをしたり、そんなことが幸せで仕方なかった。この気持ちは天井知らずだと思った。でもね……わからなかったの」

 深雪は再びその言葉を口にした。

 ――わからない。私、蓮太くんのこと大好きなのに。

 好きなのに、想いが伝わらない。その苦しさは僕だって味わっていたつもりだった。

 でも深雪は、僕が想像した以上に辛そうな表情を浮かべていて。

「この気持ちはすごく大切。けど、これを蓮太くんにどう伝えればいいのか。どういう風に表現すればいいのか……分からなかったんだ」

 表現とは、つまり愛情表現のことだろう。

 抱きしめたり、キスをしたり、耳元で「好きだ」と囁いてみたり。

 僕は初めて深雪とキスをした時のことを思い出した。必死な僕を、彼女は戸惑った表情を浮かべて見つめていた。あの時は、そういうことに興味がないのかと思っていたけど。

 深雪はずっと探していたのかもしれない。その気持ちを余すことなく僕に伝えられるような方法を。でも、そうしている間にも僕への気持ちは強まり、ますます身動きがとれなくなってしまったのではないか。

「私、とにかく蓮太くんの傍にいたいと思った。特別なことはなくてもいい。本当はしたいけど、離れるぐらいなら諦めようって。そう思って、蓮太くんに近寄ろうとする人はどうにかして遠ざけようとした。特に、他の女の子と話しているのを見ると、不安で不安で仕方なかった。だからきっと、意地悪なこともたくさん言ったと思う。最低だよね、私」

 深雪の声は、いつしか涙で濡れそぼっていた。僕の方も感情が高まり、上手く言葉を口にすることが出来ない。

「私のせいで、蓮太くんは他の女の子とまともに話すこともできなかった。迷惑だったよね。結衣子ちゃんだって、あんなに真剣な手紙を書いてくれたのに……。今日だって、二人のデートを邪魔して。私、邪魔者だよね。他の誰よりも、私が一番……いらない子だよね」

 すぐそばに、真っ赤な目をした深雪の顔があった。

 彼女が次に何を言おうとしているのかは、深く考えずとも分かった。

 ――私、蓮太くんが好き。

 その言葉だけで、十分だった。

「違うよ」

 僕は深雪を抱きすくめた。彼女は反射的に抵抗したが、それも一瞬だった。

「深雪はいらない子なんかじゃない。僕にとって一番大切な女の子だ。そして……悪いのは全部、僕だよ。小森さんとちゃんと向き合えていないことも。それに、深雪の本心を知ることができなかったのも」

「私の本心……?」

「うん。さっき、大学で再会した時の話をしたよね。僕は最初、深雪は変わったなって思った。すごく可愛くなってたし、大人っぽくなったって思った。でもさ……深雪は、変わってなかったんだよね。今も昔も僕を慕ってくれる、僕が守ってあげたいと思わされる女の子」

「蓮太くん……」

「深雪、僕は君のことが好きだ。不甲斐なくて、また君を怒らせちゃうかもしれないけど。それでも、ずっと傍にいていいかな?」

 深雪は、何も変わっていない。

 ようやくそのことに気付いた時、僕は心から彼女を想っていた。

「はい……お願い、します」

 深雪の瞳に新しい涙が浮かぶ。

 けどそれは、決して悲しみの色じゃなかった。

 目元を拭ってあげると、深雪は嬉しそうにはにかんだ。

「好きだよ、深雪」

「私も、大好き」

 そして僕たちは、付き合い始めて3度目の、ようやく恋人らしいキスをした。



 その後。

 僕は深雪を家まで送り届けると、すぐに小森さんへ連絡を入れた。

 先に帰っていてほしい、という内容のメッセージはあらかじめ送っていたので、改めて彼女に伝えようとしたのは別のことだった。

 いつも通り、すぐに返信がくる。

 僕は手早く身なりを確認すると、急いで自分の部屋を出た。


 僕が教えている塾にほど近い公園。

 約束の場所で待っていると、小森さんは息を切らせてやってきた。

「ごめん、急に呼び出したりして」

 小森さんは首を振る。それよりも、早く話を聞かせてほしい――そんな目をしているような気がした。

 僕としても、言うべきことは決まっている。

 何度も悩み抜き、そして導き出した答えだった。

「告白の返事、聞いてくれるかな」

 少し間をおいて、小森さんはうなずいた。覚悟はしていたんだろうけど、流石に戸惑いがあるらしい。それは僕も同じだった。

 でも、ここで逃げるわけにはいかない。

「僕には、深雪という彼女がいる」

 小森さんは何も言わなかった。あの場面に立ち会っていたのだから驚きはないだろうけど、隠されていたというショックはあるはずだ。僕は心から申し訳ないと思った。

「今まで黙っていてごめん。でも、僕は深雪のことを愛している。今回のことで、そのことが身にしみて分かった。だから僕は……君の気持ちを受け入れることはできない」

 何を言われても構わないと思った。

 それこそ、小森さんには平手打ちするくらいの資格はあるだろう。

 でもやっぱり、彼女は僕を責めなかった。

「……ありがと……ござい……ます」

 震える声で、感謝の言葉を呟くだけだった。

「小森さん……」

 優しい言葉を掛けてあげたい。でも、それがどんなに残酷なことかは分かっているつもりだった。下唇を噛みながら、その衝動を必死でこらえる。

 やがて小森さんは、無言のまま公園を後にした。

 足を引きずるようにして歩く彼女の後ろ姿を見送りながら、僕はしばらくその場にとどまっていた。


 だが、小森さんとの関係は、これで終わりではなかった。



 それから1週間後。

 いつものように大学の門をくぐると、妙な人だかりができていた。

「なんだ、これ?」

 どうやら誰かを取り囲んでいるようだが、人垣が邪魔をして何も見えない。横を通りながらさりげなく視線を送ってみると、信じられない光景が目についた。

「どうしてあなたがこんな所にいるの。早く自分の学校に戻りなさい!」

 耳慣れた大声を出していたのは、僕の彼女である深雪。

 そして、その前で仁王立ちしていたのは――

「小森さん!?」

 思わず大声を出してしまい、ギャラリーの注意がこちらを向いた。彼らはどうやら二人のやり取りを見物していたらしい。よっぽど物珍しいのか、カメラを向けている奴までいる。

 その理由は、小森さんの格好にあった。

 頭にはハチマキ、手にはメガホン、そして肩にはタスキが掛けられている。

 そこには手書きらしい字でこんな一言が記されていた。

『汚い手で先生を誘惑する大道寺深雪を許すな!』

 何度も目を疑うが、やっぱりそう書かれている。

 意味が分からず混乱しながらも、とりあえず二人のもとへと駆け寄った。

 小森さんはすぐに気付いて微笑んでくれる。

「蓮太くん、ちょうどいいところに!」

 深雪の方はずいぶん余裕がないようだった。

「聞いてよ、この子がさっきからずっと私のネガキャンをしてるの」

「ネガキャン?」

「ネガティブキャンペーンのこと。私について、あることないこと言いふらしてる」

 そのメガホンでね、と深雪は小森さんが手に持つそれを指差した。

「小森さん、それは本当?」

 嘘だと信じたかったが、彼女はコクリと頷いた。そればかりか、いたずらが見つかった子供のような表情まで浮かべている。こんなに情感豊かな子だっただろうか。

「深雪姫と小学生の女の子が言い争いしてるってよ!」

「何でもカレシが二股してるらしいぜ」

「サイテー、ロリコンまじキモい」

 勝手なことを言いながら、ギャラリーはどんどん集まってくる。

 そんな中、小森さんはふとメガホンをかざした。

≪みなさーん、きいてくださーい!≫

 その声は人垣を超えた範囲にまで響き渡る。

 また深雪のネガキャンだろうかと思っていたが――


≪わたし、こもりゆいこは、なかまちせんせいのことが、だいすきでーす!≫


 それは、明らかな宣戦布告だった。

 深雪は自分よりもずっと小さな子の首を引っ掴むと、その顔をずいっと近づけた。

「いい度胸してるよね。でも、蓮太くんの彼女は私だから」

 僕でもビビりそうな形相だったのに、小森さんはあくまで強がった。

「……かんけい、ないもん」

 意外な反攻に深雪の方がたじろぐ。小森さんは隙ありとばかりに拘束を脱出した。

 震える指先を腕ごとまっすぐに伸ばす。

「しょうぶ、です……。どっちが、せんせいのこと……ほんとうに、すきか」

 しどろもどろになりながらも、決してSNSには頼らなかった。

「ふうん……分かった。でも、私は絶対に負けないよ?」

 そう言い切った深雪の横顔は、なぜか満足そうに笑っていた。


 この先どんな結末が待っているのか、それを予想するのは難しい。

 ただ、少なくとも僕は、決して目を背けずにいたいと思う。

 それが『本気』を教えてくれた二人にできることだと思うから。

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