第一章 転生と小さい紅葉とぷにぷにほっぺ その一
暗転直後、まるで至近距離で照明がつけられたように視界が明るくなり、涼子は目を眇めた。
光に慣れたのか、ぼやけた視界がだんだんと鮮明になる。すると目の前には覚えのない粥のような食事が置かれ、手にもやはり覚えのないスプーンが握られていた。
「う゛っ?」
口から出たその言葉とともに、涼子は持っていたスプーンを皿へと落とした。落下したスプーンは、粥のようなものに直撃し耳障りな音を響かせる。スプーンの着地点である粥は、飛び跳ねベチャっと己の服、というか前掛けを汚した。さらにスプーンは皿から飛び出してテーブルにひかれたクロスの上を転がる
真っ白なテーブルクロスが粥まみれの状態。大惨事、とはいかずとも小惨事だ。
しかし涼子は現状が理解できず、パソコンでいうところのフリーズ状態。
そんな涼子を再起動したのは、女性の小さなため息だった。
涼子がゆっくりとそちらを向くと、年は二十代くらいの茶色い髪を後頭部でひっつめてお団子にし、簡素だが上品なドレスを着た女性が苦笑を漏らしていた。少し垂れ気味の大きな茶色い瞳が愛らしく、世の中の男性諸君はきっと守りたくなるだろうな、と涼子は思う。
その女性は転がったスプーンを拾い上げて布巾で拭い、サイドカートの上の盆に置く。そしてまだ粥が残っている皿を涼子の手の届かない場所へ移動させる。さらに涼子の口元を清潔そうなナプキンで拭い、汚れてしまった前掛けを外した。
「はい、綺麗になりましたよ。」
そう言って彼女は微笑む。その表情は愛情に溢れていた。
彼女は幼児が自分で食べたがり、そしてうまく食べられないことをわかっていたため、これくらいのことは想定範囲内だった。
最後に汚れてしまったテーブルクロスを交換する。
原状回復をした彼女をしりめに、惨事を作った張本人、涼子は現在の状況が想定範囲外どころか青天の霹靂だった。
「う?うぁ? ……う゛?」
再起動した頭で、なんとか現状把握をしようと努力する。
まず上手く話せない。口から出る言葉は、単語にもならず音でしかない。体を動かそうとしても、腕の上下や足をばたつかせることが辛うじてできるくらいで、手先は思うように動かない。
涼子は首を動かし右手を見る。そこには色白で小さく赤ん坊のような手があった。白くて小さい紅葉のような手が、自分が考えるよりもゆっくりと開かれたり結ばれたりしている。
(なにこれ!? 夢? 夢でも見てんの私!? ……いやいやまてまてまて、クールになろうぜ自分。私はやればできる女だ。)
またパニックになりかけた涼子だったが、そう自分に言い聞かせ落ち着かせる。ちなみに母親にはできるのにやらないから馬鹿だと毎回言われていた。
涼子は次に左手を見た。やはり白くて小さい手が自分の考えたように動いた。ただしそれは、右手同様とても緩慢な動作だったが。
(先日見た転生物漫画の夢? それとも小説? そういやゲームでもそんなのやった覚えがある……)
涼子は最近はまっていた漫画や小説、ゲームを思い出す。
主人公の女子高生が、気が付くと別世界の別の人間になっていて、そこでイケメン達と繰り広げる恋愛劇。
転生した先は日本では考えられない美しい容姿だったり、オリンピック選手もびっくりの運動神経だったり、はたまた超絶な魔力の持ち主だったり……
そんな彼女を巡って、ある時は一途な幼馴染が迫ったり、ある時は騎士が忠誠を誓いつつ恋愛感情に苦悩したり、ある時は悪役までも虜にしたり……
(悪役を攻略するの、面白かったなぁ。続編でないかなぁ……て、ちがうぞ自分。今は思い出しニヤニヤしている場合じゃない。これは夢だ、夢! 早く夢から覚めて予約したゲームを取りにいかないと……)
涼子は心の中でセルフツッコミし小さい手で自分の頬を叩く。ペチンと音がしたが、掌にはぷにぷにな頬の感触だけが残った。
頬というよりはほっぺだ。なぜなら柔らかそうだからである。
(や、柔らかい……これは間違いなくぷにぷにほっぺ! 姪のより手触りいいかもしれん。)
涼子は両親と三姉妹の五人家族で、彼女は三姉妹の長女だった。親からは女三人で姦しいじゃなくて喧しいといわれたものだ。
そんな三姉妹の真ん中、次女は長女よりも早く結婚し娘を出産した。両親にとって初孫になる姪は、それはもう天使のように可愛かった。むしろ可愛すぎてなんでも際限なく買い与えようと暴走する両親を、三姉妹で止めるのに苦労した事も今ではいい思い出だ。
その姪っ子も今年で小学生となり、女の子特有のマセ方をして反抗期に突入。妹夫婦を困らせていた姪っ子だったが、なぜか伯母である自分には反抗もせず懐いていた。
遊びに来たときも泊まりたいと大騒ぎし、よく困ったものだ。具体的にいえば姪っ子の毒としかならないであろう二次元の道へ誘う、ありとあらゆる物をどこに隠そうかとか。
姪っ子は可愛いが、できる事なら自分と同じ道は歩んでほしくないのが伯母心である。ただ姪がその道を進むというなら全力でバックアップをしていく所存の涼子である。
「あらあら、どうされましたか、ハーシェリク様。」
茶髪の女性がにこにこと話しかけてくる。さきほど迷惑をかけてしまった女性だ。どうやら自分はハーシェリクと呼ばれ、彼女は実母ではないらしい。
「あー……」
涼子は謝ろうと思ったが、口からでたのは可愛らしい声だった。残念なことにやはり言葉になっていない。
「お食事はもうお済みでいいですか? それとも新しいものをご用意いたしましようか?」
彼女はそう言ってしばらく待つ。涼子が無反応なのを後者ととらえ、新しい前掛けをつけると、用意したであろう湯気の立つ皿をテーブルに置く。さらに新しいスプーンで粥を掬うと冷ますように数度息を拭きかけ、涼子の口元に持ってきた。
白粥にサツマイモのような芋をいれて煮たのであろう、シンプルな料理だった。涼子は無性にそれが食べたくなり、スプーンにかぶりつく。粥自体は塩味だが芋が甘くて食べやすい絶妙な味が口内に広がる。
「美味しいですか? よかったですね?」
「うー!」
首を傾げる女性に、美味しいと言おうと思ったのに、口からでたのはやはり赤ちゃん言葉で通じる言葉ではなかった。だが女性は満足そうに微笑むと、再度スプーンで粥を掬い涼子の前に差し出す。
自覚はなかったが空腹だったらしく、涼子は目の前に出された粥をパクパクと食べる。
(……今の私、昔、飼っていた鳥の雛みたいだな。)
自分と雛を重ねて微妙な気分になったが、だが食欲は止まらない。
皿の中をあっという間に食べ終えると、はしたなくもげっぷがでてしまった。それを聞いた女性は微笑むと、優しく涼子の口元をナプキンで拭った。
そして赤ん坊用の体が固定される椅子からふかふかな絨毯の上に優しく降ろし、すぐ側に犬であろうぬいぐるみを置いた。
(実家のクロに似ている……)
それは自分と同じ大きさくらいの黒い犬のぬいぐるみだった。思い出されるのは実家で飼っている大型の黒い犬。
涼子は試しに触ってみると、さらさらとした毛並が気持ちよく、すぐに気に入った。むしろお気に入りだからこそ置いたのかもしれない。
お皿をサイドカートに乗せ食器を片づけに行くらしい女性を見送り、涼子は部屋の中を見渡した。
この部屋は自分のマンションではなかった。広さは自宅全ての部屋を足してもまだ広い。ファンタジー小説にある中世ヨーロッパ風の部屋だ。そういえば先ほどの女性も小説に出てくるようなドレスを着ていたと思い至る。
部屋は落ち着いた深緑色も壁紙、ふかふかの絨毯に天蓋のついた寝台。調度品も質よくソファは金糸で細工してあるのか、陽光に反射してキラキラと光っている。
このソファ一つ買うのに、自分の給料何か月分だろうか、とつい涼子は考えてしまった。
暖炉もありその上には綺麗な金髪の女性の肖像画が飾られていた。よく美術室に飾られている学校七不思議にもよく出るあの人のポーズが似ている。
(夜、目が動いたりするのかな……)
そう考えて背中がぞくりとする。昔からその手の話は、苦手を通り越して死ぬほど嫌いな涼子である。
涼子はさらに他の場所を見ようと、首を動かすがバランスを崩し、こてんと背中から転がった。高そうな絨毯のおかげで痛みはまったく感じず、むしろ気持ちいい。
バルコニーに繋がる窓からは暖かな陽射しが差し込み、眠気を誘った。お昼寝したいなーと思ったところ、涼子ははっとした。
(昼寝している場合じゃないッ)
涼子は寝返りをうって腹ばいになったあと、なんとか起き上がる。さすがに赤ん坊の体では腹筋を使っての起き上がりは無理だった。まあ三十代でお腹の出てきた本来の体でも苦労しただろうが。
きょろきょろとあたりを見回してみても新しい発見はできず、涼子は再度自分の体を見る。
小さい手、短い腕と足、ぽてっとしたお腹。
(どこからどうみても赤ん坊です、本当にありがとうございました。)
むむむ、と涼子は考えこむ。
(この体になる前、私をなにしてたっけ?)
本来の体であった時の記憶を思い出そうと、涼子は短くなった両腕を組み眉間に皺を寄せる。
(ゲーム発売日だっていうのに残業して、会社から出たら大雨で……)
ゲリラ豪雨と点滅し始めた青信号
けたたましいクラクション
白い光
空と地面
鈍い音
悲鳴と怒号
……そして真っ暗闇。
そこから推測された無情な現実を涼子は理解し、納得するしかなかった。
(ああそうか……私は死んだんだ。)