記憶:一ヶ月前
記憶:一ヶ月前
「お前、仮にも年ごろの女としてどうなんだ。夜更けに男訪ねるなんて」
家族に突かれながら出てきたフィルルセナは、フードを外していた。その顔は室内の光が逆光になっていてもわかるほど、赤い。
あんまり遅くなるんじゃないよー、と冷やかしたのは彼の姉だ。ケラケラとした笑い声を遮るように、扉は閉められた。フィルルセナの目が四方へ飛び、スニル以外にだれもいないことを確認する。
森の端で暮らすニヴルガルたちの家屋は、主に木材で建てられる。土台は簡素な石組みで、藁を敷いた粗末な屋根は、家屋より小屋と呼ぶほうが相応しかった。
一度だけ中へ入れて貰ったことがあったが、ろくな間仕切りもない簡素なものだった。彼らは、その気になれば屋敷のような家を建てることだって可能だろうに、質素な生活を好んだ。いつ手放すことになってもこれなら惜しくない、といつかフィルルセナが言っていたことを思い出す。
本当に大切なものは、全て森の中にある。
誇らしげに、けれど秘密を分かち合うようにそっと教えてくれたのはいつだったか。
息を切らせた愛馬を撫でるスニルは、その、いつもと変わらない光景に小さく笑った。彼らは欲がない。彼らにとって大切なことは、木々に寄り添うことなのだ。暮らしを向上させようという気持ちは二の次だ。
(本当、私たちと違う。どれだけ私たちとは遠いのか)
(現実の距離なんて問題じゃなくて、そもそも価値観が違うんだ)
スニルの村からこの場所まで、半刻ほど馬を走らせねばならない。不意に尋ねるには、少し遠い。以前は歩いてそれぐらいだったのに、彼らは住処を変えるたび遠くなっていく。
(私とフィーは違うから。生活も、価値観も、生きる理由も、何もかも)
夜風の冷たさに二の腕をさすっていると「どうした?」と声をかけられる。
「……ちょっとね。どうしてもフィーに会いたくなっちゃってさ。ごめん、報せもなしに来てしまって」
「スニルが来るのは毎度唐突だろ」
フィルルセナは、薄着のスニルに顔をしかめた。羽織っていた自分のフード付きマントを脱ぐと、ぶっきらぼうに女の友人へ突きつける。
「……ありがとう」
サグムを肩にかけながら、まじまじとスニルは素肌を晒すフィルルセナを見つめた。
夜の暗さにあって、彼の白さは際だった。決して病的ではない透き通るような肌が、目を釘づけにする。普段は黒い布で肌を隠す分、異様な効果があった。まして肩から二の腕にかけて刻まれた、ニヴルガル独特の黒い刺青があるならば。
去年、成人の証として刻まれたそれは不可思議な文様だった。直視するに堪えないほど腫れていた肌が、今は馴染んでいる。
(なんで、女の私が目のやり場に困ってんだろ)
心を許してもらっている自覚があった。数年前であれば、彼は黒い布を外さなかっただろう。どれだけ暑くても邪魔でも、頑固に布をまとったはずだ。
一度素顔を明かして枷が取れたのか、彼の言動は柔らかくなった。人目が気にならない場所であれば、こうして時折黒い布を取るほどである。
(私、フィーにどうして欲しいんだろう)
スニルは時々自分がわからなくなる。今も無性に会いたくなって、家族が寝静まるころにそっと家を抜けてきた。だが、会ったところで何をするつもりだったのか。
「で、今日は何をやった? また家族と喧嘩? 何か事件でもあったか」
スニルはいつもと変わらない友人を見上げた。出会った八年前は見下ろしていた顔が、頭一つ高い位置にある。
「私さ、年明けに結婚するんだって」
他人事のようにスニルは告白した。
「相手は街の民会で働いてる人みたい。ほら私、毎週街へ行くでしょ。そのとき見初められたんだって。歳はちょっと上みたいだけど」
スニルは学校を卒業してからも、恩師の下で週に数日働いていた。女は家にいるべき、と主張する両親や兄と激突の末、勝ち取った仕事だった。
その師の補佐をしているうちに見初められたのだ。スニルの恩師は民会にも顔が利く。もしかしたら彼の紹介だったのかもしれない。
(まんまと父様の思惑通り)
悪い話ではなかった。スニルではなく家族が強く望む縁談であったが。
「結婚したら村を離れるし、そうしたらここへ来れなくなる。だから……顔を見たくなったんだ」
フィルルセナの反応をスニルは待った。彼はこちらを見ようとしなかった。おずおず服をつかみ、「フィー?」と呼びかける。
「……いやなのか?」
「はは、どうかな。いつか結婚はしなきゃだし、この歳まで見逃してもらっただけ優遇されていたかも」
風に流される髪をスニルは押さえた。女らしく、と言われるのが大嫌いだった。裁縫や料理を覚えろと頭ごなしに命じられ、いつも反発してきた。街へ出たのも、能力さえあれば働くことができたためだ。
結婚相手は、早ければ生まれる前から決まる。適齢期まで待っての婚姻となる。スニルが今まで自由に振る舞えたのは、父が村長で末娘に甘かったことと、その奔放さや気の強さにも原因があった。
物怖じせず、好奇心旺盛で、子どものころから泥だらけになって遊んでいた。今もふらりと出かけては数日間平気で姿を消した。
街へ出れば何のかんのと理由をつけて図書館へこもり、言い寄ってくる相手を強気ではね除け、父を嘆かせてきた。
だが、自由な時間もお終いだ。自分を選んだ相手に興味がなかったわけではないが――気は重くなるばかりだった。
「ね、フィーは止めてくれない?」
鮮やかな青い瞳が、スニルを真っ直ぐ見据える。
「すべてを捨てられるなら、守ってやる。その覚悟があるなら」
フィルルセナの仲間になるなら、家も家族も、安定した生活も、未来も、人としての権利さえ手放さなくてはならない。一族へ加わるか、と以前誘われたときは、冗談だった。
こいつらは人じゃない。煤の化け物だ! わかっているのか!
兄の声が、耳の奥に木霊する。あの徹底した差別へと身を置く覚悟が、あるだろうか。狩人たちに否応なしに追われる、理不尽な境遇へ。憎悪とも呼べる敵意の標的へ。
――あるだろうか、私に。
スニルは軽く唇を噛んだ。すべてを捨てる。今までの自分と生きかたも変える覚悟があるのか。
その躊躇いを破るように、フィルルセナがすっと手を差し出した。
「俺は守れる。お前なら一族は歓迎するだろう。だから……来いよ」
白い手を凝視した彼女は、ふっと苦笑した。
「そんな言いかた、ずるい」
唐突にスニルが、フィルルセナの胸元を引っ張った。つま先だって口づける。唇が触れあっただけの軽いキスだ。ぽかんとしたフィルルセナを覗き、にっとスニルは歯を見せる。
「いいよ。フィーが守ってくれるなら」
フィルルセナが一緒の未来は簡単に想像できた。家族を、村を捨てても。豊かで安定した未来を捨てても。そこに彼がいないほうが、きっと辛い。
ここへ来るまでずっと、フィルルセナと引き離されることだけ考えていた。これが最後かもしれない、と。それが憂鬱だったのだ。
だから、スニルはいつもと変わらない集落の光景に安堵した。変わらざるを得ない自分が寂しかった。あの輪の中に入りたかったのだ。
「刺青は怖いけどさ、何だってやるよ! 不器用だけど、薪割りだってできるし。針仕事は苦手だけど、馬の世話は得意だし。フィーたちの文字も学ぶし」
へへへ、とスニルがはにかむ。その裏に潜めた恐怖を、フィルルセナが察するのは容易かったはずだ。
ニヴルガルの女性は全身に刺青を入れる。乱暴されかかったとき、その異様さが彼女たちを救うこともままあるためだ。異民族としての生活は、今までと比べ危険が多い。その覚悟を問われている。人として扱われなくなる覚悟を。
「刺青はしなくてもいい。近頃はサグムだって使わない者たちも大勢いる」
「お守りじゃなかったんだ? 暑くなったら大変だなーって思ってたんだけど」
あれほど頑なに取ろうとしなかった黒の布だ。誇りのように描かれた精緻で美しい文様は、部族や氏素性を表すという。明確な外と内との境界線で、敵と味方を残酷に分かつそれは、彼らにとってなくてはならないものだとスニルは思っていた。
自嘲気味にフィルルセナは口角をあげた。
「血が交わっていってるんだ。俺たちみたいな純血は少なくなった。古いものは淘汰されていくのだろうな」
ニヴルガルにも時代の波は押し寄せるのか。
「どこも同じなんだね」
呟いた声は暗かった。
変わらないものなんてないのかもしれない。変わって欲しくないという願いとは裏腹に、流れは留まることを知らない。
「その分、外部との接点が得られるから、損ばかりじゃない。俺たちは時代に合わせて変化していくだけだ。……もしかしたらスニルにその役を頼むかもしれない」
「一緒にいてくれるって言ってくれないんだ」
外部と接触できる人間は貴重だと、フィルルセナはそっぽを向いた。スニルとの関係も情報収集の一環だったのか。そういえばニヴルガルたちはスニルのたわいない話や愚痴もよく聞いてくれた。
(まぁ、仕方ないか。フィーだもん。朴念仁で鈍感で、こっちの気持ちなんか知らないで)
不意に腕を引っ張られ、スニルは抱き寄せられた。フィルルセナの肩に頬が当たり、かっと全身が沸騰する。
「え、な、なに?」
さっきの仕返し、と笑い含みに耳元で囁かれ、内心で悲鳴をあげる。心臓が暴れた。逃げたくなった。だけど、逃げたくなかった。くくくっとフィルルセナが身体を震わせる。
「怖い?」
「……怖くない」
スニルのほうも、たどたどしく背中へ手を伸ばす。こんな風に触れたことも、触れられたこともなかった。思えば、慎重に距離を保ってきた二人だった。この一線を超えてしまえば、後戻りできなくなると知っていたから。
「スニル」
顔を上げると、自然と唇が重なった。
(離れたくない。フィーと一緒にいたい)
フィルルセナからはニヴルたち独特のにおいがする。彼らのまとう草花のにおいだ。相手の体温を感じるうちに、緊張と混乱が緩和されていく。身を委ねてみるとそこはひどく心地よかった。
好きだなぁ、と素直に思えた。
(言ってやらないけどさ)
スニルの髪を撫でたフィルルセナが耳元へ唇を寄せる。
「ずっとこうしたかった」
不意に囁かれ、スニルは息を呑んだ。
「距離を置くべきだと何度も言われてきた。居所を外部に漏らすのは危険だからと。だけど……、俺がスニルを手放せなかったんだ」
背中へと回した腕へ、スニルは静かに力を込める。
「私も、ずっとフィーに触れたかった」
二人の気持ちは互いに通じ合っている。その確信がある。
「三日後、月のない夜に『三本王の木』の跡へ迎えに行く。本当に決心がついたなら来て欲しい。待っているから」
うん、とスニルは頷いた。頬へ触れるフィルルセナの手に、自分の手を重ねながら何度も。
「絶対行くから。約束だからね、フィー」
二人のことを木陰から見ている人間がいるとも知らず、幸せそうに。