記憶:心の欠片
『わざわざ伝えに来なくとも良かったのだぞ』
そう言ったのは、ファジルだった。黒い布を外した姿で胡座をかき、面白そうにフィルルセナを覗きこんでいる。場所は、あの古色を帯びた寺院だろう。床石が冷たく陽光を反射していた。崩れた屋根から、昼間の青空が覗いている。
『彼女はきっと良い森の人になるはずなので』と応えたのはフィルルセナだった。こちらもサグムを外し、素顔を晒している。
『使徒であるあなたの祝福を、受けさせてあげたかった』
『うむ。ここで祝言を挙げたいとは良い心がけだ。あいわかった。久々の祝い事だ、派手なものにしてやろう! 喜ぶが良いぞ』
『そんなこと言っていません!』
そうなのか、とがっかりしたファジルはフィルルセナを物欲しげに見つめた。そういう祝福ではないのですと、強調する青年の頬と耳は赤い。
(それに俺は、まだ半人前だ。スニルが仮に望んでくれても)
女子の婚姻は十代が当たり前であったが、男子は三十を過ぎてからも珍しくない。家族を一人で養えるだけの力がなければ、一人前だと認められないのだ。フィルルセナの細工師としての腕は上々だが、今は売るあてもない。不甲斐なさにため息が溢れてくる。
それでも、これからは彼女とずっと共にいられる。人目を気にすることなく、気兼ねすることなく会える。月に数度会えれば多すぎるぐらいだった今までと違って。
『つまらんなぁ。祝福と言うからそういう話だと思ったのに』
『森の人になるための、祝福をお願いしたいのです』
わざとらしくがっかりする使徒を軽く睨み、フィルルセナは立ち上がった。頼みましたよ、と念を押すのも忘れない。
(きっとスニルは大喜びする。好奇心むき出しにして)
スニルが飛び跳ねて喜ぶさまを脳裏に描き、フィルルセナは口角を上げて外へと向かう。スニルは、森の人の文化や伝統に触れるのが大好きなのだ。この角を持つ少年のことだって興味津々に違いない。
『大事にしているのだなぁ、その娘』
顔を赤くして勢いよく振り返ったフィルルセナは、ファジルが人の悪い笑みを浮かべているのを見た。
『連れてくるが良いよ。赤い月の終わるころ、もう一度ここへ。そのころなら森も鎮まっているだろうさ』
場面が切り替わる。スニルも進んだ道を、迷いなく走るフィルルセナの足取りは軽かった。倒木を跨ぎ、岩を軽々と超える身のこなしは、ファジルのそれと似ている。
彼の頭はスニルのことと、共に過ごすこれからのことで彩られていた。スニルの家をどこに建てるか、お祝いに何を贈ろうか。久々に狩りをしようと家族で談笑したのは、昨晩のことだった。
始めのうちはフィルルセナの家で預かる予定だ。守らなければならない決まりごとや、覚えてもらわねばならない規律があるのだ。森の歩きかたも教えていく。仲間内で決められている合図や、森の人の文字等も少しずつ伝えいく。
スニルは「えー、こんなにあるの」と唇を尖らせるかもしれない。だけどきっと、積極的に吸収していくのだろう。
緩む頬に触れた。普段、感情を揺らさないフィルルセナが、珍しく浮かれていたのだ。視界に飛び込む景色すべてが明るく輝いて見えるほどに。
ナナカマドの赤い実が見え、禁猟区の森を抜けた。ここまで休みなく走破したのに、まだ身体が軽い。まだ走れる――
そのとき、ピイという鋭い警戒音が響いた。鳥の鳴き声に似せたそれは、仲間からの合図である。音の連なりで何かを伝えているとわかり、フィルルセナは耳を澄ませた。
戻るな、と警告している。戻るな、危険。危険!
木々のざわめきに紛れて聞こえる仲間からの合図は、ぴりりとした緊張を呼び覚ます。しかも合図はそれきり止まった。胸騒ぎがして、フィルルセナは近くにある大きな木によじ登り、周辺を見渡す。こちらからも合図を送ったが、返事は届かない。
(異教徒狩りか? 最近はおさまっていたのに!)
フィルルセナはばさりとフードをかぶり、慎重に森の中を進んだ。状況を把握する必要がある。何より家族や仲間の安否が不明なままだ。鳥の鳴き真似では細かな情報の伝達は難しい。だが、こんな切羽詰まった合図は初めてだった。
不意に男の悲鳴が聞こえ、フィルルセナは咄嗟に身を隠した。集落近くで誰かが襲われていたのだ。手に鍬や鎌、斧を持った男たちから暴行を受けているのは、顔見知りだった。一人がフィルルセナに気づき、「あそこにもいるぞ!」と声をあげる。
「どこだ!?」
「隠れていたのか」
「逃げたぞ!」
奴らはこの近隣で暮らす農夫達だろう。日々の暮らしに飢えた者たちが、金品や食糧を奪うために現れたのだ。『異教徒狩り』という体裁で、家々から何かを運び出し、人々を捕らえていく。
この集落は二十戸ほどの小さなものだったが、見る間に木造の家は崩された。めぼしいものがなくなると、鬱憤を晴らすように彼らは集落を破壊していくのだ。
なぜ、と動転した。ここは外部の者に知られてなかったはずだ。どこから漏れた。どこから――
四方から聞こえる悲鳴の中に聞き覚えのある声があった。それが姉の声に似ていて、フィルルセナの心臓を早鐘のように打つ。手かせが見えた。サグムをはぎ取られ、顔を腫らした女が投げ出されている。姉だとわかった途端、それまであった冷静さが吹き飛んでいた。
『姉さん! 姉さん、姉さん!』
彼女はフィルルセナの姿を認め、逃げなさい、と声を張り上げた。
『どうして戻ったの、戻るなって報せたのに!』
殴られて鼻血を出す彼女の手かせを壊すべく、持っていたナイフを真上から突き立てる。澄んだ音を立てて、金属と金属がぶつかる。数度刃を打ちつけ、枷を壊した。
『父さんや母さんは、他のみんなは?』
『わからない。わからないの。突然のことで私にも何もわかってない。早く森へ……とにかく逃げないと、早く行かないとダメ』
『わかったから、姉さん捕まって』
怪我を負った姉へ自分のサグムをかけて支え、立ち上がろうとしたときだった。
『セナ、後ろ!』
後頭部に衝撃が走る。どうと倒れたフィルルセナは、自分の周囲に散った陶器の破片で、殴られたことを知った。馴染んだにおいがした。薬草を入れた瓶だったのか。セナ、という姉の声が頭に響く。揺さぶられたのに、起き上がれない。鈍い音と、姉の悲鳴が上がる。
そこへ、聞き覚えのある声がかかった。
『ようやっと見つけた。お前がフィーだな』
歯を食いしばったフィルルセナが見た人物は。
『あんたは、スニルの……?』
男はフィルルセナを見下ろし、実に嬉しそうに笑った。手には物騒な斧がぶら下がっている。
『明日の晩、三本王の木の跡で……だったか。なぁ、お前が嫁入り前のスニルを誑かしたのは知っているんだ。この異教徒の悪魔めが!』
ぎらつく刃が振り下ろされる。やめてぇ、という姉の甲高い悲鳴を聞いたところで、ぶつりとそれは途絶えた。
「うそだ! うそ……、うそだあ!」
にじり下がったスニルは、両手で顔を覆う。
最悪の事態じゃなければいいと、祈っていた。
この可能性を否定してきたのに。
熱い呼気が食いしばった歯の隙間から漏れ出た。ぼたぼたと涙が頬を伝う。
「……うそ、うそだ、フィー」
どんな形であれ生きてさえいてくれたら、
それでよかった。
それだけでよかったのに。
指先から伝わったフィルルセナの記憶を、見ていられなかった。その後に訪れる残酷な結末がわかっていて、最期を知るなんてできない。身内が関わっているなら尚更だ。どうして、と問う資格さえなかった。兄の行動は村の行く末を慮った結果だ。
(私のせいだ。私が、フィーのところへ行ったりしたから)
(私が、村のみんなよりフィーを選んだから)
不用心にニヴルガルの集落へ行ったため、彼らの居場所が伝わった。村を立て直す手立てのスニルが逃げようとしたため、こんな事態が起こった。
落ちた前髪の隙間から、こちらを見下ろす真暗が見えた。スニルを求めるように手を伸ばしてくる。ぶんぶんと頭を振った。解けて落ちた髪飾りが、ころころと草の上を転がる。
「いやだ、フィー。いやだよ。もう見たくない。見たくないよ!」
「――何をしている!」
ぼんやりした灯りが二人を照らし出した。杖の先に光を点したファジルが、森の精を連れて戻ったのだ。息を切らした子どもは状況を見て取り、「陣から出るなと言ったのに、なんて無茶を」と厳しく言い放った。だが、うずくまるしかできないスニルを見やり、大きく息をつく。
「わからないのか。ここまで……お前を呼んだのはセナだ」
ファジルは転がった髪飾りを拾う。
「セナがお前を導いたんだ。この髪飾りがあるから、森はお前を受け入れた。そして、私も引き合わされた。こんな姿になってもお前に会いたかったのだろう」
スニルは身体を震わせた。
「言葉を聞いてやってくれ。時間が経てば経つほど、真暗は自分を失っていく」
真暗たちは、強い思いを抱くほどに苦しむのだ。その痛みを癒すため、生前の記憶も人格も断片化し、理性も何もかもを手放し、化け物となる。忘却という微睡みにすべてを委ね、あるべき場所へ還るために。
スニルの手に宝物だった髪飾りを乗せ、ファジルが固く握りしめさせた。
「私が力を貸す。少しの間ならお前を守ってやる」
しゃん、と音を立ててファジルが杖を構えた。その額には玉の汗が浮かんでいた。
「セナがセナでいられる時間は残り少ない。赤い月の力を借りてやっと保っている状態だ。……楽にしてやってくれ。頼む」
自分の胸辺りまでしかない子どもに頼まれ、スニルは洟をすすって顔をあげた。真暗にフィルルセナの面影はない。だが、彼に違いなかった。仕草が似ている。背の高さも、体つきも。
スニルの身体が柔らかな光に覆われた。いいぞ、と合図するようにファジルがうなずく。
「フィー」
唇を噛みしめ、髪飾りを握りしめ、恐る恐る、スニルは真暗に触れた。
――スニル。
その途端、強く名前を呼ばれる。スニル、スニル、スニル……と何度も。この数日間ずっと聞きたかった声だ。それが届いているか不安そうに、彼はスニルと繰り返した。
繋いだ手から、腹部を血で汚しながら逃げる彼の姿が伝わってきた。脇腹を押さえ、森へと向かう姿だ。枯葉に点々と血の赤が続いていた。足取りは不安定で、呼吸は浅く、身体が小刻みに震えていた。じわじわとした出血に動転しながら、スニルを呼んでいた。
あの瞬間、ぎらつく斧は容赦なく振り下ろされた。一撃目は何とか避けれたが、頭部を強打されていたためまともに立ち上がれない。舌打ちした男からの攻撃は止まず、二度、三度とフィルルセナに襲いかかる。
そこへ黒い布が投げつけられた。布は広がって男に絡みつく。フィルルセナが姉にかけてやったサグムだった。
行きなさいセナ! 約束があるんでしょう。行って! 私は大丈夫だから!
そこらに転がった木片や、石、食器等を手当たり次第に姉は敵へ投げつける。男が大きく口を開けた瞬間、布でくるんだ袋を投げつけた。貴重な薬草を煎じた粉が広がり、男がむせ返る。
そうだ。約束がある。
とても大切な、約束が。
振り返ると気丈な姉は「早く!」と声を張り上げた。フィルルセナは熱を帯びた脇腹を押さえ、ふらつきながらも森へと身を翻した。とにかく森の奥へ、自分たちの領域へ逃れなければ。そこまでよそ者は追ってこられない。
森へ進み、助けを呼ぶために小さな笛を吹く。鳥の鳴き声のように響いた音が、仲間への合図となる。笛を使うのはより遠方にいる仲間まで届くようにするためだ。
すぐの返戻がない。もう一度合図を送ると、数泊遅れた後、同じような鳥の鳴き声がした。
――遠い。
額に脂汗が浮かぶ。助けは期待できないのか。村は、と振り返るとそちらからは悲鳴や、家々が破壊される音が響いている。歯噛みした一瞬だった。がくん、と膝が折れ曲がっていた。懸命に足を踏み出したが覚束ない。視界が回り、倒れたことを知った。そこから起き上がれない。
姉さんが庇ってくれたのに。
脇腹を押さえた手のひらは、赤く染まっていた。血が止まらない。応急処置では間に合わない。生暖かな感触が脇腹を中心に広がっていく。
――スニル。
フィルルセナが力なくスニルを呼ぶ。倒れた木陰には、きらきらとやさしい光が落ちていた。それが霞むにつれ、意識が失われていくのがわかった。
――迎えに行くと、約束したのに。仲間に加えると、これからずっと一緒だと……
梢がやさしく揺れていた。青空を木陰から眩しそうに見上げたフィルルセナの呼吸が、徐々に遅くなっていく。
「フィー! 私はここにいる!」
思わずスニルは口走っていた。
「スニルはここにいるよ。ここにいるから! フィー!」
これが記憶だとしても、すでに起こったことだとしても、言わずにおれなかった。
記憶の中のフィルルセナは、赤く染まった手を空へ掲げた。
――スニルに、あのとき、ちゃんと……だと、言えば……よかっ……