三章:真実は、甘い蜜【上】
『歌えない』
自分でも、焦るくらい。私、こんなに歌えなかった?
『だって、なんだか全然…』
合わない。
波長がまるっきり違くて、テンポがずれて、果てには音がとれなくなった。
初めて、歌いたくないと思った。
私は一応、歌手をしていた。サヤという名で活動していた。
全部過去形なのは、全部過去のことだから。
でも、過去にしたくない。
歌うことが、私の全てで、私の世界だから。
子供の頃から歌が大好きで、いつの頃からか『大人になったら、自分も歌手になる』という、根拠のない実感があった。
そして、その実感は現実となり、今や私の世界となった。
私の世界は、一人の男によって創られた。
その人の名は、瀧口勇夫。私の神様。
「サヤ、待って!」
マネージャーの制止を振りきり、私はスタジオから逃げ出した。
これ以上、惨めに歌い続けたくなかったから。
でも、私が逃げこめる場所なんてほとんどなくて、結局いきつけの喫茶店に入ることにした。
人目に付きにくい、奥のカウンターに座る。ここが指定席。
私が何も言わなくても、目の前には暖かいミルクティーが置かれる。常連だから。
カウンターの中に入っているのは、この店のマスター・西元さん。
「今日はどうした?」
西元さんの話し方は心地よいから好き。抑揚と音程と声量が上手く重なって、ほどよくドーパミンを放出させてくれる。
私は傍にあったナプキンに手を伸ばした。
そこに私の言葉を書く。
私には声がない。
幼い頃、吃音症だった私は、口を開く度にクラスメートたちに笑われ、しまいには信用していた先生にも笑われ、喋ることができなくなった。それからずっと、会話は筆談。
だけど、歌は別だった。歌ならば、滑らかに私の言葉を紡ぐことができた。
『歌えません。もう無理です』
見せると、西元さんは怒ってるような哀しんでるような、複雑で微妙な表情をした。
怒ってるのかもしれない、諦めの早い私に。
哀しんでるのかもしれない、諦めてしまった私を。
でも、事実なんだ。
神様が亡くなってから、色々な人が私に曲をかいてくれた。
巨匠から、新人まで。才能のある人から、ない人まで。
でも、どれ一つ歌えなかった。
周りは、
「良かったよ」
「さすがは歌姫だ」
と言った。お世辞ではなく本気で言ってるなら、すぐに音楽を辞めて耳鼻科へ行くことをお勧めする。
こんなものが、私の辿り着きたい歌であるはずなかった。
全然たりない。こんなものじゃないんだ、神様の曲は。
『瀧口さんが亡くなった瞬間、歌姫サヤも死んだんです。それなのに、亡霊のように一年もウダウダ歌おうとしていた。
だから、もう終わらせようと思うんです』
終わり。
世界の、終わり。神様が存在しない世界なんて、存在してはいけないから。
『西元さん。今までありがとう。いろいろ、相談にのってくれて。今日、私は歌姫サヤを殺します』
西元さんはナプキンから顔をあげ、スッと私を見る。綺麗な瞳。少し緑がかった黒色。
「歌をやめて、本当にいいのかい?」
『はい。だって瀧口さんだけが、私の…』
「噂を、聴いたこと、ないか…?」
ウワサ?急に、何を言ってるんだろう…。
「瀧口さんには、ゴーストがいるって」
三章、長くなりそうです。
サヤの一人称の話が一番長くなるなんて…。
三章は上中下になる予定です。
そして、四章で完結する予定。
(予定は未定…)
完結まで必死に走りきろうと思っております。
感想などいただけたら、いたく感激します!