episode 02 古い森の伝承
Ⅱ
「どうなってるの」
枝の赤い紐を見つけ、スニルは顔を引きつらせた。
「またここに戻ってきてるじゃないの!」
この印を見たのは三度目だ。迷子になっては困るからと印をつけたが――立派な迷子ではないか。しかも二度目のとき、念のためとに結んだ紐は、前方へ点々と続いていた。
「ありえない、ありえない。なんなの。道なりに進んできたし、曲がった覚えもない。前進しただけなのに……どうしてここへ戻ってるのよ!」
同じところをぐるぐる回っただけか。無駄に体力を消費しただけか。代わり映えしない景色が続くと、疑ってはいたが……。
ひたすら前進するスニルの行く手を、どうやってねじ曲げたのだろう。音もなく木が動いたのか。それとも曲がっていたのだろうか、この一本道が。真っ直ぐに見えるのに?
昨晩、こんなこともあろうかとこっそり準備してきたが、まったく役に立っていない。
(ああ、もう! 今ってさ、『森の精』に騙くらかされてるって状況なのかな。それとも森に喰われたってほう? 悪魔にかけられた呪い?)
何百年も昔から、決して踏み入ってはならない森があった。総じて森へは近づくなと言い含められていたが、その古い森は『死者の森』であり、あの世へと続く入口なのだ。
森を守護する『森の精』は、ナナカマドを植えてこちらへ立ち入るなと人々へ警告した。
それでも踏み入る者がいたら、死者の安息を守るため、眠れる悪魔を呼び起こそうと言い放った。その悪魔は角を生やし、全身が暗い闇のようで、赤い目玉が血色なのだという。
悪魔は不思議な力で森の木々を操って侵入者を捕らえ、呪いを紡ぎ、目を奪い、大切な記憶もかすめ取り、その身を、魂を、喰らうのだ。森を侵食するものは未来永劫呪われよと、血族にまでその力は及ぶ――
普通の子どもであったなら、この話を聞いて涙ぐむものだった。「森へ連れて行くよ」と脅せば泣き叫ぶほど恐れたものだ。
しかし、スニルは違った。幼いころからこの怖い言い伝えが大好きで、しょっちゅう祖母にせがんでいた。
「ねぇねぇ、悪魔や森の精なんているの? だれが確認したの? 食べられるって頭からバリバリ囓られちゃうの?」
目を輝かせるスニルへ、祖母は困ったように笑ったのだった。
「ふふ、どうだろうねぇ。なんせ会ったことがないからねぇ。だけど森へ入って戻らなかった人は何人も何人もいるんだよ。森を荒らすなと、悪魔や森の精が怒ったのかもしれないねぇ」
決して踏み入ってはならない。
近づいてもならない。
耳にたこができるほど、村の子どもなら聞かされる話である。
森に意志があるのなら、無断で踏み入ったスニルはこのまま閉じこめられ、悪魔に喰われるのだろうか。それとも、侵入するなと拒まれているのだろうか。
(森へ入るなって、フィーからもくどいぐらい言われたんだっけ)
森と親しむニヴルガルは、よそ者を懐へ入れたがらない。自由に森を行き来する手口があっても固く口を閉ざす。彼らは森の秘密を知っている。
何を守っていたのだろう。
何を隠していたのだろう。
森の深部を目指して、改めて思う。自分がどこへ向かおうとしているのかと――
細い道をなぞるのを止め、思い切って下生えをスニルは踏みつけた。道なき道を進めば、現状は打開できるかもしれない。
枝葉をかき分けながらの行軍は、肌に細かな赤い痕をつけた。枝や尖った茨が侵入者を拒む。
(あの黒い布って、本当にケガしないように身につけているのかも。結構合理的だったんだ)
手足がむき出しで無防備過ぎると、指摘されたことがあった。枝に引っ掻いた腕を舐めて、負けるものか、とスニルは顔を上げる。
(フィーたちが抜けられるなら、私だって)
森の木々は、いつの間にかブナの数が減って様々な種類が入り交じるようになった。中でも目立つのはオークだ。太くて丸い幹と、大きな枝なのにねじくれた独特の形は、森の外でもお馴染みである。全知全能の神に例えられる神聖な木だ。
苔むした立派なオークを見かけるたび、胸にずきんと棘が刺さった。『三本王の木』は、目の前のオークよりもさらに巨大だった。空へ広げた密度の高い枝は、平野にぽつんとあるせいで、小さな森のようだった。あれはご神木だったのに。
――偽りの神ではなく、真実の神を信仰しなさい。
人々にそうやさしく説くのは、べつの国から伝わった正教会だ。古い神々を否定する彼らは、わけのわからない『奇跡』を度々起こした。
まず、治療法のなかった病を次々に治した。嘔吐を繰り返す伝染病は多くの命を――特に幼い子どもの命を――奪うため恐れられていたが、教会の教えに従った街では死者が例年の半数にも満たなかった。
訪れた神の声を聞く神の子は、その年の災害を予知した。滅多にない地震や、秋口の嵐による河川の氾濫、先に触れた伝染病がそれだ。半信半疑でありながら対策を立てた街や村は、被害を大幅に減らすことができた。
また、聖人ともなれば聖痕が現れ、腐ることのない肉体を手に入れることも可能だという。唯一神の教えを遵守することで、教徒にも永遠を約束するらしい。
人々の心は、新しい宗教と押し寄せた異文化に奪われた。気づくと地域ごとに見慣れない教会が建ち、胡散臭い説法がもったいぶって語られた。近頃では正教会を批判すると、異教徒が! と罵られる有様だ。
古い神々の尊厳は地へと引きずり下ろされた。神として崇められた獣や鳥は、姿を変えて凶悪な魔物や唯一神のしもべへと貶められた。自然の中にあった神は、神ではなくなってしまったのだ。
だが、何よりスニルが我慢ならなかったのは、身内だった。蛇蝎のごとく嫌った正教会が権力を握ると、彼らは手のひらを返した。服飾や食事、建築様式まで率先して異文化を取り入れた。
大した理解もないまま外側だけ取り繕う様は、ちぐはぐで、滑稽で、奇妙で、みっともなくて、父や兄とよく喧嘩したものだ。
スニルが、ニヴルガルに親しみを感じるのは、昔からの生活や伝統を重視する志に惹かれたからだ。自分たちと似て非なる自然と密着した生活は、安堵をもたらしてくれる。
彼らにとって森は守り神であり、生まれた場所であり、還る場所でもあるのだという。その神聖な場所は、彼らの領域なのだ。
(フィーは森で迷ったとき、どうしたらいいって言っていたっけ)
黒い布をかぶった彼らは、どうやってこの森を抜けていたのだろう。きっと何らかの目印があるに違いないのだが。
「……そうだ、エルド。あの木を探そう」
スニルはふらりとまた歩き出した。ここまでに何度か甘い香りが漂ってきたのを思い出したのだ。
白い花の咲いたもっさりした葉の塊がエルドで、周りの木に比べてそれほど大きくないのも特徴である。
エルドは魔を破る木だ。虫除けや痛み止め等薬草としても多々の用途があり、花はお茶やシロップ漬けにして、黒く熟した実はジャムにできる。
ニヴルガルの集落で教えてもらった知識だ。彼らはこの木を「魔除け」や「万能の薬箱」と呼び、親しみを持っていた。反対に教会は「悪魔の木」「呪いの枝」と呼び、生と死にも通ずるこの木を薪にすることさえ忌避する。
この芳しい香りは異界への誘いなのだ。
(『死者の森』と呼ばれるここに、なんて相応しい)
この木を辿った先に、ニヴルガルたちはいるのだろうか。