第77話 恋一年
今回は恵のターン
呼び止められた俺は、なんとなく恵と一緒に腰を下ろした。
恵との距離はかなり近い。隣にいる恵の体温が感じられるぐらいに。
お風呂あがりなせいか、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。
この香りはお風呂あがりの幼女のものなのだと脳内変換してなんとかその場を凌ぎつつ……俺は、ただ黙って目の前の海を眺めていた。
恵は話を切り出すタイミングを伺っている――のではなく、心の中で準備をしているのだと自然と分かった。
だから俺は何も言わない。話さない。喋らない。
恵が切り出してくるまでただひたすらその時を待つ。
「……ありがと」
唐突に、恵が切り出してきた。
お礼を言われたのだけれども、何の事だか分からない。
何かしたか、俺。
首を捻っていると、恵が苦笑した。
む。なんだかちょっとバカにされている気分。
でも何も思い浮かばないものは仕方がないじゃないか。
「私が言っているのはね、ママのことだよ」
「……ああ、富音さんのことか」
「うん。かいくんがいなかったらきっと、私はずっとママのことを誤解していたままだったと思うから」
「誤解していた『まま』……。『ママ』だけに?」
「ぶん殴るよ?」
とはいっても実際はただの茶番だったんですけどねあれ。
そのことはこいつも分かっているはずだが。
「まあ、ちょっと誤解したままだった方が幸せだったかもしれないけど……」
ご愁傷様です。
「でも、ママは私のこと、とっても大事にしてくれて、頑張って幸せにしてくれようとしているってことは、分かったから」
「ちなみに富音さん、今朝はどうだったんだ? 二泊三日も恵と離ればなれだとあの人、死ぬんじゃないのか」
「朝起きたらなんか下着を漁ってたからシベリア送りにしといた」
女の子ってわからないや。
「でも、本当にありがとう。私、かいくんと会えて……ううん。みんなと会えて、この部に入れて、いまは本当に幸せだもん」
「さいですか。そりゃ結構なことだ」
……恵の気持ちは分かる。何しろ今は俺も、とっても幸せだからだ。
今や文研部という場所は俺の中でとても大切な居場所となっている。
照れくさくて、そんなことなかなか口には出せないけど。
恵はどこか晴れやかな顔をして、遠くの海を眺めている。
夜風が頬を濡らし、髪を揺らす。
「そういえば、今更なんだけどさ」
「ん。どうしたんだよ」
「私ね、実は春休みの時にかいくんに会ってるの。塾で、美紗ちゃんの一件があったやつ」
「そうなのか?」
「うん」
それは……知らなかったな。気が付かなかった。
ていうか、本当に今更だな。
あれからもう一年は経っているわけだし。
「あの時、私もあの講習会に参加していたの。本当はサボりたかったけど、ママに言われてさ。……まあ、今思えば自分の目の届くところに置いておきたかったのと、自分のカッコいいところを見せようとしたママの策略なんだろうけど」
どんだけ信用ないんだよ富音さん。いや、ある意味信用されてるっちゃあされてるけど。
「ていうか、私、中学まではあの塾に通ってたんだよね。実質受講料はタダだし、あの頃の私って、有名人のママを狙って私に絡んでくる人が多かったから、あんまり目立たないようにとっても地味にしてて、友達もあんまりいなかったから、勉強ぐらいしかすることがなかったの。それに、ママも良い学校に行けってうるさかったしさ」
「でも今となっては、それもお前の事を想ってのことだってわかってるんだろ?」
俺がそういうと恵は照れたように笑った。
女の子の、年相応の純粋な笑顔に思わず心臓の鼓動が速まる。
「うん。良い学校に行ってほしいっていうのは親としては当然の願いだし、実際にそれは間違ってないしね。良い学校に行って勉強すれば、良い大学に行ける。良い大学に行けば良い会社に行って、お金をたくさん稼げる。お金をたくさん稼げれば生活には不自由しないし、幸せになれる、みたいな感じかな」
「まあ、今時、良い大学の奴でも就職には苦労するって話だからな」
「あはは。そうだね。でも、私は今の学校にこれて本当に良かったよ。だって、かいくんたちがいたもん」
俺も、お前らがいる今の学校に行けてよかったよ。
今の学校に俺は逃げてきたけど、今はお前らのいるこの学校に逃げてきてよかったと思ってる。
「あー、そうそう。話が逸れちゃったけど、私はあの時のかいくんを見てたの。かいくんが、美紗ちゃんを助けた時の話」
「助けたも何も……あの時は、ああいうことをするやつらはイライラするからやっただけっていうか……まあ、助けたといえば助けたんだろうけども」
あの時はまだ春休み。俺をいじめていた奴らに復讐した直後で、ああいうことをするやつらは見ていると……本当にイライラした。
だから黙っていられなかった。
それに、姉ちゃんに困った女の事を助けるのは当然のことって言われてたし、ああいうクズ共を見たら叩きのめすべきって姉ちゃんに言われてたし、俺もそのつもりだったし。
「あいつらって本当に迷惑なやつらでさ、自分がエリートか何かと勘違いしてウザかったなぁ。それに塾長の娘である私にも無駄に媚を売ってきてたし。塾長の娘に媚び売ってなにがしたかったのって話だよ」
「お前も大変だったんだなぁ……」
「まあね。でもかいくんのおかげであいつらいなくなったし、そういった意味でもありがとうかな」
恵は昔を懐かしむように、思い出を確かめるように言葉を紡いでいく。
一年前はさほど昔というほどでもないのに、俺も思い返してみるとかなり昔のような気がする。
「なんていうか去年は……色々と濃い一年だった気がするよ」
「うん。私も…………………………………………恋一年、だったかも」
「? おう」
急に、恵はかぁっと顔を赤くして俯いて、もにょもにょと何かを言うのみ。
いきなりどうしたんだこいつは。
「んとね……春休みの時にかいくんを見てから、私ずっとかいくんのこと考えてたんだ」
「そ、そうか」
いきなり、その。恵みたいなかわいい女の子からずっと俺の事を考えていたとか言われたら、なんていうか、ちょっとドキッと来るものがあるな。
「なんか、凄いなぁって。かいくんはお姉さんの教育があったとはいってもさ、やっぱりああいうことするにはけっこう勇気がいると思うんだ。だから私は、かいくんが羨ましかった。あの頃の私はとてもとても、勇気が欲しかったの。ママに逆らいたいけど、それが出来ない自分がいる。だからあの頃の私はもやもやしてた。どうすればいいんだろーって。そこで、かいくんを見たの。美紗ちゃんを助けちゃったかいくんを見て凄いなぁって。私も、勇気を出してみようかなって。だから、私に変わるきっかけと勇気をくれたのは、かいくんだったんだよ」
波の音が、やけにはっきりと聞こえている気がした。
美紗にしても、美羽にしても、恵にしても、加奈にしても、南央にしても……俺たちは、実は俺の知らないところで繋がっていた。
そんな俺たちがいまこうして、一緒に夏休みに合宿に来ている。
そう考えると、不思議な気分になった。
「高校に入学しても踏ん切りがつかなかったんだけど、でも入学式の日にかいくんを見かけて、やっと踏ん切りがついた。入学式の次の日から私は、髪型を変えて、髪も染めて、眼鏡もやめた。高校デビューしたの」
「俺が失敗した高校デビューをアッサリとクリアしてしまうとは……ちょっと複雑な気分だ」
「あはは。かいくんはちょっと方向性がおかしかっただけだよ。それに、本当は……ううん。なんでもない」
もしかすると、恵はもう気づいているのかもしれない。
俺の高校デビューは、本当は高校デビューじゃなくて、本当は中学時代の経験から他人を拒絶しているが故の無意識の行動だったことに。
「だから、二重の意味でありがと。ママの本当の気持ちを教えてくれて。私に勇気をくれて。そして……私たちと一緒にいてくれて」
そういって微笑んでくれた恵の表情はとても穏やかで……かわいくて。
普段から一緒にいて、見慣れているはずの笑顔なのに、いつもの笑顔とは違う。
そんな恵に思わず見惚れてしまった。
「に、二重って……それだと三重になってるじゃねーか」
「ん。そうだね。失敗失敗」
たははと笑う恵はいつもの、俺の知っている恵のままで笑っている。
さっきのは見間違えだったのだろうか。いや、違う。
見間違えなんかじゃない。……あれもきっと、牧原恵という女の子の持っている一つのかおなのだろう。
……本当に、女の子ってこわい。
あんな風にいつもとは違う、魅力的な表情をされるのは心臓に悪い。
「そろそろ戻らなきゃねー」
「そうだな。明日もあるし、寝坊してみんなに迷惑かけるのは嫌だし、戻るか」
そういって、俺たちは立ち上がる。
別荘に戻ろうとしたところで、不意に恵が俺の服を小さく引っ張ってきた。
「ん? どうした――――」
頬に唇の感触。
柔らかくて、恵の吐息が頬に当たる。
それはまさに不意打ちのキスだった。
いま俺は頬にキスをされた。
その事実を頭の中で反復し、確認し、そうするたびにどきんと心臓が跳ねる。
恵の唇の感触と同時に、加奈と美羽に同じように、頬にキスされた感覚が蘇る。
波の音が、甲高く聞こえる。世界がクリアになる。
実行犯である恵は俺から視線を逸らすことなく、じっと見つめてくる。
小悪魔チックな表情を浮かべて、自分の唇に自分の指を当てている。
「ん……かいくんいま、他の女の子のことも思い出してたでしょ」
「そ、そんなこと、ないけど……」
俺の発言を止めるかのように、恵はさっきまで自分の唇に当てていた指を、今度は俺の唇にあててくる。
「ふふっ。うそつき」
恵は小さく笑う。
「でもね、かいくん。わたしはそれでもいいの。かいくんがいいなら、それで」
「? なにが、どういう? ていうか、今のもなんだったんだよ」
「んー。それは自分で考えて欲しいかなぁ。じゃあ、帰ろー」
先にてくてくと歩いていく恵を、後から俺も追いかけた。
帰りは俺たち二人ともどちらも会話は無かった。
恵は機嫌良さそうに鼻歌を歌って、楽しそうに夜道を歩いていた。
別荘に帰ってきて、ベッドの中に潜り込んでも、俺はなかなか眠ることは出来なかった。
こうして、合宿の長い一日目は幕を閉じた。