一章:幻影と涙
父の死から一年後、母は再婚した。相手は、母が働く職場の上司。
周囲の親族からは『早すぎる』とか、『娘の気持ちを考えなさい』とか言われたらしい。
勝手に私の気持ちを確定しないで欲しい。私は両手を挙げて大賛成なのだから。
母が弱っている時に親身になって助けてくれたのは、無責任な親族ではなく、橋村さん(母の再婚相手)だ。反対する理由はない。
三人で囲む食卓は、とても温かくて心地が良い。母に笑顔が戻ってきたし、私は幸せだった。
それなのに、父の幻影は未だに私に張り付いて離れない。
夜、目を閉じると、真っ暗な闇の中から音楽が聞こえてくる。あの日の、父の声と共に…
『奏。少しだけ、少しだけでいい。だから…』
「聞きたくない!」
目を開け、闇の世界を解放する。
そして自分の所在を確認する。息があがり、うまく空気を吸えない。
神様。
記憶も罪悪も、私の存在も、完膚無きまで跡形もなく消滅させて下さい。
軽い不眠症に陥っていた私は、授業中にウトウトすることが多くなっていった。
誰かの声が聞こえる場所では、父の声は聞こえない。だから安心して眠ることができた。
しかし授業中である。
教師が黙って眠らせてくれるはずもない。
私は集中的に当てられることになり、授業中に眠ることもできなくなった。
ある日、私は通学途中に吐気を催し、公園のトイレで便器を抱えることになった。
吐いて吐いて吐いて吐いて、そのまま意識を失った。
気付くと、すでに10時だった。
今から向かえば、四時限目には間に合う。
サボって、両親に心配かけるわけにはいかない。
気力をふりしぼり、トイレから出る。外はピーカン照り。ああ、暑いなぁ…。
噴水の横を通り抜け、公園から出よう、と…
足が止まった。
音。音が聴こえる。
ヴァイオリンの音。
風に乗って、聴こえてくる。
微かだけど、しっかりと聴こえてくる。
どこから…?
辺りを見回すと、小高い丘が目に入ってきた。丘の上から、音が届いてくるんだ!
学校なんて、どうでもいい。
いま、この音を逃すわけにはいかない。私の足を止めた、この音を。
自分でも、どこがそんなに気になったのか、分からない。
高音になると音が乱れるし、テンポはまるでバラバラ。はっきり言って、外で披露しているのが恥ずかしいほど下手くそ。
だけど、私の足を止めさせた。
あの父のおかげで、耳だけは肥えている私を引き寄せている。
私は丘の上を目指して走った。寝不足なんて関係ない、吐気なんて吹き飛ばす!
丘の上には、一人の青年がいた。一心不乱にヴァイオリンを弾いている。
…分かった。どうして、私がこの人の音に惹かれたのか。
よく似てるんだ、音楽を始めたときの私に。
がむしゃらで、ただ好きで、周りなんてどうでもよくて……
そんな、一所懸命な音だ。
「…どちら様?」
「えっ?」
気が付くと、音がやんでいた。そして、私は青年に話しかけられていた。
「あ、あの…う…」
「泣いてんの?」
「泣いてるって…」
自分の頬に触れてみた。
なんか、生暖かい。泣いていたのか、私は。下手くそな音を聴いて、涙を…。
「あなたの音に、感動しました。引き留められた」
「俺の、音…」
「そう。はっきり言って、全然ヘタクソだけど…感動させる音です」
「なんか、めちゃくちゃ言ってるね、あんた」
そう言って、青年は笑った。
言葉はどこかトゲトゲしいけど、その笑顔は優しかった。
あの音を弾く人らしい笑顔だな、と思った。
そして、私の中ではある欲望が沸々と沸いてきていた。
この人の…この人の音のためなら、私は罪を重ね続けてもいい。
誰に後ろ指を指されても、父の幻影に悩まされても、この人の音のためなら耐えられる。
音楽なんて二度と聞きたくないと思っていた、私の足を止めさせた音。
罪の浄化なんて、望まない。
今以上に罰を受けてもかまわない。
だから…
「私に、あなたの音のための音楽を、創らせて下さい」
暗いですね、カナちゃん…。
そしてまだ、彼女の罪は明らかになってません(察しの良い方は分かってらっしゃるでしょうが…)。
次章掲載は……未定!