第36話 ナズェミデルンディス!
俺が一人暮らしをする為に今現在住んでいるマンションの中はそれなりに広い。一人暮らしどころか複数人の幼女を招き入れて一緒に暮らしちゃうことだって出来る。まあ、俺の実家はまだそれなりに裕福な方なので(金持ちというわけでもない)こういったマンションを借りることが出来る。だがそれは決して、BBA五人を泊らせるためではない。
「おいそこのBBA共。さっさと状況を説明しろや」
「なほっち~もう少し手加減してよぉ」
「……それは出来ない相談。恵相手に手加減してたらこっちが殺られる」
「そこの二人、ゲームに興じてんじゃねぇよ。つーか勝手に本体とソフトを引っ張り出して配線をつないでんじゃねぇ」
恵と南帆は同じクラスだからだろうか、なんだかんだで仲が良い。それは別に構わない。だがどうして人の家に勝手に泊りに来て挙句の果てに俺の許可もなしにゲームをしているのだろうか。
「……で、本当にこれはどういうことなんだよ」
俺はゲームをしているBBA二人の説得を諦め、話の通じそうな三人に視線を移す。加奈、美羽、美紗は揃って苦笑いをしつつ、事の顛末を語り始めた。
「ええーっと、実は南帆が夏休みは文化祭に備えてゲームの特訓をしようと」
文化祭にはゲーム大会があったっけ。プレイするのは確かあの友情破壊ゲーとして名高いスマッシュシスターズというゲームだ。
「え、お前らそんなにも友情をダブルブレイクしたいの?」
「いや、そうじゃなくてですね」
と、美羽が歯切れ悪そうに言う……つーか言葉遣いが似てるから加奈と美羽じゃたまにどっちが喋っているのか分かりにくくなる時があるな。誰だよ美羽の設定考えたやつ。
「あ、あの、えっと、夏休みはみんなで一緒に過ごしたかったんじゃないかな」
「美紗。お前の説明は分かりやすくて大変助かる。そこでその説明力の高さを見込んで聞きたいんだけど、どうして俺の家?」
「……………………あうぅ」
いや、あうぅじゃなくて。
「因みに聞くが、いつまで泊る気だ?」
「えーっと……夏休みが終わるまで?」
「ぶっ殺すぞ?」
俺の夏休みは幼女に捧げると決めていたんだ。具体的には、朝は幼女アニメを視聴。お昼になると、活気がありそうな街中の公園をタイムスケジュール通りに巡回し、周囲に不審人物が幼女を狙っていないかをチェックしたのち、新調したカメラで幼女たちのお姿を記録。夜は昼間撮った写真のデータ管理と幼女アニメを見つつ、姉ちゃんがファンだという人気アイドルの出る番組のチェック及び録画と編集が待っている。
「ちょっ、ぶっ殺すって何ですかぶっ殺すって! ヒロインにそんなことを言う主人公は初めて見ましたよ!」
「笑止! 俺のヒロインは二次元の中に存在する女子、及び幼女だけだ!」
そう言いつつ、俺は棒通販サイトで購入した幼女物のギャルゲーを加奈に見せる。パッケージにはこのゲームのメインヒロインであるマリナちゃんが描かれていた。
「可愛いだろ? メインヒロインのマリナ・ルイーネちゃんだ」
「因みにそれ、いくらしたんですか?」
「6090円」
「私とそのギャルゲー、どっちが大事で『マリナちゃん』ろ、6090円に負けた……」
俺が即答してやると加奈はがくっ、と膝をついて肩を落とす。
馬鹿だな。この部屋のBBA共が束になってかかってもマリナちゃんに敵うわけないだろうが。言うなればヤ○チャが束になっても魔○ブウに敵わないようなものなのだ。
とはいえ。もう恵を泊めているわけだし、正直言ってBBAが一人や二人、それどこよか四人増えたところで問題はない。
「はぁ。別にいいけどさ。でも、泊るからにはちゃんと家のことはやってもらうぞ」
俺がため息とともにBBA共の宿泊を了承したと同時に、恵と南帆がテレビの画面を切り替える。二人にしては珍しく、ゲームをすぐに切り上げている。
「あ? どうしたんだよ。お前らがこんな短い時間でゲームを切るなんて珍しい」
「……そろそろ時間」
俺は視線を壁にある時計に向ける。時間はもう午後の九時を指している。時間帯のおかげで、俺はどうしてこの二人がゲームを止めたのかが想像できた。
「もしかして、『こはるタイム』?」
「……どうして知ってるの?」
南帆が少し驚いたような声をだす。こいつは相変わらずあまり感情を表に出さないので声で何とか判断するしかない。顔もほぼ無表情のままだし。
「姉ちゃんがファンだからな。よく一緒にテレビを見るんだ」
テレビの画面がCMから番組に切り替わる。『こはるタイム』というタイトルが煌びやかな演出と共に画面の中で踊る。画面は再び切り替わって、スタジオへと移り、俺たちと同年代の少女が笑顔で視聴者を出迎える。
「こんばんは! 雨宮小春ですっ! 今日も一緒に盛り上がっちゃいましょー!」
今世間を賑わせている大人気アイドル。それが雨宮小春だ。オタクキャラで売り出しているアイドルで、そのサブカルチャー知識が芸能人にしては割とガチな方であったが為かそこから話題になり、一気に人気に火がついたという次第だ。
見た目もアイドルとしてのルックスとして合格点以上であり、もともと高かったポテンシャルが爆発しているということだろう。
「こはるちゃん、きゃわわ!」
「……こはるちゃん可愛いよこはるちゃん」
二人はすっかりご執心の様子だ。まあ、このアイドルのサブカルチャー知識は割とガチな方なので、純粋にアニメやゲームが好きなのが好感が持てる。
だがBBAだ。
アイドルの中でもルックスは良い方だろう。
だがBBAだ。
つーか普通に可愛い。
だがBBAだ。
「あ、こはるちゃんじゃないですか」
「こはるちゃん、やっぱり可愛いなぁ」
「大丈夫。こはるちゃんも天使級に可愛いですが、美紗も大天使級に可愛いですよ!」
二人だけかと思ったらこの三人もどうやら雨宮小春のファンらしい。一人だけ違うような気がするのは気にしない方がいいのだろう。テレビに視線を移すと大人気アイドルが完璧な踊りと歌を披露している。うちの文化祭はアイドルなんかを呼んだり場合があるからもしかすると今年の文化祭で雨宮小春が出てくるかもしれない。……いや、こんな大人気アイドルを呼べるようなコネクションはいくらうちの学園でもないだろう。
俺は無邪気にはしゃぐ五人(内、四人は本日勝手に部屋に上がってきた輩である)の後ろで呆れたため息を漏らす。
「まったく。お前ら、こんなBBAのどこがいいんだ?」
「えー? かいくん、こはるちゃん可愛いとは思わないのー?」
「可愛いとは思うが、所詮はBBAだろうが。井の中の蛙ってやつだろう?」
「いや、違うでしょ」
「は? 何が違うの?」
何を言っているのだろう。こんな常識的なことを。
「では、海斗くんはこはるちゃんが目の前に現れたらどうしますか?」
美羽がきいてくる。いつの間に俺のことを「海斗くん」と呼ぶようになったのか。前まではこのタイミングだと「では、あなたは~」みたいな感じだったような気がするんだけど……まあ、いいか。
「別に。どうするも何も幼女のことを想いつづけるよ」
「安心しました。いつも通りの海斗くんですね」
「よせよ。照れるじゃねえか」
「今の言葉で褒めてると捉えた海斗くんはある意味凄いですね……」
あれ? 褒めてるんじゃないの?
大人気アイドル番組もほどほどにし、今度は入浴時間が訪れた。女子たちのきゃっきゃうふふな入浴時の会話を耳にしてもうるさいだけだったので俺は自室に戻ることにした。後片付けはあのBBA共がやってくれたので、リビングに居座る理由もない。女子たちに上がってくるまで自室に待機するように厳命された俺は自室へと戻る。
そもそもお前らの風呂を除いたって何の足しにもならんだろうが、と反論するとスラッシュストライクされそうになったので止めた。俺もさっさと風呂に入りたいんだけどな……。俺の部屋にエアコンはないし(エアコンがついているのはリビングだけだ)。
しばらく時間が経って、女性陣がぞろぞろとお風呂場から帰還してきた。俺は自室にいるからよく分らないが、多分、みんなでお風呂にでも入っていたんだろう。足音が複数だし。よくもあの風呂場で五人も入れたな。あの風呂場じゃ入れても三人ぐらいが限界だろうに。入るなら三人と二人に分けろよ。
「じゃー、俺もそろそろ入るか」
今日はさっさと風呂に入ってサッパリしたい。夏場だと特にそう思う。何しろエアコンの無い自室待機を命じられたのだ。とにかく暑い。扇風機だけじゃ無理だ。俺の足は自然と風呂場へと向かっていた。
女子たちの持参してきたシャンプーのせいだろうか。華やかな香りが廊下に充満している。俺が普通に生活していてはあり得ない、女の子らしい香り。
「あ、海斗くん待ってください! まだ――――」
風呂場のドアを開く前に加奈の声が聞こえてきた気がするが何だろう。俺はドアノブに手をかけようとしていたところで目の前のドアが開く。
「美紗、パジャマを忘れたのでとってきま……」
最近になって聞き慣れた声と共にドアが開く。そしてドアノブに手をかけようと空中で停止していたおれの手の中に丸みの帯びた柔らかくてむにむにした感触が。
「ひゃうっ!?」
「あァ?」
以前、俺は美羽の駄肉のサイズを美紗よりも慎ましいと表現した。だが慎ましいながらもそれなりに丸みを帯びた形にはなっており、バスタオル越しとはいえ、実際に触ってみてこいつにもそれなりの大きさがあるんだなと思った。バスタオル一枚のあられもない姿の美羽は顔を真っ赤にしながら時が停止してしまったように固まっている。
だがこの掌に収まる嫌悪感すら抱かせる駄肉の感触はいかんともしがたい。美羽は今、バスタオル一枚だけという姿だ。それだけに感触が生々しい。更に、近くにいるので美羽の真っ赤な顔やサラサラとした奇麗な黒髪や白い肩、健康的なふとももがどうしても目に入る。……なるほど。これが絶望か。思わずファントムが生まれそうだぜ。
俺は落胆のため息をつくと同時にさっさと手を離したところで、身長差の関係で美羽の後ろにいる着替え中であろう美紗の姿も確認できた。どうやらこの二人は別室で待機していたらしく、これから風呂に入ろうとしていたらしい。服を着替え途中の美紗の白い肌や下着がよく見える。ああ、やっぱり美紗は駄肉が大きいな。残念だな。
「あ、悪い」
「ふぇっ」
「なんだよ。まだ入ってたのかよ。先に言えよなそういうことは……まさか姉ちゃんの部屋で待機してたとは」
「ああああああ、あにゃた! わ、わたっ、わ、わ、私のっ!」
目をぐるぐるとまわしてパニック状態になった美羽は「はわわはわわ」とこちらから見ても何がなにやらといった様子で取り乱す。腕をわけのわからない動き方であたふたとしたと同時に足を詰まらせて、何故か俺に向かって倒れこんできた。どうやら床がわずかに水で濡れていたらしい。その衝撃を受け止めると同時に俺も一緒に足を滑らせてしまい、廊下に二人一緒に倒れこむ。俺が下敷きになったからから怪我はないだろうが、それでも一応聞いておくか。
「おい、怪我はないよな?」
「あうっ……は、はい。ありがとうございまし……きゃああああああああああああああああああああっ!?」
今はまさに体全体を美羽の柔らかな感触が包み込んだ状態。こうして体全体で受け止めてみると、女の子の体がいかに柔らかいかを文字通り肌で実感することになる。慎ましいと思っていた、脱ぐと割とサイズの胸が重力に身を任せたままさっきからむにゅむにゅと押し付けられている。まずい。このままだと割と本当に気分が悪くなる。
そんな気持ちを察してくれたのか美羽が上半身だけを慌てて起こす。片手でバスタオルを支えている状態で馬乗りされている俺としてはさっさとこの状況から抜け出したい。だが美羽は自分の状況を改めて確認したのか、馬乗りになって俺の顔を見下ろしたままの状態で固まっている。
「……あ」
馬乗りになっている美羽と目が合う。重なる視線。まるで世界が時を止めたかのような一瞬の静寂が場を支配する。
そんなに重くないけどこのままだと身動きが取れない。ギャルゲーをすることも出来なければイ○ヤたんの魔法少女verのフィギュアを愛でることすら出来ないし、愛読している幼女専門誌だって読めない。つーかさっさと退けよ。いや、マジで。だいたい「……あ」じゃねーよ。こっちは「あァ?」だよ。
「おい、さっさと退いてくれよ」
「……そ、そーですねっ! ご、ごめんなさいっ!」
はっ、と突然、我に返る美羽。慌てて俺の上から飛びのいたところで俺は立ち上がる。美羽は依然として顔を真っ赤にしながらへなへなと力が抜けたように廊下に座り込んでいる。胸を押さえながら何かの鼓動を抑え込もうとしているようにも見える。
「じゃあ、俺も部屋に戻るわ。ごゆっくり」
それにしても、嫌なもん見ちまったな。ここは幼女もののギャルゲーでもして気分を改めるか……と思ったら加奈たちに首根っこを攫まれてリビングへと拉致された。
俺の意識はそこで深い闇へと落ちた。
学園ものハーレムラノベにありそうな、着替え途中にバッタリ遭遇的なイベントが美羽バージョンで起こってしまい、我が家にちょっとした悲鳴が上がったものの、特に問題はない。そもそも着替え中ぐらいでなんだ。BBAの着替えなんか見たところで仕方がないだろうに。
え? ロリっ娘の着替え? 卒倒もんですよそりゃ。輸血パックが三ダースは必要ですよ。バスタオル越しにお胸に触れようもんなら全身の血液が逆流しちゃいますよ。さて問題です。アクセロリータは何をしようとしているのでしょうか?
にしても羨ましいなあの学園都市最強。俺もベクトル操作身につけたら幼女と一緒に暮らせるかな。今度ベクトル操作を姉ちゃんにでも教えてもらおう。
「ううっ……見られた触られた見られた触られた見られた触られた見られた触られた見られた触られた見られた触られた……」
お風呂上りにブツブツと顔をトマトみたいに真っ赤にした美羽が自分の体を両手で抱いて見られた見られたと呟いている。視線が合えば更に真っ赤にして顔をそらすし、それに加えて美紗を除く女性陣の視線が痛い。美紗は苦笑いを浮かべるだけで何も言ってこない。美紗さんマジ天使。
「悪かったよ。俺も別に微塵も興味のわかないものを見た上に突発的なことだったとはいえ、流石に女の子の着替えを見てしまったのは反省してるよ。……まあぶっちゃけ、BBAの着替えなんて死ぬほどどうでもいいけどな」
「じゃあここで死にます?(メキィッ)」
「あ、マジで反省してます。ごめんなさいッス」
美羽が何をメキィッしたのかはご想像にお任せするとしよう。それにしてもアイアンクローはないと思うよ美羽さん。
「じゃあ、俺そろそろ風呂入ってくるわ」
そんなわけで、俺は汗を流すべく色々なトラブルが巻き起こったお風呂場へと直行した。背後でB……女子たちがガールズトークを始める気配を見せていたものの、まあそこは俺の知る由ではない。
☆
今の私の状態を分かりやすく説明するなら、パラダイス・ロストの冒頭や龍騎の最終回の一つ前の回のレイドラグーンが現実世界に現れた時とか、そんな状況だ。かいくん曰く、「幼女を庇って死んだ真司さんを俺は尊敬している。俺もいつかああいう男になりたい」らしい。あのシーンをそういう風にとらえるかいくんはある意味流石としか言いようがない。それと補足するなら、かいくんが一番好きな平成ライダーは龍騎らしい。真司さんの最期に感銘を受けたとか何とか。
閑話休題。
私の今の状況を本当の意味で分かりやすく言うならば、大勢の敵に囲まれているということだ。
「そんで、どうしてみんなここに来たの?」
「……恵、それはこっちのセリフ」
「どうして海斗くんのお家でお泊りしているんですか?」
なほっちとかなみんの攻撃。これに対して私が出来るのは真実を話すことだけだ。
「えーっと、お家に帰りたくないならかいくんの家に泊めて、って言ったら姉ちゃんが許してくれたからいいよーって」
「ぐぬぬ……で、でもでも、それなら私の家でもよかったじゃないですかっ!」
「わ、私の家でも……えっと、よかったんだよ?」
かなみんとみさみさがそうは言ってくるものの、私としてはこの大チャンスを逃すわけもなく。
「んー? それはさぁ、ほら。みんなだって分かるでしょ?」
とぼけるようにしてウィンクを決める。
みんなも私の言おうとしている意味は承知しているだろう。もしも私とみんなの立場が逆だったらみんなだってこうしたはずだもんね。
「さて、と。私がここに来た理由は話したけど、どうしてみんながここに来たのかを改めてきかせてもらおうかな?」
「……言ったはず。文化祭に向けてのゲーム合宿」
「本音は?」
『恵 (ちゃん)だけずるい(です)』
うん。みんな正直だね!
そうして会話の中で一瞬の間が空く。その間に滑り込むようにして。
「……大丈夫ですか?」
ポツリとみうみうが言葉を投げかける。
静かに、でもその一言は水面に落ちた石が起こす波紋を広げていくように、みんなが抱いていたであろう疑念を広げていった。
私は一度、深呼吸すると。
「うーん……どーだろーね」
観念して、話してみるとにした。
前々から転校の話があったこと。教育熱心なママに対して反抗してみたこと。そのせいでママが余計に私を転校させようとしたこと。
こうやって言ってみれば、私のやっていることはとてもバカバカしくて、子供なのかもしれない。私が高校に入ってから変わってしまった。髪を切って。染めて。学校では大人しくせずに明るいキャラで振舞って……いや、違うのかも。明るく振舞うっていうより、これが私のなりたかった私なのかも。
傍から見たら転校なんて仕方がないことなのかもしれない。
でも。
でも。
でも。
「……なんかさ、やだよ。私。みんなと離れるの」
やっていることは幼稚でも、子供でもいい。実際に転校してみれば、いずれ転校先でも友達が出来て、みんなのことはそのうち忘れていくのかもしれない。なんだかんだ、そこでも上手くやっていけるのかもしれない。
だからこそ私はそれが怖い。
今までの人生で一番充実している今の日々を、なんだかんだで忘れてしまうことが怖い。こんなにも楽しい日々を、忘れてしまうのが怖い。
「やだよ……私、みんなと一緒がいい」
私たちはいずれ、それぞれ別々の進路を進んでいくのかもしれない。それは本当に仕方がないことだ。けど、だからこそ。せめて今だけは一緒にいたい。一緒に笑っていたい。
「だ、だからさ。ちょっと家出しちゃった……あはは」
無理に笑おうとするけど、これがなかなか上手くいかない。弱々しい笑顔を見せてしまった。
みんなは薄っぺらい同情の言葉とか、表面だけ心配したような事とかは何も言わないでくれて、ただただ私のそばにいてくれた。
「……恵」
「ん。なにかな、なほっち」
私が返事をすると、なほっちがぎゅっと私の胸に飛び込んできた。いつもは私がなほっちをぎゅって抱きかかえようとすると嫌がるのに。
「あはっ、どうしたの。いつもは嫌々だったじゃん」
「……今日だけ特別」
「うん。じゃあ特別サービスに甘えちゃおうかな」
なほっちは小柄で可愛い。そんななほっちを抱きかかえながら私は、玄関の方で扉が開く小さな音をきいたような気がした。
☆
俺は風呂上りの火照った体を夜風に当てながらマンションの外へと飛び出していた。風呂場から上がってきた時に聞こえてきたガールズトーク。恵が今までの母親とのことを話していた辺りからきいていたが……。
ああ、本当に。どうして俺がBBAの為にこんなにも悩まなければならないのだろうか。あんな風な普段の恵からは考えられないような声と思いを吐き出されたら、動くしかないだろうが。
姉ちゃん曰く、今回の件は簡単だという。
だけど俺にはそうは思えない。
簡単だったらあんなにも恵は悩まない。
とりあえず人数分のアイスでも買いに行こうとコンビニまで向かおうとしたところで俺の足が止まる。俺たちのマンションのすぐ近くの電柱に人影があった。
電柱に身をひそめる人間は不審者か幼女を見守る者かの二択しかない。俺たち幼女を見守る者はよく不審者と一緒にされることがあるが、まったく迷惑な話である。
よく電柱に目を凝らしてみると、隠れているのが女性だということが分かる。長い黒髪にスーツ姿のこの女性を、俺は知っている。
牧原富音さんだ。恵の、お母さん。
「……は?」
どうしてこんなところにいるんだ? あの人はテレビにでも出ているぐらいだし、今は色んなメディアに引っ張りだこでとてつもなく忙しい人のはずだけど。
見間違いかと思って目を擦りながらもう一度、凝視する。……うん。やっぱり富音さんだ。
どうやら向こうは俺に気づいていないようで、少しの間そのまま観察してみることにした。
富音さんはマンションのとある部屋……視線を追ってみると俺の部屋を、じーっと眺めていた。いつもは凛とした印象のある富音さんではあるが、今の様子としてはやや、不安そうに見える。
わけがわからないとばかりに俺は首をひねる。と、そこで富音さんが俺の方に気づいた。
「…………………………」
「…………………………」
沈黙。
視線が交錯し、やがて富音さんはぎくっと身を強張らせたかと思うとささっ、と電柱の陰に隠れた。つーか完全に隠れきれてないし、そもそも、もう見えてるし。
しばらく待ってみると、ひょこっ、と電柱の陰から顔だけを出して様子を窺う。バッチリ目が合った。
「っ!」
ささっ、と再び電柱の陰に隠れる。あれで隠れきれていると思っているのだろうか、あの人は。そんなことを考えているとまたまたひょこっと電柱の陰から顔をのぞかせる富音さんと目が合ってしまう。
「…………………………」
「…………………………」
再び訪れる沈黙。
しばらくして。富音さんは電柱の陰という我ら幼女を見守る者の戦場から出てくると同時につかつかと俺に向かって歩いてきたかと思うと、
「……黒野海斗くん、ですね?」
「は、はい」
「ちょっとこれから付き合いなさい」
俺は黒髪美人のBBA、もとい、お姉さんに拉致られることになった。




