化け
ああ、これを読まれているということは無事にこのメールがあなたに届けられたということでしょうか。お目汚しにならぬよう言葉遣いには気を付け、書く内容も五六度吟味いたしました。どうか最後まで読んで下さることを期待し、私はこのメールを打っております。どうかお助け下さい。今、私には一人では解決できないような悩み事があるのです。
私は都内の小さな工場で働いております。生まれは青森の小さな田舎町で、歩いて五分でもう山の中。澄んだ川がさらさらと流れ、そこにはメダカだの、鮎だの、虹鱒などが泳ぎ、放課の小学生が二三人で釣りをしているのが常々で。秋には紅葉を見に来た観光客がちらほらいますが、肝心な紅葉よりも無人駅の整理券の精算方法や自動開閉しない列車のドアに四苦八苦しています。そうして、ようやく山に登ろうとするとなるほど眺めは良い。しかし、一息つくための休憩所がどこにもなく、頂上のはげただだっぴろい広場の腐った木のベンチにひやひやしながら座る。結局、不便なところだけに意識がいってしまい、見事な紅葉なぞは頭に残らず、二度と来るもんか、と悪態をついて帰る。そんな何もない田舎に生まれました。
小中こそは地元の学校で自由奔放に暮らしていましたが、高校となると近くにありませんから、本数の少ない列車にいつもの時間起きて乗り、一時間のろのろと走る列車に身を任せて高校に行きました。そこの高校は特別頭の良い学校ではありませんでしたが、長い登校時間中に何もすることはなく、一緒に帰る友達もなく、ただ静かに座って本を読み、教科書を開いて予習復習していますと、自然成績は良くなりました。そうして、毎日生き返りだけでのんびり勉強し、家では農家の手伝いをし、冬の冷える水に背筋をぞくぞくさせながら過ごしていきました。私には兄が二人おりました。年も相当離れていたために、長男は家を継ぎ、次男は県庁で農作物の調査を行う役人として働いていました。私は高校の担任から東京の大学を勧められ、一人東京へ。目指した一流大学には入れず、二流大学の経済学部に入りました。そこでは多くはない幾人かの友人を持ちましたし、恋人もできました。深夜のコンビニバイトもしました。四年間同じ場所で働き、辞めるときも店長に、このままいてくれればなあ、といわれました。就職したバネのメーカー。下町の工場でひっそりと、しかし物の良いバネを作り、悪くない給料でした。
ああ、そうして。そうだ、ここからが本題なのです。大きく遠回りをしてしまいましたが、ここからが私の悩みなのです。胸がつぶれる思いです。ある日、会社に出社しました。その頃は繁忙期の終わりごろで、大量のメールや注文書とにらめっこし、営業先には万語を尽くし、上司からの仕事の事務処理を行い、部下のモチベーション管理とマネジメントを考えながらも、毎日のように終電近くまで残業をしました。そうして、繁忙期の終わりもみえ、今日で山をひとつ越えるぞと思い、彼女と何処へ行こうか、三週間会えていないし、どこか遠くへ行こうか、それともゆっくりと家で映画でも観ようか、そんなことを考えながらデスクでコーヒーを飲んでいました。ぼーっと意識がない、遠くを眺めるような感覚でパソコンのメールを閲覧していました。文字の羅列が妙に心地よく、意味も読み取れないが、何かしら考えさせることがあるように見えてきました。しかし、突然黒い棒状の物たちはぐらりと形がなくなり、画面が真っ黒になりました。パソコンが落ちたのかと思い、慌ててさわってみると、電源もついており、見たところは至ってふつうです。そうしておかしなところはメール画面だけで、真っ暗でとても気味が悪く、吐き気がしました。そうして私の頭の中もただ何か真っ黒な物が、虫のようなものがうごめいているような気がしてきました。私は頭を振り乱しました。同僚の山田は私をみるなりぎょっとして椅子から跳ねとび、私を止めました。上司の山倉さんはただただデスクの向こう側から大きな口をあんぐりとあけたまま停止し、コーヒーが彼の書類を侵食していくことに気づかぬままでした。私は山田に工場の休憩室に連れて行かれ、横になっていました。少しすると何事もなかったようにすっきりしたのです。そうしてその日は山倉さんから医者に行くことを勧められ、早退しました。(医者にはいかなかったのです)次の日一週間私は会社を休みました。繁忙期の終わり、わたしは会社に行かず、一人布団にくるまりうつらうつらした日々を過ごしていました。
真っ黒い虫はその日から度々現れるようになりました。メールを読むたびに虫は暴れ、私を蝕む。好きな小説を読むたびに虫が私の脳の一番やわらかい部分をかみ砕く。その度に私は吐き気と強烈な頭痛に襲われます。しかし、しばらく休むとどうも逆に頭の中がすっきりした感覚になり、けろりとした清々しい感覚に陥ります。これからさらに頑張るぞ、何かでかい仕事をしてやるぞ、そんな気分にさえなってしまいます。
一週間ほど、その発作はなかった日が続きました。ちょうど彼女と予定が合い、デートすることになりました。その日は私の家に来ることになっておりましたから、繁忙期終わりの汚い自室ではまずい、まずは部屋の掃除をしておこう。そして、私の手製のランチを作ろう。平常、私は自炊をしておりましたし、実家でも好きでよく家の飯を母と作っていました。得意料理はバーニャカウダーで、彼女が家に来るたびに作ってとねだるので、もう最初から準備しておこうと考えました。朝起きて時間を確認しますと九時過ぎで寝ぼけて会社に行く準備をしました。ワイシャツを着る手前で休日だと気づき、掃除をしようと思い出したかのように掃除機をかけ始めました。呼び出しチャイムが掃除機の騒音に紛れ、聞こえました。頼んであった新刊がきたようで箱にはいったまま、ベッドのわきに投げて、掃除機のスイッチを再び押しました。が、時間をみると十一時手前。彼女は十二時に来ると言っていた気がしたので、スーパーに急いでいきました。ああ、そこでもまた。私は具材の生産地を目にしていました。サラダに使う野菜、にんじんの表示を読んでいると、青森の文字がありました。ああ、懐かしい、そろそろ顔をみせてやらないとな、と考えているうちに文字が崩れ始めました。虫が暴れ、私は思わず買い物かごを落とし、その場でうずくまりました。数分後なんとか立ち上がりました。しかし、もはや何かをする気力はなくなり、買い物かごをその場に置いたまま、かごに入れた野菜はそのまま、店を後にし、布団にかぶって寝ていました。何度か呼び出しのチャイムと携帯の着信が合ったかのように思われました。
私は一体どうしたらよいのでしょうか。このメールをうちながらも頭痛は増していきます。一瞬の清々しい気持ちなど雀の涙ほどで、あとには脳に針が数千本刺されているかのような頭痛、それに伴う吐き気ばかりです。最近では、電車の中吊りをみて頭が痛み、道路の止まれの白字ですら真っ黒になり、私の頭の中で暴れ出します。どうか助けてください。何が原因なのか、果たしてこれは精神病なのか、ただ私の思い違いなのか。わからないのです。
高名なあなたになら何かわかるのではないのかと思い必死でここまで打ちましたが、私にはもうただの真っ黒な画面でしかなく、私の脳内をはい回る虫でしかありません。どうかこの虫を取り除く方法に心当たりがありましたら、返信をお願いいたします。
一人の哲学者がこれを読んだ。ずいぶんと手の込んだ迷惑メールだと考え、ここまでのものを考えるのも一苦労だっただろうと面白半分に返信を打とうと返信ボタンをクリックした。にやにやしながら返信を打った。
ご連絡ありがとうございます。無意識的な悩みですね。他人には難解な問題だろうと思いますが、私に手助けできるのであれば精神科医の診察の他に、ソシュールの言語学講義などを読まれてみてはどうでしょうか。科学的な治療法でこれ以上のものはないと信じています。




