記憶:数日前
数日前
スニルの婚姻と日取りが決まり、村が慌ただしくなった。昔から結婚式は村全体で祝うのがしきたりだ。送り出すだけであっても、しなければならない準備は多い。花嫁衣装やその持参品を整えるだけで大仕事である。村長の屋敷は昼夜問わずひっきりなしに人が出入りし、楽しげな喧噪が絶えない。
その中で、屋敷の深部にある花嫁の間だけは静かだった。婚姻が終わるまで、スニルは異性と口を交わしてはならないのだ。例外は父親と兄弟だけである。母親と姉、姪たちが時折現れ、世話をしてくれる。
村の誰それからお祝いをいただいた。手紙や伝言を預かっている、と嬉しそうに話してくれた。
遠くの村々へ嫁いでいた姉たちも帰省し、スニルのために準備を手伝ってくれている。話題は花嫁衣裳のようだった。近頃は正教会で祝福を受ける形が流行りらしく、そのための衣装が今までの正装と違うのだ。
女性陣の笑い声や歌声が聞こえてくる。久々の吉報に村は笑顔に溢れていた。
そんな中、祝福される花嫁は長いすで膝を抱えていた。腕の間に顔を埋め、銀の髪飾りをずっと握りしめたままだ。この数日間、スニルはずっとふさぎ込んでいた。原因はフィルルセナにある。
(……迎えにくるって言ったのに)
彼は三本王の木に、あの日の夜来なかったのだ。
朝になるまで待った。昼になっても頑なに待ったスニルは、思いあまってニヴルガルの集落へも向かった。こうなれば意地でもフィルルセナに会ってやろうとした。どういう了見か怒鳴り散らすつもりだった。約束をすっぽかして!
しかし、
「……なんで、あんなことになってんのよ」
森の端にあった集落は破壊されていたのだ。へし折られた柱、傾いだ屋根、風穴の空いた壁、斧でたたき割られた家具や、転がって踏みつぶされた器と薬草、めくれ上がった床板と、広がった血の跡。
スニルは惨状を目の当たりにし、愕然となった。流行の異教徒狩りに襲われたのだ。人の近づかない森の端にある目立たない集落だったのに。
血の気が引いた。親しかった人たちの顔が脳裏に浮かんだ。みんな、見つからないよう隠れていたのに。
フィー! フィー、いるの、フィー! アン姉さん、おじさん、おばさん! スニルです!
喉をからして叫んだが、人の気配はなかった。それが良かったのか悪かったのかわからない。いくら探しても遺体はなかった。無事でいるはずだと、何度もスニルは自分に言い聞かせた。
(きっと森に逃げたんだ。何かあったときはいつもそうするって言ってたじゃない。だから無事。みんな無事だよ)
だが、あれだけの血が流れていて果たして無事なのだろうか。
嫌な考えが過ぎり、身の毛がよだつ。
残された伝言はないか、這いつくばって探し回ったが見つからなかった。わかったことは、彼ら自身の他に食料や貴重品までなかったことだ。奪われたのか、逃げる際に持ち去ったのか。
あの日、夕方まで粘ってとぼとぼ帰宅していたスニルは発見され、連れ戻された。彼女の行動を身内は訝ったが、ろくに荷物を持たなかったことが幸いし「結婚を控えて落ち着かなかったの」と言い逃れできた。元々スニルは閉じこもる質ではない。
(駆け落ちなんて私らしくないもん……ね)
村では浮いた噂の一つもなかった。特別親しい友人もいなかったし、男友達の関係を発展させる興味もなかった。
フィルルセナだけが特別だったのだ。
(ねぇ、無事なんだよね、みんな)
(フィー。……会いたいよ。会いたい。どこにいるの。約束したのに)
足音がする。だれかがこちらへ向かってくる。パッと顔をあげ、手早く身支度を調えた。来るのが同性や身内であっても、落ちこんだ姿は見られたくない。祈るように握り締めていた髪留めで髪もまとめる。
現れたのは数日ぶりに見た兄だった。彼は怪我をしたのか、腕に包帯を巻いていた。残された食事に顔をしかめ、新たに持ってきた夕食を脇へやる。
「スニルまた残したのか。ここのところ全然食べてないらしいな」
「動いてないからお腹すかないんだよ」
「母さんが心配していたぞ。なぁ、悩みがあるなら言ってみろ。もうこうやって話す機会もないだろうし。結婚が不安なのか」
「……別に、悩みなんてないよ」
取り繕った笑顔を向けると、不意に髪をつかまれた。ぎょっとしたスニルが身を引く前に兄の手は離れる。その拍子に髪が広がり、カランという音が足下で響いた。ころころころと転がって、長いすの下に銀色の輝きは消える。
「お兄ちゃん、何するの!」
スニルが屈んで拾おうとしたときだ。ぐいと腕を引っ張り上げられた。
「なんであんなものを持っている。異教徒だと疑われるだろうが」
低い声で脅しつけられ、息を呑んで兄を仰ぐ。
「嫁入り前にケチをつけるな。街はここほど寛容じゃないぞ。奴らに目をつけられたらどうなるか、知っているな。お前だけじゃないんだ疑われるのは」
微笑んだ兄が怖くて、スニルはさらに一歩後退した。
街のほうが正教会の監視は厳しい。すでにあの宗教はここいら一帯に染みこんでいる。
一時期、異教徒の村として疑いを向けられてからは、今もスニルたちの村は取引相手に事欠いていた。よそにはない税の重さも、未だ解除されない。
徹底的な仕打ちに父や兄が、どれほど苦心したか。スニルの結婚話が急速にまとまったのは、現状を打破する一手だからだ。相手は街の権力者に顔が利く。村全体の期待が、スニルの細い両肩にのし掛かっている。
「……悪い。脅かしすぎたか? だが神経質になりすぎるぐらいでいい。この近隣にあったニヴルの集落もいくつか落ちたし、やっとうちも正教会に加われるんだ。お前の結婚にはそれだけの意味がある。自覚してくれ」
「お兄ちゃん、私は」
「スニル。結婚相手は、お前みたいなじゃじゃ馬を見初めた奇特な男だ。その父親は交易で財をなして金もある。正教会とも繋がりがある。……少し変わっているらしいが、好奇心旺盛なお前と気が合うんじゃないか」
スニルを見初めた男は、スニルが男ばかりの学生に混ざって口論している様を気に入ったらしい。「馬鹿じゃない娘だから良いんだ」と笑っていたそうだ。
スニルも会ったことがある。育ちの良い子息は戸惑うスニルに対し「馬も乗れると聞いた。今度一緒にどうだろう」と誘う変わった男だった。
スニルと八つ違いであるため、目の前にいる十二違う兄より若い。単に権力者へ嫁がせたいだけなら、倍近く年が離れた相手でも構わなかったのだ。
村のためだけではなく、スニルのことも鑑みての婚姻なのだと、わかっていた。
「俺も会ったが、あいつならお前を大切にするだろうし、幸せにしてくれるだろう。金の心配もしなくていい。お前が苦手な家事もしなくて済む。存分に本も読める」
俯いた妹の頭を、兄はぽんぽんと撫でた。余計な波風立ててくれるなよ、と小さく釘を刺し、部屋を出る。
「待って! さっきの話――最近ニヴル狩りは収まってたんじゃなかったの。どうして急に落ちたなんて。お兄ちゃんなら何か――」
「スニル、自覚を持てと言ったばかりだ。花嫁になるんだろう。自分の幸せのことだけ考えるんだ」
ぱたんと扉は閉じられた。がちりと重い金属音が聞こえ、スニルは血相を変える。扉は開かない。がしゃがしゃとノブを回してもビクともしない。
「ちょ……っ、お兄ちゃん、お兄ちゃん? どうして鍵なんて……お兄ちゃん!」
「三日後の婚姻まで、大人しくしておけ」
やられた。ここまでされるとは思わなかった。
本格的に監禁され、どさりと長いすに座りこむ。癖で髪留めに触れようとし、どこに転がったか部屋を見渡した。四つん這いになって探すと、埃まみれになったそれを長いすの下から発見する。服で何度も拭って、両手で握りしめた。
(自分の幸せだけを考えるなら)
こんなところに囚われてやらない。
(だけど)
兄の言葉は重くスニルの身体に絡みつく。扉の向こうから聞こえてくる笑い声や楽しげな気配が、心を苛む。村の誰もがスニルの結婚に期待している。
(どうしたらいいの。どうしたいの)
村のみんなを裏切れない。しかし心が裂けそうになる。
フィルルセナの顔が浮かんだ。無性に会いたかった。
もう一度集落に行こう。だれもが寝静まった夜なら、窓から抜け出せる。だれでもいい。彼らがどこへ行ったか教えて欲しい。フィルルセナの居場所を。
落ち着きなく部屋を彷徨いたスニルは、何気なく移した視線の先にありえないものを見た。窓の向こう側で、真っ黒な布をまとった集団が歩いている。大きく目を見開いた。
(あれは!)
迷わずスニルは窓から屋根を伝って飛び降りた。二階であったが知ったことか。この程度の高さなら平気だ。木登りは今でも得意なのだ。
家の裏手から人目を忍んで村を抜ける。兄が先ほど食事を手渡しに来たのだ。きっと明朝まで部屋には誰もやってこない。
夕日にかかったシルエットは不思議なことに追いつけなかった。どれだけ速く走っても距離が縮まらないのだ。幻のように音を立てずそれは進んでいく。
「待ってよ! ねえ、待って! お願い、どこへ行くの、話を」
走りながらスニルは違和感に気づいた。異教徒狩りが起こったばかりの時期に、彼らが人目につきやすいところへ出てくるだろうか。それも部屋の窓から見渡せる目立つ位置に。だがあんな格好の集団はニヴルガル以外にいない。
丘を越えた頃、流石に息が切れてスニルの足が止まった。
「……ここって」
ニヴルガルたちは森へ入っていった。
禁猟区の森へ……